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ロマノフ朝

◆1909年

*皇帝一家は08月末から09月末までフランス・イギリス・ドイツに外遊。
09月07日からはクリミアで休養、約4ヶ月首都を留守にする。

*この年のニコライ2世の日記には、ラスプーチンの登場は12回


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ニコライ2世の日記 1909年01月09日

アンナの所へ行き、グリゴリーに会った。とても楽しかった。

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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1909年02月19日

皇后は重い神経衰弱になっている。
これは彼女とアンナとの異常な友情のせいだという。
ツァールスコエ・セローでは何か良くない事が起っている。


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ニコライ2世の日記 1909年03月13日

グリゴリーが来る。子供達全員と彼に会う。
家族全員で彼の話を聞くのは素晴らしい事だった。


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ニコライ2世の日記 1909年04月11日

お茶の後、思いがけずやってきたグリゴリーとしばらく過ごす。

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ニコライ2世の日記 1909年05月09日

6時から7時半までグリゴリーに会っていた。
夜にも子供部屋で一緒に過ごした。


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ニコライ2世の日記 1909年08月26日

晩、グリゴリーに会って満足した。

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ニコライ2世の日記 1909年08月28日

晩にグリゴリーと長い間話をした。

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■冬、首相ストルイピンはラスプーチンの淫蕩生活についての報告書を皇帝に提出した。
これは皇后の怒りを買い、2年後ストルイピンは暗殺される。


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出版者 ゲオルギー・サゾーノフ

ストルイピンはラスプーチンの追放を皇帝に要求しました。
彼は秘密警察の作成した報告書を持参していました。
そこにはラスプーチンが女達と一緒に公衆浴場に通い、
風紀を乱しているという事も含まれていました。
これに対して皇帝は、
「知っている。彼はそういう場所でも聖書の教えを説いているのだ」と答えました。
そして報告が終わるとストルイピンに出て行くように命じ、
報告書を暖炉に投げ込みました。
こうして私はストルイピンの運命が決せられた事を知ったのです。


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フェリックス・ユスポフ公爵 ラスプーチン暗殺者の一人

私が初めてラスプーチンに会ったのは1909年、ペテルブルクのゴロヴィン家だった。
ゴロヴィン家とはかねてより昵懇の仲だったが、
とりわけ末娘のマリア・ゴロヴィナとは親しかった。
マリアのように純粋で善良な魂の持ち主を、私は他に知らない。
ただ彼女は繊細と言う以上に過敏で、影響されやすく神経質だった。
超常現象にすぐ夢中になる彼女の宗教的感情は、不健全な神秘主義に侵されていた。
とどのつまりあまりに信じやすくナイーブな彼女は、
人間を正確に見分ける事も事柄を客観的に判断する事もできなかったのである。
ラスプーチンの聖性と魂の純粋さを信じ切っており、
彼は神に選ばれし人であり超自然的な存在であると思っていたのだ。
彼女はラスプーチンの汚らわしさを見抜くにはあまりにも初心で、
そのおぞましい行為を直視して判断するにはあまりに純朴だった。
他人がラスプーチンの正体を知らせようとしても容喙の余地はなかった。

私がサロンに通されると、マリアと母親と一緒にお茶のテーブルを囲んでいた。
ラスプーチンはマリアと母親に対してなれなれしく横柄だった。
彼女と母親はこの聖なる【修道士】から片時も眼を離さず、
その言葉を一言半句もききもらすまいと息をひそめていた。
ラスプーチンのでたらめを、
マリアと母親はまるで深い意味でも秘められているようにうっとりと聞き惚れていた。
「あの方の前に出ると世の中の憂いを一切忘れてしまうんですの」と彼女は言った。
「あの人は病んだ魂を清めて癒し、
私達の意志私達の考えと行動を正しく導くためにこの世に遣わされた方ですわ」


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by xMUGIx | 2008-02-09 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1908年

*皇帝一家は06月初旬からバルト海で静養、約3ヶ月首都を留守にする

*この年のニコライ2世の日記には、アンナの登場は29回


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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1908年02月15日

皇后とヴィルボフに嫁いだ元女官のアンナとの間の奇妙な友情に誰もが驚いている。
小島の多い海に出かけた時、皇帝は甲板室で一人で休まれた。
ところが皇后の方は自分の船室にアンナを連れ込み、彼女とともに一つのベッドで寝た。


