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皇帝マクシミリアン2世の子供
●アンナ スペイン国王フェリペ2世の4/4番目の妻・伯父と姪の近親再婚 ●ルドルフ2世 次代皇帝 ●エルンスト ●エリーザベト フランス国王シャルル9世と結婚 ●マティアス 次々代皇帝 ●マクシミリアン ●アルブレヒト スペイン王女イサベル・クララ・エウヘニアと結婚 ●マルガレータ 修道女 ●アンナ 1549-1580 31歳没 スペイン国王フェリペ2世の4/4番目の妻・伯父と姪の近親再婚 1527-1598 71歳没 ![]() ![]() ![]() ●ルドルフ2世 次代皇帝 ![]() ●エルンスト 1553-1595 ●エリーザベト 1554-1592 38歳没 フランス国王シャルル9世と結婚 1550-1574 24歳没 ![]() ![]() ![]() シャルルは幼少のころ結核に罹り病弱であった。 急逝した兄フランソワ2世を継いで10歳で即位したものの 実権は母后であるカトリーヌに握られていた。 シャルルは常に母カトリーヌ・ド・メディシスの影に怯え続け 母が聖バルテルミーの虐殺を引き起こした時も眺めているしかなかった。 そして彼は虐殺事件のショックから抜け出せないまま2年後に急逝する。 未亡人となったエリザベートに夫の弟アンリ3世が求婚したが断って実家に戻った。 再婚はしなかった。 ●マティアス 次々代皇帝 ![]() ●マクシミリアン 1558-1618 ●アルブレヒト 1559-1621 62歳没 スペイン王女イサベル・クララ・エウヘニアと結婚 イトコ結婚 1566-1633 67歳没 ![]() ![]() いとこでもあり、ともにスペインで育った幼なじみでもあった。 イサベルはもともと兄ルドルフ2世の婚約者であったが 20年以上も待たされたため弟のアルブレヒトと結婚することになった。 その間は母の代わりに父フェリペ2世の補佐役を務めていた。 2人は共同統治者としてネーデルラント総督を治めた。 夫の死後はイサベルが総督となった。 ●マルガレータ 修道女 1567-1633 ■
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| 2001-01-10 00:00
| オーストリア
◆皇帝マクシミリアン2世
先代フェルディナント1世の子 1527-1576 37歳即位 49歳没 *幼少期をスペイン宮廷で過ごしたが肌に合わず、 それゆえかカトリックの国の皇太子でありながらプロテスタントにかぶれていたが 父帝から勘当を迫られてやむなくカトリックにとどまった。 ところが父帝が亡くなると国民の信仰の自由を認めると言い出し妻と反目した。 *亡くなるとき妻の懇願にもかかわらず臨終の秘蹟を受けることを拒否した。 カトリックでもなくプロテスタントでもなく 一人のキリスト教徒として生きることを渇望し続けた生涯であった。 *世俗的で陽気で女好きだった。知的な皇帝でもあった。 語学が堪能で、自然科学にも造詣が深かった。 現在のオーストリア国立図書館はマクシミリアンの所蔵書籍がその元となっている。 ![]() ■妻 マリア・フォン・シュパーニエン←マリア・デ・アブスブルゴ スペイン国王カルロス1世の娘 イトコ結婚 1528-1603 20歳結婚 75歳没 *マリアは厳格なカトリック教徒だったのでマクシミリアンとは対立した。 16人の子供が生まれたが夫の死後スペインへ戻ったマリアは 「異教徒のいない国に住めてとても幸せだ」と語ったという。 ![]() ![]() 「異教徒のいない国に住めてとても幸せ、 フフフ・・・」 ![]() ●アンナ スペイン国王フェリペ2世の4/4番目の妻・伯父と姪の近親再婚 ●ルドルフ2世 次代皇帝 ●エルンスト ●エリーザベト フランス国王シャルル9世と結婚 ●マティアス 次々代皇帝 ●マクシミリアン ●アルブレヒト スペイン王女イサベル・クララ・エウヘニアと結婚 ●マルガレータ 修道女 ■
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| 2001-01-09 00:00
