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by xMUGIx
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ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆皇帝カール1世 最後の皇帝
1887-1922 29歳即位 35歳没
貴賎結婚をしたフランツ・フェルディナンドに失望したフランツ・ヨーゼフ皇帝は
<又甥>すなわち実弟カール・ルートヴィヒの息子の
オットー・フランツの息子カールを皇帝に指名する。


■妻 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
パルマ公ロベルト1世の娘
1892-1989 19歳結婚 97歳没
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ブルボン王朝の末流にすぎなかったがフランツ・ヨーゼフはご満悦であった。
なにかとツィタを優遇し
貴賎結婚をしたフランツ・フェルディナント大公の妻ゾフィー・ホテクと差別した。
フランツ・フェルディナント大公の死により王位継承権はカールに移動した。
そして不死身とも思われたフランツ・ヨーゼフが亡くなり皇帝カール1世として即位した。

しかし時代はサラエボ事件をきっかけに始まった第一次世界大戦の最中であった。
凡庸な皇帝カールは何事も妻に相談した。
人々はツィタをが皇帝を操作していると感じた。
決定的となったのは戦争の早期終結のためフランスとの和平交渉を秘密裏に行ったことである。
一応ブルボン王朝の末流であるツィタの人脈を利用したのである。
しかし民衆は自分達が同盟国ドイツとともに戦っている最中に
ツィタの示唆により敵国フランスと交渉を持ったことに激怒した。
カールに残された道は退位しかなかった。

カール一家はスイスに逃亡した。
しかしカールとツィタは王政復古をあきらめたわけではなかった。
オーストリア=ハンガリー帝国のうちオーストリアは手放したが
まだハンガリーが残っていると思っていたのだ。
そこでハンガリーに二度も密入国し画策した。
しかしこれが明るみに出てカール一家は大西洋上のマディラ島へ送られた。
カールは半年後に病死。

ここに650年にわたるハプスブルク王朝は終焉を迎えた。


●オットー 皇太子 
ザクセン・マイニンゲン公女レギーナと結婚
●アーデルハイト 未婚
●ローベルト 
アオスタ公女マルゲリータと結婚
●フェリックス 
アーレンベルク公女アンナ・ウジェニーと結婚
●カール・ルートヴィヒ 
リーニュ公女ヨランドと結婚
●ルドルフ 
クセニヤ・チェルニシェヴァ・べゾブラソヴァ伯爵夫人と結婚死別、
ヴレーデ侯女アンナ・ガブリエーレと再婚
●シャルロッテ
メクレンブルク・シュトレーリッツ公ゲオルク・ヘルツォーク・ツー・メクレンブルクの後妻
●エリーザベト 
リヒテンシュタイン侯子ハインリヒと結婚
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by xMUGIx | 2001-02-16 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆フランツ・フェルディナント大公 先代より先に亡くなったため即位できず
先代フランツ・ヨーゼフの甥/カール・ルートヴィヒ大公の子
1863-1914 51歳没


■妻 ゾフィー・ホテク 貴賤結婚
ホトコウヴァ伯爵令嬢
1868-1914 32歳結婚 46歳没
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ルドルフ皇太子を失ったフランツ・ヨーゼフ皇帝は
実弟カール・ルートヴィヒの息子である甥のフランツ・フェルディナントを次期皇帝に決めた。
しかしフランツ・フェルディナンドはボヘミア貴族出身の女官ゾフィー・ホテクと秘密の恋愛をしていた。
フランツ・ヨーゼフは「王位を取るか、結婚を取るか」と迫ったが
フランツ・フェルディナンドは両方を望んだ。
結局フェルディナンドしか皇帝候補者はいないのであるから
結婚はしぶしぶ認められることとなった。
しかし貴賎結婚の慣例どおり
妻子にはハプスブルク家の一員としての権利は一切認められないこととなった。
ゾフィーはゾフィー・フォン・ホーエンベルク公爵夫人と呼ばれることになった。
そしてフランツ・ヨーゼフには死ぬまで謁見できなかった。
宮廷では夫の隣どころか、30人の大公女の末席に座らされる、
夫が退席するとゾフィーを警護する必要はないと近衛兵も退出する、
外国使節もゾフィーを表敬訪問することを禁じられる、などなどの扱いを受けて、
フランツ・フェルディナンドは妻を妃と持ち上げてくれる外国にばかり出かけるようになる。
そしてついにサラエボで二人は暗殺された。「サラエボ事件」である。
フランツ・ヨーゼフより先に亡くなったので皇帝の座にはつけなかった。
二人の遺体はウィーンに戻ってきたがゾフィーはもちろん
フランツ・フェルディナントもハプスブルクの墓には埋葬されなかった。


