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by xMUGIx
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ロマノフ朝

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フェリックス・ユスポフ公爵

私が初めてラスプーチンに会ったのは1909年、ペテルブルクのゴロヴィン家だった。
ゴロヴィン家とはかねてより昵懇の仲だったが、
とりわけ末娘のマリア・ゴロヴィナとは親しかった。
マリアのように純粋で善良な魂の持ち主を、私は他に知らない。
ただ彼女は繊細と言う以上に過敏で、影響されやすく神経質だった。
超常現象にすぐ夢中になる彼女の宗教的感情は、不健全な神秘主義に侵されていた。
とどのつまりあまりに信じやすくナイーブな彼女は、
人間を正確に見分ける事も事柄を客観的に判断する事もできなかったのである。
ラスプーチンの聖性と魂の純粋さを信じ切っており、
彼は神に選ばれし人であり超自然的な存在であると思っていたのだ。
彼女はラスプーチンの汚らわしさを見抜くにはあまりにも初心で、
そのおぞましい行為を直視して判断するにはあまりに純朴だった。
他人がラスプーチンの正体を知らせようとしても容喙の余地はなかった。

私がサロンに通されると、マリアと母親と一緒にお茶のテーブルを囲んでいた。
ラスプーチンはマリアと母親に対してなれなれしく横柄だった。
彼女と母親はこの聖なる【修道士】から片時も眼を離さず、
その言葉を一言半句もききもらすまいと息をひそめていた。
ラスプーチンのでたらめを、
マリアと母親はまるで深い意味でも秘められているようにうっとりと聞き惚れていた。
「あの方の前に出ると世の中の憂いを一切忘れてしまうんですの」と彼女は言った。
「あの人は病んだ魂を清めて癒し、
私達の意志私達の考えと行動を正しく導くためにこの世に遣わされた方ですわ」

ラスプーチンと会ってから間もなく、私はオックスフォードに留学した。
母はアレクサンドラ皇后の大のお気に入りで、二人はよく会っていた。
母はラスプーチンが皇帝と皇后に接近する事を大変不安に思っており、
その事を私への手紙にも書いてきた。母はまたその心配を、
長年の友であるエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃〔皇后の姉〕にも書き送っていた。
エリザヴェータ大公妃は普段モスクワに住んでいたが、ペテルブルクに来ると
短い滞在の間にも皇帝と皇后にラスプーチンを早く遠ざけるようにさかんに説いた。
母もまた皇后と長い話をし、ラスプーチンに対する自分の考えをはっきり伝え、
彼の影響がますます大きくなっていく事に対して不安を表明した。
その結果あらゆる口実のもとに母は遠ざけられ、
間もなく皇后と母の関係はほとんど絶たれてしまった。
皇太后そして他の皇族も皇帝と皇后の目を開かせようと様々な努力をしたが、
らちが明かなかった。

第一次世界大戦勃発後、私は妻や両親とともにドイツにいた。
私達はベルリンで逮捕されたが、脱出に成功して無事ペテルブルクに戻る事ができた。
故国に戻ると、皇帝と皇后は民衆から隔たりラスプーチン一味の虜になっていた。
ラスプーチンの破廉恥な振る舞いは次第に世論の憤激を買い始めていた。
1915年の国会でも問題になり、様々な請願が皇帝になされた。
しかし皇帝はどんな嘆願や諫言にも耳を貸さなかった。
ツァールスコエ・セローでは、
ラスプーチンに関する報告は真実であればあるほど無視されるようだった。
ラスプーチンと皇后の会合は、たいていアンナ・ヴィルボヴァの家で行われた。
ラスプーチンの助言や意見はただちに大本営の皇帝に伝えられた。
その間、戦場ではおびただしい人命が失われた。

ラスプーチンに対するマリアの礼賛は尽きる事がなかった。
彼女は感涙にむせびながら、ラスプーチンが讒言や迫害をいかに耐え忍んでいるか、
そして不当な苦難によっていかに私達の罪を贖っているかを語った。
その熱狂ぶりは信じがたいほどだったので、
私はラスプーチンの不行跡について触れてみた。
「そのように正しい人が、
聖者であるかと思えば飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをするのはなぜでしょう?」
マリアは憤然と赤くなり、いっそう熱くなって言った。
「そんな話はみんなでたらめです。
あの方は妬みと悪意に取り囲まれていらっしゃるのです。
心の善くない人達があの方を皇帝と皇后に悪く思わせようとして、
事実を歪めてひどい事を言い触らしているのです」
「でも、いろんな証拠が写真に撮られていますよ。
例えばどうしてジプシーと飲めや歌えやの大騒ぎをする必要があるのです?」
「いいですか、仮にあの方がそんな事をなさっているとしても、
それはあの方が御自身に試練を与えようとしているからですよの。
意志を鍛錬して肉の欲求を征服し、
身の回りの誘惑に負けまいとするためになさっている事ですわ」
「ではあの人が大臣の首を勝手にすげ替えるのも、
我が身を痛めつけ道徳的な完成に到ろうとするためなんですか?」
マリアはとうとう本気になって怒り出し、「あなたがそんな風におっしゃるのは、
あなたがあの方を理解していないからですわ」と叫んだ。
「もっとよくあの方を知っていただきたいわ。
そうすればあの方がどんなに素晴らしい特別の人であるか、あなたにもお分かりになるわ。
あの方は初めて会う人間の心を
あっという間に読み取ってしまう能力を神様から授かっていらっしゃるのです。
あの方は皇帝と皇后に人の性格をお教えする役目を負っているのです。
皇帝と皇后が悪い人間から影響を受けるのを防いでいらっしゃるのです。
あの方がおいででなかったら、何もかもずっと前から破滅していたでしょう」

私はなぜラスプーチンは昨日あんなに急いで帰ったのか、マリアに聞いてみた。
「何か重要な事がうまくいかなくなったという知らせを受けたそうです。
でももうすっかり大丈夫だそうです。ラスプーチン様が怒って怒鳴りつけたら、
向こうはびっくりして言われる通りにしたそうです」
「向こうって、どこの事ですか?」
「ツァールスコエ・セローです」
私はラスプーチンを怒らせた出来事が、
プロトポポフを内務大臣に任命するという事だと聞いた。
ラスプーチン一味が是が非でもプロトポポフを望んだのだが、
他の人々が皇帝に反対を奏上したのだ。しかしラスプーチンは
ツァールスコエ・セローへじきじきに出かけて勝ちを収めたのだった。
こうしている間にラスプーチンがやって来た。とても御機嫌だった。
「すべて片づけたよ。宮中まで行かなければならなかったがね。
着いたらばったりアンナに会った。まったくあの人は困る。
もうだめ、ラスプーチン様、頼みの綱はあなただけよ、ああお願いと泣き言を言うばかり。
俺はすぐに奥の間に入って行った。
すると皇后はふくれっ面、皇帝は部屋の中をぐるぐる歩き回っている。
俺は怒鳴ってやった。すると二人ともすぐに静かになった。
こんな事をしていると俺はもうあんた方を見捨てると言うと、
二人ともすっかり慌てて折れて出た。
二人ともさんざん俺の悪口を聞かされて参っていたんだ。
俺は俺の忠告に従うのが一番だと教えてやった。あそこでは俺の悪口ばかりだ。
それに皇帝は騙されている。しかし連中も長続きはせんさ。
俺がもうすぐ国会を解散させて、連中をみんな戦場に送ってやる」
「なんですって?あなはた国会の解散も自由にできるのですか?」
「なあに、そんな事は造作もないことだ。皇后は聡明だ。あの人となら何でもできる。
皇帝はまあ単純な人柄で、支配者に生まれついていない。国家統治はあの人の手に余る。
だから俺が神の恵みを得て、あの人を助けるしかないんだよ」
身のほど知らずの皇帝への侮辱の言葉に私の腹わたは煮えくり返ったが、
どうにか素知らぬふりを装った。
「俺がいなければみんな終りだったのだ。
俺の言う事が聞き入れられなければ、拳固でテーブルをどんと叩いて出て行くだけだ。
よろしい、俺はもうシベリアへ帰るからあんた達はここで勝手に堕落しろ、
神に背を向けて、皇太子が破滅し、悪魔の爪に掛かるぞとな。
するとあの人達は追っかけてきて、
あなたの言う通りにするから私達を見捨てないでおくれと言うんだ。
まあ、これが俺のやり方だ。俺の仕事はまだ終わっていない。
今はまだ早い。準備が整っておらん。
すべて満足のいくように準備ができたら、皇后を皇太子の摂政にする。
皇帝はリヴァディアに行って休んでもらう。あの人はその方がずっと幸せだ。
疲れているから休息が必要なっだ。
リヴァディアで花に囲まれて神様の近くにいる方があの人にはいい。
皇后はなかなか英明な人だ。エカチェリーナ2世と言っていい。
近頃ではあの人が皇帝の代りをしている。
議会でおしゃべりしている連中はみんな解任するとあの人は約束した。
議員どもはみんな地獄行きだ。あいつらは神に背いて事を構えようとしたのだ」

「あの人はできるだけ早くペテルブルクを去った方がいいと思います。
暗殺されてしまいますよ」と私はマリアに言った。
「そんな事は絶対起りません。神様がお許しにならないわ。
あの方がいなくなれば、すべては終わりです。
皇后様があの方がいる限り皇太子は安泰だと信じていらっしゃるのは当然ですわ。
あの方がいなくなれば皇太子様は病気におなりになるでしょう。
ラスプーチン様も御自分でおっしゃっています。
俺が死んだら皇太子も命がないだろうって。
これまでもあの方は命を狙われた事が何回かありましたけど、
神様がお守りになりました」

皇帝と皇后にラスプーチンの正体を暴露し、
宮廷から除いてもらう希望はもはやまったくなかった。
私はもはやラスプーチンを亡き者にする以外道はないと考えていた。
友人の中で私が秘密を打ち明ける事ができたのは、
ドミトリー・パヴロヴィチ大公とセルゲイ・スホーチン大尉の二人だった。
私達は長時間の議論の末、
殺害の跡を残さずラスプーチンを始末する一番良い方法は毒殺だという点で一致した。
不可解な失踪と見せかけなければならないという点も、みな同意見であった。
それから助言を求めて、国会議員のウラジーミル・プリシュケヴィチに会いに行った。
彼を選んだのは国会で激しいラスプーチン弾劾演説をしたからだった。
さらにスホーチンは5人目の同志を推薦した。
スタニスラフ・デ・ラゾヴェルトという彼の部隊に属する医師だった。

私達は何度も会合し、詳細を議論し、諸々の手筈を決めた。
暗殺計画は以下のようなものであった。
私はラスプーチンと交際を続け信頼を勝ち得るようにする。
そしてある日誰にも悟られずに彼を私の自宅に招く。
真夜中にプリシュケヴィチの車で迎えに行って彼を連れてくる。
運転手はラゾヴェルトが引き受ける。
ラスプーチンを招き入れたら、青酸カリを入れた飲み物をとらせる。
ラスプーチンの相手は私だけがする。
同志は隣室で待機して、必要とあらば手を貸す。
死体は袋に入れて市外に運び出し、河中へ捨てる。
死体を運ぶ車はドミトリー大公の車にする。
この車には大公旗が付いているので一切嫌疑をかけられる事がなく、
道中止められて時間を食う事がない。
またこの計画がどのような結果を招こうとも、同志については沈黙を守る事も決めた。

ラスプーチンを12月29日の夜に招こうと決めた。
私はラスプーチンに電話をして都合を問い合わせた。
彼は私が彼の送り迎えをするという条件で、その日でかまわないと答えた。
ラスプーチンを招き入れる予定の地下室を手入れした。
地下の物置のような所に通されては変に思うだろう。
日常使用されているように見せかけて、
ラスプーチンに疑いを起させないようにしなければならない。
友人達との晩餐が終わったという様子を部屋に与えなければならなかった。
11時にはすべての用意は整っていた。サモワールは湯気を立て、
その周りにはラスプーチンの大好きなお菓子や甘い物を盛った皿が並べられていた。
ワゴンの上にはワインとグラスを載せた盆が置かれていた。
執事と召使に、11時に招待客が来るが呼ぶまで部屋に下がっていてよいと命じた。
医者のラゾヴェルトがゴム手袋をはめ、
青酸カリを砕いて粉にするとケーキの上皮をはがして振りかけた。
蒸発して効き目が薄れる事をおそれ、
ワインに毒薬を入れるのは最後の瞬間にする事にした。

ベルを鳴らすとドアを開けたのはラスプーチン自身だった。
「お迎えに上がりました」
「なぜそんな風に顔を隠すのかな?」
「私と今晩出かける所を誰にも見られたくないとおっしゃたではありませんか」
「そうじゃった、そうじゃった。
だから俺も家の者に何も言っていない。秘密警察も追っ払っておいた」
私達は車に乗り込んだ。運転手に変装したラゾヴェルトがエンジンをかけた。

お定まりの話題をひとくさりやると、ラスプーチンはようやくお茶を欲しがった。
私はいそいそとお茶を入れ、お菓子を勧めた。
彼はひとつ、またひとつとつまんだ。
しかし驚いた事にラスプーチンは何事もなかったかのように喋り続けた。
私は焦った。
「マデイラ酒でももらおうか」と彼は言った。
彼は私が青酸カリの付いたグラスに注いだマデイラ酒を飲んだ。
だが、彼は平気で飲み続けた。ゆっくりと少しずつ、ちびりちびりと。
「このマデイラ酒はとてもいい。もう少しくれないか」と言った。
毒はまだなんの効果も表さなかった。彼は依然として部屋の中を歩き回っていた。
そしてギターに目を止めた。
「何か愉快なのをやってくれ。俺はあんたの歌いぶりが好きなんだ」
私はギターを取り上げて歌を歌い出した。自分で自分の声が分からなかった。
気がつくと、もう2時半になっていた。悪夢は2時間も続いたのだ。

書斎に入ると、ドミトリー大公とプリシュケヴィチとスホーチンが
ピストルを手にして私に飛びついてきた。
「どうしたんだ。終わったのか?」「薬が効かないんだ」
どうしたらいいかみんなで相談した。
私一人が降りて行ってラスプーチンを片づける事になった。
ドミトリー大公のピストルを隠し持って食堂に降りて行くと、
ラスプーチンはジプシーの所へ行こうと言い出した。
その時ふと私の目に水晶の十字架が映った。
「なんだってそんなに見ているんだ」とラスプーチンが聞いた。
「これが大好きなんです」
「高かったろう、いくらだ?」彼はそう言ったが私の返事を待たず、
「俺はこっちの方が好きだ」とタンスの方へ行き、中を調べ始めた。
『神よ、力をお貸しください』と私は祈った。
そして隠し持っていたピストルを取り出し、心臓を狙って引き金を引いた。
階段で物音が聞こえた。みんなが駆け下りてくる音だった。
彼は仰向けに倒れて、目を閉じていた。顔の筋肉がぴくぴくし、手も痙攣していた。
もう一発撃とうと誰かが言ったが、血が飛び散るのをおそれてやめた。
2,3分後、ラスプーチンはまったく動かなくなった。
傷口を調べると弾丸は心臓の近くを貫いていた。