| オーストリア
皇帝フェルディナント1世の子供
●エリーザベト ポーランド王ジグムント2世アウグストの前妻・本人死別 ●マクシミリアン2世 次代皇帝 ●アンナ バイエルン公アルブレヒト5世と結婚 ●フェルディナント2世 フィリッピーネ・ヴェルザーと貴賤結婚・死別、 マントヴァ公女アンナ・カテリーナ・ゴンザーガと伯父と姪の近親再婚 ●マリア ユーリヒ・クレーフェ公ヴィルヘルムと結婚 ●マグダレーナ 修道女 ●カタリーナ マントヴァ公フランチェスコ3世と結婚死別、 ポーランド王ジグムント2世アウグストの後妻・前妻は姉エリーザベト ●エレオノーレ マントヴァ公グリエルモと結婚 ●マルガレーテ 修道女 ●バルバラ フェラーラ公アルフォンソ2世の3人の妻の内2番目の妻・本人死別 ●カール2世→子は皇帝フェルディナント2世 バイエルン公女マリア・アンナと叔父と姪の近親結婚 ●ヘレーナ 修道女 ●ヨハンナ トスカーナ大公フランチェスコ1世の前妻・本人死別 ●エリーザベト 1526-1545 19歳没 ポーランド王ジグムント2世アウグストの前妻 本人死別 1520-1572 52歳没 ![]() ![]() ![]() ●マクシミリアン2世 次代皇帝 ![]() ●アンナ 1529-1595 66歳没 バイエルン公アルブレヒト5世と結婚 1528-1579 51歳没 ![]() ![]() ![]() ●フェルディナント2世 1527-1580 53歳没 ![]() ■前妻 フィリッピーネ・ヴェルザー 貴賤結婚 死別 1527-1580 53歳没 ![]() フェルディナント大公は豪商の娘フィリッピーネに一目惚れして結婚を決意する。 しかしこのような身分違いの結婚は貴賎結婚と呼ばれ厳しい制裁を受けた。 フェルディナントの結婚はやむなく認められたものの 妻子にはハプスブルク家の一員としての権利は一切認められないこととなった。 要するにフェルディナントには権利があるがそれは一代限りのもので 彼の死後は妻子は放り出されるということだ。 ポーランドから国王になってほしいという要請があったが フィリッピーネとの離婚が条件だったので断った。 チロル公国の君主に任命された時もチロル側からフィリッピーネとの離婚を迫られた。 フェルディナントはチロルの人々を粘り強く説得しやっと認められた。 ここでフィリッピーネは夫と子供たちとの幸福な生活を送ることができた。 *宮廷料理人顔負けの料理の知識を持っていた。彼女が書いた 『フィリッピーネ・ヴェルザーの料理本』はヨーロッパ最古のレシピ集と言われる。 ■後妻 マントヴァ公女アンナ・カテリーナ・ゴンザーガ 伯父と姪の近親再婚 1566-1621 55歳没 *フィリッピーネとのロマンチックな純愛を貫いたのかと思いきや、 フィリッピーネの死後には再婚して(しかも近親結婚)また子供を作り、 さらにちゃっかり私生児まで作っていた。 ![]() ●マリア 1531-1581 50歳没 ユーリヒ・クレーフェ公ヴィルヘルムと結婚 1516-1592 76歳没 ![]() ![]() ![]() ●マグダレーナ 修道女 1532-1590 58歳没 ●カタリーナ 1533-1572 39歳没 ![]() ![]() ■前夫 マントヴァ公フランチェスコ3世 死別 1533-1550 17歳没 ![]() ■後夫 ポーランド王ジグムント2世アウグストの後妻 前妻は姉エリーザベト 1520-1572 52歳没 ![]() ●エレオノーレ 1534-1594 60歳没 マントヴァ公グリエルモと結婚 1538-1587 49歳没 ![]() ![]() ![]() ●マルガレーテ 修道女 1536-1566 30歳没 ●バルバラ 1539-1572 33歳没 フェラーラ公アルフォンソ2世の3人の妻の内2番目の妻 本人死別 1541-1587 46歳没 ![]() ![]() ![]() ●カール2世→子は皇帝フェルディナント2世 1540-1590 50歳没 バイエルン公女マリア・アンナと結婚 叔父と姪の近親結婚 1551-1608 57歳没 ![]() ![]() ![]() ●ヘレーナ 修道女 1543-1574 31歳没 ●ヨハンナ 1546-1578 32歳没 トスカーナ大公フランチェスコ1世の前妻 本人死別 1541-1587 46歳没 ![]() ![]() ■