サラエボにて
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●ゾフィー 
フリードリヒ・ノスティッツ・リーネック伯爵と結婚
●マクシミリアン 
ヴァルトブルク・ツー・ヴォルフェッグ・ウント・ヴァルトゼー侯女エリーザベタ・ボナと結婚
●エルンスト
イギリス人マリー・テレーズ・ウッドと結婚 

*3人はナチスドイツに反対したので、
第二次世界大戦中はそれぞれ家族とともに強制収容所に入れられていた。
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●ゾフィー 
1901-1990 89歳没
フリードリヒ・ノスティッツ・リーネック伯爵と結婚
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●マクシミリアン
1902-1962 60歳没
ヴァルトブルク・ツー・ヴォルフェッグ・ウント・ヴァルトゼー侯女エリーザベタ・ボナと結婚
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●エルンスト 
1904-1954 50歳没
イギリス人マリー・テレーズ・ウッドと結婚
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by xMUGIx | 2001-02-15 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆皇太子ルドルフ 父より先に亡くなったため即位できず
先代フランツ・ヨーゼフ1世の子
1858-1889 31歳没*愛人とピストル心中

ルドルフ皇太子は厳格な祖母ゾフィーによって苛烈なスパルタ式教育を受けた。
その影響でルドルフは暴力的で神経過敏かつ虚弱体質の恐怖心の強い子供となった。
オーストリアの屋台骨がきしみ始めていると理解していたルドルフは
オーストリアを近代国家に改造すべく奔走した。
しかしその熱情はカビのはえた国体の維持にしか頭にない父帝には理解されなかった。
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■妻 シュテファニー・フォン・ベルギエン←ステファニー・ド・ベルジック
ベルギー王レオポルド2世の娘
1864-1945 17歳結婚 81歳没

皇太子の妻に相応しい身分で適齢期であり血縁がさほど近くないカトリックの王女は
ステファニーしかいなかった。
二人の間には王女エリーザベトが生まれたが
「髪はぼさぼさで、眉毛は薄く、正視に耐えなかった」といわれる妃との不仲は深刻なものだった。
結婚5年にして皇太子は性病にかかり、妻にも感染してしまい、夫婦関係は決定的になった。
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★皇太子の愛人ミッツィ・カスパル
1964-1907 57歳没

ルドルフは父帝と妻からの現実逃避をしてモルヒネと女性に溺れてゆく。
一番のお気に入りは高級娼婦のミッツィ・カスパルであった。
ルドフルはミッツィに累計3億円も貢いだ。
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★皇太子の愛人マリー・ヴェッツェラ
1871-1889 18歳没

やがてルドルフはステファニーとの離婚を求める書簡を教皇に送った。
それが父帝の知るところとなり厳しい叱責を受けた。
さらに性病も末期症状を迎えていた。
厭世的になったルドルフはミッツィ・カスパルに心中を持ちかけるが断られたため、
他の交際相手男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとマイヤーリングの狩猟館でピストル心中した。
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■皇太子妃の再婚相手 ローニャイ・エレメール伯爵
1863-1946 83歳没 

皇太子妃ステファニーは男子が生まれる可能性が無くなったうえ
夫のスキャンダルのせいでウィーン宮廷から出ることを余儀なくされた。
ステファニーは父王と折り合いが悪く実家に戻ることもできない。
そしてハンガリー貴族ローニャイ・エレメール伯爵と貴賤再婚をした。
赤軍が迫ると夫妻はパンノンハルマの大修道院に避難しステファニーはここで亡くなった。
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●子は皇女エリーザベト
1883-1963 80歳没
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■前夫 オットー・ヴィンディッシュ・グレーツ侯爵 貴賤結婚
1873-1952 79歳没

