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by xMUGIx
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愛新覚羅氏

溥儀には正室が1人、側室が3人、平民になってからの妻、計5人の妻がいた。




■第2夫人 淑妃/額爾德特 文繍
1909-1953 明治42-昭和28 44歳没

文繍は紫禁城で何度か自殺未遂を起こしたことがあった。
国民軍に追われて皇帝溥儀・皇后婉容とともに紫禁城を逃れて
天津に移った後もまた自殺未遂を起こした。
溥儀は彼女を厳しく監視させると同時に、文繍の妹文珊を呼び寄せて相手をさせた。
1931年昭和06年08月25日、文繍はまた自殺未遂を起こした。
文珊は姉の気晴らしのために外出を溥儀を申し出た。
外出を許された文繍と文珊は自動車に乗り国民ホテルに向かった。
ホテルの部屋には3人の弁護士が待っていた。すべて姉妹の計画だったのである。

元皇帝が離婚を叩きつけられた事件は大スキャンダルとなり、
文繍の家族も反対に回ったりと世間にも賛否両論が巻き起こった。
紆余曲折の上、和解が成立。条件は以下の通り。

1 協議成立の日から双方の関係は完全になくなる
2 溥儀は文繍に対して、5万5千元の終身生活費を支払う
3 文繍が日常使用していた衣類と物品を持って行く事を認める
4 文繍は実家に戻り永遠に再婚しない
5 双方は互いに名誉を毀損しない
6 文繍は裁判所から調停要求の訴状を撤回し、このあと二度と訴訟を起こさない

離婚後北京で小学校の教師となった彼女は中華人民共和国成立後に英雄視されたが、
再婚したジャーナリストが蒋介石政府と関係していた事がたたって貧窮のうちに死亡した。

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愛新覚羅溥佳

溥儀が16歳になった頃、父載濤・伯父載灃・載沢が皇后の人選に取りかかりました。
このニュースが伝わると私の家には令嬢の写真を届けに来る人が後を絶たず、
門前市を成す有り様です。
ただし、当時は満州族と漢族は婚姻できないという決まりがありました。
条件は、蒙古の王公あるいは満蒙の旧臣の娘でなければならないということでした。
父は何度かに分けてこれらの写真を宮中へ持って行きました。
溥儀と太妃達に選ばせましたが、どれもこれも気に入られなかったのです。
それで、かなり時間が長引きました。それから何回かふるいにかけて、
満州族 郭布羅栄源・満州族 額爾徳特端恭・満州族 衡永・蒙古の王公 陽倉扎布の
4家の令嬢だけを残しました。

さらに丹念に選んだ結果、栄源の娘婉容と端恭の娘文繍が残ったので、
二人の間で激しい競争が繰り広げられたのです。
婉容は私の父が推薦して、瑾妃の支持を得ていました。
文繍は伯父載洵が推薦して、敬懿皇貴妃/瑜妃の支持を得ていました。
翌年の春もはやこれ以上引き延ばせないという時になって、
伯父載灃が婉容と文繍の写真を持って宮中へ行き、溥儀の聖断を求めたのです。
彼は何のためらいもなく、婉容を皇后に指定しました。
王公や教師達はまたもいろいろと協議して、
文繍を妃〔側室〕に立てるようにと溥儀に勧めたのです。
私の知る限りでは、溥儀はもともと妃を立てたくなかったようです。
おそらく同意するしかなかったのだと思います。

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■第3夫人 祥貴人/譚 玉齡
1920-1942 大正09-昭和17 22歳没

満州族貴族の出身、溥儀が唯一寵愛した側室といわれるが、早逝した。
溥儀との間に跡取りが生まれることを危惧した日本軍による毒殺とも言われる。

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溥儀の甥 愛新覚羅毓嶦の妻 楊景竹

祥貴人は背丈は160センチぐらいで、すらっとした身体つきのお方でした。
目鼻立ちの整った心持ちふっくらとしたお顔、
長い睫毛の下に可愛らしい目がパッチリしていました。
スタイルの良い聡明な女性だという感じを受けました。
私は次第に祥貴人が内向的な性格の方で、
重大な事柄については心の中でわかっていればよいという程度にしておられて、
決してはっきりと指摘するような事がないのだということに気づくようになっていました。