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| 2001-01-08 00:00
| オーストリア
◆皇帝フェルディナント1世
1503-1564 53歳即位 61歳没 *オーストリアハプスブルク家を任されたためスペインからオーストリアにやってくる。 ブルゴーニュ宮廷文化の影響を受けたスペイン宮廷文化をウィーンに伝えるため、 ウィーン最初の料理学校を設立。晩餐会における細かな規則も定めた。 ![]() ![]() ■妻 アンナ・ヤギエロ ボヘミア=ハンガリー王ウラースロー2世の娘 1503-1547 18歳結婚 43歳没 *アンナは「いとも麗しく、いとも雅やかな」と評される美貌の持ち主で 小柄であったがフェルディナントも長身ではなかったため似合いの夫婦だった。 政略結婚ではあったがフェルディナント夫妻は協調性に富んだ夫婦愛に満ちたカップルとなった。 アンナの死後フェルディナントは決して髭を剃らず質素に引きこもりがちな生活になったという。 ![]() ![]() ●エリーザベト ポーランド王ジグムント2世アウグストの前妻・本人死別 ●マクシミリアン2世 次代皇帝 ●アンナ バイエルン公アルブレヒト5世と結婚 ●フェルディナント2世 フィリッピーネ・ヴェルザーと貴賤結婚・死別、 マントヴァ公女アンナ・カテリーナ・ゴンザーガと伯父と姪の近親再婚 ●マリア ユーリヒ・クレーフェ公ヴィルヘルムと結婚 ●マグダレーナ 修道女 ●カタリーナ マントヴァ公フランチェスコ3世と結婚死別、 ポーランド王ジグムント2世アウグストの後妻・前妻は姉エリーザベト ●エレオノーレ マントヴァ公グリエルモと結婚 ●マルガレーテ 修道女 ●バルバラ フェラーラ公アルフォンソ2世の3人の妻の内2番目の妻・本人死別 ●カール2世→子は皇帝フェルディナント2世 バイエルン公女マリア・アンナと叔父と姪の近親結婚 ●ヘレーナ 修道女 ●ヨハンナ トスカーナ大公フランチェスコ1世の前妻・本人死別 ■
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| 2001-01-07 00:00
| オーストリア
スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家
●兄 カール5世/スペイン国王カルロス1世 1500-1558 58歳没 ![]() ●弟 オーストリア皇帝フィルディナント1世 1503-1564 61歳没 ![]() 兄弟は正反対の性格だった。 兄カール5世はブルゴーニュ育ちで享楽的な生活、暴飲暴食を常とした。 そのため生涯通風に悩まされることになる。 性格は内向的で鈍重、近寄りがたい雰囲気を持っていた。 弟フェルディナント1世はスペイン育ちで簡素な生活、教養豊かであった。 性格は陽気で機敏、誰からも親しまれた。 カスティーリャ女王となったフアナの父アラゴン王フェルディナントが他界したため アラゴンの継承権は狂気の女王フアナの長男であるカール5世に移動した。 すなわちアラゴンとカスティーリャを併せたスペイン王国の君主に即位することになったのである。 スペイン王国とそれに付随する新大陸がハプスブルク家に転がり込んできた。 二人はトレードされる形で カール5世がカルロス1世となりスペイン王国を、 フェルディナント1世がオーストリア帝国を統治することとなった。 ここからオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれる。 以降はオーストリア・ハプスブルク家について述べていく。 ■
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| 2001-01-06 00:00
| オーストリア
オーストリア皇太子フィリップ&スペイン女王フアナの子供