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ニコライ2世の日記 1908年06月05日

アンナを訪ね、そこでグリゴリーに会い、彼と長時間話をした。

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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1908年06月23日

皇后とアンナの間には不自然な友情が存在している。
アンナの夫が妻のもとで見つけた皇后からの手紙は、
彼を悲しい思いに沈ませるような内容だったという。


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皇帝の妹 クセニア・アレクサンドロヴナ大公女の日記 1908年09月20日

ニッキーとアリックスに会いに行った。
アリックスは庭に腰を下ろし、相変わらずいつものようにアンナと一緒だった。


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ニコライ2世の日記 1908年11月19日

私達はアンナの所に寄ってグリゴリーに会い、長い間彼と話した。

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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1908年11月18日

*日記に初めてラスプーチンの名前が登場する

農夫ラスプーチンがアンナの家で、皇后と会っている。

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皇帝一家の家庭教師 ソフィア・チェッチュワ 大詩人フォードル・チェッチェフの孫娘

1908年の冬の事でした。私は皇女達と教室におりました。
振り返ると廊下に膝までの半コートを着た農夫の姿が目に入りました。
あっ、この人がラスプーチンだなってすぐにピンときました。
私は何の用でここにいるのかと尋ねました。
すると彼は養育係のマリア・ヴィシニャコワに呼ばれたから会いに来たと言いました。
〔マリア・ヴィシニャコワはラスプーチンの熱心な信者だった〕
私は、彼女は忙しいし、だいたいここに入ってきてはいけませんよと答えました。
ラスプーチンは黙って去りました。


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by xMUGIx | 2008-02-08 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1907年

*皇帝一家は08月から11月10日までバルト海で静養、約3ヶ月首都を留守にする

*この年のニコライ2世の日記には、アンナの登場は39回、ラスプーチンの登場は2回


■03月05日 第2回国会開かれる


■新しい女友達アンナが登場して、皇后はミリツァ&スタナと疎遠になる。
アンナは宮殿から200メートルの距離に屋敷を与えられ、
皇帝と皇后は今度はアンナの家でラスプーチンと密会を続ける。

*アンナの家は
屋根付きの大きな玄関と食堂、ピアノのある客間、二階には3つの寝室があった。
宮殿直通の電話も引かれていた。


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宗教家 フェオフォン

ミリツァとスタナの姉妹、
ピョートル・ニコラエヴィチとニコライ・ニコラエヴィチの兄弟と
皇帝一家との良好だった関係は壊れてしまいました。
これはラスプーチン自身が私にうっかり口をすべられて言った事です。
彼が言ったわずかな言葉から私が出した結論は、
ラスプーチンが皇帝に自分の考えを吹き込んだのだろうという事です。


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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記

ニコライ・ニコラエヴィチ大公と皇帝の関係は、
大公の妻スタナと皇后の仲と同様完全に冷え切ってしまった。


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アンナ・ヴィルボヴァ

私がミリツァの家でラスプーチンと知り合ったのは1907年、
結婚の数日前のことでした。私は結婚に不安を感じていました。
というのも、夫になる人の事をほとんど何も知らなかったのです。
彼女の家で皇后と皇帝がラスプーチンに会っているという話は聞いていました。
ミリツァは一人で私を客間に通し、
「世の中には店から才能を授かり予言能力を持った人達がいる」といった事を話しました。
ミリツァはこの話を私に1時間近くした後、
「私がラスプーチンと復活大祭の時のように3度接吻を交わしても驚かないように」
と言ったのです。私はとても不安になりました。
そのうえ「何でも望む事を彼にお願いしなさい。彼は何でも神様に頼む事ができるのよ」
などと言うものですからなおさらです。
ラスプーチンはミリツァと接吻を交わし、それからミリツァが私を彼に紹介しました。
彼の眼窩の奥に鋭く光る目に驚きました。
私は「結婚すべきでしょうか」と尋ねました。
ラスプーチンは、結婚するようにと勧めてくれました。
でも、「結婚は不幸なものになるだろう」とも言ったのです。