若いエリーザベトは女たらしの美男将校オットーに一目ぼれした。
周囲は反対したが、帝位継承権を捨てて彼と結婚した。
子供たちに恵まれたが、夫の浮気癖のため夫婦仲は悪くなっていった。
エリーザベトも負けずに複数の男性とアバンチュールを楽しんだ。
皇帝フランツ・ヨーゼフの死により夫婦関係は崩壊し、激しい離婚訴訟に至る。
法廷は子供全員の親権を夫に与えたため
エリーザベトの元に警察が来て子供を連れ去ろうとした。
同情したオーストリア社会民主党の運動員たちがこれを阻止した。
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■後夫 レオポルト・ペツネック
1881-1956 75歳没

これをきっかけに社会民主党の指導者レオポルト・ペツネックと再婚して
社会民主党にも入党して世間を驚かせた。
エリーザベトは「赤い皇女」と呼ばれた。
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*エリーザベトは79歳で亡くなる。
遺品や絵画はすべて国に寄贈するという遺言を残した。
ハプスブルク家のものは国に返すべきという考えに基づいて行なった事だった。
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by xMUGIx | 2001-02-14 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

皇帝フランツ・ヨーゼフの子供


●ギーゼラ 
バイエルン王子レオポルトと結婚
●ルドルフ 皇太子
●マリー・ヴァレリー 
オーストリア・トスカーナ大公フランツ・ザルヴァトールと結婚


左はギーゼラ 右はマリー・ヴァレリー
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●ギーゼラ 
1856-1932 76歳没
バイエルン王子レオポルトと結婚
1846-1930 84歳没
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●ルドルフ 皇太子
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●マリー・ヴァレリー
1868-1924 56歳没
オーストリア・トスカーナ大公フランツ・ザルヴァトールと結婚
1866-1939 73歳没

*二人は幼なじみで恋愛で結ばれた。
フランツ・ヨーゼフは婿の家柄に不満があったが、
娘に政略結婚をさせたくなかったエリーザベトが二人の結婚を進めた。

*夫婦円満だったが、中年以降は夫が愛人を作ったため不仲となった。
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by xMUGIx | 2001-02-13 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

皇帝フランツ・ヨーゼフの愛人


★愛人アンナ・ナホフスキー
1860-1931 71歳没
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★愛人カタリーナ・シュラット
1853-1940 87歳没
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カタリーナは裕福な食料雑貨商の娘に生まれ舞台女優となった。
ハンガリー貴族のキス・フォン・イッテベ男爵と結婚し息子を生んだが離婚して
息子と共にウィーンに戻り女優活動を再開した。

夫のフランツ・ヨーゼフがカタリーナに魅かれているのを知った皇后エリーザベトは
二人の仲を取り持った。
当時フランツ・ヨーゼフにはアンナ・ナホフスキーという愛人がいたが
彼の気持ちはカタリーナへと移っていった。

カタリーナは宮殿の隣の館に住んだが
エリーザベトの居間を通ってフランツ・ヨーゼフに会いに行き
フランツ・ヨーゼフとカタリーナの喧嘩が長引くと夫の機嫌が悪くなるので
エリーザベトが仲直りをさせていた。
娘のマリー・ヴァレリー皇女は日記に書いている。
「この三人の関係はわけがわからない」

金銭感覚がルーズなカタリーナは時にカジノで借金を作ったりしたが、
皇帝は気前よく支払ってやった。
女優を引退しスイスに引きこもったカタリーナに向けて
フランツ・ヨーゼフが「帰ってきてくれ」と新聞広告を出したために
国民の顰蹙をかうという事件も起こった。

息子が死に、弟が死に、妻も死んだ。
フランツ・ヨーゼフがリラックスできるのは
愛人カタリーナ・シュラットの屋敷でコーヒーを飲むひとときだった。
彼女は30年に渡りフランツ・ヨーゼフのオアシスとなった。
確実に皇帝を笑わせることのできる唯一女性だった。