ドミトリー大公、スホーチン大尉、ラゾヴェルト医師の3人は、
事前に決めた通りラスプーチンを彼の家まで送り届けるふりをした。
スホーチンがラスプーチンに変装して車に乗るのだ。
それから3人はラスプーチンの意匠をワルシャワ駅に持っていき、
プリシュケヴィチの管轄する病院列車でそれを燃やした。
今度はドミトリー大公の車でラスプーチンの死体をペトロスキー島へ運ぶ手筈だった。
プリシュケヴィチとともに家に残った私は、ラスプーチンの死体を見に行った。
すると恐ろしい事が起った。ラスプーチンがすさまじい勢いで飛び起きたのだ。
部屋中にラスプーチンの野獣のような唸り声が響き渡った。
彼の両目は眼窩から飛び出し、口からは血と泡が垂れていた。
彼は私に飛びかかってきた。私は死に物狂いの力を振るって自分の身をもぎ放した。
私は書斎に残っているプリシュケヴィチの助けを呼んだ。
ラスプーチンは中庭に飛び出した。プリシュケヴィチが彼を追って飛び出した。
銃声が2発聞こえた。
中庭には出口が3つあったが、鍵のかかっていないのは真ん中の出口だけだった。
私はラスプーチンが正門から逃げてしまうかもしれないと思い、走って行った。
3つ目の銃声、4つ目の銃声が聞こえた。ラスプーチンが雪の山に倒れ込むのが見えた。
私の所に駆けてくる数人の足音が聞こえた。召使が2人と巡査が1人。
「殿下、銃声が聞こえましたがどうかなさったのですか?」と巡査が聞いた。
「つまらない騒ぎだ。友達が飲み過ぎてピストルをぶっ放してみんなを驚かせたんだ」
そう言いながら私は巡査を門まで送り出した。
死体の所へ戻ると、召使2人が立っていた。
死体の位置は変わっていなかったが、身体を丸くしている。
なんたることだ、またいきているのかと私は思った。
召使が来て、先ほどの巡査が今度は表玄関から入って来て、
もう一度私に会いたいと言っていると告げた。
銃声が警察署まで聞こえたため、巡査は何が起こったのか報告するよう命じられたのだ。
巡査が入ってくると、プリシュケヴィチは大きな声で言った。
「私は国会議員ウラジーミル・プリシュケヴィチだ。
君の聞いた銃声はラスプーチンをやっつけたものだ。
もし君が国と皇帝を愛しているなら、このことを一言たりとも他言してはならん」
「あなたは立派な事をなさいました」そう言うと、巡査は興奮して出て行った。

召使がやってきて、ラスプーチンの死体を階段の踊り場に運んだと告げた。
ドミトリー大公、スホーチン大尉、ラゾヴェルト医師の3人が車で戻って来た。
プリシュケヴィチが起った事を話し、みんなは私を休ませるために一人残して、
死体を布で包むと車に積み、ペトロフスキー島の橋の上から河の中に投じたのだった。
翌日ドミトリー大公が詳しく語ってくれた。
ラスプーチンの死体をしっかり縛って車に積み、
ドミトリー大公が運転しスホーチンが助手席に座った。
プリシュケヴィチとラゾヴェルトそして私の召使が後部座席に乗った。
ペトロフスキー橋に着いて車を停めたが、
みんな興奮していら立っており混乱して慌ててしまった。
死体の足に重りを付けるのを忘れ、毛皮の外套を脱がさずに、
氷の割れ目から死体を投げ入れたのだ。
最初の計画ではラスプーチンの衣類と長靴も焼却する事になっていたが、
それをする余裕もなかった。
車に戻ると、今度はエンジンがかからない。どうには車を出し、市内に戻った。
おそらく死体は水勢のよって海に押し流されているだろうとドミトリー大公は言った。

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by xMUGIx | 2008-01-31 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆父 フェリックス・スマローコフ=エルストン伯爵
1820-1877


■母 ジナイダ・ユスポヴァ女公爵
1861-1939

*ロシアの名門貴族ユスポフ家の女性相続人


●ニコライ
未婚・不倫相手の夫と決闘して25歳で死亡
●フェリックス
次代当主




◆フェリックス・ユスポフ公爵 ラスプーチン暗殺者の一人
1887-1967


■妻 イリナ・アレクサンドロヴナ 皇帝ニコライ2世の姪
クセニア・アレクサンドロヴナ大公女&アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の娘
1895-1870


●一人娘 イリナ・ユスポヴァ ニコライ・シェレメーテフ伯爵と結婚




◆ラスプーチンは1916年12月30日未明、ユスポフ公爵の屋敷で暗殺された。
実行メンバーは、ドミトリー・パヴロヴィチ大公、フェリックス・ユスポフ公爵、
ウラジーミル・プリシュケヴィチ議員、セルゲイ・スホーチン大尉、
スタニスラフ・デ・ラゾヴェルト軍医の5人。
この他にも男女数名の協力者がいたと言われるが、
実行メンバーは生涯その名を明かさなかったため、詳細は不明である。


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国会議員 ウラジーミル・プリシュケヴィチ

*1916年12月02日、彼は国会で痛烈なラスプーチン批判の演説を行った

翌日12月03日、一日中電話がなりっぱなしで、よくぞやったと言われた。
電話をかけてきた中で私の関心を引いたのは、ユスポフ公爵と名乗る人物だった。
彼はラスプーチンに関する問題を解明するために私の所に行ってもいいかと尋ねた。
電話で話すのは差しさわりがあると言うのだ。
私は朝9時に立ち寄ってくれと言った。


12月04日、やってきたユスポフ公爵は軍服を着た若者だった。
私は彼の風貌と精神的な忍耐力が気に入った。
彼の風貌の基調となっているのは、言い表し難い優美さと血筋である。
このような特質は、ロシア人には特に貴族の間には、あまり見られないものだ。


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ユスポフ公爵から妻イリナへの手紙 1916年12月04日

ラスプーチンを抹殺する計画を練るのにひどく忙しいのです。
これは今やどうしても必要な事です。君もこれに参加しなければなりません。
ドミトリー大公はすべて承知した上で助けてくれます。
ああ、早く君に会いたい!でもあまり早く来ない方がいいでしょう。
部屋の準備ができるのは12月15日でしょうから。
僕が書いた事は誰にも一言も言わないように。
僕の母には話して下さい。僕の手紙を読んであげて下さい。


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国会議員プリシュケヴィチの日記 1916年12月05日

午後8時、私はユスポフ公爵の家に行った。
部屋に若くすらりとして美男子が駆け込んできた。
それがドミトリー大公であることがわかった。

ラスプーチンは以前から某夫人とお近づきになる機会を求めていた。
某夫人はペテルブルクの若き美女で、ユスポフ家によく来ていた。
しかしその時、彼女はクリミアにいた。ユスポフ公爵はラスプーチンに告げた。
「某夫人は数日後にペテルブルクに戻ってきて何日か滞在する予定です。
自宅で彼女に引き合わせることもできますよ」と。


*某夫人とはユスポフ公爵自身の妻、イリナの事である。

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フェリックス・ユスポフ公爵

ラスプーチンはかなり前から私の妻と知り合いになりたがっていた。
彼女がペトロブルクにいると思って、彼は私の家に来る事に同意したのである。


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皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン

ラスプーチン様の人生最後の時に、
ユスポフ公爵は頻繁にラスプーチンの家に通っていました。
ラスプーチン様の言葉によれば、公爵は自分の妻について
驚くべき、ごく内輪だけに限られる事を話してくれたと言うのです。
彼は具体的には教えてくれませんでしたが、
ラスプーチン様はユスポフ公爵の妻を治療するために彼の家に出かけたのです。


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妻イリナからユスポフ公爵への手紙 1916年12月08日

あなたの正気とは思えない御手紙に感謝いたします。私には話の半分もわかりません。
あなたが何かとんでもない事をやろうとしていることはわかりましたけれど。
お願いですから慎重になって、
あれこれの汚らわしい話には首を突っ込まないようにして下さい。
一番忌まわしいのは、あなたが私抜きで万事をお決めになった事です。
すべての準備が整っていると言うなら、
今さら私にどんな風に参加しろとおっしゃるのでしょう。
私抜きで何もしないように。25日か26日にペテルブルクに行きます。
さもなければ、まったくそちらへは生きません。それではごきげんよう。


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ユスポフ公爵から妻イリナへの手紙 1916年12月10日

君が長い手紙をくれたのはとてもうれしい。君には到底わからないでしょう。
あれこれの計画のせいで頭がずたずたに張り裂けそうなこの時、
僕が君をどれほど必要としているか。君にはすべてを話したいのです。
これは出口のない状況を救う唯一の手段なのです。
12月の半ばには、君にはどうしてもいてもらわないといけません。
僕が手紙に書いた計画は詳細に練り上げられ、もう4分の3は出来上がっています。
あとはフィナーレを鳴らすだけ。そのために君が来るのをみんな待っています。
君には囮になってもらうのです。マラーニャ〔不明〕も参加します。
もちろん他言は一切無用。


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フェリックス・ユスポフ公爵

家に来てくれれば妻に引き合わせると申し出ると、彼は同意した。
ただし条件があった。私の方から彼を迎えに行き、
帰りも私が彼を自宅に送り届けること、と言うのだ。
しかも彼は、裏階段を使ってくれと頼んだ。
こんなにあっさりと合意するなんてと思って私は驚き、またぞっとした。
彼は自分の方から厄介な事をすべて取り除いてくれたのだ。


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国会議員 ウラジーミル・プリシュケヴィチ

12月11日、私は下見のためユスポフ公爵の家へ行った。
お仕着せを着た黒人を先頭にして玄関に群がっている召使の列を見回して、
不安を抱きながらユスポフ公爵の書斎へ行った。
ユスポフ公爵は、当日は全部の召使に暇を出し、
正面玄関に詰める当直が2人残るだけだと説明して私を安心させた。


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妻イリナからユスポフ公爵への手紙 1916年12月16日

もしペテルブルクに行ったら、きっと病気になってしまいます。
始終泣きたい気持ちです。気分は最低です。
こんな事をゴタゴタ書きたくはありませんでした。
でもこれ以上我慢できません。
私にペテルブルクまで来いなんておっしゃらないで。あなたの方からこちらへ来て下さい。
私はもうこれ以上耐えられません。たぶん神経衰弱なのでしょう。
私のことを怒らないで。お願いですから、怒らないで。
私はとてもあなたを愛しているのですから。私はあなたなしでは生きていけません。


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皇后の友人&ラスプーチンの信者 アンナ・ヴィルボワ

午後8時にラスプーチン様の家に行きました。ラスプーチン様は、
ユスポフ公爵と一緒に出掛ける、彼の妻を治療師に行くのだと言いました。
私は、昼間おおっぴらに自分を迎え入れるのを恥じるような人の所へ
夜中に出かけていくなんて屈辱的ですよ、こんな招待は断りなさいと言いました。
彼はそれじゃ行かないと言っていました。


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ラスプーチンの信者 マリア・ゴロヴィナ

ラスプーチン様がユスポフ公爵の家に夜食に行き、
どんちゃん騒ぎをするつもりだという事を知っていました。
私は午後10時に彼の家を去りました。


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内務大臣 アレクサンドル・プロトポポフ

ラスプーチンが殺された夜、私は彼の家に立ち寄りました。
ヴォスコボイニコワを汽車まで見送った後で、12時頃でした。
私は彼の所に10分ほどいました。彼が自分でドアを開けてくれました。
姿を見たのは彼一人です。
どこかに出かけるつもりだということは、私には言いませんでした。


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国会議員 ウラジーミル・プリシュケヴィチ

ラゾヴェルト軍医の運転する車でユスポフ邸に着くと、すでに他のメンバーはそろっていた。
ユスポフ公爵はラスプーチンのために作ったケーキを毒を盛る前に味見してみないかと言った。
ケーキは壁の色と合うように選ばれた薔薇色や茶色のごく小さなプチフールだった。
みんなでお茶を飲み終えると、
ラゾヴェルト軍医は手袋をはめて青酸カリの結晶をクリームケーキの中に入れ始めた。
チョコレートケーキはフェリックスのために取っておいた。
ラゾヴェルト軍医はこの恐ろしい仕事を終えると、運転手の制服を着た。
ユスポフ公爵とラゾヴェルト軍医が出ていき、家に残った者達は車が去って行く音を聞いた。

青酸カリを4つのグラスの内ユスポフ公爵が印を付けておいた2つに満たした。
私はポケットの中でずしりと重さの感じられた連発拳銃ソヴァージュを取り出して、
書斎のテーブルに置いた。
ラスプーチンを待ちながら、無言のまま部屋を歩き回った。何も話したくない気分だった。
とうとう車が中庭に入ってくる音を耳にした。
それからみんなは部屋に入ってきたラスプーチンの声を聞いた。
ユスポフ公爵はラスプーチンと地下室へ向かった。
ラゾヴェルト軍医は運転手の制服を脱いで、書斎の私達と合流した。
私は手に拳鍔を持っていた。
私の後ろにはドミトリー大公、その後ろにスホーチン大尉、最後にラゾヴェルト軍医がいた。
こうして私達は立ったまま、地下室のどんなかすかな音にも聞き耳を立てた。
話し声は響いてきたが、最大の問題は瓶のコルクを抜く音が聞こえてこない事だった。
ユスポフ公爵が書斎に戻ってきて、「なんてこった、あの野郎は食べも飲みもしないんだ」

ユスポフ公爵はもう一度ラスプーチンの所へ降りて行った。
やがて瓶のコルクを抜く音が聞こえてきた。ドミトリー大公が「飲んでるな」とささやいた。
「これでもう少しの辛抱だ」 しかし30分経っても何も起こらなかった!
青ざめたユスポフが書斎にやってきた。
「なんてことだ!奴は毒をグラス2杯も飲み、毒入りケーキをいくつも食べたのに。
そのうえ奴は某夫人がどうしてこんなに長く待たせるのかそわそわし始めている。
毒の効き目といえば、しょっちゅうゲップをしてちょっとよだれを流しているぐらいで」
そして自分からこう提案したのだ。
「諸君、私が奴を銃で撃ち殺すと言っても反対しないね?」

二度ほどとぎれとぎれの話し声が聞こえた後、銃声が響いた。
「あーあーあー」と長く引き伸ばされたうめき声がして、どすんと身体が床に倒れる音がした。
私達はまっしぐらに地下室に入った。瀕死のラスプーチンが横たわり、
連発拳銃を手にしたユスポフ公爵がそれを見下ろしていた。
ドミトリー大公が、「奴を絨緞からどけなくちゃいけない。血が染み込んだら都合が悪い」と言った。
そこでユスポフ公爵と私はラスプーチンを板の床に移した。
彼はまだ死んでおらず、身体を痙攣させて断末魔の苦しみを味わっていた。