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ニコライ2世の日記 1907年02月11日

アンナと夕食をともにした。彼女は海軍中尉ヴィルボフと婚約した。

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ニコライ2世の日記 1907年02月17日

アンナは婚約した男性ヴィルボフを私に紹介した。

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ニコライ2世の日記 1907年04月19日

お茶の後でグリゴリーに会い、話ができてうれしかった。
アンナと夕食をともにした。


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ニコライ2世の日記 1907年05月13日

アンナは上の部屋で婚礼服を着た。彼女に祝福を与えてから教会へ行った。
結婚式の後で出席者全員が、教会の広間で若い二人に祝詞を述べた。


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ニコライ2世の日記 1907年10月30日

ヴィルボフ夫妻のところへ行き、海軍軍人と晩のひとときを過ごした。

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■11月27日 第3回国会開かれる、この国会は5年間の満了まで続く。


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皇帝の妹 オリガ・アレクサンドロヴナ大公女

ラスプーチンはしつこく
「なぜ子供がいないんだ?夫を愛しているのか?」などと不躾な質問をした。
アレクサンドラが彼の不作法に何も口出ししない事にもっと驚いた。
兄夫婦は私がラスプーチンを気に入る事を期待している事がわかったが、
とてもそんな気になれなかった。

ラスプーチンは私に再び会えた事をひどく喜んでいる様子だった。
そして女主人アンナがニコライとアレクサンドラとともに
ほんのしばらく客間から離れた時、
ラスプーチンは近寄ってきて手を私の肩に回し私の手を撫でた。
私はすぐさま飛び退いた。

夫は暗い顔をして、「これからはラスプーチンを避けなくてはならない」と言った。
それは私が夫の正しさを認めた、最初にして唯一の時だった。

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■冬 ラスプーチンは故郷に村一番の家を新築する


*家族と住んでいた1階はありふれた農家の造りだったが、
2階は都会風に整えられていた。
天井からはシャンデリアが吊り下げられ、床一面の柔らかい絨緞、
ウィーン風の椅子がどの部屋にも置かれている。
柔らかいスプリングのきいたマットレスを備えた二つの大きなベッド。
ピアノ・蓄音機・絹を張った深紅の肱掛椅子・長椅子・寝椅子・書き物机。
黒い木製のケースに入った2つの振り子時計が時を打ち、
さらに壁にも別の時計が掛っていた。


■アンナはさらに自分の親戚ユリア・フォン・デーンを皇后に紹介して、
2番目の親友の座に収めた。
彼女は海軍大佐カルル・フォン・デーンの妻で、リリと呼ばれた。


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皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン

*リリは、1907年ツァールスコエ・セロの庭園で初めて皇后に会う。

繁みの中をほっそりとした背の高い女性がこちらに進んできました。
白無垢の服で、帽子から薄い白いヴェールを垂らしていました。
繊細な色白の顔で、髪は赤味がかった金色、目はダークブルーで、
身体は柳の枝のようにしなやかでした。
彼女の真珠は素晴らしく、
ダイアのイアリングが頭を動かすたびにキラキラ光ったのを覚えています。
皇后が強い英語アクセントのロシア語を話されるのに気がつきました。

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by xMUGIx | 2008-02-07 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1906年

*皇帝一家は静養で09月10日から11月01日まで約2ヶ月首都を留守にする。

*この年のニコライ2世の日記には、アンナの登場は21回、ラスプーチンの登場は3回


■05月10日 第1回国会が開かれ、ストルイピンが首相に就任


■07月31日 ラスプーチンが皇帝夫妻と2度目の会見を果たす


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ニコライ2世の日記 1906年

07月31日
夜にセルギエフカ〔ニコライ・ニコラエヴィチ大公の領地〕へ行き、グリゴリーに会った。

10月26日
午後06時15分、グリゴリーが聖シメオンのイコンを持って訪れる。
子供達にも会い、07時15分までおしゃべりする。


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皇帝からストルイピンへの手紙 1906年10月29日

私はトボリスクから来た農民と面会した。
彼は皇后と私に相当強烈な感銘を与え、
彼との会話は予定していた5分をはるかに超えて1時間以上も続いた。
彼はまもなく郷里に戻るという。
私は貴殿が今週中にほんのわずかな時間でも見つけて、
彼と会う事をとても強く願っている。


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ニコライ2世の日記 1906年11月03日

*日記に初めてアンナの名前が登場する。

アンナ・タネーエヴァと昼食をともにした。

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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

アンナはペテルブルクによくいるまぬけな良家の子女で、不器量で不格好、
生焼けのビスケットみたいに取り柄がなく、
皇后に一目惚れしてうっとりとした熱いまなざしを投げため息をつくような若い女だった。
丸ぽちゃの赤ら顔に、服装は上から下までひらひらした毛皮に覆われていた。