86歳で皇帝が亡くなった時カタリーナは66歳だった。
愛人だった時に手に入れた不動産や宝石を売って家族を養った。
社交界からは完全に身を引き宗教にのめり込む毎日を送った。
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by xMUGIx | 2001-02-12 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆皇帝フランツ・ヨーゼフ
先代フェルディナント1世の甥
1830-1915 18歳即位 85歳没
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■妻 エリーザベト・ヴィッテルスバッハ 愛称シシィ イトコ結婚
バイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフの娘
1837-1898 17歳結婚 61歳没

夫を見限ってまで息子を皇帝の座に就けた母ゾフィーは、息子の嫁も決めていた。
実妹マリー・ルドヴィカの娘ヘレーネである。
しかし、お見合い当日ヘレーネと一緒に旅行気分で16歳のエリーザベトがついてきた。
そしてフランツはヘレーネではなくエリーザベトを選んだのである。
母ゾフィーは強行に反対したがフランツは頑として聞き入れなかったので
ゾフィーもあきらめざるを得なかった。

エリーザベトは、名門貴族でありながら型破りで自由奔放な父親の教育方針によって
伸び伸びと開放的に育てられた。
スポーツや乗馬を楽しみ、詩や文学、芸術を愛好する、
当時としては先進的な生き方を仕込まれていた。

しかし夫となったフランツはワーカーホリックで早朝から深夜まで執務。
エリーザベトのことは宝物のように大切にはするがかまってはくれない。
ウィーンの宮廷は堅苦しくて息がつまる。
姑ゾフィーとは凄まじい確執がある。
子供が生まれてもゾフィーに取り上げられてしまう。
とうとう彼女はノイローゼになってしまった。
医者は転地療養を勧めた。
彼女の生涯の大半を占めることになる旅の始まりであった。
エリーザベトが公式の場に姿を現すことはなくなった。
人々は彼女のことを「ゼルトザーメ・フラウ」(奇妙な女性)と呼んだ。
そして旅先で暗殺されて亡くなった。
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170センチ50キロ、ウエスト50センチの体型を死ぬまで維持し続けた。
主な栄養は牛乳・アイスクリームなど乳製品で、
卵は白身のみ、肉は極力食べず、肉汁を絞って飲んでいた。
長い黒髪は玉子入りコニャックで洗い3時間かけて手入れし、
白肌のためにミルク風呂に入った。
乗馬・フェンシング・水泳、宮殿には体操室を作り、
吊り輪・鉄アレイなどの器械体操をした。
空腹のまま長時間ウォーキングして気を失ったというのは
もう強迫観念としか言えない。
実際の身体は栄養失調を起しており、
貧血・骨粗しょう症・水泡症などの病気を患っていた。

30代後半になるとお遊びの乗馬ではなく、
全速力で障害物を飛び越えて技を競う乗馬競技にのめり込む。
一日何時間もの特訓を受けているうちに、ヨーロッパ屈指の女性騎手となる。
オーストリアだけに飽き足らず、イギリスやフランスにまで遠征した。
夢中になると他が見えなくなる性格から、
農地にまで入り込んで農作物を踏み荒らすなど、住民とのトラブルも絶えなかった。
結局坐骨神経痛を悪化させて乗馬熱は冷めたが、次に競歩に取りつかれる。
雨でも嵐でも大股で進むエリーザベトに、
付いて行かねばならない女官たちは悲鳴を上げた。
長期間肌を太陽にさらし続けたため、顔はシワとシミだらけになった。

エリーザベトは世界中の美女の写真を集め、部屋中に貼りつけていた。
それを眺めるのが大好きだった。


晩年は衰えた美貌を人に見られることを嫌い、革製の扇で顔を隠していた
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●ギーゼラ 
バイエルン王子レオポルトと結婚
●ルドルフ 皇太子
●マリー・ヴァレリー 
オーストリア・トスカーナ大公フランツ・ザルヴァトールと結婚
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by xMUGIx | 2001-02-11 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

大公フランツ・カールの子供


●フランツ・ヨーゼフ1世 次代皇帝
●フェルディナント・マクシミリアン メキシコ皇帝マクシミリアン1世となる
ベルギー王女シャルロッテと結婚
●カール・ルートヴィヒ→孫は皇帝カール1世
ザクセン王女マルガレーテと結婚死別、
両シチリア王女マリア・アンヌンツィアータと再婚死別、
ポルトガル王女マリア・テレサと再々婚、
●ルートヴィヒ・ヴィクトル 未婚