●レオノール ポルトガル国王エマヌエレの3/3番目の妻・相手死別、フランス国王フランソワ1世の後妻 ●カルロス オーストリア皇帝カール5世/スペイン国王カルロス1世となる ●イサベル デンマーク王クリスチャン2世と結婚 ●フェルナンド オーストリア皇帝フェルディナント1世となる ●マリア ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世と結婚 ●カタリナ ポルトガル王ジョアン3世と結婚 オーストリア皇帝マクシミリアン1世は孫たちを使って各国との政略結婚に励んだ。 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」との家訓の通り。 ●レオノール 1498-1558 60歳没 ![]() ■前夫 ポルトガル国王エマヌエレの3/3番目の妻・相手死別 1469-1521 52歳没 ![]() ■後夫 フランス国王フランソワ1世の後妻 1494-1547 53歳没 ![]() ![]() フランス国王フランソワ1世はスペインの捕虜となった時に和平の印として スペイン国王カルロス1世の姉エレオノールと政略結婚することを約束させられた。 そこでフランス国王フランソワ1世の2番目の妻→エレオノール王妃となった。 夫は二人の愛人をはべらせて会議に現れたり性病をうつされたりした。 ●カルロス オーストリア皇帝カール5世/スペイン国王カルロス1世 ![]() ●イサベル 1501-1526 25歳没 デンマーク王クリスチャン2世と結婚 1481-1559 78歳没 ![]() ![]() ![]() クリスチャン2世は「悪党」というあだ名を歴史にとどめた男である。 スキャンダラスな生涯を送った無知無道な国王だった。 クリスチャンは少年時代から粗暴で無教養な手におえない王子だった。 彼は悪友と罪もない市民を脅し、良家の娘たちを乱暴した。 イサベルは彼に初対面した時 手入れもしていない赤毛の髪と髭をたくわえた恐ろしい顔の巨漢と結婚したことを知ったのである。 そのうえ夫は愛人デューヴェケを寵愛していたため愛人の一族に囲まれての生活が始まった。 イサベルは長い間理不尽な扱いに耐えてきたが夫の愛人が急逝した。 時を同じくしてデンマークの支配下にあったスウェーデンが反乱を起こした。 デンマーク王はスウェーデン貴族600人を処刑した。「ストックホルムの大虐殺」である。 ついにデンマーク国民の忍耐も限度を越え国王夫妻と子供たちはネーデルランドへ逃げた。 育ての叔母のマルグリットが子供たちを引き取ったがイサベルは夫と別れることを拒んだ。 そして貧困の中で25歳で亡くなった。典型的なDV妻ってやつでしょうか? ●フェルナンド オーストリア皇帝フェルディナント1世 ![]() ●マリア 1505-1558 53歳没 ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世と結婚 1506-1526 20歳没 ![]() ![]() ![]() マリアはラヨシュ2世の元に嫁いだ時に、夫が側近たちに翻弄されていると見抜いた。 マリアが到着した翌日からラヨシュは周囲の言いなりになることを断固拒否し始めたのである。 幸福な生活もつかの間トルコがハンガリーを攻めてきてラヨシュは戦死してしまう。 ところがラヨシュの死によりハンガリーとそれに付随するボヘミアの継承権が ハンガリー王女アンナの夫であるフェルディナント1世の元に転がり込んできたのである。 これによりオーストリア=ハンガリー=ボヘミアという三国がハプスブルク家に統合された。 ネーデルランド総督叔母マルグリットの死により新たな総督に任命された。 そして叔母と同じようにイサベルの遺児を育てた。 ●カタリナ 1507-1578 71歳没 ポルトガル王ジョアン3世と結婚 イトコ結婚 1502-1557 55歳没 ![]() ![]() ![]() ■
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| 2001-01-05 00:00
| オーストリア
◆皇太子フィリップ 父より先に亡くなったため即位できず