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警察官 ステパン・ヴラシュク

夜中の3時頃、銃声が3,4発続けざまに聞こえました。
近くに立っていたエフィーモフ巡査にどこで発砲があったのかと聞くと、
エフィーモフはユスポフ宮殿を指差しました。
私はすぐに宮殿に向かい宮殿の屋敷番に会いましたが、
屋敷番は銃声など聞こえなかったと言いました。
この時、2人の人物が中庭を木戸の方へ向かうのが見えました。
彼らは軍服を着ていましたが、軍帽はかぶっていませんでした。
それがユスポフ公爵と執事のブジンスキーであることがわかりました。
私はブジンスキーに誰が銃を撃ったのかと尋ねました。
彼は銃声なんか耳にしていないと答えました。私は一安心して部署に戻りました。
しかし15分ぐらい後にブジンスキーが私の所にやってきて、
ユスポフ公爵が私を呼んでいると伝えました。
私が書斎に入ると、ユスポフ公爵と
私の知らない軍服を着たアゴヒゲと口髭を生やした男が迎えに出てきました。
この男は私に尋ねました。「プリシュケヴィチという名前を聞いた事があるかね?」
「あります」
「私がそのプリシュケヴィチだ。ラスプーチンが死んだのだ。
もし君が母なるロシアを愛しているなら、この事については黙っていなければならない」
「仰せの通りにいたします」
「それでは、行ってよろしい」
後で私の所にカリャージン署長が来たので、私は彼にすべてを話しました。


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警察官 フロル・エフィーモフ

午前2時30分に一発の銃声が聞こえました。その後さらに3,4発続きました。
最初の銃声の跡には、小さな叫び声も響きました。女性の悲鳴のような。

2,30分の間、通りには1台の自動車も馬車も通りませんでした。
30分ほど経ってから自動車が1台通ったのですが、どこにも停まりませんでした。


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ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記 


1916年12月30日
電話が2本。一つはトルベツカヤ公爵夫人から、もう一つはイギリス大使ブキャナンから。
昨夜ラスプーチンが殺されたと知らされた。この思いがけないニュースに私は仰天し、
事の真相を知るために
弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公〔ユスポフ公爵の舅〕の家へ車を飛ばした。
召使は、フェリックスの帰宅は遅くなるだろうと告げた。

ヨットクラブに食事に出かけた。クラブは人でごった返していて、
みんなラスプーチン失踪の事でもちきりだった。
食事が終わる頃、死んだように青ざめたドミトリー大公が姿を現した。
私は彼と話をせず、そのまま彼は別のテーブルについた。
トレポフ首相は、
これはすべてたわごとだとみんなに聞こえるような大声で言い立てていた。
一方ドミトリー大公は、
ラスプーチンは失踪したか殺されたかのどちらかではないかと思うと言明していた。


1916年12月31日
相変わらずフェリックスには会えないうちに、
私は彼と2人の甥がクリミアに行く事を知った。
トレポフ首相は電話で、ラスプーチンは殺されたのだろう、
暗殺関係者としてドミトリー大公、ユスポフ公爵、プリシュケヴィチ議員の名前が
挙げられていると伝えてきた。
私はのびのびとため息をつき、
あの悪党もこれ以上害をもたらす事はなくなったと喜びながら、
安らかな気分でトランプ遊びを始めた。
私がびっくり仰天したのは、フェリックスから電話があった事だ。
彼はニコラエフスキー駅で拘留されてしまった、と告げたのである。


1917年01月01日
フェリックスはドミトリー大公の家に移った。
彼らの部屋に入った時、私はつい口を滑らせた。「ごきげんよう、暗殺者諸君!」
フェリックスはもはやしらを切り続けても仕方ないと見てとって、
本当の事をすべて私にぶちまけた。
ラスプーチンはすぐに彼が好きになり、やがて全面的に信用するようになったと言う。
彼らはほとんど毎日のように会い何でも話し合った。しかもラスプーチンは、
あけっぴろげに途方もない将来の計画をすべてフェリックスに打ち明けたのである。
ラスプーチンの心理が理解できない。
フェリックスに抱いた限りない信頼はどうすれば説明がつくのか。
ラスプーチンはまったく誰も信用せず、毒殺や暗殺を警戒していたのに。
何か信じがたい事があったと推定する他あるまい。
おそらくラスプーチンはフェリックスに惚れ込んだのだ。
彼に対して覚えた肉欲があの淫蕩な農夫の頭をぼうっとさせ、
結局その命を奪ったのではないか。
いつまでも尽きない会話をしていた時、彼らは本当におしゃべりしていただけだろうか。
友情を何らかの形で肉体的に表現する事があったに違いない。
接吻するとか、身体に触れ合うとか、あるいはもっと卑猥な事とか。
ラスプーチンのサディズムには疑問の余地がない。
しかしフェリックスの性的倒錯がどれほどのものか、私にはまだあまりわからない。
彼の色欲の噂は、彼の結婚以前に社交界で流れていたけれども。


1917年03月29日
フェリックスとイリナの家に行き、あのドラマの現場をつぶさに見た。
信じがたいことだが、彼らは同じ食堂で平然と食事をしている。


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by xMUGIx | 2008-01-30 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

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ニコライ2世のイトコ マリア・パヴロヴナ大公女
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の娘・スウェーデン王子ヴィルヘルムと結婚離婚

1904年の夏、哀れな皇太子がめでたく誕生した。
ところが長年世継ぎを待ち望んでいたロシア国民も
それまでの相次ぐ皇女の出生で落胆して気抜けしていたせいか、
待ちに待たれたはずの皇太子の誕生にも熱意を見せずまた慶祝気分も長続きしなかった。

皇太子が誕生してからというものその不幸な成長ぶりに全身全霊をかけてきた皇后は、
元来が丈夫でなかったのがますます健康を損ない、
希望という希望をすべて闇に閉ざしての長い年月を過ごしていた。
回避できない最小限度の公式行事が宮廷の中だけで執り行われるようになり、
この時だけが皇帝皇后両陛下が外界と接触する数少ない機会となった。
彼らが自らの世界へ隔絶してしまった以上、
皇帝からの連絡・皇帝への連絡いずれの場合でも、
皇帝の周囲にいる無知きわまる信頼もおけない者達の手を通すより他はなかった。

皇后は愛する皇太子の不治の病が、年齢を重ねるごとに悪化する事を承知していた。
ラスプーチンだけがこの苦痛を和らげられるとなると、
皇后が彼を唯一の救世主と見なしたのも当然至極の事だった。
ラスプーチンはずる賢くも自分がいなければ皇太子は生き長らえないとの
決まり文句を抜け目なく四六時中連発しては皇后の心をがんじがらめにしていった。
さらには傲慢にも皇帝一家の施術者という慎み深い役割では飽き足らなくなり、
より広範囲に自力を誇示したくなった。
その当時にまつわるおびただしい文書が公けになった現在、
ラスプーチンが皇帝皇后に言上した忠告はロシア農民階層に共通した常識を
そのまま伝えていたこともあったと言って差し支えないかもしれない。
貴族達は人民を抑圧しているだけでなく
皇帝との触れ合いをことごとく遮断しているという根拠のもとに、
ラスプーチンが貴族階級に抱いた根深い反発は農民にも共通していた。
まず手はじめに彼は皇后が周囲に対して敵意を抱くように仕向けた。

ドイツからロシアに輿入れして長い歳月が経つというのに、
生まれつき内気で秘密主義だった皇后にとって、
ロシア国民はいつまで経っても異邦の民でとうてい慣れ親しめない存在だった。
ロシアの貴族階級を放埓で自堕落とみなし、
彼らから冷やかな態度に出られると侮蔑をもって応酬した。
彼女は彼らが自分を始終観察しているような気持ちに襲われ、彼らを嫌厭した。
自らの関心事を家庭の範囲内だけに留め置いていたならば、
まあまあ上首尾に運んでいたろう。
ラスプーチンは自分勝手な都合で皇后を家庭から引きずり出し、
国政に興味を持たせた上で自分自身の考えを吹き込もうとした。
狡猾な農夫上がりのこの男は手中に収めた権力を駆使して、
まず貴族に対する根っからの恨みつらみを晴らそうとした。
私にはラスプーチンの直接的・間接的影響によってロシアが陥れられた窮地が、
幾世紀ものあいだ徹頭徹尾無視され続けたロシア農民の貴族階級に向けられた
救い難い暗黒の憎悪からくる復讐心の権化のように思われてならなかった。

大本営へ数ヶ月の長期出張を繰り返していた私の弟ドミトリーは、
そのたびに宮廷の事態が悪化しているのを痛感していた。
どれだけ進言しようとも、頑愚なうえ自分だけの殻に閉じこもってしまい
世間の動静に全く無知な皇后の差し金によって、
信頼に足る人物は全員宮廷から締め出されていた。
不実と虚偽に取り巻かれた両陛下は、
一般に蔓延している非難の声も聞こえない有り様だった。

皇帝は個人的には権力に無関心で自分に備わる力も意識していなかったが、
その絶対君主権が侵害される事だけは我慢ならなかった。
先祖代々継承されてきた独裁権という遺産を手つかずのまま保持する事こそ、
自らの神秘性に基づく聖なる責務だと信じていた。
皇帝は独裁権の神聖なる起源を信奉していた。
国家の幸福と繁栄に関する責任を国に対してではなく
神に対してのみ負うと考えていた皇帝にとって、
手ずから召し出した意見番以外の者が言上する忠告などは
無責任で的外れで何よりも煩わしい物の一言に尽きた。

1916年12月、誰かがラスプーチンが死んだという一報を伝えた。
周囲が空前の興奮に沸き返っていたのを、今も目のあたりに思い出す。
長い間の嫌悪と憎悪の標的だった人物は、
ロシアに降りかかる厄難の咎めを一身に受けて謎の死を遂げた。
訃報は至る所で狂喜をもって迎えられ、
人々は復活祭さながら街角で抱き合い女達は嬉しさのあまり泣き崩れた。
1907年以来ずっとラスプーチンが宮廷に出没していたのは、
ロシア全土でも衆知の事実だった。
そして開戦の頃から彼の存在は一段と顕著になり始めていた。
1916年現在に至っては国の大半が、
前線の敗退も内政の不手際もすべてラスプーチンに事実上の責任があると見なしていた。
彼らにすれば戦争のためにこれ以上の犠牲を強いられるのはもうごめんだった。

明朝けたたましく鳴る電話のベルに飛び起きると、
それは緊急の面会を願い出るシャコフスコイ王子本人からのものだった。
15分後私の前に立った彼は、「殿下、ペトログラードで起きた事件を御存知ですね」
と口ごもりながら言うと手袋を弄んだ。
「昨日伝えられた詳細は不正確でした。今朝方真相が判明しましたが、
ロシアはユスポフ公爵率いる英雄達の手で解放され、
その内の一人は弟君ドミトリー大公です」
「事の次第は?」
「詳細は不明です。ラスプーチンの死体の発見はまだで、
ドミトリー大公とユスポフ公爵は皇后の命で逮捕されました。
弟殿下の果敢な行為に対して世間では喝采するでしょうから御心配は無用です。
ラスプーチンの滅亡は、ロシアにとって最大の恩恵です」

ラスプーチン暗殺の噂は大本営にも伝えられた。
大本営にいて皇帝を見かけた父は、皇帝が動揺も不安も表に出さず、
それどころか普段よりも機嫌がよく快活そうで、ラスプーチンが
ようやく姿を消してくれた事にホッとしているような感じすらあったという。
皇帝は大本営に詰めていた全員に別れを告げると、
慌しく御召列車に乗り込み宮殿に還御された。

ペトログラードの街はラスプーチン殺害への好奇と興奮に沸き返っていた。
ラスプーチンの死は内政と反体制運動のバランスを一挙に崩し、
世情を攪乱状態に陥れた。ラスプーチン殺害とその連鎖反応を
宮廷がいかに手際良く処理するかに何もかもがかかっていた。
王朝のみならず国家の存立も、宮廷の出方一つに委ねられてた。
すべての目は固唾を飲んで宮廷に向けられた。
ところが、ああ残念にも宮廷の応答は期待を裏切るものだった。
皇帝の帰還も待たずに皇后はドミトリーの逮捕を皇帝直属の将軍に命じ、
ユスポフ公爵もドミトリーと共に連行され宮殿の周囲には監視兵が立てられた。
人民の圧倒的な同情は、捕われた者達の上に集まった。
ドミトリー達の監禁されている宮殿には、
称賛と歓喜の言葉を携えて訪れる見舞客が引きもきらず活況を極めた。

皇后はラスプーチンを亡くして無限の悲しみに憑りつかれていた。
ラスプーチンの亡骸が発見されると、
亡骸は宮殿に運ばれ皇后が自ら選んだ庭園のとある場所に深夜埋葬された。
皇后があまりにも悲しみを大っぴらに顕示するさまに、
人々は彼女がラスプーチンに捧げていた愛情がどれだけ深く、
また他人が口を挟みえないものだったかを思い知らされた。

とにかく異例きわまる事件で、誰がどう裁かれるのか全く予想がつかなかった。
両陛下は誰にも会おうとせず、宮殿に閉じこもったっきり
親族が弟達の処分について口添えしようと訪れても相手にもしなかった。
私はモスクワを発ってキエフにマリア皇太后を訪ねた。
子供の頃から私達姉弟を慈しんでくれた皇太后は、
温かい歓迎の手を差しのべて私の言い分に熱心に耳を傾けてくれたが、
皇太后からの介入に期待するのは無理だと悟った。
母親と息子が絶対に触れ合わない領域はどこの家にも存在するものだ。
親子間の会話にも若い皇后についての話題だけは常に避けて通った。

エラ伯母はラスプーチンの影響が宮廷で顕著になり始めた頃から、
実妹である皇后に彼を信用して頼り切らないようにと口を酸っぱくして忠告してきた。
最初はエラ伯母の言葉を聞き流していただけだった皇后も、
ラスプーチンへの傾倒が深まるにつれて忠言の類すべてに拒絶反応を示すようになった。
ラスプーチンの影響力が家庭の域を超えて政治面にまで及ぶようになると、
エラ伯母はいっそうの危惧を抱いて今度は皇帝に直接諫言したが相手にされなかった。
それまで親しく温かかった姉妹の間柄は次第に冷却するとともに、
皇后はエラ伯母の存在に圧迫感を抱くようになった。
エラ伯母は皇帝と皇后に最後の説得を試みようと、意を決して宮廷へ赴いた。
ところが皇帝は不在で、皇后はよそよそしい態度を露骨にした。
エラ伯母は今にも反乱が勃発しそうなモスクワの窮状を率直に伝え、
早急に何らかの措置を講じなければ取り返しがつかなくなると警告した。
明くる朝伯母が皇后から受け取ったのは、
「ここから引き取るように」という簡単な走り書きだった。
数ヶ月ぶりにエラ伯母を修道院に訪ねた。私は軟禁中の皇帝一族の生活に触れ、
必要があればエラ伯母からの信書を彼らの手元に届けようと申し出た。
エラ伯母の瞳は険しく冷たい光芒を放った。そして口元をきっと一文字に結ぶと、
「手紙は書けない。伝える事がない。
実妹である事には変わりがないが、皇后とは理解し合うのを放棄した」と答えた。

