直球感想文 洋館

2017年 更新中
by xMUGIx
カテゴリ
御貴族様
イギリス
イタリア
オーストリア
オランダ
ギリシャ
ザクセン
スウェーデン
スペイン
デンマーク
ノルウェー
バイエルン
フランス
ブルガリア
プロイセン
ベルギー
ポルトガル
ルーマニア
ロシア
朝鮮
中国
以前の記事

<   2001年 02月 ( 16 )   > この月の画像一覧

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆皇帝フランツ2世
先代レオポルト2世の子
1768-1835 24歳即位 67歳没


*性格は、頑迷・狭量・狷介。

*先代レオポルト2世の息子たちはいずれもが異才を発揮し独自の道を歩んでいった。
しかしその息子たちの中で一番凡庸なフランツ2世が次の皇帝となった。
彼が長男なのだから仕方がない。

*彼は革命が大嫌いで(まあ好きな王様はいないと思うが)、徹底した検閲制度をしいた。
優秀な検閲官のおかげで禁書リストは膨大なものとなった。
その膨大さゆえに精緻な読書案内ともなっている。
皮肉にもこの禁書リストそのものが隠れたベストセラーになった。
a0130272_1423160.jpg



フランツ2世は4回結婚した。


■最初の妻 エリーザベト・フォン・ヴュルテンベルク 死別
ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世オイゲンの娘
1767-1790 21歳結婚 23歳没●実子ナシ
a0130272_142321.jpg

a0130272_1423336.jpg



■2番目の妻 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン←マリーア・テレーザ 死別
両シチリア王フェルディナンド1世の娘 イトコ結婚 
1772-1807 18歳結婚 35歳没
a0130272_1423384.jpg

a0130272_1423459.jpg



■3番目の妻 マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステ 死別 19歳年下
オーストリア=エステ大公フェルディナントの娘 イトコ結婚
1787-1816 21歳結婚 29歳没●実子ナシ
a0130272_1423495.jpg

a0130272_1423595.jpg



■4番目の妻 カロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルン 24歳年下
バイエルン国王マクシミリアン1世の娘
1792-1873 81歳没●実子ナシ
16歳でヴュルテンベルク王太子ヴィルヘルムと結婚離婚・24歳でフランツ2世と再婚
a0130272_1423630.jpg

a0130272_142372.jpg



すべて2番目の妻の子
●マリア・ルドヴィカ 
フランス皇帝ナポレオン1世の後妻
●フェルディナント1世 次代皇帝
●マリア・レオポルディーネ 
ブラジル皇帝ペドロ1世の前妻・本人死別
●マリア・クレメンティーネ 
サレルノ公レオポルドと結婚
●マリア・カロリーネ 
ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世の前妻・本人死別
●フランツ・カール・ヨーゼフ→子はフランツ・ヨーゼフ1世
バイエルン王女ゾフィーと結婚
[PR]
by xMUGIx | 2001-02-06 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

皇帝レオポルト2世の子供


●マリア・テレジア 
ザクセン国王アントンの後妻
●フランツ2世 次代皇帝
●フェルディナント 
両シチリア王女ルイーザ・マリアと結婚
●カール 
ナッサウ=ヴァイルブルク侯女ヘンリエッテ・アレクサンドリーネと結婚
●ヨーゼフ・アントン
ロシア皇女アレクサンドラ・パヴロヴナと結婚死別、
アンハルト・ベルンブルク・シャウムブルク・ホイム侯女ヘルミーネと再婚死別、
ヴュルテンベルク公女マリア・ドロテアと再々婚
●マリア・クレメンティーネ 
両シチリア王フランチェスコ1世の前妻・本人死別
●ヨハン 
平民アンナ・プロッフルと貴賤結婚
●ライナー・ヨーゼフ 
カリニャーノ公女マリーア・エリザベッタと結婚
●ルドルフ 聖職者 