1478-1506 28歳没 ![]() ![]() ■妻 スペイン女王フアナ 1479-1555 17歳結婚 76歳没 ![]() ![]() 二人の結婚決まる。 ↓ フアナは120隻の船でフィリップが治めるブルゴーニュ公国へ嫁ぐ。 ↓ 夫婦仲は良く次々と子供が産まれるが、すぐにフィリップの浮気癖が始まる。 フアナは精神的に不安定になる。 ↓ 兄の皇太子フアンの死亡により、王位継承権の関係で夫妻スペインに向けて出発。 フランスのルイ12世と親睦を深めたいというフィリップの希望により フランスに1年半も滞在して寄り道。 ↓ スペインに到着するも、飽き飽きしたフィリップは、 身重のフアナを置いてブルゴーニュへ帰ってしてしまう。 またしても各国に寄り道をして、ブルゴーニュに到着したのは1年後。 ↓ フィリップの元へ行きたいと言うフアナは異常行動を取る。 うなる、大声をあげる、食事をとらない、眠らない、 「歩いてでも帰る」とわめきながら、雪の日に裸足で城の門を揺さぶり続けた。 とうとう母王イサベル1世も匙を投げる。 ↓ フェルナンドは無事に生まれるが、フアナは赤ん坊を置いてすぐにフィリップの元へ帰国。 当然愛人を作っていたフィリップの相手をハサミで切り付け、 丸坊主にした挙句、顔にもケガをさせる。 ↓ フェリペはうんざりして、フアナを幽閉する。 食事・睡眠を拒否して、壁を頭にぶつけることを繰り返した。 ↓ イサベル女王の死亡により、王位継承権の関係で夫妻スペインに向かう。 スペインのブルゴスでフェリペ突然病死。暗殺説もある。 ↓ フアナ、フェリペの遺体をブルゴスからグラナダの王室礼拝堂まで運ぼうとする。 フェリペの棺を担いだ葬列は、明るいうちは移動せず 夜中にロウソクを灯して荒野の中を進んだ。 フアナはフェリペが生き返っているかもしれないという期待から、毎日棺の蓋を開けた。 葬列は2年もかかってグラナダに到着する。 ↓ 父王、フアナを幽閉する。 着替え・入浴・食事・睡眠を拒否する。 ↓ 父王、嫡男を得るために再婚するが死亡。 ↓ スペインを相続した息子のカルロス1世もフアナの幽閉を解かず、 46年間の幽閉のまま死亡。 死ぬまで、「ヨ・ラ・レイナ」(我、女王)とサインをした。 フアナは美人で楽器や歌や踊りに優れ語学の才能に秀でた宮廷自慢の王女だった。 またカトリックの戒律を忠実に守り一日に3回お祈りをするという ある意味では典型的なスペイン女でもあった。 フィリップと対面した時、 「フィリップ美公」と呼ばれた彼の凛々しさにフアナはすっかり魅せられた。 フィリップは享楽的で遊び好きだったが これまで体験したことのなかった異国情緒あふれる新妻に夢中になった。 しかし新鮮さが薄れると元来の性格が出てすぐにフアナに飽きた。 フアナは夫の浮気に対する嫉妬から病的なヒステリーを起こすようになる。 母方の祖母ポルトガル王女イサベルが精神異常であった。 祖母は母王イサベル1世を出産後、一人座って何時間もじっと遠くを見つめるようになる。 さらにはヒステリーを繰り返すようになり、最後には誰の顔も見分けられなくなった。 母王はフアナに祖母の病気が遺伝していることを痛感した。 ●レオノール ポルトガル国王エマヌエレの計3回の3番目の妻・相手死別、 フランス国王フランソワ1世の後妻 ●カルロス オーストリア皇帝カール5世/スペイン国王カルロス1世 ●イサベル デンマーク王クリスチャン2世と結婚 ●フェルナンド オーストリア皇帝フェルディナント1世 ●マリア ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世と結婚 ●カタリナ ポルトガル王ジョアン3世と結婚 ■
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| 2001-01-04 00:00
| オーストリア
すべて前妻の子