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ニコライ2世のイトコ マリア・パヴロヴナ大公女

アンナは彼女なりに誠実一筋に皇后に仕えていたが、
なにぶん諸事万般に知識が浅かった上、
ラスプーチンに捧げる盲目的な崇拝が仇となって人々の尊敬を集めていなかった。


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ラスプーチンの信者 歌手 アレクサンドラ・ベリング

私はある音楽会でアンナと知り合いました。
彼女は結婚したばかりで幸せそうでした。
彼女の夫は海軍の人で黒髪で丸顔、
妻のかたわらを離れずその目をじっとのぞき込んでいました。
彼女は際限なく笑い転げ、こちらもつられて笑ってしまうほどだったのです。
でも彼女は確かに陽気で声は優しく笑顔も愛らしく善良そうな目をしていましたが、
なんだか心からの気持ちというか
要するに本当に信じてもいいという気持ちを抱かせるものが感じられなかったのです。


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ヴェーラ・レオニードヴナ

アンナは自分の事はほとんど語らず、たまに語っても滑稽な事ばかりでした。
自分の事を茶化す事ができるのは利口な人だけだと言いますけど、彼女は利口でした。
それに彼女は大変な演技者でした。彼女はラスプーチンのすべての政治ゲームに参加し、
大臣達を任命したり追放したり宮廷の複雑きわまる陰謀を操っていたくせに、
自分をまったく無邪気なロシア娘と見せかける術も心得ていたのです。


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コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の日記 1906年11月19日

妻から恐ろしい事を聞いた。
スタナが離婚してニコライ・ニコラエヴィチ大公と再婚するというのだ!
どうしてこんな結婚が許可されるのか。
ニコライ・ニコラエヴィチが皇帝に近しいおかげで大目に見てもらえるということだろう。
それ以外に考えられない。
これは2人の兄弟が2人の姉妹と結婚する事を禁じている教会法を犯すものだ。


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コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の日記 1906年11月23日

ニコライ・ニコラエヴィチ大公が言い張るところでは、
彼自身は結婚のために指一本動かさなかった、
あの世のフィリップの力がなければどうしようもなかったことだ、と言うのだ。


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ニコライ2世の日記 1906年12月22日

ミリツァ、スタナと夕食をともにした。
二人は一晩中、グリゴリーについて話をしてくれた。


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by xMUGIx | 2008-02-06 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1905年


■01月22日 血の日曜日事件


■02月17日 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公暗殺


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コンスタンチン・ロマノフ大公の日記 1905年02月17日

雷に打たれたように、最初の瞬間私は何も考えられなかった。
部屋を出てはじめて何を失ったのかがわかり、涙があふれ出た。
妻はセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が好きだったので、知らせるのに苦労した。


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コンスタンチン・ロマノフ大公の日記 1905年02月18日

いかなる速度で我々が未知の災厄に向かって突き進んでいるか、
まったく信じられないほどだ。至る所タガがはずれ、すべてが勝手気ままだ。
政府の強い手はもう感じられない。そう、それはもうないのだ。


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■06月28日 戦艦ポチョムキン反乱


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内務大臣 スヴィヤトポルク・ミルスキー

ロシア中が現在の社会制度に不服である事を皇后に警告しようとしたが、
彼女は怒りで顔を真っ赤にして、
「インテリゲンチャは皇帝に反対していますが、
民衆はみな皇帝の味方である。今までも、これからも」と言った。


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歴史家 ポロフツェフ

皇帝夫妻は現状や今何が起こっているかに少しも注目していない。
二人はいつも気持ちが揺れ動いていた、今何かしていたかと思うとすぐに別の事をする。
モンテネグロ姉妹とよく交霊会をしているが、
こういう人間の存在はロシアにとって不幸だ。


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■09月04日 ポーツマス条約締結、日露戦争終わる


■10月 全国にゼネストが広がる


■10月30日 皇帝が十月詔書に署名し、国会が認められる


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皇帝から母マリア皇太后への手紙

市中の秩序は表面上は保たれているものの、何かが起りつつあると誰もが感じています。
この危機の日々を通じて私は絶えずウィッテ首相と会い、討議を重ねました。
前途には二つの道しかないのです。
一つは、強力な軍隊で反乱を鎮圧することです。
少しは息をつく時間ができるかもしれません。
しかし数ヶ月後には再び軍隊を使わなければならなくなり、
私達はまた元の出発点に戻ることでしょう。
もう一つの解決策は、
公民権・言論の自由・そして国会を認める法律・もちろん憲法も人民に与える事です。
ウィッテ首相はこの方法を強く支持していますし、
私が諮問した他の者もみなこれと同じ意見なのです。
ウィッテは宣言案を起草し、私達は二日間にわたって討議しました。
私は神の御加護を祈ってサインしました。
私の唯一の慰めは、これも神の御意志であり、
この決断がこの一年続いている無秩序からロシアを救ってくれるだろうという事です。