「今夜ペルシャ前線に出征を命じられました。皇帝の副官が私の監視に付き、
旅行中は面会および他人との連絡は一切禁止するとの達しで、
最終目的地の前線も知らされていません」
ドミトリーは動揺を抑え一気に報告した。
ユスポフ公爵には「君はクールスク地方の君の領地に追放だ。
後から警視総監が汽車の出発時刻を知らせてくるそうだ」
ロシアは国を挙げて、
ラスプーチンの暗殺事件とその関係者を宮廷がどう扱うかに注目していた。
暗殺に加わった者達を虐げる事は、
同時に皇后がラスプーチンに抱いていた過度の執着を露呈し、
彼の駆使した威力にまつわる聞くに耐えない噂を証拠づけ、
さらには皇帝のどうしようもない無気力さを改めて世間に公表する事になる。
ドミトリーとユスポフ公爵が流刑に処せられたという第一報は、
驚くべき速さで世間に広まった。

1917年03月13日皇后からの召し出しがあったので、父は宮廷に出向いた。
皇后は厳しい表情で、親族一同が皇帝に理不尽な影響を及ぼそうとしているのは
忠義に欠ける背反行為だと言って頭ごなしに不興を表した。
彼女の態度は以前にも増して頑なで、弾力性のかけらもなかった。
ロシア全土の人民がなべて皇帝の味方であることについては確固たる証拠もあり、
皇族・貴族・国会の代表らは厚顔無恥にもその逆の事を考えているらしいが、
それはまったくの誤解で今にも真実が発言すると言い切った。

03月15日ロシアの玉座を300年ものあいだ占めてきた王朝の継承者が、
畏まっている国会の代表達の前に一枚のタイプ紙を差し出した。
これが彼の絶対君主としての最期の意思表示であり、彼が発した最後の勅令だった。
あの時の私は、
たとえ大落雷と大地震が一時に襲いかかってきたとしても顔色すら変えなかったろう。
ロシアの歴史的滅亡を意味する皇帝の退位はキリストが十字架の死を遂げた時と同様に、
何か特別な自然現象を伴うものだと無意識の内に決めていた。

03月16日の夜明け、革命支部の司令官が皇帝が退位したと報告してきた。
朝になって父が皇后に会いに行くと、
信じがたい事に彼女は皇帝の退位をまだ知らなかった。
この重大ニュースを皇后に伝えるだけの勇気は誰にもなかったらしい。
父がその大任を果たした。彼女は見上げるほどの毅然とした態度でこの不幸を甘受すると、
落ち着いた口調で麻疹にかかった子供達の事を案じクリミアに向けて出発したいと言った。
宮廷人のうち幾人かは逮捕され、幾人かは逃亡し、
幾人かは新政府の不興をこうむるのが嫌さに帝室から離反した。
居残ったわずかな者達が、分厚い絨緞の敷きつめられた大廊下を忍び足で歩いていた。
その脇を泥だらけの軍靴を履いて兵隊帽を横被りし上着のボタンを外しっぱなしにした
酒臭い無精髭の兵士達の集団がガヤガヤと浮き足立って通り過ぎていった。

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by xMUGIx | 2008-01-29 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

★バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ 
1872-1971 99歳没

*18歳で独身時代の皇帝ニコライ2世の愛人となり、
22歳でニコライが結婚するためイトコのセルゲイ・ミハイロヴィチ大公に譲られ、
28歳でセルゲイの従甥アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の愛人ともなり三角関係に、
30歳で子供1人生み、両名とも自分が父親であると主張したがアンドレイが認知、
両名からプロポーズされていたが49歳でアンドレイを選んで結婚、
ロシア革命で亡命後はフランスでバレエの指導者となり、99歳没。

*子供の父親としてアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の父親
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の名前も囁かれた。
しかし、いずれにしても【ロマノフの子】には変わりないという事に落ち着いた。

*マチルダはバレエ一家の生まれ。
父はバレエダンサーのポーランド人フェリクス・クシェシンスキー、
兄も姉もバレエダンサーだった。

*ニコライはマチルダと出会う前にアレクサンドラと結婚すると心に決めていた。
一方でニコライはマチルダに一目惚れして<私のカナリア>と呼んで入れ込んだ。
バレリーナを愛人に持つことがペテルブルクの貴族たちの古い伝統だった。
バレリーナは芸者のような存在でもあり、プリマバレリーナとのロマンスは、
若い皇太子の自伝を飾りこそすれ汚しはしないものだった。

*ニコライはマチルダのために豪華な邸宅を用意した。
マチルダはパリから取り寄せた家具でこの家を飾り、自分の城として愛してやまなかった。
この家はロシア革命でボリシェヴィキに接収され、
レーニンはここのバルコニーから演説した。

*ニコライが結婚して愛人関係は終わるが、
マチルダはその後も何かとニコライに陳情しては権力を利用した。


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バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ

ニコライ皇太子と私はお互いにどんどん惹きつけられてゆき、
私はどんどん自分だけの家が欲しくなっていた。
イギリス大通り18番に素敵な小さな館が見つかった。
リムスキー・コルサコフが所有していたこの館は、コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公が
ダンサーのアンナ・クスネツォーワのために建てられたものだった。
必要な家具は充分備わっており、地下室・1階・2階で構成されていた。
庭は隣のアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公の邸と境界壁で分けられていた。

皇太子とアレクサンドラ公女の婚約が発表された。
この婚約は予期され待たれ避けられない事だったのだが、
私が味わった苦しみは尽きる事がなかった。
皇太子は二人がたくさんの忘れがたい時間をともに過ごした家を私にくださり、
私がこれからも住むよう望まれた。

苦しみ苦悩している間、私は一人ではなかった。
皇太子と一緒に我が家を訪問されて以来
私と深い友情で結ばれていたセルゲイ・ミハイロヴィチ大公が、私を慰め守って下さった。
彼に対しては皇太子に抱いていたような感情は一度も持つ事はなかったが、
その愛情と献身には心を動かされた。
そして最初に示して下さった誠実な友情は、
幸福な時代も革命の苦難の時期や最も耐えがたい時も生涯変わる事がなかった。
ある日散歩の最中に、海際まで続く広大な庭園の中にある素敵な別荘に気がついた。
私が心を惹かれている事を知ったセルゲイ大公が
このヴィラを私の名前で買って下さったので、夏をここで過ごせるようになった。
セルゲイ大公は私を慰め喜ばせるために、
どんな小さな希望でもかなえようと最善を尽くして下さった。
ストレーリナの別荘も私にくださった。私は何もかもを手に入れたが、
その事もセルゲイ大公の友情と愛情も失った幸せの穴を埋めてはくれなかった。

1900年、私の舞台生活10周年記念公演が行われた。
この公演が私のその後の人生を変える事になる。
キリル・ウラジーミロヴィチ大公とボリス・ヴラディーミロヴィチ大公の兄弟が、
私がまだ会った事がなかった下の弟のアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公を
連れていらしたのだ。彼は21歳になる前だった。私より7歳近く年下だった。
この夜、アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公は深い印象を残した。
彼はきわめてハンサムでとても照れ屋でもあったが、
その事は彼の魅力を損なうどころかまるで逆だった。
夕食の最中彼は赤ワインのグラスをひっくり返し、中身が私のドレスに飛び散った。
その瞬間私の心には長い間忘れていた、ただの戯れの恋ではない感情があふれた。
その後アンドレイ大公と私は頻繁に会うようになり、
互いに抱いていた好意はすぐに愛情に変わった。
やがて彼はストレーリナの私の家に会いに来るようになり、
私達はとても楽しい時を過ごした。

1901年秋になりアンドレイと私はイタリアに旅行する事にした。
帰路パリに着くと具合が悪くなり医者を呼んだところ、妊娠1ヶ月だと言われた。
幸せでいっぱいになったが、
ペテルブルクで待ち受けている事を考えなければならなかった。
1902年02月には舞台から降りなければならなかった。
さもないと踊りからも外見からも妊娠を疑われてしまう。
02月15日エルミタージュ劇場でラ・カマルゴを演じ、この舞台でシーズンを終えた。
出産するストレーリナの別荘では部屋とゆりかごと産着の用意が調っていた。
息子はこうして1902年06月17日の夜中に生まれた。
元気になると、セルゲイ大公になんと言い訳をしたらいいかと悩む事になった。
アンドレイと息子への愛と幸せでいっぱいとはいえ、セルゲイ大公に
強いる事になってしまったひどい苦痛と不当な打撃の事を考えずにはいられなかった。
前の冬大公がある若くて可愛らしい大公女に求愛されていた時に、
この牧歌的な日々を終りにしたいと申し出ていただけに私の悩みは深刻だった。
しかしセルゲイ大公の態度は実に感動的で、私を少し安心させてくれた。
彼は自分が赤ん坊の父親でない事を確信しておられたが、
何もかも許して下さったほど私を深く愛しておられた。
そして私が彼の愛情と庇護を必要としていると考え、
何が起ろうと忠実な友人として私を支えると言って下さった。
この言葉に私の気持ちは安らいだが、苦しみが全部消えたわけではなかった。

息子にはアンドレイの父であるウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の
名前をいただいて、ウラジーミルと名付ける事にした
ウラジーミル大公は息子の洗礼式に素晴らしいプラチナの十字架と鎖を贈って下さった。
彼は御自分の名を付ける事に喜んで同意して下さった上に、
しばしば産後の私に会いにいらした。
私はまだ身体が弱っていて長椅子に横になったまま息子を抱いて彼と話をしていた。
彼は私の横に座り、私の頭をなでて力づけながら慰めの言葉をかけて下さった。
1903年の夏ウラジーミル大公はペテルゴーフから我が家まで歩いていらした。
私はまだ1歳でまばらな息子の髪の毛を
どうにか一つの巻き毛にまとめて薄青いリボンを巻いた。
ウラジーミル大公は、「この子の髪は私の頭にそっくりだ!」と叫ばれた。

セルゲイ大公も本当に気高い態度で接して下さった。
今までと同じようにとても親切で、何でも願いを聞き入れ、
いつでも誰よりも見事に私を守って下さった。
彼はウラジーミルを可愛がられ、自分の息子のように見ておられた。

革命直前および革命後に、
砲兵隊が出した注文に対して私が賄賂を受け取ったというような噂が広まった。
第一次世界大戦中の皇后から皇帝への手紙は非常に心が痛んだ。
皇后は私に対する中傷を繰り返しておられるのだ。
私が賄賂と砲兵隊の注文の件で後ろめたい行動を取っていると何回も書かれているのだ。
皇后はどうしてこんな中傷を信じてしまわれたのだろうか。
事実がどうか確かめもせずに、なぜ皇帝にそんな事を伝えてしまわれたのか。
当時こんな中傷がなされているのをまったく知らなかった。
もし知っていれば誹謗中傷ですと皇帝にお伝えしただろうし、
彼も私の言い分を聞いて下さっていただろう。

1914年第一次世界大戦が始まり、アンドレイも9月に出征した。
1917年01月18日にアンドレイは6週間の休暇をもらったので、
カフカス地方のキスロヴォツクへ静養に行った。
しかし2月革命が起こり3月に皇帝が退位、
アンドレイはそのままキスロヴォツクに留まった。
セルゲイ大公は開戦の数日前に関節炎で倒れられ、病状は深刻だった。
ミハイロフカで闘病生活を送っておられる大公の所には何回もお見舞いに行った。
1917年06月、セルゲイ大公がペトログラードに戻られた。
ウラジーミルの誕生日06月18日、
セルゲイ大公と私とウラジーミルはフィンランドに出かけ3,4日過ごした。
セルゲイ大公は暇な時間があればウラジーミルのために使われ、
ウラジーミルの教育にいつも気を配っていらした。

アンドレイの手紙からはキスロヴォツクには革命の波はほとんど及んでおらず、
普通の生活が送れている事がわかった。ずいぶんと苦しんだが、
やはり息子の安全とできるだけ早くアンドレイに会いたいという気持ちが勝って
キスロヴォツクにしばらく滞在する決心をした。
旅立ちと別れの瞬間が来た。セルゲイ大公はニコライ駅まで同行された。
これは一時の別れのはずだったのが、永遠の別れとなってしまった。
すでに一般市民の身なりで長いオーバーを着た彼が、
プラットホームにじっとたたずんで、ゆっくりと動き出した列車を
限りない哀しみをたたえた目で追っていらした姿が忘れられない。
キスロヴォツクへ向かいながら、
アンドレイに会える喜びと、常に危険な状態にあるセルゲイ大公を
ペトログラードに一人残してしまったという二つの感情が私の中でせめぎ合っていた。
またセルゲイ大公とウラジーミルが会えなくなってしまう事についても
申し訳なく思っていた。

姉夫婦もキスロヴォツクに合流し、ボリス・ヴラディーミロヴィチ大公も
親友の石油王レオン・マンタショフと一緒に到着された。
やがてペトログラードに戻ろうと考える事すら無駄だとわかり、
セルゲイ大公に手紙を書いてキスロヴォツクにいらっしゃるように説得しようと考えた。
しかしこの努力は報われなかった。
セルゲイ大公は私の家を取り戻すためにいろいろな手段を講じておられ、
その都度出発を延期された。
また母君の宝石を私の名義で海外に送って保管しようともされた。
さらに彼はまだ残っていた私の家具を倉庫に預けようともなさった。
ボリシェヴィキの最初の法案、
『ブルジョワが所有するすべての銀行口座・貯蓄・財産の没収』を聞き、
私達はたった一日で一文無しになってしまった事を知った。
セルゲイ大公のフィンランド行きに尽力した者もいたが、
他の多くの皇帝御一族と同様に御自分が出国されると皇帝の運命に
深刻な影響を与えるのではないかと考え、ロシアを出ようとはされなかったのだ。

1918年03月までは
ペトログラードに留まっておられるセルゲイ大公と定期的に連絡が取れ、
彼が03月20日に他の親族と一緒に首都を脱出された事がわかった。
その後彼からの手紙は断続的になり滅多に届かなくなったが、セルゲイ大公が
まずヴォトカ次にエカテリンブルクに流刑にされた経緯を知ることはできた。
ウラジーミルの誕生日に向けて06月14日に打たれた電報を受け取り、
彼がアラパエフスクにいらした事がわかった。
この日はセルゲイ大公が悲劇的な死に見舞われる一週間前で、
これが彼からの最後の言葉となった。

10月22日朝7時頃、私達はアナーパで下船した。
第一次世界大戦が終わり、
クリスマスの前にイギリス軍基地司令官のプール将軍がアパーナを訪れた。
プール将軍はマリア大公妃に亡命を勧めるイギリス政府名義の招待状を持参していた。
マリア大公妃はこれを拒否された。
他の方法が一切なくなるまでロシアに残る決意を固めておられた。
翌年1919年03月末、ボリス大公とジーナは私達を残して出国した。
ボリス大公は一緒に亡命するようマリア大公妃を説得しようとされたが、
大公妃は息子の決断にひどく苦しまれ同行を拒まれた。