●フィリップ 皇太子 ●マルグリット フランス国王シャルル8世と婚約破棄、 スペイン皇太子フアンと結婚死別、 サヴォイア公フィリベルト2世の後妻・死別 ●フィリップ 皇太子 父王より先に死亡したため即位できず ![]() ●マルグリット 1480-1530 50歳没 フランス国王シャルル8世と婚約破棄 →スペイン皇太子フアンと結婚死別 →サヴォイア公フィリベルト2世の後妻死別 ![]() ![]() ★元婚約者フランス国王シャルル8世 1470-1498 28歳没 マルグリットは運命に翻弄される。 母と死別し父が追放された時マルグリットはまだ2歳だった。 フランスのルイ11世は王太子シャルル8世の嫁にとマルグリットを拉致した。 シャルルは彼女より一回り年上の病弱で不細工な王子だった。 フランスでは虚弱体質の王家にやっと元気旺盛なマルグリットの血が注がれると 彼女が早く適齢期になるのを楽しみにしていた。 フランス式の教育を受け愛らしく聡明なまわりを明るくさせるような少女に育った。 フランス生活も10年となったころ父帝マクシミリアンは敵国フランスを東西から挟むために ブルターニュ公女アンヌと再婚することを決意した。 慌てたフランスのシャルル王子はブルターニュ公国を攻撃しアンヌ公女を奪って妃とした。 こうなればシャルルは婚約者マルグリットをフランスから追い出すしかない。 人々は愛らしく聡明なマルグリットの代わりに不細工なアンヌを娶れねばならないとは シャルルも気の毒なことだと嘆くと同時にマルグリットとの別れを心から惜しんだ。 こうしてマルグリットは幸運にも故郷のブルゴーニュ公国へ戻ることができた。 ![]() ■前夫 スペイン王子フアン・死別 1478-1497 19歳没 そして前述した、兄フィリップとともにスペイン王国との二重結婚が成立する。 スペインに嫁いだ17歳のマルグリットはフェルナンド王やイサベル女王 そして夫ファン王子に大変気に入られた。 しかしファンの愛情は常軌を逸したほどに激しいものであった。 やはり妹フアナと同じ血が流れていたのかもしれない。 結婚以来ファンはマルグリットのそばから片時も離れなかったのである。 しかし病弱だったファンは19歳で病死してしまう。 当時妊娠していたマルグリットに王子出産の期待がかかったが死産であった。 これでスペイン王国は跡取りを失った。 イサベル女王は慰留したが未亡人となったマルグリットは祖国に戻った。 ![]() ■後夫 サヴォイア公フィリベルト2世の後妻・死別 1480-1504 24歳没 父の指示によって今度はマルグリットはサヴォイ公フィリベルト2世の後妻となる。 サヴォイ公国は小さいながらもフランスを攻撃する上で重要な拠点だったからである。 しかし彼も病死してしまう。また子供のなかったマルグリットは祖国に戻った。 ![]() 彼女は父帝にもう二度と結婚する意志のないことを告げた。 父帝も彼女の意思を尊重してブルゴーニュ公国の総督の任を与えた。 政治能力にも優れた彼女には適任であり兄フィリップの遺児たちの養育も引き受けた。 父帝マクシミリアン皇帝の死にともなう皇帝選挙では甥カール5世が皇帝となれるよう奔走した。 また音楽家・作家・画家を庇護することによって文化水準をさらに高め さまざまな工芸品も発展させた。 そして誰からも愛された総督は惜しまれつつ静かに世を去った。 ちなみにマルグリットは兄フィリップの遺児たちの養育のために ヨーロッパ中から優れた学者を集めて学校を作った。 その学校にヘンリー8世の2番目の妻となるアン・ブーリンが留学して学んでいた。 ■
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| 2001-01-03 00:00
| オーストリア
◆皇帝マクシミリアン1世
先代フリードリヒ3世の子 1459-1519 34歳即位 60歳没 *マクシミリアンは言語の発達が遅く5歳まで言葉を喋れなかったが 元気旺盛でたくましく、何をやらせても見事な技の冴えをみせた。 *「中世最後の騎士」なおかつ「近世最初の皇帝」である。 またドイツ最初のルネサンス人でもあった。 *浪費家。富豪フッガー家に莫大な借金をした。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 『君主論』のマキャヴェッリの証言 気持ちの揺れの大きい人物。 気の短い園芸家で、果実が熟するのを待っていられない。