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ニコライ2世の日記 1905年10月30日

ニコラーシャとスタナと朝食をとる。(噂のカップルだ!)
座って話しながらウィッテの到着を待つ。
5時に布告に署名した。
このような一日の後、頭は重く思考はすっかり混乱してしまった。
主よ、助けたまえ。ロシアを救い、安らぎを与えたまえ。
 

*10月にスタナが皇帝夫妻に会わなかったのは2日だけだった。

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ニコライ2世の日記 1905年11月14日 

*日記にラスプーチン=グリゴリーの名前が初めて登場する。

ミリツァとスタナと一緒にお茶を飲む。
トボリスク出身の神のごとき人間グリゴリーと知り合いになった。


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E・カザコワ

この頃、大勢の上流階級の御婦人達がラスプーチンをちやほやしている姿を見ました。
彼女達は彼の爪を切り、自分の服に縫い込んだりしたものです。


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■ラスプーチンは信者ロフチン夫妻の家にもぐりこむことに成功する。
ロフチナ夫人は40歳を過ぎていたが大変美しい女性だった。
彼女自身が大地主で官僚の夫を持ち、
ペテルブルク社交界の花形で人気の高いサロンの女主人だった。


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官僚ウラジーミル・ロフチンの妻 オリガ・ロフチナ

私がラスプーチン様に初めて会ったのは、1905年11月16日のことでした。
当時私は社交界に失望していました。そして激しい精神の転機が訪れたのです。
そのうえ私は神経性の腸炎を患い、寝たきりになっていました。
壁にしがみつくようにして、ようやく動き回れるといった有り様でした。
司祭のメドヴェージ神父が私を哀れに思い、ラスプーチン様に引き合わせて下さったのです。
ラスプーチン様が家に現れた瞬間、たちまち私は健康になった事を感じ、
それ以来持病から解放されました。

彼の招待を受けて私はポクロフスコエ村の彼の家に向かい、
そこで1905年の11月28日から12月27日まで過ごしました。
ラスプーチン様と旅するのはとても楽しい事でした。
なぜなら彼は私に生命を吹き込んでくれたからです。
私は彼の暮らし方が大変気に入りました。

彼は人と会った時はいつも接吻し、抱きしめることさえしたものです。
でも悪いよこしまな考えを抱くのは、悪い人々だけです。
私は何度もポクロフスコエ村を訪ねていますが、私達はどこでも寝られる所で寝ました。
一つの部屋で寝る事もしばしばでした。
ラスプーチン様と彼の奥さんと二人の娘さんと皆と一緒にお風呂に入った事もあります。
悪い考えがない以上。私達の誰もそれが淫らだとかおかしいとは思わなかったのです。

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by xMUGIx | 2008-02-05 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

●皇帝 ニコライ2世 愛称ニッキー
●皇后 アレクサンドラ 愛称アリックス
●ラスプーチン グリゴリー・ラスプーチン
●アンナ・ヴィルボワ 旧姓アンナ・タネーエワ/皇后の友人/ラスプーチンの信者
皇后の友人ナンバー1&ラスプーチンの信者ナンバー1
●皇太后 皇帝の母マリア・フョードロヴナ
●エリザベータ・フョードロヴナ大公妃 
皇后の姉/皇帝の叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の妻
●クセニア・アレクサンドロヴナ大公女 
皇帝の妹/皇帝のいとこアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の妻
→娘イリーナはラスプーチン暗殺者の一人フェリックス・ユスポフ公爵の妻
●ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公 皇帝の弟
●オリガ・アレクサンドロヴナ大公女 皇帝の妹
●ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公 皇帝の叔父
●パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 皇帝の叔父
→息子ドミトリー・パヴロヴィチ大公はラスプーチン暗殺者の一人
●ニコライ・ニコラエヴィチ大公 
皇帝の父のイトコ/モンテネグロ王女アナスタシア(愛称スタナ)の夫
●ピョートル・ニコラエヴィチ大公 皇帝の父のイトコ/モンテネグロ王女ミリツァの夫
●コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公 皇帝の父のイトコ
●セルゲイ・ミハイロヴィチ大公 皇帝のイトコ
●マリア・ゴロヴィナ ラスプーチンの信者/ユスポフ公爵の幼なじみ
母と共にラスプーチンの信者でゴロヴィナ家はラスプーチン信者のサロンとなっていた。
●アキリーナ・ラプチンスカヤ ラスプーチンの信者ナンバー2
●オリガ・ロフチナ ラスプーチンの信者/ロフチン夫人 
●ユリア・フォン・デーン 愛称リリ
皇后の友人ナンバー2/ラスプーチンの信者 アンナ・ヴィルボワの親戚  
●ツァールスコエ・セロー 「ツァーリの村」の意味。皇帝一家の宮殿がある地域
首都サンクトペテルブルクの南郊外にあり、
人工的で幻想的なミニチュアの世界を創り出していた。