●マリア・テレジア 
1767-1827 60歳没
ザクセン国王アントンの後妻
1755-1836 81歳没
a0130272_1450333.jpg

a0130272_142516.jpg





●フランツ2世 次代皇帝
a0130272_142512.jpg





●フェルディナント 
1769-1824 55歳没
両シチリア王女ルイーザ・マリアと結婚
1773-1802 29歳没
a0130272_142631.jpg

a0130272_142723.jpg

a0130272_142749.jpg





●カール
1771-1847 76歳没
ナッサウ・ヴァイルブルク侯女ヘンリエッテ・アレクサンドリーネと結婚
1797-1829 50歳没
a0130272_142863.jpg

a0130272_142993.jpg

a0130272_142995.jpg





●ヨーゼフ・アントン
1776-1847 71歳没
a0130272_23282245.jpg

a0130272_23283334.jpg

a0130272_23284337.jpg

■最初の妻 ロシア皇女アレクサンドラ・パヴロヴナ 死別
1783-1801 18歳没
a0130272_23285484.jpg

a0130272_2329373.jpg

■2番目の妻 アンハルト・ベルンブルク・シャウムブルク・ホイム侯女ヘルミーネ 死別
1797-1817 20歳没
a0130272_1421291.jpg

■3番目の妻 ヴュルテンベルク公女マリア・ドロテア
1797-1855 58歳没
a0130272_1421240.jpg

a0130272_1421310.jpg





●マリア・クレメンティーネ 
1777-1801 24歳没
両シチリア王フランチェスコ1世の前妻 本人死別
1777-1830 53歳没
a0130272_1421485.jpg

a0130272_1421452.jpg





●ヨハン
1782-1859 77歳没
平民アンナ・プロッフルと貴賤結婚
1804-1885 81歳没
a0130272_1421577.jpg

a0130272_1421661.jpg

a0130272_1421770.jpg

ヨーハン大公はウィーン宮廷の表面上の華美さや意味の無い儀式の明け暮れにうんざりしており
自然に触れる山登りや、村人の素朴さ、活き活きとした生活にに傾斜していった。
特にシュタイアーマルク州には頻繁に出かけた。
そして村の郵便局長の娘アンナ・プロッフルを見初めるのである。
ヨーハンは37歳アンナは15歳だった。
またしても貴賎結婚である。皇帝から許可をもらえるまで10年かかった。
やはり妻子にはハプスブルク家の一員としての権利は一切認められないこととなった。
要するにヨーハンには権利があるが
それは一代限りのものであり彼の死後は妻子は放り出されるということなる。
結婚10年目にして男子が生まれたので粘り強く交渉し息子にメラン地方を遺すことができた。
ヨーハンは心の故郷シュタイアーマルクの農業改革に取り組み
村人からも愛されてアンナとともに満ち足りた一生を送った。




●ライナー・ヨーゼフ
1783-1853 70歳没
カリニャーノ公女マリーア・エリザベッタと結婚
1800-1856 56歳没
a0130272_1421711.jpg

a0130272_1421876.jpg

a0130272_1421881.jpg





●ルドルフ 枢機卿
1788-1831 43歳没
a0130272_1911540.jpg

[PR]
by xMUGIx | 2001-02-05 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆皇帝レオポルト2世
先代ヨーゼフ2世の弟
1747-1792 43歳即位 45歳没

*女好きで、好色本・好色画を集め、様々な国籍の女を囲っていた。

*夫婦仲は円満であったが、
レオポルトは踊り子のリディア・ライモンディを寵愛するようになる。
しかしルドヴィカはこの女性にも親切で穏やかなものであったという。
兄ヨーゼフの死によって皇帝となったレオポルドがウィーンに移住する際には、
愛人と子供やその家族まで連れて行った。
a0130272_2325087.jpg





■妻 マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン←マリーア・ルイサ・デ・エスパーニャ
スペイン国王カルロス3世の子
1745-1792 19歳結婚 47歳没
a0130272_23251362.jpg

a0130272_23252261.jpg





●マリア・テレジア 
ザクセン国王アントンの後妻
●フランツ2世 次代皇帝
●フェルディナント 
両シチリア王女ルイーザ・マリアと結婚
●カール 
ナッサウ=ヴァイルブルク侯女ヘンリエッテ・アレクサンドリーネと結婚
●ヨーゼフ・アントン
ロシア皇女アレクサンドラ・パヴロヴナと結婚死別、
アンハルト・ベルンブルク・シャウムブルク・ホイム侯女ヘルミーネと再婚死別、
ヴュルテンベルク公女マリア・ドロテアと再々婚
●マリア・クレメンティーネ 
両シチリア王フランチェスコ1世の前妻・本人死別
●ヨハン 
平民アンナ・プロッフルと貴賤結婚
●ライナー・ヨーゼフ 
カリニャーノ公女マリーア・エリザベッタと結婚
●ルドルフ 聖職者 
[PR]
by xMUGIx | 2001-02-04 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆皇帝ヨーゼフ2世●実子ナシ
先代マリア・テレジアの子
1741-1790 24歳即位 49歳没
a0130272_1415967.jpg