上の子が生まれた時、祥貴人にも御挨拶に上がりました。
彼女は苦しそうな笑顔を浮かべられてお祝いを述べられ、
「おめでとう」と言って下さいました。
「子供を生むなんて、私には一生だめでしょうね」
祥貴人のこの御言葉はとても強い印象として残っています。
私は家に帰ってからこのことを他の人達にも話して、みんなで大笑いしたものでした。
兄嫁は言ったものです。
「だって、何のためにお嫁に来ていただいたの。
皇太子を生んでいただくためじゃないの」


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周君適

宮中では上の者から下の者まですべての人達が、溥儀と祥貴人の間はしっくりしていて
婉容も文繍も足元に及ばないと思っておりました。
しかし、真実はそうではありませんでした。
皇帝の親戚関係にあたる女性達が祥貴人の御相手をして麻雀をしていました。
その時、みんなが口をそろえて祥貴人は幸せな方だと御世辞を申し上げました。
そのとき祥貴人は急に真顔になり、「私は未亡人のようなものよ」とおっしゃいました。
溥儀は昼は御一緒しておられるのに、夜は自分の部屋に戻られていたのです。


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■第4夫人 福貴人/李 玉琴
1928-2001 昭和03-平成13 72歳没

満州国皇帝時代に15歳で側室に選ばれた。
今までの側室の中で唯一の平民出身でチャキチャキの下町っ子だった。

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溥儀の甥 愛新覚羅毓嶦

李玉琴が宮中に入る経緯はこうである。
吉岡安直が女子生徒の写真を綴じた物を持ってきた。
一枚一枚の写真の下に略歴を書いたカードが貼ってあった。
吉岡が去った後、溥儀は我々宮廷の学生を書斎に呼び込んで
アルバムを一ページ一ページめくってみせた。
我々の意見を聞きながら考えをまとめようとしていたのだ。
「これは真面目で情が厚いタイプだ」「これはきっとおとなしい」とか。
しかし我々が良いという人は溥儀の眼中にはなく、最後に彼自身の判断で李玉琴を選んだ。
彼女がお人好しで単純で幼稚であることは写真を見れば一目瞭然である。
これこそまさに溥儀の望むところだった。略歴を見てもこの子が最年少だった。

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満州国崩壊後、社会主義国となった中国で身分を隠し様々な職に就く。
明るく美しい玉琴に求婚する者は多かったが、
溥儀との離婚が成立していなかったため玉琴は断り続けるしかなかった。
そのうち工場の診療所の医者と恋に落ち妊娠するが、
溥儀の側室であったことが職場にバレ、仲を裂かれてしまう。
玉琴は溥儀が収容されている撫順戦犯管理所所長金源に掛け合う。


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撫順戦犯管理所所長 金源

食堂へ誘い昼飯を出して話を聞いた。妊娠している事は誰の目にもわかった。
彼女の相談というのは、
この妊娠の事実を溥儀に打ち明けるべきかどうかという事だった。
溥儀はその頃いずれ彼女と新しい家庭を築きたい夢を持っていた。
だから妊娠している事を打ち明けると動揺するだろうし、
改造にも悪い影響を及ぼす事は明らかだ。
とにかくその子供を生んでそれからの事は改めて相談しよう、
そういう返事しかできなかった。
すると彼女はそれなら自分もここへ入獄させてくれと言いだした。突然の事で驚いた。


入獄はかなえられなかったが、
極秘裏に処理するという点で管理所と玉琴の利害は一致した。
玉琴は恋人だった医者の職場に押しかけた。

大きな腹を叩きながら、この子のお父さんはだれですかと言った。
その辺の事情はそこでも知っていた。
出産まではそこが面倒をみて、生まれた子供もそこが仲介して養子に出した。