05月、ついにキスロヴォツクに戻る事が決まった。
キスロヴォツクには平穏な生活が戻っていた。
しかしクリスマス直前、白軍が危機的状況に陥った。
マリア大公妃でさえ、もはやロシアを出る以外の策はないと結論を出された。
1920年02月19日ヴェネツィア行の船が出港した。
この日が我々のロシア最後の日となった。

犠牲者の身の回りの物はすべてクセニア・アレクサンドロヴィナ大公女に渡され、
クセニア大公女はそれを御一族の様々な方に配られた。
私はセルゲイ・ミハイロヴィチ大公が身に着けておられた中央にエメラルドがはめられた
小さな金のメダルと、鎖の端に付けられたじゃがいもの形の小さな金の飾りをいただいた。
メダルには私の写真が入っており、
『08月21日──マーラ──09月25日』と刻まれていた。
またセルゲイ大公がお生まれになった
1869年に鋳造された10コペイカの貨幣も入っていた。
このメダルは何年も前に渡したセルゲイ大公に差し上げた物だった。
じゃがいもの飾りの方は、セルゲイ大公は若い頃に
友人達と『じゃがいも』というサークルを作っておられた。
もはや一切の疑惑は消滅した。
セルゲイ大公はアラパエフスクで殺害されてしまわれたのだった。

アンドレイは結婚への公式な許可を求めて、
当時カンヌに住んでいらした兄君キリル大公に会いに出かけた。
彼は以前からキリル大公御夫妻に私と結婚したいとお話していた。
お二人は私達の結婚に大賛成で、キリル大公は私達の結婚を許可され、
私にクラシンスキーという苗字と女公爵の位を下さった。息子も公爵の位をいただいた。
私達はこうして1921年01月30日、カンヌのロシア正教会で結婚する事になった。
儀式が終わるとすぐにキリル大公とヴィクトリア大公妃を訪問した。
お二人は私達をこの上なく歓迎して下さり、
私に向けて下さった優しさはすぐに互いへの愛情に変った。

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by xMUGIx | 2008-01-28 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

★ラスプーチン グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン
1869-1916 47歳没


■妻 プラスコヴィア・ヒョードロヴナ・ドゥボローヴナ 2歳年上


●ドミトリー
●マリア マトリョーナ
●ヴァーラ ワルワーラ


*暗殺

*もとシベリアのトボリスク県ポクロフスコエ村の農民。
20歳で結婚したが、妻と3人の子供を残して突然出家。
2年の巡礼の間に各地で様々な宗派の人々の思想を吸収する。
その後は各地を旅する合間にポクロフスコエ村に立ち寄るという生活を続けていた。
1902年ペテルブルクに滞在中、ニコライ2世の親類に紹介され熱狂的な支持を得る。
1905年ペテルブルグに定住したラスプーチンは
たちまち評判となり社交界にも出入りし始め、ニコライ2世に紹介される。

*ニコライの日記にはラスプーチンが90回近登場する。

*第一次世界大戦中の1年半の間にアレクサンドラがニコライに送った手紙の中には、
ラスプーチンの名が150回以上登場する。

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アレクサンドラ皇后からラスプーチンへの手紙

熱愛する忘れがたい私の先生、救助者へ。
あなたがそばにいないと私はどんなに苦しいことでしょう。
先生が私のそばいる時だけ、私は安らぎ休息できます。
私はあなたの手にキスをして、私の頭をあなたの聖なる肩にもたれさせたい。
そうすれば私の気持ちはどんなに楽になることでしょう。
私は一つのことを願います。
あなたの肩、あなたの抱擁の中で永遠の眠りにつきたい。
あまたはどこにいるのですか、どこに飛び去ったのですか。
私は苦しく、心はふさいでいます。なるべく早く来て下さい。待ち焦がれています。
あなたの聖なる同意を願い、あなたの聖なる手にキスをします。
永遠にあなたを愛するママより。


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皇后の姉 エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃

ラスプーチンが私生活においては
皇帝の宮殿にいる時とまったく違ったように振る舞っている
という噂が私の元に届いた時、私は妹にその事を警告しました。
しかし妹はこういった噂を信じず、
敬虔な人生を送る人々に常につきまとう中傷とみなしていました。


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皇帝一家の家庭教師 ピエール・ジリャール

彼の予言の言葉は、単に皇后自身の秘められた願いを言明しただけのものだった。
彼女の個人的な願いがラスプーチンを通過する事によって、
彼女の目の前で神の啓示としての力と権威を得たのだ。


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農民時代のラスプーチン 子供たちと
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皇帝一家に囲まれる囲まれるラスプーチン
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皇帝一家とラスプーチン
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★アンナ・ヴィルボヴァ/旧姓アンナ・タネーエヴァ
1884-1964 80歳没

*アンナの父アレクサンドル・タネーエフは、皇帝直属官房長官を務めていた。

*ラスプーチンに負けず劣らずニコライの日記に登場するのが、アンナ・タネーエヴァ。
アンナは1904年にアレクサンドラの女官となり、皇帝夫妻とラスプーチンの仲を取り持っていた。
宮殿にラスプーチンを頻繁に呼ぶのは周囲がうるさいので、
時々は皇帝夫妻はアンナの家を利用してお忍びでラスプーチン会っていた。
1907年に軍人アレクサンダー・ヴィルボフと結婚するが翌年に離婚、
1909年以降もアレクサンドラとアンナの密着は続き、同性愛が疑われるほど
アンナと引き離さなければアレクサンドラの精神状態は治らないと言われるほどになっていた。

*アンナは「別れた夫ヴィルボフは精神病と診断されて治療のためスイスに送られ、
その後一度も会っていない」とロシア革命以降さかんに宣伝したが、
彼は新しい家庭を持ち、領地で平和に暮らし、地元の名士として尊敬された。

*アンナはロシア革命後はちゃっかりと亡命に成功し、
自分に都合良く美化した回想録を出版した。


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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

アンナはペテルブルクによくいるまぬけな良家の子女で、不器量で不格好、
生焼けのビスケットみたいに取り柄がなく、
皇后に一目惚れしてうっとりとした熱いまなざしを投げため息をつくような若い女だった。
丸ぽちゃの赤ら顔に、服装は上から下までひらひらした毛皮に覆われていた。


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ニコライ2世のイトコ マリア・パヴロヴナ大公女 

マダム・ヴィルボヴァは彼女なりに誠実一筋に皇后に仕えていたが、
なにぶん諸事万般に知識が浅かった上、
ラスプーチンに捧げる盲目的な崇拝が仇となって人々の尊敬を集めていなかった。


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ラスプーチンの信者 歌手 アレクサンドラ・ベリング

私はある音楽会でアンナと知り合いました。
彼女は結婚したばかりで幸せそうでした。
彼女の夫は海軍の人で黒髪で丸顔、
妻のかたわらを離れずその目をじっとのぞき込んでいました。
彼女は際限なく笑い転げ、こちらもつられて笑ってしまうほどだったのです。
でも彼女は確かに陽気で声は優しく笑顔も愛らしく善良そうな目をしていましたが、
なんだか心からの気持ちというか
要するに本当に信じてもいいという気持ちを抱かせるものが感じられなかったのです。


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ヴェーラ・レオニードヴナ

アンナは自分の事はほとんど語らず、たまに語っても滑稽な事ばかりでした。
自分の事を茶化す事ができるのは利口な人だけだと言いますけど、彼女は利口でした。
それに彼女は大変な演技者でした。彼女はラスプーチンのすべての政治ゲームに参加し、
大臣達を任命したり追放したり宮廷の複雑きわまる陰謀を操っていたくせに、
自分をまったく無邪気なロシア娘と見せかける術も心得ていたのです。


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アンナとラスプーチン
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左から アレクサンドラ アンナ オリガ
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左から アンナ タチアナ アレクサンドラ オリガ
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アンナとアレクサンドラ
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アンナとアレクサンドラ
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アンナとアレクサンドラ
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アンナとアレクサンドラ
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*アレクサンドラにとって、
ラスプーチンはカウンセラー、アンナはカウンセラーの指示に忠実なナースのような存在で、
この両輪が絶対に必要だったのであろう。
晩年のニコライはもはや息子の健康のためというよりは、
妻の精神の安定のためにこれを黙認していたように感じられる。
ロシア革命後の幽閉先ではラスプーチンもアンナもいないにも関わらず、
アレクサンドラの不定愁訴は消えている。
アレクサンドラにとっては大ロシアの皇室よりも、
幽閉先で夫と子供たちと密接に暮らす家庭の方が彼女の理想に近かったのだろう。


幽閉先でのアレクサンドラ
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幽閉先でのニコライ2世
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by xMUGIx | 2008-01-27 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

皇帝ニコライ2世の子供


●オリガ 未婚
●タチアナ 未婚
●マリア 未婚
●アナスタシア 未婚
●アレクセイ 皇太子 血友病 未婚



*全員ロシア革命で処刑される


*四姉妹は頭文字を取って<OTMA>という共同の名前を使う事もあった。
上2人、下2人がそれぞれ仲が良かった。


*四姉妹はコティの香水を使っていた。
オリガは<ローズ・テ>タチアナは<ジャスミン・ド・コルス>
マリアは<リラ>アナスタシアは<ヴァイオレット>を愛用していた。




●オリガ
1895-1918 23歳没

*髪は金色、目は青色、健康的な肌色に、平均よりやや背が高かった。

*性格は父帝に一番似ていると言われ、家庭的なことよりも読書や勉強の方を好んだ。

*気丈でもあり、16歳で軽騎兵連隊の名誉連隊長となり陸軍の観閲式にも参加した。

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●タチアナ
1897-1918 21歳没

*髪は赤褐色、目は濃い青灰色、細身で背が高かった。

*性格は母妃に一番似ていると言われ、家政を取り仕切ることを好んだ。

*母妃と仲が良く、姉妹達の家庭教師の役割を果たした。

*公式の場ではタチアナの方が姉オリガより立ち勝っていた。
「ひと目見ただけで彼女は皇帝の娘だと誰でもわかる風情があった」と言われた。

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●マリア 
1899-1918 19歳没

*髪は明るい茶色、目は大きく青色、バラ色の頬に、肉づきの良い体型だった。

*姉妹の中で一番美人で性格は庶民的で陽気、
早く結婚して子供をたくさん持ちたいと夢見ていた。

*姉妹の中で弟アレクセイの面倒を一番みた。

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●アナスタシア 
1901-1918 17歳没

*髪は赤味がかった金色、目は明るい青色、背は低くずんぐりしていた。

*勉強は不得意だが、物真似が得意で外国語はすぐマスターした。

*機知に富み生意気で悪戯好きで、
家族がつけたあだ名は<シュヴィブジック>(小さな悪魔)

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●アレクセイ 皇太子 血友病
1904-1918 14歳没


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皇帝一家のフランス語の家庭教師 ピエール・ジリャール 

年の割には背が高く、面長で繊細な顔立ち、銅色の混じったとち色の髪、
母親似の灰色がかった大きな眼をしていた。
この少年は機知に富み、鋭い洞察力を備えていた。
年に似合わぬ質問をして私を驚かせたが、
それは彼が繊細で感受性豊かな事を示していた。

アレクセイは生活を充分楽しみ、病床にない時ははしゃぎ回る子だった。
彼の好みは単純であったが、皇太子であるため、
何でも満足するまで要求できたし、足りないと思う物は何も無かった。
家庭の中では姉達の言う事に従っていたが、
家庭の外では自分の方が姉達より上の人物である事をよく知っていた。

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左から マリア タチアナ アナスタシア オリガ アレクセイ
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左から タチアナ アナスタシア アレクセイ マリア オリガ
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左から オリガ タチアナ アナスタシア マリア 手前は母
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左から オリガ マリア アレクセイ アナスタシア タチアナ
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左から マリア タチアナ アナスタシア オリガ
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左から アナスタシア マリア タチアナ オリガ 父
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左から タチアナ 母方の伯父ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ マリア オリガ
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左から 父 タチアナ オリガ マリア アナスタシア アレクセイ
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左から オリガ マリア タチアナ アナスタシア
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左から アナスタシア オリガ 父 アレクセイ タチアナ マリア
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左から オリガ タチアナ マリア アナスタシア
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左から マリア オリガ アナスタシア タチアナ
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左から アナスタシア オリガ タチアナ 父 マリア
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左から マリア オリガ アナスタシア タチアナ
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オリガ
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タチアナ
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マリア
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アナスタシア
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by xMUGIx | 2008-01-26 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆皇帝ニコライ2世 最後の皇帝
先代アレクサンドル3世の子
1868-1918 26歳即位 50歳没

*乗馬・ダンス・テニスが得意だった。
身長168センチと小柄であったが、晩年までスポーツを楽しむほど体力があった。

*英語はイギリス人に間違われるほど堪能で、妻アレクサンドラとは英語を使っていた。
他にもフランス語とドイツ語が堪能であった。

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ロナルド・ヒングリィ

ニコライ2世はチャーミングで上品で感じの良い風貌をしていたが、
体躯は小さくあまり立派な押し出しではなかった。
専制君主というよりは地方の郷土といった感じで、
犬や子供達と戯れている方が好きだった。


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政治家 パーヴェル・ミリュコーフ

ニコライ2世は、誠実な良き家庭人だった。
しかし彼は、生まれつき極めて意志が弱かった。
皇帝となる心の準備もしたこともなかったし、いざ重責を負った時はそれを嫌がった。
皇帝夫妻は宮廷の作法を嫌がり、従おうとしなかった。
皇帝は閣議の後うんざりするのか、よく屋外に走り出て薪割りをしていた。
それが皇帝のお気に入りの気晴らしだったからである。


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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

思わせぶりや気取り屋をまったく好かない皇帝アレクサンドル3世は、
むろんヴィルヘルム2世と気の合うはずがなかった。
皇帝ニコライ2世も、やはりヴィルヘルム2世を嫌った。
ヴィルヘルム2世がアレクサンドラ皇后に対して、
ロシアの皇后ではなくドイツ領内の小公国の公女に対する態度を取ったからである。
しかしヴィルヘルム2世が人物として
ニコライ2世より立ち勝っているのは誰の目にもはっきりわかる。
見かけにおいてもヴィルヘルム2世の方がはるかに皇帝らしい。
うぬぼれの強いニコライ2世はすっかりひがんでしまった。
ニコライ2世は相手が自分より知識や徳望の上で優れていると思うと、
どうしても我慢がならなかった。
ただ必要な時は仕方なしに我慢したのである。
彼は自分より無能な見聞の狭い人間と話してさえいれば機嫌が良かった。
果てはこの欠点を狙ってわざとそんな風を装う人間も出てきた。


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■妻 アレクサンドラ・フョードロヴナ←ヴィクトリア・アリックス
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世の娘/イギリス女王ヴィクトリアの孫
1872-1918 22歳結婚 46歳没