*啓蒙思想に傾倒し、
また母帝の生涯の敵プロイセン国王フィリードリヒ2世の賛美者でもあったことから、
母帝と衝突することが多かった。

*信仰の自由・宗派の平等を認め、ユダヤ人の解放を進める一方、
病院・学校などの事業に関わっていない修道院を700も閉鎖した。

*宗教行事の簡素化を進め、葬儀の際には<ヨーゼフの柩>を利用して、
麻袋に入れた遺体だけを共同墓地へ埋めるという命令を出した。

*死刑・拷問の廃止、貴族・僧侶も同じ法で裁く、兄弟姉妹に同等の相続権を認める、
農奴の解放など、ヨーゼフ2世が目指した改革は当時としては過激であったため、
貴族からも一般市民からも理解されず激しい反発を受け撤回に追い込まれた。

*モーツァルトを宮廷音楽家として雇った。


■前妻 マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ 死別
パルマ公フィリッポの娘
1741-1763 19歳結婚 22歳没
a0130272_1415989.jpg

a0130272_142043.jpg

ヨーゼフは婚約が決まった時から美しいイザベラに一途な愛情を抱いていた。
温和で知的なイザベラはハプスブルク家にも国民にも歓迎されて、
仲睦まじい夫婦であると思われていた。
しかしイザベラは結婚の前年最愛の母を亡くしており、
自分も一刻も早く死んで母の許へ行きたいと熱望して
修道院へ入る準備をしていた時に結婚話が持ち上がったのであった。

結婚3年でイザベラは病死する。
最愛の妻を喪ったヨーゼフの悲嘆は想像を絶するほど激しいものだった。
心配した妹クリスティーナは迷った後、イザベラとの書簡を兄に見せる。
ヨーゼフのきょうだいの中でクリスティーねとイザベラは特に親しかったのであった。
手紙を見るとイザベラはこの3年間ひたすら死を願っており、
夫を愛したことは一度もない、夫の深い愛に応えられない自分に悩んでいたことが判明する。
イザベラとは相思相愛であったと思い込んでいたヨーゼフは愕然とする。


■後妻 マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの娘
1739-1767 26歳結婚 28歳没
a0130272_142170.jpg

a0130272_142122.jpg

跡継ぎを作るためにと再婚したが、
不細工だったためヨーゼフに見向きもされないまま早逝する。
肖像画からは想像できないが、ヨーゼフの証言によると
『背が低く太っている。歯並びはゾッとするほどで、全身が吹き出物でいっぱいだ』

以後、ヨーゼフは二度と結婚はしないと宣言した。
[PR]
by xMUGIx | 2001-02-03 00:00 | オーストリア

ハプスブルク朝

女帝マリア・テレジアの子供たち


●長女アンナ 修道院送り
●ヨーゼフ2世 次代皇帝
●二女クリスティーナ 
ポーランド王子アルベルト・カジミールと結婚
●三女エリーザベト 修道院送り
●四女アマーリア 
パルマ公フェルディナンドと結婚
●レオポルト2世 次々代皇帝
●五女ヨハンナ 
ナポリ王フェルディナント4世の婚約者・結婚前に死亡 
●六女ヨーゼファ 
ナポリ王フェルディナント4世の婚約者・結婚前に死亡
●七女カロリーナ 
ナポリ王フェルディナンド4世と結婚
●フェルディナント・カール 
モデナ公女マリーア・ベアトリーチェと結婚
●八女マリア・アントーニア→王妃マリー・アントワネット 
フランス国王ルイ16世と結婚
●マクシミリアン・フランツ 聖職者


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
息子レオポルト2世の証言

母帝はミミを溺愛している。ミミは母帝に好き勝手を言ってそのことを公然と自慢している。
むしろ母王のほうがミミを恐れている。
彼女に嫉妬心を起こさせないように他の皇女たちに愛情を傾けないでいる。
特にアンナにはあらゆる機会につらく当たっていた。人前でも同じ態度だった。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