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皇帝の侍医の息子 グレブ・ポトキン

ツァールスコエ・セローは、
少数の許された者のみが入れる魔法の国といった別個の世界であった。
忠誠な君主主義者にとっては一種のパラダイス、
いわば地上の神々の住む場所であったが、
革命家にとっては、
そこは血に飢えた暴君が無辜の民を虐げる陰謀を企む場所であった。

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*生涯を通じてアレクサンドラの
ニコライ2世、皇帝という存在、ロシア帝国への想いは次の手紙に象徴される。


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婚約時代の皇后から皇帝への手紙

*父帝アレクサンドル3世が危篤状態にあった

しっかりなさいませ。
緊急事態発生の折は、侍医をあなたの所に直接来させなさい。
他の人の所へ先に行って、あなたをないがしろにさせてはなりません。
あなたは父上の大切な息子なのですから、
すべてについてあなたの指示を仰ぐようにさせるべきです。
あなた御自身の気骨のある所を示して、
周りの者にあなたの存在を忘れさせてはなりません。
差し出がましい事を言って許してね、坊や。

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*アレクサンドラのラスプーチンへの傾倒は、次の証言に象徴される。


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皇帝一家の家庭教師 ピエール・ジリャール

ラスプーチンの予言の言葉は、
単に皇后自身の秘められた願いを言明しただけのものだった。
彼女の個人的な願いがラスプーチンを通過する事によって、
彼女の目の前で神の啓示としての力と権威を得たのだ。

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■ラスプーチンが現れる前から、皇帝夫妻は様々な祈祷師にハマった。
祈祷師を紹介するのはニコライの父のいとこ
ニコライ・ニコラエヴィチ大公&モンテネグロ王女アナスタシア夫妻と、
ピョートル・ニコラエヴィチ大公&モンテネグロ王女ミリツァ夫妻。
この2組の夫婦は兄弟&姉妹のカップルで、
【黒い家族】や【黒い姉妹】と陰で呼ばれるほどオカルトや神秘主義に傾倒していた。

*フランス人パピュス
父帝アレクサンドル3世の霊を呼び出してニコライと対話したことで、
絶大な信頼を得ることに成功する。

*裸足のマトリョーナ
大声でわけのわからない予言をわめきちらすボロ着をまとった裸足の女性で、
現れた時と同様に突然宮廷から姿を消した。

*「神と対話ができる」というふれこみの奇形の農夫コリアバ
両腕の無いコリアバは義手をつけていたが、
癲癇の発作が起きるとその義手を激しく振り回し、
わけのわからぬ言葉を叫び、泡を吹いてのた打ち回る。
アレクサンドラは彼の実演に毎回出席し、
コリアバの口走る言葉から必死に神のお告げを聞き取ろうとした。


*コゼリスキー/ググニヴィ/ミーチャと呼ばれていたドミトリー・オズノビシン。
長い髪に修道士風の法衣を身に着け、長い杖をついて裸足で歩き回っていた。

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ニコライ2世の日記 1906年01月27日

オプチナ修道院近くのコゼリスクから、【神の人】ドミトリーという男がやってきた。
彼は自分の見た幻影によって描いたイコンを持ってきた。
私は彼と1時間半ほど話した。