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1958年昭和33年、長春中央電視台録音部チーフ黄毓庚と再婚、一人息子をもうける

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■第5夫人 妻/李 淑賢 バツイチ
1925-1997 大正14-平成09 72歳没

溥儀は服役15年後に釈放された。
友人から看護婦だった李淑賢を紹介されて結婚。
周恩来首相も祝福した。
性的不能を事前に知らされていなかったため激怒したが、
慌てた党関係者ら周囲の説得により離婚をあきらめた。

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第5夫人 李 淑賢

新婚の一週間はてんてこ舞いの中であっという間に過ぎた。
夜ベッドに横になるとすぐに溥儀の軽いイビキが聞こえてきた。
しかし結婚式の夜以来、新婚生活の二週間目になっても夜は別々の布団だった。
最初は不思議に思ったが、皇帝だった人には特別な修養でもあるのかなと思ったりした。
私が床についても、彼はソファに座ったままで煙草を喫ったり本を読んだりしていた。
追いつめられた彼は涙声で、自分は男性として不能であり、
妻と正常な性生活ができないことを白状した。
「なぜ結婚する前に、すべて打ち明けてくれなかったのよ」と私は怒って尋ねた。
「言いにくい事だし、それを知れば結婚に応じてくれないのではないかと心配したからだ。
もしかしたらという気持ちもあったのだ」
「もう後の祭りだわ。私ももう30過ぎよ、子供が欲しいのよ」
「子供が欲しいなら、一人もらってくればいいと思うよ。
何でもお前の好きな事をしてあげ、お前を幸せにしてあげる。
他に何か別の条件があってもいいよ。ボーイフレンドを作るとかね。
ただ一つのお願いは離婚しないで欲しいということだよ」

実を言うと、溥儀も自分の病気はもう治る見込みがないことをよく知っていた。
16歳の成婚以来、婉容・文繍らの妃とも男女の関係はなかったし、
後に譚玉齡・李玉琴をもらった時も、飾り物としてもらっただけだった。
溥儀が私に話してくれた話では、
宮仕えの女は年増で、みんな自分よりはるかに年上だった。
当時溥儀はまだ子供で何も知らずすべて女達のますがままに、
時には女が一人ではなく二、三人がベッドに入ってきた。
溥儀がクタクタになるとやっと寝かせてくれ、
翌日起床する時にはいつも頭がボーッとして太陽の色が黄色に見えたくらいだったそうだ。
溥儀が宦官にその事を話すと、宦官たちは彼に薬を飲ませた。
その薬を飲むと男に飢えた女達の相手をする事ができたが、
その後だんだんそういうことをするのに、ますます興味を覚えなくなるのだった。

二人だけの秘密はとうとう全国政治協商会議のある責任者の知るところとなり、
その人はわざわざ私を呼んで言った。
「溥儀のその件については上の方では知っていました。
彼に生理的欠陥がある事だけにとらわれず、
もっと大きなところから見てほしいと思います。
政治的な影響という事も考えてほしいのです。
今後彼の仕事・学習・生活の面でどんな事にぶつかっても、
何か相談したい事でもあればいつでもどうぞ」
私ももう望みをかけないようになり、
二人で幸せに暮らしていければよいと思うようになった。
それ以来、彼は私のことを妹して呼ぶようになった。

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溥儀の妹 五格格 韞馨への取材

二人の「李」、李玉琴と李淑賢についての印象を尋ねた。
かつて五格格と呼ばれた時代から内気で恥しがり屋と言われた韞馨は、
「二人とも同じ。どちらもお金のことばかり」とつぶやくように答えてくれた。
美しい銀髪に囲まれた頬にかすかに血の色を浮かべて。

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by xMUGIx | 2007-01-09 00:00 | 中国
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