左から
ルートヴィヒ・ヴィクトル フランツ・ヨーゼフ1世 カール・ルートヴィヒ マクシミリアン1世
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左から
カール・ルートヴィヒ フランツ・ヨーゼフ1世 マクシミリアン1世 ルートヴィヒ・ヴィクトル
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●フランツ・ヨーゼフ1世 次代皇帝
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●フェルディナント・マクシミリアン メキシコ皇帝マクシミリアン1世
1832-1867 35歳没
ベルギー王女シャルロッテと結婚
1840-1927 87歳没

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イギリスのヴィクトリア女王の証言

口元とアゴを除けば大変な美形で、
この些細な欠点もマクシリミアンの闊達さと優雅な身のこなしのおかげで全く気にならない。

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マクシミリアンは甘やかされて育ったため自分を過大評価していた。
たった2歳しか違わない兄が皇帝を継ぐことに納得できなかったのである。
妻のシャルロッテもまた王女であった自分が公女であったエリーザベトより
低い位置におかれるのが我慢できなかった。
そんな時フランスのナポレオン3世からメキシコ皇帝になってほしいという申し出が来た。
フランスはメキシコに植民地を持っていたが内戦状態になり
混乱した事態を収束させるために強力な傀儡政権を置くことにしたのである。
兄フランツ・ヨーゼフも母ゾフィーもみな反対したが、
野心家のシャルロッテの強い勧めもあって、
夫妻はハプスブルク家のすべての権利を放棄してメキシコに旅立った。
長い船旅の末にたどり着いたメキシコで政治面で自分に何の権限もないことを知り
マクシミリアンはフランスに騙されたことを知った。
皇帝夫妻は反乱軍に追いつめられ
とりあえずシャルロッテだけがヨーロッパに戻り各国に援助を頼んで回った。
奔走したが断られ続けた彼女はついに発狂した。
妻が発狂したことを電報で知らされたマクシミリアンは処刑された。
シャルロッテは実家のベルギーに連れ戻され幽閉された。
87歳で亡くなるまで自分たちはメキシコ皇帝夫妻だと思い込んでいた。
そして皇后として夫の待つメキシコに帰る日を待ちわびていた。
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●カール・ルートヴィヒ→孫は皇帝カール1世
1833-1896 63歳没
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■最初の妻 ザクセン王女マルガレーテ 死別
1840-1858 18歳没●実子ナシ
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■2番目の妻 両シチリア王女マリア・アンヌンツィアータ 死別
1843-1871 28歳没
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■3番目の妻 ポルトガル王女マリア・テレサ
1855-1944 89歳没
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●ルートヴィヒ・ヴィクトル 未婚
1842-1919 77歳没

*同性愛者であることを隠そうともしなかったので度々スキャンダルを巻き起こした。
母ゾフィーが勧める縁談はことごとく破談になり
ついに兄フランツ・ヨーゼフ1世からウィーンからの立ち退きを命じられた。
以後彼はザルツブルクのクレスハイム宮殿に亡くなるまで隠棲した。
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女装姿
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トリック写真 同一人物
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by xMUGIx | 2001-02-10 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆フランツ・カール大公 息子フランツ・ヨーゼフが皇帝となったため即位できず
先代フェルディナント1世の弟
1802-1878 76歳没
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■妻 ゾフィー・フォン・バイエルン
バイエルン国王マクシミリアン1世の娘
1805-1872 19歳結婚 67歳没

*『気の抜けたウィーン宮廷の中で、一人煮えたぎっている唯一の男』(女の間違いではない)
とまで言われた烈女。

*ゾフィーは何の取柄もない夫には皇帝になる資格はないと思っていた。
長男フランツ・ヨーゼフは健康で利発な長男だったので、
ゾフィーはなんとしてもこの息子を皇帝にしようと心に決めた。
転機は三月革命だった。
フェルディナント1世は退位を余儀なくされ弟フランツ・カールが即位するはずだったが
これになんとフランツ・カールの妻であるゾフィーが反対したのである。
そして息子フランツ・ヨーゼフを即位させた。
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●フランツ・ヨーゼフ1世 次代皇帝
●フェルディナント・マクシミリアン メキシコ皇帝マクシミリアン1世となる
ベルギー王女シャルロッテと結婚
●カール・ルートヴィヒ→孫は皇帝カール1世
ザクセン王女マルガレーテと結婚死別、
両シチリア王女マリア・アンヌンツィアータと再婚死別、
ポルトガル王女マリア・テレサと再々婚、
●ルートヴィヒ・ヴィクトル 未婚