*もともとマリア・テレジアは王位を継ぎたくなかったので
即位する前になんとか皇太子ができないかとせっせと子供を生んでいたので
早逝した子供も含めて3人続いた娘には失望しかなかった。
父カール6世も男子の孫に譲位することを想定しており
マリア・テレジアに一切の帝王学を学ばせていなかった。

*マリア・テレジアの娘に対する判断基準は
政略結婚に使えるか使えないかにしかなかったのではないだろうか。
政略結婚の駒にも使えないような娘は修道院送りにしてしまう。
子供として可愛がる役割は二女にだけ与えて与えて母親気分を楽しむ。
マリア・テレジアはあらゆる能力に長けていたが子育てだけには向かなかったようである。




●長女アンナ 未婚
1738-1789 51歳没

アンナはダンスが上手で歌もうまく狩猟も得意であった。
学問においては他のきょうだいから抜きん出ていた。
しかし万事が大公子ヨーゼフを中心に展開しアンナの存在など見向きもされなかった。

さらに彼女に不幸が襲った。
脊髄カリエスで背中が曲がってしまったのだ。
彼女はいつもケープで背中を隠していた。
ある時クラーゲンフルトの貧しいエリーザベト尼僧院を視察した際
ケープが滑り落ちて皇女の曲がった背中が丸見えになってしまった。
ところが修道女は誰一人表情を変えず何事もなかったかのようにアンナに接した。
「せむしの皇女」と呼ばれていたアンナは深い感動を覚えた。
そして母帝の死後この尼僧院への移住を決意した。
尼僧院の隣に城館を建てて住み始めると
尼僧院長・修道女・科学者・芸術家・貴族とその妻たちなどなど知的で心温まる交流が始まった。
尼僧院付属の病院も造った。町の人々にも愛された。
孤独だったアンナはやっとクラーゲンフルトで自分の望んだ半生を手に入れたのである。
a0130272_1413784.jpg

a0130272_1413770.jpg

a0130272_1413862.jpg





●ヨーゼフ2世 次代皇帝
a0130272_1413938.jpg


 


●二女クリスティーナ 通称ミミ
1742-1798 56歳没
ポーランド王子アルベルト・カジミールと結婚
1738-1822 84歳没

女帝ははミミだけを溺愛した。
ミミは宮廷に仕えていたアルベルト王子と恋愛関係にあった。
とうてい許される恋ではなかったが女帝はこれを認める。
ミミに莫大な持参金を与えた上にネーデルランドの統治権まで与えた。
身分違いの結婚を許したのはミミを手元に置くためだったとも言われる。
a0130272_1413995.jpg

a0130272_141404.jpg

a0130272_1414189.jpg

a0130272_1414277.jpg





●三女エリーザベト 未婚
1743-1808 65歳没

エリーザベトはフランスのルイ15世と婚約していたが天然痘にかかってしまい
皇女たちの中で一番と言われた美貌を一夜にして失った。
女帝の死後はインスブルックの尼僧院で一生を終えた。
a0130272_1414294.jpg

a0130272_1414329.jpg

a0130272_1414430.jpg





●四女アマーリア 
1746-1804 58歳没
パルマ公フェルディナンドと結婚
1751-1802 51歳没

アマーリアも目下の者と恋愛していたが、女帝に引き裂かれてパルマ公と結婚させられた。
パルマ公はアマーリアより年下の粗暴でアル中で
栗を焼くことと教会の鐘を鳴らすことだけが好きという変人だったのだ。
母マリア・テレジアはもちろんそのことを知っていた。
これぐらいの人物の方が娘に牛耳らせやすとの判断での政略結婚であった。
ミミには恋愛結婚を許したのに自分には許さなかったこと、
このような夫をあてがわれたことが原因で勝手放題をし始める。
アマーリアに残されたことは母の顔に泥を塗ることだけだったのだ。
当然女帝は何度も娘をたしなめるが一向に聞く耳を持たなかったためアマーリアを勘当した。
パルマ公国はフランス革命の余波でフランス軍に占領され
パルマ公の死後アマーリアはプラハに逃げ2年後に亡くなった。
a0130272_1414557.jpg