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ![]() ![]() ■前妻 マリー・ド・ブルゴーニュ 死別*落馬事故で死亡 ブルゴーニュ公シャルルの娘 1457-1482 20歳結婚 25歳没 *絶世の美女としても知られ この時代の女性にしては珍しく運動好きで狩猟や乗馬、スケートを好んだという。 ブルゴーニュ公国は15世紀後半のヨーロッパでは高い文化水準を誇っていた。 しかし君主シャルルにはマリーしか子供がいなかった。 ゆえにブルゴーニュ公国の継承権はマリーにあった。 豊かな公国の跡取り娘が誰と結婚するのかはヨーロッパで関心の的だった。 娘の縁談をことごとく断り続けたシャルルが オーストリアの貧しい山国に過ぎないハプスブルク家との縁談を選んだのは マリーをマクシミリアンと結婚させれば いつかは自分も神聖ローマ帝国の皇帝になれるのではないかという胸算用が働いたからである。 神聖ローマ帝国皇帝と言っても当時はすでに名ばかりの名誉職のようなものであったが。 しかし君主シャルルの戦死によりマリーと結婚したマクシミリアンがブルゴーニュの君主となった。 オーストリアの片田舎で飢えと貧困に慣れたマクシミリアンは、 ブルゴーニュの宮廷の豪華な食事、ワイン、狩猟、演奏会、舞踏会の日々に驚いた。 マリーは乗馬や狩猟も得意で、二人で夜明けまでダンスを踊り、仲睦まじかった。 マリーとは上流階級の教養語であったラテン語でコミュニケーションを取っていたが フランス語をマリーから習い会話・読み書きできるまで習得した。 しかし結婚5年目にいつものように夫と狩猟に出かけた妊婦のマリーは 落馬事故で亡くなってしまう。 子供たちは妻の実家ブルゴーニュ公国に取られマクシミリアンは祖国へ追い出されたが 父帝フリードリヒ3世の死により皇帝マクシミリアン1世となる。 ![]() ![]() ■後妻 ビアンカ・マリア・スフォルツァ ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘 1472-1510 38歳没●実子ナシ *2歳でサヴォイア公フィリベルト1世と結婚死別、22歳で皇帝マクシミリアン1世と再婚。 ![]() ![]() すべて前妻の子 ●フィリップ 皇太子 ●マルグリット フランス国王シャルル8世と婚約破棄、 スペイン皇太子フアンと結婚死別、 サヴォイア公フィリベルト2世の後妻・死別 ■
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| 2001-01-02 00:00
| オーストリア
◆皇帝フリードリヒ3世
1415-1493 37歳即位 78歳没 *諸侯は皇帝選挙で小心者で貧乏なフリードリヒを神聖ローマ帝国皇帝に選んだ。 ■妻 エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル ポルトガル王ドゥアルテ1世の娘 1434-1467 16歳結婚 33歳没 ![]() ![]() 多くの縁談が持ち込まれたが、 エレオノーレは神聖ローマ帝国の皇后となることを切望しフリードリヒ3世と結婚。 当時のポルトガルは海洋王国として栄えていたが 帝国とは言ってもハプスブルク家はまだ弱小の領主に過ぎず フリードリヒ3世は大変な倹約家であった。 粗衣粗食、ワインなど一切食卓に出ない、そして民と一緒に畑を耕していた。 結婚後にこのことを知ったエレオノーレは愕然として失望し 華やかなポルトガル宮廷を思い続けながら亡くなった。 ●マクシミリアン1世 次代皇帝 ●クニグンデ バイエルン公アルブレヒト4世と結婚 ●マクシミリアン 皇帝マクシミリアン1世 ![]() ●クニグンデ 1465-1520 55歳没 バイエルン公アルブレヒト4世と結婚 1447-1508 61歳没 *クニグンデは父の反対を押し切ってアルブレヒト4世と結婚した。 ![]() ![]() ■
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| 2001-01-01 00:00
| オーストリア
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