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*フランス人フィリップ 本名ナジェ・ヴィショー
フランスを訪問していた皇帝夫妻に、ミリツァが引き合わせた。
彼の奇蹟は手品のようなものでフランスでは笑いものになっていたが、
アレクサンドラは信じ込んだ。
アレクサンドラに月光の下で沐浴することを勧め、ハーブを調合した薬を与えた。
1903年に儀式が行われ、翌1904年めでたく皇太子アレクサンドル誕生。
夫妻はますますオカルトに傾倒してゆく。

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ニコライ2世の父のイトコ コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の日記

フィリップは50歳ぐらいの小柄で黒い髪と黒い髭の男で、
ひどく強い南フランスの訛りがあった。
彼はフランスとヨーロッパにおける宗教の没落について論じた。
別れるとき彼は私の手にくちづけしようとして、私は自分の手を引き離すのに苦労した。


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国家評議会議員 ポロフツェフの日記

ミリツァは皇后とフィリップを引き合わせた。
マリア皇太后はミリツァとスタナ姉妹にひどく腹を立てた。
皇太后の依頼に応じてパリの諜報員を使ってフィリップの過去を調べる事にした。
回答はとんでもないものだった。
パリ在住のロシア諜報員はフランスの新聞記事を送ってきた。
それはフィリップの公開催眠術ショーについて皮肉たっぷりに書いたものだった。
フランス人はフィリップをうさん臭い山師と呼んでいた。

セルゲイ・ミハイロヴィチ大公から聞いた話では、
パリの諜報員からフィリップに関して都合の悪い報告が届こうものなら、
皇帝は24時間以内にこの諜報員を解雇するよう命じたという。


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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

ロスチャイルド一族のアルフォンソ・ロスチャイルド男爵は、
フランスの偽医師フィリップがロシアの両陛下に近づき、
両陛下が彼を聖人扱いして尊敬され、一部の大公および大公妃達の信用を得て、
これらの人々に対して大きな勢力を持っていると述べ、このようなペテン師が
宮廷に入り込めるような国に安心して多額の融資はできないと言うのである。

フィリップとパリで知り合い彼の奇怪な言行に眩惑されてロシアへ土産話としたのが、
ミリツァとスタナであった。
彼をもっとも深く信仰したのはニコライ・ニコラエヴィチ大公である。
この人は非常な迷信家で、常人をして精神状態を疑わしめるほどであった。
私はニコライ大公を有為の材だとは思わない。しかし真面目で別に悪意のある人ではない。
皇帝に対しては盲目的に従順であるし、軍事については相当の才能のあった人だと考える。
それ以来フィリップは時々ロシアへやってきて数ヶ月間秘かに宮中に滞在して、
両陛下にいろいろと神秘的治療を行ったりしていた。
このモンテネグロの王女達はたった2人の取るに足らぬ女性であったが、
ロシアの皇室に災いしたことはいかに大きかったか。
この姉妹の醜劣な言行を書き立てるならば、どんな大冊な書物になるかしれない。

機会をつかむ事に寸時も注意を怠らなかった姉妹は、
遠く他国に嫁したばかりで周囲の人々に親しみを持たぬ
アレクサンドラ皇后の侍女達を押しのけて皇后の左右に近侍した。
それ以来彼女達は皇后の側を去る事のない親友となり、
次第に宮中で勢力を得るようになった。
彼女達の欲望はまず金銭の方向に表れてきたので、彼女達と私の間に小衝突が起こった。
まだロイヒテンベルク公妃であった時にスタナは、
ロイヒテンベルク公家の歳費を15万ルーブル増額する事を皇后を通じて皇帝に請願した。
私はもちろんこれに承諾を与えなかったが、
勅令によって宮内省から15万ルーブル支出する事になって結末がついた。
またミリツァは、夫ピョートル・ニコラエヴィチ大公が
投機に手を出して大穴をあけたというので、
私に中央銀行から貸し出しを取り計うように依頼してきた。私はそれを拒絶したが、
するとこれも勅令で宮内省から御料地の収入を割いて援助する事になった。


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ラスプーチン暗殺者の一人 フェリックス・ユスポフ公爵の証言

フェリックスの父親が散歩していると、
見知らぬ男と一緒に馬車に乗っているミリツァに出会った。
父親は会釈したが、ミリツァの方は応えなかった。
数日後どうして会釈に応えなかったのかミリツァに尋ねると、
「あなたには私の姿は見えなかったはずですわ」とミリツァは答えた。
「私はフィリップス先生と一緒にいたのですから。
あの方が帽子をかぶると姿が見えなくなるんです。
そして一緒にいる人も同じように見えなくなるんですのよ」