a0130272_141451.jpg

a0130272_141464.jpg

a0130272_1950215.jpg





●レオポルト2世 次々代皇帝
a0130272_1414747.jpg





●五女ヨハンナ ナポリ王フェルディナント4世の婚約者 結婚前に死亡
1750-1762 12歳没
a0130272_1414833.jpg

a0130272_1414958.jpg





●六女ヨーゼファ ナポリ王フェルディナント4世の婚約者 結婚前に死亡
1751-1767 16歳没
a0130272_1414935.jpg

a0130272_1415090.jpg





●七女カロリーナ 
1752-1815 63歳没
ナポリ王フェルディナンド4世と結婚
1751-1825 74歳没

五女のヨハンナはナポリ・シチリア王フェルディナンドに嫁ぐことが決まっていたが
天然痘で急死する。
そこで六女のヨーゼファーが代わりに嫁ぐことになったが彼女も天然痘で亡くなってしまう。
玉突き事故のように七女のカロリーナにその役目が回ってきた。
この結婚はまさに事故であった。
夫となるナポリ・シチリア王フェルディナンドは不細工でナポリ訛りのイタリア語しか喋れず
そのイタリア語ですら読み書きができなかったのである。
狩猟と食べることと悪戯以外に趣味はなく身だしなみを整えることも知らなかった。
要するに躾けられていない幼児のままの大きくなったのである。

しかしカロリーナはマリア・テレジアが自分に一番よく似ている子供と
評価したほど政治感覚のある娘だった。。
いつまでも泣いてはいられない。夫の人格改造に着手したのである。
夫は腕フェチだったので夫を説き伏せるには白い長手袋をゆっくり外して見せるだけでよかった。
白手袋でもおだてても脅しても怒っても懇願しても駄目なときは王妃は夫に噛み付いた。
彼は正しく教育されていなかっただけだったようで彼女のしつけでそれなりの人物になった。
そして彼女は18人の子供を生む。
最後の子を生む頃にはもう孫がいたほどである。
a0130272_141502.jpg

a0130272_1415177.jpg

a0130272_1415244.jpg

a0130272_1415234.jpg



★王妃の愛人ジョン・アクトン男爵
1736-1811 75歳没
a0130272_1415344.jpg

当然政治もカロリーナに任されたので彼女はイギリス人ジョン・アクトン男爵を最高顧問にした。
そして二人は愛人関係となる。
ところがアクトンはカロリーナからのラブレターを公表すると脅しをかけて思い通りに振る舞った。
最終的にはアクトンは彼女の元から去っていく。

そこにフランス革命が勃発した。
妹マリー・アントワネットのことを思うと心は千々に乱れたが
革命の火の粉はナポリにも飛び火しようとしていた。
彼女は国民の怒りの根本を明確に認識していた。
彼女はとにかく食糧供給に奔走したのである。

またカロリーナはマリー・アントワネット一家を救出するため努力した。
娘婿の皇帝フランツ2世に期待を寄せたが小心者のフランツ2世は
会ったこともない叔母マリー・アントワネットのために
わざわざフランスを敵に回すつもりはなかった。
グズグズしているうちにマリー・アントワネットは処刑されてしまった。

さらにフランス軍がナポリも占領した。
カロリーナは絶望的であると知りながらも本国ナポリに腰をすえてフランスへの抵抗を続けた。
ナポリ王妃はナポレオンに立ち向かったヨーロッパで唯一の王侯であった。

しかしアントワネットの処刑のショックと加齢により彼女の判断力が鈍り始めた。
心身ともに疲労困憊したカロリーナはアヘンを常用し始める。
抵抗もむなしく一家は祖国オーストリアに逃げた。
そしてカロリーナはこの地で亡くなった。


★王の愛人ルチア・ミリアッチョ
1770-1826 56歳没
a0130272_1415464.jpg

夫フェルディナンドは3ヶ月を待たずして愛人ルチア・ミリアッチョと再婚した。
そして皮肉にもナポレオンの失脚により
ナポリ・シチリア王国はフェルディナンドだけの手に戻ってきた。