立つ左から
フランツ・ヨーゼフ1世 マクシミリアン1世 マクシミリアン1世妃シャルロッテ
カール・ルートヴィヒ ルートヴィヒ・ヴィクトル
椅子左から
フランツ・ヨーゼフ1妃エリーザベト フランツ・カール妃ゾフィー フランツ・カール 
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by xMUGIx | 2001-02-09 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

◆皇帝フェルディナント1世●実子ナシ
フランツ2世の子
1793-1875 42歳没 82歳没
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フェルディナントは水頭症で生まれ、てんかんと言語障害があった。
結婚したが跡継ぎが生まれる可能性はなかった。
病弱にもかかわらず長生きし82歳で亡くなった。


■妻 マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン←マリーア・アンナ・ディ・サヴォイア
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の娘
1803-1884 28歳結婚 81歳没
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by xMUGIx | 2001-02-08 00:00 | オーストリア

ハプスブルク=ロートリンゲン朝

皇帝フランツ2世の子供


すべて2/4番目の妻の子
●マリア・ルドヴィカ 
フランス皇帝ナポレオン1世の後妻
●フェルディナント1世 次代皇帝
●マリア・レオポルディーネ 
ブラジル皇帝ペドロ1世の前妻・本人死別
●マリア・クレメンティーネ 
サレルノ公レオポルドと結婚
●マリア・カロリーネ 
ザクセン国王フリードリヒ・アウグスト2世の前妻・本人死別
●フランツ・カール・ヨーゼフ→子は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
バイエルン王女ゾフィーと結婚




●マリア・ルドヴィカ 
1791-1847 56歳没
フランス皇帝ナポレオン1世の後妻
1769-1821 78歳没
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ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚しマリア・ルドヴィカ皇女と再婚した。
小心者の父フランツ2世はナポレオンからの要求に反対できなかったのである。
マリー・ルイーズは皇帝とは名ばかりの
コルシカの成り上り者との結婚に大きなショックを受けた。
しかしナポレオンが下へも置かぬ扱いをしプレゼント攻撃をしてくれるので
たちまちこの結婚に慣れた。
マリー・ルイーズは鈍さと冷たさの混じった無神経なところがあり
人間的な面白みも魅力も感じられない人物だった。
翌年に生まれた息子にもまったく興味を示さない。
ナポレオンが失脚してエルバ島へ流罪となった時
家族と暮らしたいというナポレオンの願いを聞き流して
息子をつれてさっさと実家オーストリアに帰ってしまう。
父帝は彼女をパルマの領主とした。


★皇后の愛人ナイペルク伯爵
1775-1829 54歳没
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彼女はいささかの躊躇もなく息子をオーストリアに置いたまま
すぐにパルマへ向かいほとんど会いにも来なかった。
マリー・ルイーズの補佐役としてナイペルク伯爵を送った。
彼女は彼の子供を生み結婚した。


★皇后の愛人シャルル・ルネ・ド・ボンベル伯爵
1785-1856 71歳没
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ナイペルクが亡くなったため次ははシャルル・ルネ・ド・ボンベル伯爵を送った。
またしても彼女は彼の子供を生み結婚した。


●子はライヒシュタット公/ナポレオン2世
1811-1832 21歳没
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★フランツ・カール大公妃/バイエルン王女ゾフィー
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残されたナポレオン2世は徹底してオーストリア人として育てられた。
フランス語は禁止され宮廷の外には出してもらえず父にも母にも会えない少年時代を過ごした。
その後ライヒシュタット公の称号を授けられ190センチ、ブロンドに青い目の貴公子に成長した。
それでも宮廷はナポレオンの忘れ形見を飼い殺しにするだけである。
<オーストリアの高貴な囚人>と呼ばれていた。