*人種ドイツ人・心情イギリス人・第一言語英語

*幼い頃に母親が亡くなったため、祖母ヴィクトリア女王に育てられた。
ニッキー(ニコライ2世)とアリックス(アレクサンドラ)の縁談が持ち上がった時、
姑となるマリア皇太后も、その姉であるイギリス皇太子妃アレクサンドラも、
アリッキーの性格ではロシアの皇后は務まらないと反対したが、
長年不仲だったロシアに身内を送り込みたかったヴィクトリア女王は結局承諾してしまう。

*父帝アレクサンドル3世も小国の公女に過ぎないアレクサンドラとの結婚に反対だったが、
病に倒れたため死の半年後やっと結婚を許可する。

*皇太子アレクセイが白血病とわかった頃から心身を病みはじめ、
頭痛・心臓の痛みを訴え、鬱症状もあり、やがては車椅子を使うようになる。
現在で言う心身症であったと思われる。

*母アリスとアレクサンドラには共通点が多い。
ともに異国の嫁ぎ先で病気がちで、宮廷の嫌われ者だったが夫とは深く愛し合っていた。
そしてアリスはドイツの宗教哲学者ダーフィト・シュトラウスを尊敬し神のように崇めた。
精神的なものに傾倒する性格はアレクサンドラに受け継がれた。

*気が強くて頑固、人の意見には警戒的だが自分の考えには自信を持った女性に育つ。
ピアノが上手でロシア語もマスターしたが、フランス語がたどたどしくダンスも下手、
世間話には付き合わなかった。

*藤色が好きで、彼女の部屋は上から下まで藤色だった。
フランスのリヴィエラから毎日届けられるライラック・スミレ・ラン。
毎シーズン、パリで50着のドレスを作らせ、
ロゼ・ブランシュの香水とフランス煙草を愛用した。
皇帝の叔母マリア・パヴロヴナは皇后を【成金趣味】と評した。
皇后は倹約家でもあり、
要らなくなったドレスは貝ボタンをガラスボタンに付け替えてから古着屋に売った。

*アレクサンドラの一日は、朝ゆっくり起きてベーコンエッグと紅茶で朝食。
午前中はそのままベッドで本を読んだり手紙を書く。
昼食前に犬を連れて散歩、食事やワインには興味がなかった。
午後は郵便物を処理してから、馬車か自動車で公園に出かける。
夕食後は音楽を聴いたりピアノを弾いたりして、午後11時に皇帝とお茶を飲んで終わる。

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ニコライ2世の家庭教師だったコンスタンチン・ポベドノースツェフ

彼女はピョートル大帝以上に専制的で、イヴァン雷帝と同じぐらい冷酷である。
その上、自分が並外れた知性の持ち主だと信じている小才だ。


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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

アレクサンドラを子供の時から知っているヘッセン宮廷の侍従は、ロシア大使に
「貴国で彼女をもらってくれてやれやれです」と小声で言った。
彼女は感受性に乏しく利己的な性格で、
私に頭を垂れない者は私の敵である、敵に対して私は専制君主としての権力を行使する、
なぜならば、私はこの世のあるべき姿の象徴だからであるという態度だった。


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セルゲイ・ヴォルコンスキー公爵

アレクサンドラはもともと社交性の無い人だった。生来人嫌いだったようだ。
皇后は社交界が嫌いだったが、社交界の方も彼女を嫌った。
人々は彼女を無視したため、彼女の存在は名のみの影法師のようなものだった。
彼女の方もペテルブルクを、少しもロシアらしくない腐敗した街だと忌み嫌っていた。


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女官 マドレーヌ・ザノッティ

皇后は自分は心臓が悪いのだと思い込んでいて、
一日の大部分を自室のソファーに横になって過ごしていた。
皇后は気の合った人達と一緒の時はいつもとても元気で、
心臓の痛みを訴えた事は一度もなかった。
だが何か気に障る事があると、すぐにこぼし始めた。


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女官エリザヴェータ・エルスベルグの姪 マリア・エルスベルグ

私の父の末の妹エリザヴェータ・エルスベルグは、女学校卒業後女官になりました。
叔母のエリザヴェータの話によると、
皇帝の方が皇后よりも娘達に気を配っていました。
皇后は頭痛で休む事が多かったし、
アレクサンドル市場から古物を買ったり売ったりする事に熱心でした。
女官達は自分の部屋に客を招く事を許されていましたが、皇后は大変なしまり屋でした。
女官達が客をもてなす時は、経費は自分持ちでした。
そのうえみんな勤めている間にお金を貯めておくように注意されていました。
年金がもらえないからです。
それから、女官・召使・給仕は独身でなければなりませんでした。
結婚した場合は、辞めさせられるか別の職場に移されました。


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婚約時代の皇后から皇帝への手紙

*父帝アレクサンドル3世が危篤状態にあった

しっかりなさいませ。
緊急事態発生の折は、侍医をあなたの所に直接来させなさい。
他の人の所へ先に行って、あなたをないがしろにさせてはなりません。
あなたは父上の大切な息子なのですから、
すべてについてあなたの指示を仰ぐようにさせるべきです。
あなた御自身の気骨のある所を示して、
周りの者にあなたの存在を忘れさせてはなりません。
差し出がましい事を言って許してね、坊や。

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●オリガ 未婚
●タチアナ 未婚
●マリア 未婚
●アナスタシア 未婚
●アレクセイ 皇太子 血友病 未婚


*全員ロシア革命で処刑される。
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★ニコライ2世の独身時代の愛人 バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ 
1872-1971 99歳没

*マチルダは18歳で独身時代の皇帝ニコライ2世の愛人となり、
22歳でニコライが結婚したためイトコのセルゲイ・ミハイロヴィチ大公の愛人になり、
28歳でセルゲイの従甥アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の愛人ともなり三角関係に、
30歳で子供1人を生み、両名とも自分が父親であると主張したがアンドレイが認知、
両名からプロポーズされていたが49歳でアンドレイを選んで結婚、
ロシア革命で亡命後はフランスでバレエの指導者となり、99歳没。

*子供の父親としてアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の父親
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の名前も囁かれた。
しかし、いずれにしても【ロマノフの子】であるという事に落ち着いた。

*マチルダはバレエ一家の生まれ。
父はバレエダンサーのポーランド人フェリクス・クシェシンスキー、
兄も姉もバレエダンサーだった。

*ニコライはマチルダのために豪華な邸宅を用意した。
マチルダはパリから取り寄せた家具でこの家を飾り、自分の城として愛してやまなかった。
この家はロシア革命でボリシェヴィキに接収され、レーニンはここのバルコニーから演説した。

*ニコライが結婚して愛人関係は終わるが、
マチルダはその後も何かとニコライに陳情しては権力を利用した。


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ヴェーラ・ユレーネワ

クシェシンスカヤは美しくはなかった。足が短かったのです。
でもその目!招きよせ吸いこむような底なしの深い眼差し。小さな妖精でした。
彼女はイタリア人に学んで、テクニックは見事でした。
ある時32回のフェッテを踊って拍手の嵐が起こると、
可愛らしくもう一度繰り返してみせました。
彼女の事を「おしなべてバレエを愛し、特に生活を愛していた」と言いますが、
反対で、彼女はおしなべて生活を愛し、特にバレエを愛してたんだわ。
彼女は生涯偉大なバレリーナになる事を目指していましたが、
偉大とは認められませんでした。
彼女は客席から愛されない定めだったのです。
そしてその頃です、未来の皇帝から愛されるようになったのは。

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*マチルダと妻アレクサンドラは同い年。
ニコライはマチルダと出会う前にアレクサンドラと結婚すると心に決めていた。
一方でニコライはマチルダに一目惚れして<私のカナリア>と呼んで入れ込んだ。
バレリーナを愛人に持つことがペテルブルクの貴族たちの古い伝統だった。
バレリーナは芸者のような存在でもあり、プリマバレリーナとのロマンスは、
若い皇太子の自伝を飾りこそすれ汚しはしないものだった。


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ヴェーラ・レオニードワナ

裕福な家で男の子が青年になると、美しい、
そしてこれがもっと大切なのですが純潔な娘を小間使いに雇い入れたものです。
あの頃は〔性病など〕危険な時代でしたから、それが普通でしたわ。

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*ニコライがアレクサンドラと初めて会ったのは1884年、
アレクサンドラの姉エリザヴェータと
ニコライの叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の結婚式でだった。
ニコライは16歳、アレクサンドラは12歳だった。


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ニコライ2世の日記 1884年06月08日

セルゲイ叔父の美しい花嫁エリザヴェータと彼女の妹・弟に会った。
家族全員で食事をし、私はアレクサンドラと並んで座った。
私は彼女がすごく気に入った。エリザヴェータはもっといい。

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*1889年02月から03月にかけて、
アレクサンドラがロシアの姉エリザヴェータの元に滞在する。
ニコライは21歳、アレクサンドラは17歳。
一緒に過ごす内に、ニコライ2世はアレクサンドラを将来の妻にと願うようになる。

*一方、1890年春にクシェシンスカヤを見初め愛人関係となる。


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ニコライ2世の日記 1890年 

07月18日
昼食後劇場へ行った。クシェシンスカヤは私の心を強くとらえている。

08月11日
劇場へ行って、窓越しに可愛いクシェシンスカヤと話をした。

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*ニコライ2世は1890年11月04日から1891年08月16日まで東方旅行をした。
1891年05月11日に大津事件に遭遇する。


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ニコライ2世の日記 1891年

08月16日〔東方旅行からの帰国当日〕
帰国後最初の観劇に出かけた。可愛いクシェシンスカヤを見る。
彼女はいっそうきれいになっていた。
クシェシニスカは私の頭を相当狂わせてしまった。

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*アレクサンドラとの結婚は両親の不賛成と、アレクサンドラが
プロテスタントからロシア正教への改宗に難色を示したためなかなか進まなかった。


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ニコライ2世の日記 1892年

01月02日
いつの日かアレクサンドラと結婚することが私の夢である。
私は以前から彼女を愛しており、
彼女がペテルブルクで過ごした1889年以来、彼女への愛はますます強くなっている。

03月22日
演劇学校へ行き、芝居とバレエを観た。
ただ可愛いクシェシンスカヤがいないのが寂しかった。

03月23日
驚くべき晩だった。クシェシンスカヤ姉妹の家に行った。
私は二人と2時間以上一緒に座り、おしゃべりを続けた。
かわいそうに私の可愛い子ちゃんは右目を病んで眼帯をしており、
脚の調子もあまり良くなかった。しかし、喜びは互いに大きかった。

04月13日
私がアレクサンドラを愛するようになってすでに4年目だ。
いつもできることなら彼女と結婚したいと思っている。
アレクサンドラを知った次の年にオリガ〔不明〕にひどく惚れ込んだ。
しかし今は彼女への愛は去った。
そして1890年から可愛いクシェシンスカヤを情熱的に愛している。
同時に私はアレクサンドラについて考える事をやめていない。

04月17日
晩にクシェシンスカヤの家へ復活祭のお祝いをしに出かけた。
2時間彼女と二人だけで陽気に過ごした。

04月26日
クシェシンスカヤの家に行った。彼女は再び一人だった。おしゃべりで時を過ごした。

04月28日
短時間だったが、クシェシンスカヤの家に行って過ごした。
こういうランデブーに満足する。

05月02日
長い間馬車を乗り回すうち、クシェシンスカヤ姉妹に4回会った。
そばを通過する時、尊大に御辞儀をして笑わないように努めた。
夜12時半にクシェシンスカヤの家へ直行。
長時間とどまり非常に充実した時を過ごす。
クシェシンスカヤには私の関心を非常にそそる何ものかがある。
その事に気づき私は幸福だった。前進の時だ。

05月03日
劇場からクシェシンスカヤの家へ出かけ、再び気持ちの良い時を過ごした。
二日間続けて放蕩にふけったわけだ。

05月11日
駅からクシェシンスカヤの家に直行した。彼女の姉はオペラからいったん帰宅したが、
クシェシンスカヤと私の二人だけを残しておやすみなさいと言って去って行った。
以心伝心。

07月18日
可愛いクシェシンスカヤが素晴らしく上手に踊っているのを観て、非常にうれしかった。

07月21日
劇場へ馬車を駆った。一つの興業を観るために23キロも往復するとは。
クシェシンスカヤに会い、午後最高の気分で野営に戻った。

08月04日
野営から帰館、劇場へ稽古を観に行く。
クシェシンスカヤと1時間非常に楽しく過ごした。彼女は私の頭を相当狂わせた。

08月08日
劇場へ行った。
興業が終わってから、別の馬車を使ってクシェシニスカを連れ出した。
馬車を乗り回し、最後に彼女を野営に連れてきた。
誘拐は迅速かつ秘密裏に実行された。非常に幸福な気分だ。

08月17日
クシェシンスカヤをトロイカに乗せて駆け、別れを惜しんだ。

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*1893年の01月から03月にかけての2ヶ月間の日記には、
クシェシンスカヤの名前が27回も登場する。


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ニコライ2世の日記 1893年

02月04日
クシェシンスカヤの家に立ち寄る事に成功した。
彼女と非常に気持ちの良い時を過ごした。最初は4人で、それから2人だけで。 

02月08日
夜の12時にクシェシンスカヤの家に出向き、
朝の4時までよくしゃべり、よく笑い、大騒ぎした。

02月19日
バレエの最終興業を観に飛んで行った。
クシェシンスカヤは『眠れる森の美女』を見事に踊った。

03月04日
クシェシンスカヤ姉妹は二階建ての居心地の良い新居に引越していた。
あれやこれや手を入れる必要がある。またも午前4時まで彼女の所にいつづけた。

03月27日
クシェシンスカヤの家へ行く。
別離は非常に悲しかった。2ヶ月もランデブーを続けた後だから。

11月30日
午前中に昨夜からテーブルの上に横たわっていた封書を開いた。
アレクサンドラからの手紙で、すべてが終わった事に気づいた。
プロテスタントからロシア正教に改宗するのは不可能であり、
この頑固な障害の前に、
私のすべての希望、最良の夢、未来への最大の心からの願いが崩れ去った。
一日中麻酔薬を飲んだように歩き回り、とうてい冷静かつ快活にはなれなかった。

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*1894年アレクサンドラの兄/ヘッセン大公エルンストと
イギリスのアルフレッド王子の娘ヴィクトリア・メリタの結婚式がドイツのコーブルクで行われた。
イギリスからヴィクトリア女王、ドイツから皇帝ヴィルヘルム2世、ロシアからニコライ2世が出席、
アレクサンドラも姉エリザヴェータ・フョードロヴナと共に滞在していた。
この機会にニコライ2世はアレクサンドラにプロポーズするが、
改宗を嫌がるアレクサンドラはイエスと言わなかった。
そこでアレクサンドラの祖母のヴィクトリア女王、いとこのヴィルヘルム2世が説得したため、
アレクサンドラは改宗を受け入れプロポーズに同意した。
ニコライ2世は26歳、アレクサンドラは22歳だった。