●フェルディナント・カール
1754-1806 52歳没
モデナ公女マリーア・ベアトリーチェと結婚
1750-1829 79歳没
a0130272_1415442.jpg

a0130272_1415569.jpg

a0130272_1415515.jpg





●八女 マリア・アントーニア フランス王ルイ16世と結婚→王妃マリー・アントワネット
1755-1793 38歳没

*末っ子のアントーニアはフランスのルイ16世に嫁ぐ。
ギロチンの露と消えたフランス名マリー・アントワネットである。
a0130272_1415517.jpg

a0130272_1415682.jpg

a0130272_1415759.jpg

a0130272_1415815.jpg





●マクシミリアン・フランツ 聖職者
1756-1801 45歳没
a0130272_2575014.jpg

a0130272_2575927.jpg

[PR]
by xMUGIx | 2001-02-02 00:00 | オーストリア

ハプスブルク朝

◆女帝マリア・テレジア
先代皇帝カール6世の子
1717-1780 23歳即位 63歳没


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
プロイセン大使の証言 当時30歳のマリア・テレジアについて

丸くふっくらとした顔つきと広い額、形の良い眉毛、赤みがかっていないブロンドの髪。
目は大きく生き生きとして、同時に柔和である。明るいブルーの瞳が寄与している。
鼻は小さく、曲がってもおらず、上を向いてもいない。
口は比較的大きいが、歯は白く、微笑む感じが良く、首とノドの形もとてもいい。
顔の表情は明るく、晴れ晴れとしている。
美しい女性であることは否定のしようもない。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


■夫 フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン
ロレーヌ公レオポルト・ヨーゼフの息子
1708-1765 28歳結婚 57歳没
a0130272_1413464.jpg

a0130272_1413430.jpg

a0130272_1413513.jpg

カール6世はマリア・テレジアに王位を継がせるために
女子も相続可能であるという王位継承法を制定しておいた。

マリア・テレジアには意中の男性がいた。
マタイトコのフランツ・シュテファンである。
父帝も彼がお気に入りだったため二人の結婚を認めた。

幸福もつかのま父帝が病死した途端
王位継承法を無視して各国が禿鷹のように攻め込んできた。
彼女はまだ23歳さらに妊娠中であった。
しかし彼女は強靭な精神力でハプスブルク帝国を守り抜いたのである。

特に女帝を激怒させたのはプロイセン国王フィリードリッヒ2世であった。
彼は皇太子のとき軍人王と呼ばれた父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世から
軟弱であることを理由に殺されそうになったところを皇帝カール6世に命を助けられたことがある。
そんな大恩人の国に対して宣戦布告をしてきたのである。
これから二人は生涯にわたるライバルとなる。

彼女はハプスブルク帝国を統治しながら20年間の間に16回の出産をした。
実はマリア・テレジアは「女帝」ではない。
入り婿の夫が不満を持たないように皇帝の称号はフランツに与えたのである。
神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世・・・って誰も知らないよね。
フランツが政治に向いていないことは自他共に認めるところであった。
その代わり財政管理の才能があり妻にせっせと軍資金を与え、いわゆる内助の功を発揮した。
彼は時々浮気をしたがマリア・テレジアは
夫が宮廷で軽んじられていることをわかっていたので目をつぶっていた。
またいちいち騒ぎ立てるだけの暇もなかったとも言える。
フランツは芝居の帰りに発作を起こし急逝した。
女帝の嘆きは深く亡くなるまで喪服で通した。

*民衆に純潔を要求したマリア・テレジアは、<純潔監視官>制度を作った。
女性の後をつけて監視し、行動を記録に録って報告する。
もし不純行為があれば、男には高額の罰金、女には4年間の修道院入りが科せられた。




●長女アンナ 修道院送り
●ヨーゼフ2世 次代皇帝
●二女クリスティーナ 
ポーランド王子アルベルト・カジミールと結婚
●三女エリーザベト 修道院送り
●四女アマーリア 
パルマ公フェルディナンドと結婚
●レオポルト2世 次々代皇帝
●五女ヨハンナ 
ナポリ王フェルディナント4世の婚約者・結婚前に死亡 
●六女ヨーゼファ 
ナポリ王フェルディナント4世の婚約者・結婚前に死亡
●七女カロリーナ 
ナポリ王フェルディナンド4世と結婚
●フェルディナント・カール 
モデナ公女マリーア・ベアトリーチェと結婚
●八女マリア・アントーニア→王妃マリー・アントワネット 
フランス国王ルイ16世と結婚
●マクシミリアン・フランツ 聖職者


女帝一家
画面奥まで延々と子供が並んでいてちょっと怖いです・・・
a0130272_1413666.jpg

[PR]
by xMUGIx | 2001-02-01 00:00 | オーストリア


フォロー中のブログ
検索
記事ランキング
その他のジャンル