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ニコライ2世の日記 1901年08月26日

ズナメンカ〔ミリツァ&スタナ姉妹の家〕に行き、5時まで過ごす。
【私たちの友】も一緒だった。


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ニコライ2世の日記 1901年08月01日

ズナメンカに出かけた。一晩中【私たちの友】〔フィリップ〕の話に耳を傾ける。
帰路はうっとりするような月夜。


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ニコライ2世の日記 1901年08月02日

ズナメンカに行き、【私たちの友】と一緒に最後の夜を過ごした。

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アレクサンドラからニコライ2世への手紙 1901年09月09日

フィリップを知るようになってから、私達の人生はなんと豊かになった事でしょう。

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■1902年アレクサンドラは妊娠したが、医師の診断を拒絶した。
担当医となったはミリツァ&スタナ姉妹とフィリップだった。
皇后のお腹は順調に膨らみ臨月が近づいたが、想像妊娠であった事が発覚する。


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ニコライ2世の妹 クセニア大公女の手紙 1902年08月

なんてことでしょう。お気の毒なアレクサンドラは全然御懐妊されていなかったのです。
どんなに自尊心を傷つけられたことでしょう。


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コンスタンチン・コンスタンノヴィチ大公の日記 1902年09月06日

セルゲイ・ミハイロヴィチ大公の主張するところによれば、
両陛下は神秘的な気分にはまり込み、
ズナメンカでフィリップとともに祈り、幾夜も過ごし、
そしてなんだか有頂天になって戻ってくる。
目は光り、顔は輝いて、まるで恍惚状態にあるようだ。
これは危険というより滑稽ではないか。
よろしくないのは、お二人がズナメンカ訪問を秘密にしている事だ。


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コンスタンチン・コンスタンノヴィチ大公の日記 1902年09月07日

セルビア王女イェレナは、
弟のセルビア王太子がミリツァとフィリップに影響されてしまったと言った。
セルビア王太子の言うには、フィリップの地上での使命は終わりに近づきつつあり、
間もなくこの世を去るけれども、友人達の元に違う人間の姿をとって戻ってくるとの事だ。
なんという馬鹿げたことだろう!セルゲイ・ミハイロヴィチ大公は、
皇帝と皇后のズナメンカ訪問についてとても心配していると私に言った。


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官僚 アレクサンドル・ポロフツェフの日記 1902年09月12日

フィリップは催眠術を使って皇后に妊娠していると信じ込ませたのだ。
そう思い込まされ、皇后は医師の診察を拒否した。
ところが皇后は突然痩せ始めたので、08月半ばに産科医のオットーを呼ばれたのだった。
オットーは、皇后は妊娠していないと告げた。
だがこのような事件にもかかわらず、
フィリップに対する皇帝夫妻の信頼は揺らぐ事はなかった。
お二人の目にはフィリップは素晴らしい霊感に満ちた人物であり続けたのだ。
これほど悲しい事件でなければ、滑稽と言ってもいいくらいの事なのだが。


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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

皇后は4人の皇女を持ったが、皇子は一人もなかった。
ちょうどそこへフィリップなる者が現れて、
皇后に「必ず皇子を御懐妊なさる」と暗示したのであった。
皇后もこれを信じて懐妊していると思った。皇帝もこれを喜び、皇后懐妊が発表された。
そして丸9ヶ月が過ぎた。しかしなかなか分娩の期が来なかった。
皇后は最後の最後まで診察を拒んだが、
とうとう宮内省の産科医オットーが皇后の身体を診察する事が許された。
オットーは「現在妊娠中でなく、また従来も懐妊されていなかった」と診断した。


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コンスタンチン・コンスタンノヴィチ大公の日記 1902年09月19日

ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公のところに赴く。
彼は心を痛めている問題に話題を切り替えた。つまり、フィリップの事だ。
彼の考えでは、フィリップを皇帝夫妻にここまで親密にしてしまった罪は
ニコライ・ニコラエヴィチ大公にあり、
大公こそがこのような事態を引き起こした張本人だと言う。
そしてフィリップの不埒な行為のせいで、
皇帝夫妻は世間の物笑いと軽蔑の的になっている。


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■1904年02月08日 日露戦争勃発


■1904年08月12日 皇太子アレクセイ誕生
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by xMUGIx | 2008-02-01 00:00 | ロシア


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