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ニコライ2世の日記 1894年

04月17日
神様、今日はなんという日か。部屋にアレクサンドラが到着した。
アレクサンドラはすごく美しかったが、ひどく悲しそうであった。
二人だけにされ、私が久しい間強く望み、同時に強く恐れていた会話が始まった。
12時まで話し合ったが、説得する事ができなかった。
アレクサンドラはやはり改宗に反対で、かわいそうにアレクサンドラはたくさん泣いた。

04月20日
私の生涯における忘れがたい日、見飽きる事のない愛するアレクサンドラと婚約した日だ。
午前10時過ぎにアレクサンドラがやってきて、お互いの意思を確かめ合った。
私達の話が終わるまで、ヴィルヘルム2世は隣の部屋で待っていてくれた。
すぐに二人でヴィクトリア女王を訪問し、それから親戚宅へ戻った。
そこでは家族全員が長時間喜びのキスを交わし合っていた。
神よ、どれほどの山のような重荷が私の肩からずり落ちたことか。
なんという喜びで愛するパパとママを喜ばす事ができるか。
私は婚約者のアレクサンドラと一緒に歩き回り、庭に座っていた。
アレクサンドラが私の婚約者である事が信じられないほどだった。

11月01日
今日はなんという日だろう。神は私達が熱愛しているパパを天国に召された。
頭が混乱している。信じたくない。今まで考えもしなかった恐ろしい事が現実になった。
神よ、このつらい日々に私達を助けたまえ。かわいそうなママ。

11月26日 
今日は私の結婚式だ。みんなでコーヒーを飲んでから着替えに行った。
孔雀の間でアレクサンドラが化粧をしている間、私達全員はアラビアの間で待っていた。
12時10分に教会への入場が始まった。そしてそこから既婚者として帰ってきた。
ママは私達の部屋で、パンと塩を持って待っていた。

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by xMUGIx | 2008-01-25 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

皇帝アレクサンドル3世の子供


●ニコライ2世
次代皇帝
●ゲオルギー 
未婚・病死
●クセニア 
ロシア大公アレクサンドル・ミハイロヴィチと結婚
●ミハイル 
バツ2のナターリヤ・セルゲーヴナ・ヴリフェルトと貴賤結婚
●オリガ 
アレクサンドル・オリデンブルクスキー公爵と結婚離婚、
軍人ニコライ・クリコフスキーと貴賤再婚


左から ミハイル ゲオルギー 母妃マリア 手前はオリガ
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左から ミハイル 母妃マリア クセニア 後ろはオリガ
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左から オリガ ミハイル クセニア
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●ニコライ2世 次代皇帝

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●ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公 未婚・病死
1871-1899 28歳没

*利発で社交的、ユーモアのセンスに優れていた。結核で死亡。
兄ニコライ2世はゲオルギーの言ったジョークを書き残しており、
時々一人でメモを取り出しては眺めて笑っていたという。

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●クセニア・アレクサンドロヴナ大公女●子供7人 
1875-1960 85歳没
ロシア大公アレクサンドル・ミハイロヴィチと結婚
1866-1933 94歳没

*幼馴染の二人は新婚時代から夫婦円満であったが、
末っ子が生まれる頃には夫婦仲は冷え切り、互いに愛人を持つようになる。

*ロシア革命により亡命した後は妻はイギリスで夫はフランスで暮らし、各自その地で亡くなる。

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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

皇帝アレクサンドル3世は、
叔父アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公を非常に敬愛されていた。
しかし大公の子供達に対しては、あまり良い感情は持っていなかった。
皇帝の目には
自分の皇女の夫としてはアレクサンドル大公はふさわしくない者に映ったのであろう。

ある時皇帝はアレクサンドル大公と一緒にフィンランド沿岸を遊航した事があった。
巡遊中何かの原因で皇帝の使用していた風呂が壊れた。
そこでアレクサンドル大公は自分の持っていたペルシャゴム製の風呂を皇帝に提供した。
皇帝はよほど気に入ったものとみえ、非常にこれを称賛された。
そこでアレクサンドル大公はこう言った。
「皇帝陛下は、とうとう僕にも一つぐらい良いものあると発見したよ」
事実これは皇帝がアレクサンドル大公に対して初めて与えた称賛の言葉であった。
皇帝はアレクサンドル大公の事といえば何でもかんでも片っ端から批評し、
気に入った事は一つも無かったのであった。

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●ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公●子供1人 
1878-1918 40歳没

*ロシア革命で処刑

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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公は才智や教養の点では皇帝ニコライ2世に劣っていたが、
その性格は父帝アレクサンドル3世にそっくりであった。

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★元恋人ベアトリス・オブ・エディンバラ イギリス王子/エディンバラ公爵アルフレッドの娘
1884-1966 82歳没

*相思相愛となるが、イトコであることを理由に結婚を認められなかった。
(皇帝の許可があればOK)
ベアトリスはスペイン王族ガリエラ公アルフォンソと結婚する。


★元恋人アレクサンドラ・コシコフスカヤ 妹オリガの女官
1875-1923 48歳没

*貴賤結婚となるため結婚を認められなかった。


■妻 バツ2のナターリヤ・ブラソヴァと貴賤結婚
1880-1952 72歳没

*ナターリアは、22歳で音楽家セルゲイ・マモントフと結婚して子供1人、
25歳で離婚して愛人の軍人ウラジーミル・ヴルフェルトと再婚、
ミハイルと不倫関係になり子供1人、32歳で離婚してミハイルと再々婚、
38歳でミハイルと死別して亡命、72歳没。

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左から 後夫ミハイル ナターリア 前夫ウラジーミル
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●オリガ・アレクサンドロヴナ大公女●子供2人 
1882-1960 
19歳で結婚、34歳で離婚して愛人と再婚、子供2人、78歳没

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オリガのイトコ マリア・パヴロヴナ大公女 

細身でしなやかな肢体をした陽気なオリガは運動神経が抜群で、
子供のように気取らない率直さと鷹揚な心を兼ね備えていた。
彼女は素朴な人間達の間にいるのを好んだ。

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■前夫 ピョートル・オリデンブルクスキー公爵 離婚 夫33歳&妻19歳で結婚
1868-1924 56歳没

*オリガの母マリア皇后とピョートルの母エヴゲニヤ・マクシミリアノヴナ公爵夫人が
親友だった事から結婚が決まったが、ピョートルは同性愛者であった。
ギャンブル中毒で多額の借金を抱えていたことからオリガとの結婚に踏み切ったと言われる。

*ロシア革命で亡命した後、未亡人オリガ・ラトコヴァ=ログノヴァと再婚。

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■後夫 軍人ニコライ・クリコフスキーと貴賤再婚 夫35歳&妻34歳で再婚
1881-1958 77歳没

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by xMUGIx | 2008-01-24 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆皇帝アレクサンドル3世
先代アレクサンドル2世の子
1845-1894 49歳没

*身長190センチで堂々とした体格だったが、頭の働きはあまり良くなかったようで、
父親は彼に【去勢された牛】というあだ名をつけて呼んでいた。

*友人と酒を酌み交す事が何よりも楽しみで、晩年医師に飲酒を禁じられると、
皇后に見つからないように長靴に携帯用の酒瓶を隠して飲み続けていた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ドイツ人外交官 H・フォン・サムソン=ヒメルシュティールナ

皇帝は背が高く、堂々とした体格で、広い額を持っていた。
その外見から、彼には力強さと弱さ、傲岸さと内気さが同居していること、
彼が常に自分自身の事について思い悩む精神の持ち主である事がうかがえた。
彼が皇太子の頃は社交的でないというだけで済んでいたが、
皇帝になった後の特に最後の数年間非常に孤立してしまった事もうなずける。

皇帝は生来感じやすい性格で、絶えず矛盾に陥っているように見受けられる。
尊大な専制君主となるべく苦心を重ねているが、いまだに成功していない。
遠慮がちな性格は持って生まれた内気さのせいであり、自信に欠けているせいでもある。
皇帝は他の人間の意見にはほとんど耳を貸さない。
それは自分の意見があるからではなく、
他人から影響を受けない存在になろうと考えているからである。
依頼心を持つ事よりも、依頼心が強いと見られる事の方を恐れているからである。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

私は二代の皇帝に近侍する光栄を持った。
アレクサンドル3世は才能・教養ともに平凡以上ではなかった。
ニコライ2世は才能においても教養においても父帝に優っていた。
しかしアレクサンドル3世はなんとなく重々しい人であった。
彼は美男子でもなく態度も別段立派なところもなく、早く言えば【熊】じみていた。
身長は高く一見丈夫らしくはあったが、
筋骨たくましいと言うでなくただ肥大なだけであった。
しかし彼が群衆の中に現れれば、
それを皇帝と知らぬ者までこれを仰視して敬愛の念を起さないではいられなかった。
彼の特徴は実に重厚なる態度であった。平淡なる温顔であった。

アレクサンドル3世は才能においてまったく平凡であった。
その才能や教養については十人並以下であったかもしれない。
外貌はロシアの大柄な農夫に似ていて、
もし似合いの服装を求むるならば農夫等の短外套とか袖無し上着等が最も相応するかと思われた。
しかしいかなる服装をしていようとも、
そこにいる者は何人でも思わず低頭したであろうほどの偉大な風格を備えていたのである。

アレクサンドル3世はどんな場合でも死を恐れなかった。
しかし皇帝がただ一つ非常に恐れるものがあった。
それは乗馬が下手だったので、馬を恐れる事だった。
マリア皇后は騎乗が上手で少しも馬を恐れなかったが、皇帝はまるで反対だった。
皇帝は晩年に非常に肥満してきた。それで主馬寮では
皇帝が安心して乗れる馬を見つけるのにずいぶん骨が折れたそうである。
主馬寮を管轄していたフレデリック男爵が私に話した事があった。
「皇帝が馬を怖がるのには僕も閉口するよ。
皇帝が安心して乗るような馬を見つけるのが一仕事だし、
その新しい馬に乗る事を皇帝に納得させるのはさらに難しいのだから」


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■妻 マリア・フョードロヴナ←マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー 愛称ミニー
デンマーク王クリスチャン9世の娘/姉はイギリス王妃アレクサンドラ
1847-1928 81歳没

*マリアは最初ニコライ皇太子の婚約者であったが、ニコライが結婚前に亡くなったため、
その弟アレクサンドル3世と結婚した。

*マリアは美人で有名で多くの縁談が寄せられた。
健康で快活で社交的で、たちまちロシア宮廷の人気者となった。夫婦仲も良好だった。

*しかし子供達に対しては、頭から抑えつけようとする強い母親だった。
特に三男のミハイルは溺愛したが、長男のニコライ2世には女々しいと批判的だった。

*ロシア革命が起きると姉イギリス王妃アレクサンドラが妹一家の救出に奔走し、
息子ジョージ5世が戦艦を差し向けてマリアを救い出した。
マリアは祖国デンマークに戻った。

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姉イギリス王妃アレクサンドラと
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●ニコライ2世
次代皇帝
●ゲオルギー 
未婚・病死
●クセニア 
ロシア大公アレクサンドル・ミハイロヴィチと結婚
●ミハイル 
バツ2のナターリヤ・セルゲーヴナ・ヴリフェルトと貴賤結婚
●オリガ 
アレクサンドル・オリデンブルクスキー公爵と結婚離婚、
軍人ニコライ・クリコフスキーと貴賤再婚
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by xMUGIx | 2008-01-23 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

皇帝アレクサンドル2世の子供


●前妻の子 ニコライ 
皇太子 未婚・病死
●前妻の子 アレクサンドル3世 
次代皇帝
●前妻の子 ウラジーミル 
メクレンブルク=シュヴェリーン大公女マリア・パヴロヴナと結婚
●前妻の子 アレクセイ 
アレクサンドラ・ズコーヴスカヤと貴賤結婚・離婚  
●前妻の子 マリア 
イギリス王子/ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレッドと結婚
●前妻の子 セルゲイ 
ヘッセン大公女エリザヴェータ・フョードロヴナと結婚
●前妻の子 パーヴェル 
ギリシャ王女アレクサンドラ・ゲオルギエヴナと結婚死別、
バツイチのオリガ・カルノヴナと貴賤再婚
●後妻の子 ゲオルギー 
ザルケナウ伯爵夫人アレクサンドラと結婚・離婚
●後妻の子 オリガ 
ゲオルク・ニコラウス・フォン・メレンベルク伯爵の前妻・本人死別
●後妻の子 エカチェリーナ 
アレクサンドル・バリャティンスキー公爵と結婚死別、
セルゲイ・オボレンスキー公爵と再婚離婚




●ニコライ 皇太子 未婚・病死
1843-1865 22歳没
デンマーク王女ダウマーと婚約・結婚前に本人死亡

*ダウマーは、ニコライの弟・皇帝アレクサンドル3世と結婚する。

婚約者ダウマーと
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●アレクサンドル3世 次代皇帝

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●ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公●子供4人 
1847-1909 62歳没
マリア・パヴロヴナと結婚←メクレンブルク=シュヴェリーン大公女マリー・アレクサンドリーネ
1854-1920 66歳没

*夫婦そろって長男の急逝により二男のアレクサンドル3世が皇帝になれたように、
三男のウラジーミルにもチャンスが回ってくる可能性を夢見て、
アレクサンドル3世夫妻を目の敵にした。
皇帝ニコライ2世の時代には、息子キリルに皇帝のチャンスが回ってくる可能性を夢見て、
ニコライ2世夫婦を目の敵にした。


*ウラジーミルは、近衛部隊の司令官・狩猟家・美食家・芸術のパトロン


*社交好きで社交界の中心になることが好きなマリア・パヴロヴナは、
兄嫁の皇后マリーヤ・フョードロヴナに対抗して自分の宮殿に社交界を作り上げた。

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ウラジーミルの姪/パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の娘 マリア・パヴロヴナ大公女  
スウェーデン王子ヴィルヘルムと結婚離婚

頭脳明晰で活発なうえ進取の気性に富むマリア大公妃は、
その自主性と舌鋒を敬遠され宮廷では受けが悪かった。
しかし伯母は人をもてなす事にかけては当世一だったので、
土地のエリート階層だけでなく
外交官や外国人までがその知性と人柄に魅了されて集まってきた。

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●アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公●子供1人 
1850-1908 58歳没

*海軍元帥だったが、「女には速く軍艦は遅い」と言われた浮気性、美食家。

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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公は
マリア・フョードロヴナ皇后の大のお気に入りである。
夫の兄弟の内ただ一人の独身者で、マリア皇后の非常な寵愛を受けていた。
アレクセイ大公自身は尊敬すべき高潔な人物であったが、
同時に国務の上ではあまり重要な人物ではなかった。

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公は、
皇帝アレクサンドル3世の愛弟であった関係上非常に大きな勢力を持っていた。
アレクセイ大公は相当の才幹はあったが、国家的政策について確固たる理想を持っていなかった。
また国家的仕事より、むしろ個人としての生活に留意する所が多かった。
彼はまた独身という欠点があった。それで彼と同棲している婦人に動かされる場合が多かった。


アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公がパリで客死した。
非常に善良で誰にも悪い事はせぬ、要するに典型的な大公であった。
会って非常に気持ちのいい人物であったため、大公を知る者はみな彼の死を悲しんだ。
彼の風采もまたいかにも大公らしい品格を備えていた。
しかし、政治の面ではまったく弱い人間であった。

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■アレクサンドラ・ズコーヴスカヤと貴賤結婚・離婚●子供1人  
1842-1899 57歳没

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★愛人ジナイーダ・スコベレワ イトコのロイヒテンベルク公エヴゲーニーの後妻・人妻
1856-1899 43歳没

*ジナイーダの夫は社交界の花であった妻の不倫を黙認した。
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アレクセイとジナイーダ
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●マリア・アレクサンドロヴナ大公女●子供5人 
1853-1920 67歳没
イギリス王子/ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレッドと結婚
1844-1900 56歳没

*マリアはイギリス王室にもイギリス国民にも嫌われた。本人もイギリス嫌いだった。
まず、ヨーロッパにおいては皇帝は国王より格上となる。
そのため女王の息子アルフレッドより皇帝の娘マリアの方が格上となるため、
結婚式はロシアで挙げざるを得なかった。(これは仕方なし)
さらに、称号として<妃殿下>ではなく、
今まで通り<皇女殿下>を使うことと<皇太子妃>より上位に置くことを要求した。
そこで姑ヴィクトリア女王が激怒し、イギリスでは<皇女殿下>の称号を使わせなかった。
しかしマリアは、その後もデンマーク<王女>である皇太子妃アレクサンドラが、
ロシア<皇女>である自分より上位に立つことに嫌悪感を表し続けた。

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セルゲイの姪/パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の娘 マリア・パヴロヴナ大公女  
スウェーデン王子ヴィルヘルムと結婚離婚

伯母は無愛想なところが災いして人によっては煙たがられたが、
実際にはいきいきとした多少皮肉の混じったユーモアのセンスの富む女性だった。
そのうえ自分の意見を内に秘めておけない、思いついたままを率直に口に出す、
私達の周囲では期初価値のある存在であった。
私達姉弟は彼女のもったいぶった仰々しさに日頃はからかい半分で接していたが、
心の底では深く尊敬していた。
伯母はいつになっても完成しない編物を膝にして肘掛椅子に落ち着くと、
周囲で何かと気ぜわしそうに画策する者達を大きなメガネ越しに観察しては
事の次第を的確にそして子細に見抜き、やんわりと冷やかした後で最後の審判を下した。

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●セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公●実子ナシ 
1857-1905 48歳没
エリザヴェータ・フョードロヴナと結婚←ヘッセン大公女エリーザベト
イギリス女王ヴィクトリアの孫/愛称エラ/妹はロシア皇后アレクサンドラ
1864-1918 54歳没

*セルゲイは同性愛者。厳格で気難しく非社交的、文学や芸術を好んだ。

*猛烈な反動主義者で、のちに暗殺される。

*エリザヴェータは美人として有名で、多くの縁談が寄せられた。
厳格で内向的で非社交的。

*夫の死後、修道院を作り修道女となる。ロシア革命で処刑。

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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公は利己的な人間であり、
皇帝ニコライ2世の叔父であるばかりか皇后の姉君の夫であるという縁故から、
皇帝の統治の初めからセルゲイ大公がモスクワ総督として暗殺者の凶手に倒れるまで、
常に皇帝の意を左右する力を持った人であった。
彼は極端な保守主義者で非常に偏狭な人で、ひどい反ユダヤ人主義者だった。


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ロシア駐在フランス大使 モリス・パレオログ

エリザヴェータ・フョードロヴナとパリで食事をともにした時の事が忘れられない。
1891年頃であったと思う。あの時の彼女の姿が今でも目に見えるようだ。
すらりとした背の高さ、身に備わった威厳、深みのある明るいナイーブな眼差し、
やさしい口元、頬のやわらかい線、まっすぐの薄い鼻筋、
うっとりするようなリズミカルな動作。その話には素晴らしい女性の知性、
わざとらしさのない真面目な隠された善良さに満ちあふれた知性がうかがわれた。


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セルゲイの姪/パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の娘 マリア・パヴロヴナ大公女  
スウェーデン王子ヴィルヘルムと結婚離婚

伯父は怒りがこうじて不機嫌になると口元が一本の縮れた線状になり、
細まった目は鋭い光線を放つ二個の点に変じた。
周囲が伯父の事を冷淡で柔軟性が欠けると言うのにも一理あったが、
私達姉弟には母にも似た優しい愛情を注いでくれた。
が、それと同時に家中の全員に要求したのと同じ服従を私達にも期待した。
伯父は家中のこと農場のこと事業のこと家族の個人的な些末な事に至るまで取りしきり、
どんな些細な事にも反発や反抗を許さなかった。
そんな彼に真の愛情を抱く者は周囲でも少なく、
近親者からですら畏怖されると共に敬遠されていた。

伯母はいまだかつてあれだけきれいな人に出会ったことがない、
と断言できるほどの絶世の美女だった。
清純で典雅な目鼻立ちの印象的なスラッとした長身の金髪美人で、
田舎に滞在中でも身仕舞に長い手間暇をかけお洒落に熱中した。
日光が肌に触れるのを極力嫌い、戸外に出る時は常に網目になった絹のベールを被り、
絹地のパラソルを片時も手放さなかった。
着る物はほとんど自らデザインして、形が決まると水彩絵具で色をつけ、
それを参考に丁寧な仕立をさせ、縫い上がると実に上手く上品に着こなしたものだった。
無類の宝石好きだった伯父から膨大な宝石類を贈られていた伯母は、
衣装の一着一着に合わせて宝飾品を選べるだけの宝石持ちでもあった。

伯父夫婦は子宝に恵まれなかった。
二人の関係は、伯父が大小にかかわらず家中の万端に采配をふるい、
伯母がそれに穏和に追従するという、
私の目から見れば一種独特のいわば不自然ともいえる愛情の上に築かれていた。
二人そろって自尊心が強く、内気で、本音をめったに吐かず、相手を充分に信頼していなかった。

伯父は妻をいつも小児のように扱った。
伯母は夫から遠ざかり、孤独の殻に閉じこもる方を選んだ。
夫婦の間柄は親密と言うにはほど遠かった。
食卓に一緒に並んで座るだけで、二人だけになるのを互いに忌避しあって終日過ごした。
ところが大きなダブルベッドに並んで休む習慣だけは、年老いても変わらなかった。

結婚後ロシア正教に改宗した伯母は、歳月を追うごと信教に著しく傾斜していった。
伯父もロシア正教の教義を几帳面に守る方だったが、
妻があまりにも霊的生活にのめり込むのを懸念して、
とうとうその態度が中庸を欠いていると意見するようになった。

毎朝の食前、私達は伯父のお供をして農場を巡回した。
散歩の後には、バルコニーでコーヒーを飲むのが日課だった。
伯母は1時間あまりの一人の散歩を楽しんでから合流した。
伯父は新聞に目を通し、
伯母はイギリスやフランスから取り寄せたグラビア雑誌やスタイルブックに熱中した。
気に入ったデザインを見つけると、衣装計画の参考に切り抜いてアルバムに貼った。
朝食後は勉強が11時まで続いた。解放されると私と弟は木陰や水辺を求めて遊んだ。
遊び終ると、昼食に間に合うよう飛んで帰った。
伯父は時間に厳格で、1分でも遅刻すると小言とおしおきが容赦なく待ち受けていた。
午餐会には最低15人から20人の招待客があるのが常で、
私達姉弟にとっては一日中で一番苦手な時間だった。
伯父は私達が招待客と交わす会話に注意深く耳を傾けた。
話題が提供できないと、後で厳しい叱責と罰を受けた。
食事の後は、食堂に続くテラスでコーヒーを飲んだ。
コーヒーが済むと、伯父は昼寝をするため自室に引きあげた。
伯父は昼寝に向かう直前、伯母には一言の相談もなしに午後からの日程を勝手に決め、
その次第を指示してから部屋に引きこもった。そして肘掛椅子に上半身を傾け、
椅子を汚さないように新聞紙を広げた上にブーツのままの両足を投げ出して目を閉じた。
時たま何らかの理由で伯父の言い付けが実現不可能になると伯母がやむなく変更したが、
それが伯父に知れると立腹ときつい小言が待ち構えていた。
伯母は庭園に降りて行きお気に入りの片隅に陣取ると、
絵筆を握るか朗読をさせ耳を傾けながら女官達と刺繍針を動かしていた。
伯父の昼寝中屋敷はしんと静まりかえり、
午後も遅くなってから生活は再び軌道に乗って作動し始める。
伯母が晩餐のために身支度を整えるのは、儀式にも似てたいそう時間が要った。
女中・衣装係を含む全員が集合させられる。
バスケットの中にはレースの縁飾りのついた下着類が用意され、
洗面器にはバーベナで香りをつけた温水が張られ、浴槽には薔薇の花びらが浮かされる。
女中達が伯母の着ている午後の服を脱がせ終わると、彼女は一人で化粧部屋に閉じこもる。
小間使達は総動員で多種多様な複雑な洋品類を分類して、身につける順番に並べ待機する。
伯母は湯浴みを済ませると、コルセットのままの姿で扉を開ける。
女中達はめいめい担当する洋品類を捧げつつ進み出て、割り当てられている作業に打ち込む。
その合間に伯母は、あらゆる角度からくまなく全身を眺められるように調節された
等身大の三面鏡に自分の姿を映し入念な点検を行う。
最後の仕上げは必ず自らの手でした。
着てしまった衣装が気に入らないと女中に命じて脱がせ、別の物を運ばせた。
そしてまた最初から細心の注意を払って、一枚また一枚と身体に重ねていった。
結髪係が髪型を整え終ると、次に伯母は爪を手入れするのに自ら専念した。
それも終わると、総仕上げでもある私の出番になる。
私は宝石店のショーケースそっくりの宝石タンスの扉を開き、
指定された宝石の数々を運んでくる。
すると毎晩判で押したように規則正しく扉がノックされ、
晩餐の支度が整ったと告げる伯父が姿を見せる。
二人は私に接吻すると、食堂に向かった。
早めに夕食を済ませている私とドミトリーは、そのまま寝室に放り込まれる。

伯父は総督公邸への道すがら、爆弾を仕掛けられて爆死した。
肩先にマントを投げかけただけの伯母は、帽子も被っていなかった。
橇は全速力で滑走し始め、広場の死角に消え去った。
動転した伯母が向かった先は、雪上に散乱した伯父の遺体の元だったのだ。
伯母はあたり一面に吹き飛んだ肉塊を両手でかき寄せると、
近くにあった粗末な軍用担架に乗せた。
幾人かの兵士が軍服の上着を脱いで亡骸を蔽い担架を担ぎ上げると、
宮殿に隣接したキリスト奇跡僧院に運んだ上で聖堂に安置した。

野次馬の目から伯母を守ろうと、袖を引くようにして廊下に連れ出した。
その時はじめて伯母の明るい青色のドレスの右袖が、鮮血に染まっているのに気づいた。
爪にまでどす黒い血がこびりついた血まみれの手は、
伯父が肌身離さず付けていたメダイを固く握りしめていた。
私と弟が部屋に連れ帰ると伯母はそのまま肘掛椅子に倒れ込み、
一滴の涙も浮かべずに生気のない異様な目つきで宙を凝視するだけで一言も発しなかった。
しばらくして立ち上がった伯母は便箋を持ってこさせると、
皇帝をはじめ親族全員に伯父の死を通知する電報文をしたため始めたが、
その間も表情は変化しなかった。

伯母は沈痛の日々を周囲の者達が理解に苦しむぐらい雄々しい態度で受けとめていたが、
その精神力がどこから生まれてくるかは私も見当がつかなかった。
伯母が受け身の人生に長らく甘んじてきた事を思うと、
彼女は打って変って精力的に動き回り、
不愉快な事件の事後処理を細かい所までテキパキと指示していた。
物事に没頭する性質の伯母は、
一身を賭して宗教に傾倒する事で心の平安を見出そうとしていた。
喪中を理由に社交界から遠ざかり、霊的な面でも実際的な面でも、
自分の任務と心得た事だけを忠実かつ完璧に遂行するのに一心不乱だった。
私の目から見た伯母は人生から逃避していた。

私達に接する態度は今までと一変して、初めて魂の触れ合いを求めてきた。
伯母との間柄は親密になり、
私達はかつてとは打って変わって内面的な対話に長時間を過ごすようになっていた。
それでも私は伯母の前に出ると、
全身がカチカチになるほど緊張する癖がどうしても抜けなかった。
お前達はいつまでも幼い子供でいなさいと伯父から幾度となく言い聞かされたものだ。
伯母も同じ主義信条を持っていたので、
身内の相談事や政治問題について私達に語りかける事はなかった。
何か事件があっても、私達はいつも一番最後に知らされた。
私のしつけについては、伯母自身の受けたしつけをそっくりそのまま倣わせたいと思っていた。
世代の相違などありえないことで、またあってはならないと頭から信じ込んでいた。
15歳になるかならないうちに、
私の髪型は伯母の娘時代のオーストリア皇女をまねて結い上げられる事になった。

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●パーヴェル・アレクサンドロヴィチ●前妻に子供2人・後妻に子供3人 
1860-1919 59歳没

*貴賤再婚をして国外追放となる。後に赦されて帰国、ロシア革命で処刑。

■前妻 アレクサンドラ・ゲオルギエヴナと結婚・死別←ギリシャ王女アレクサンドラ
1870-1891 21歳没●子供2人

*ロシア皇室とギリシャ王室は交流があったため、二人は幼馴染だった。

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■後妻 オリガ・カルノヴィチと不倫ののち貴賤再婚●子供3人
1865-1929 64歳没 

*19歳でスウェーデン貴族エリック・フォン・ピストルコルスと結婚して子供3人、
28歳でパーヴェルと不倫して前夫と離婚、37歳でパーヴェルと再婚して子供3人、
54歳で死別、64歳没。

オリガと前夫
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●ゲオルギー●子供1人 
1872-1913 41歳没
ザルケナウ伯爵夫人アレクサンドラと結婚・離婚
1883-1957 74歳没

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●オリガ●子供2人 
1872-1913 41歳没
ゲオルク・ニコラウス・フォン・メレンベルク伯爵の前妻・本人死別
1871-1948 77歳没

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●エカチェリーナ●前夫に子供2人 
1878-1959 81歳没

*23歳で結婚して子供2人、32歳で死別、38歳で再婚、44歳で離婚、歌手となり、81歳没。

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■前夫 アレクサンドル・バリャティンスキー公爵と結婚・死別
1870-1910 40歳没

■後夫 セルゲイ・オボレンスキー公爵と再婚・離婚
1890-1978 88歳没
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by xMUGIx | 2008-01-22 00:00 | ロシア


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