ここに皇帝フランツ2世の二男カール大公に嫁いできたバイエルン王女ゾフィーがいた。
彼女は堅苦しいウィーン宮廷になじめず、長年子供ができないこともプレッシャーだった。
彼女は同じくよそ者で孤独だったライヒシュタット公と心を寄せ合うようになる。
容姿端麗で快活なナポレオン2世は、退屈なだけの夫とは正反対の存在だった。
二人はオペラ・舞踏会・謝肉祭といつもカップルで出かけた。

ゾフィーに待望の長男フランツ・ヨーゼフが生まれた。
しかし、その頃からナポレオン2世は結核で病床につくようになる。
彼から「やさしい美の天使」と呼ばれていたゾフィーは懸命に看病した。
宮廷からの再三の催促にもかかわらず
母マリー・ルイーズは死の床にある息子になかなか会いに来なかった。
臨終の時にようやくやってきた母に看取られて21歳の人生を終えた。
ナポレオン2世の死から2週間後、ゾフィーは二男マクシミリアンを生む。
ゾフィーはマクシミリアンだけを溺愛していたので、
ナポレオン2世の子供なのではないかという説もある。




●フェルディナント1世 次代皇帝
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●マリア・レオポルディーネ
1797-1826 29歳没 
ポルトガル王子/ブラジル皇帝ペドロ1世の前妻 本人死別
1798-1834 36歳没
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ペドロ王子を含むポルトガル王ジョアン6世一家は
ナポレオンに追われて植民地であるブラジルに渡っていた。
遅くとも2年のうちにはポルトガルに戻るという約束で
レオポルディーネははるばるブラジルまで嫁いできた。
レオポルディーネは小さい時から敬虔と質素をモットーに育てられたので
化粧を嫌い女らしさに欠け太って中年女性のように見えた。
乗馬と自然科学の才能があった彼女はブラジルの暑さには悩まされたものの
乗馬、水泳、珍しい動物、植物、鉱物の蒐集に夢中になり
オーストリアから連れてきた学者たちと研究し、成果をヨーロッパにもたらした。

ペドロは軽薄にして酷薄、優柔不断にして好色な人物ですぐに堂々と浮気を繰り返すようになる。
レオポルディーネは夫の浮気や癇癪、暴力など対して
ヨーロッパへ帰国する日だけを頼りにじっと耐えていた。
そしてジョアン6世がポルトガルに戻る時がやってきた。
ところがジョアン6世はペドロ一家だけを残していくというのだ。
要するにブラジル統治はペドロに任せるということだ。
しかし彼に統治する能力などない。
結局レオポルディーネが政治能力を発揮し苦労の末ブラジルを独立させるのである。


★皇帝の愛人ドミティリア
1797-1867 70歳没
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レオポルディーネの尽力で初代皇帝となれたペドロは感謝するどころかすぐに愛人を作った。
愛人ドミティリアはたちまち宮廷を牛耳った。
レオポルディーネは部屋に軟禁状態となり生活費も与えらなかった。
彼女は父帝に惨状を訴えたが小心者の父はなんの援助もしなかった。
自分と愛人のどちらを選ぶのかと迫ったレオポルディーネをペドロは殴り続けた。
そして流産して亡くなった。


★皇帝の後妻 ロイヒテンベルク公アメリー・ド・ボアルネ
1812-1873 61歳没
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フランツ2世は娘の死についてこう語った。
「ペドロが今必要としているのは、美しさと気転を兼ね備えた花嫁だろう」
その言葉の通りペドロは美貌のアメリーと再婚した。




●マリア・クレメンティーネ 
1798-1881 83歳没
サレルノ公レオポルドと叔父と姪の近親結婚
1790-1851 61歳没
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●マリア・カロリーネ 
1801-1832 31歳没
ザクセン国王フリードリヒ・アウグスト2世の前妻 本人死別
1797-1854 57歳没
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●フランツ・カール・ヨーゼフ→子は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
バイエルン王女ゾフィーと結婚
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by xMUGIx | 2001-02-07 00:00 | オーストリア


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