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カテゴリ:朝鮮( 8 )

李氏

初代大韓帝国皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李鍝は公族として扱われた。




◆李鍝公
李堈の庶子/李垠王の甥
1912-1945 大正01-昭和20 32歳没

*父のイトコ李埈公/李埈鎔の養子となる。

*幼少期に来日し、学習院を経て陸軍士官学校で教育を受けた。

*軍へ出勤途中、広島の原爆で戦死

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■妻 朴泳孝侯爵の孫 朴賛珠
1914-1995 大正03-平成07 81歳没

*学習院出身

*李鍝は妻子を本国に疎開させていたため、妻子は本国で終戦を迎え以降祖国に留まった。

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●李淸
●李淙
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by xMUGIx | 2002-01-16 00:00 | 朝鮮

李氏

大韓帝国初代皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李鍵は公族として扱われた。




◆李鍵公/桃山虔一
李堈の庶子/李垠王の甥
1909-1990 明治42-平成02 81歳没

*幼少期に来日し、学習院を経て陸軍士官学校・陸軍大学校で教育を受けた。
朝鮮語の読み書きはできない。戦後身分喪失、桃山虔一と改名。

*浪費家の父親李堈からの送金も途絶えがちで、通学の交通費にも事欠く状態であった。
弟の李鍝は李埈鎔の養子となり、
学習院入学のために来日した際にすでに公族であったため、
通学には宮内省からの御料車も用意されていた。
ゆえに李鍵が公族と認められるまでは、弟の李鍝に敬礼をしなければならなかった。

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■前妻 松平頼聡伯爵の子松平胖の娘 誠子 熟年離婚
1911-2006 明治44-平成18 95歳没

*誠子の母俊子が梨本宮伊都子妃の妹である関係から、誠子と李方子妃はイトコになる。

松平誠子←華族松平胖の娘として生まれる
広橋誠子←朝鮮公族との結婚に際し爵位の必要性のため広橋真光伯爵の養妹となる
李誠子 ←李鍵と結婚する
李佳子 ←戦後改名する
松平佳子←離婚して旧姓に戻す
5つの名前を持つが、いずれも読み方はヨシコである

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李鍵はある日本人女性と結婚しようとしたが周囲に反対され挫折、酒に溺れるようになる。
そこで娘方子が李垠妃である梨本宮家の口添えで誠子との縁談が持ち上がる。
李鍵は「女であれば誰でもよろしい」という自暴自棄の状態で、
誠子はお見合いで顔を上げられず
「彼が履いていた軍靴が黒くピカピカ光っていた」ことしか覚えていなかった。

誠子は華族ではあったが父に爵位がないため
父の兄松平頼寿伯爵の養女という形を取る予定であったが、
頼寿は「誠子が幸せになれるとはどうしても思えない」とこの縁談に大反対であった。
業を煮やした梨本宮家は、誠子を伊都子妃の母/鍋島直大侯爵夫人栄子の実家
広幡伯爵家の養女にして結婚させた。
(誠子の母俊子と伊都子は姉妹で、ともに栄子の娘である)

終戦後 李鍵の財産はほとんど朝鮮にあったため、すぐに困窮する。

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李鍵

私は生活の本拠を東京に置いてはいたが
財産は李王職の監督を受ける建て前になっていたから、すべて鮮内に置いていた。
そのため終戦時に東京に持っていたのは、
さしあたりの生活に必要なわずかばかりの現金と
偶然手元にあった少額の有価証券だけであった。
私はとりあえずそれをもって5人の家族と十数人の使用人を養い、
後は土蔵の中で焼失を免れた什器や数台の自動車を処分して生活にあてた。

まず最初は家にいた事務官の勧めによって、渋谷によしず張りの汁粉屋を出した。
その次が山羊の乳の販売、羊羹の製造、トラック運送、文房具屋の経営もやってみた。
実際に携わったのは家の者達だったが、どれも成功しなかった。
武士の商法とはよく言ったもので、ある時は騙されある時は人件費に食われ、
結局はマイナスが累積してゆくだけだった。
商売をやめて農園の経営も企てたがこれも失敗、
その次はガリ版屋、雑文書き、翻訳業をして生活を支えた。
貧乏はずいぶんとひどかった。
手内職はおろか、しまいには物もらいや乞食までもした。
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誠子によると、「みるみるうちに着物が消え宝石が消えた」
使用人たちと汁粉屋を始めるが、1年しか続かなかった。
次に銀六デパートに菓子屋<桃山>を開業、
着る物が無いので宮中服で売り子に立った。
しかし銀六デパートが立ち退きとなり1年足らずで廃業。
次に会員制社交クラブ<銀座倶楽部>の雇われ社長となる。
歌が上手く社交的な誠子にはぴったりな仕事だった。

ところが李鍵は失意の内に前田美子という女性と不倫関係となり、
1951年昭和26年誠子に離婚を申し出る。
李鍵によれば、「誠子は家庭の運営を放棄し、実質的には妻でも母でもなかった。
離婚を切り出しても誠子は躊躇せずあっさり受け入れた」となり、
誠子によれば、
「仕事を始めてからも閉店ギリギリのデパートに駆け込んで夕食の材料を買い、
子供たちのお弁当の用意もした。
外で働く主婦としての疲労が鉛のように心身を閉ざしている事を
誰も見ようとはせず知ろうともしなかった。
離婚を切り出された時も
理解できない間に李鍵が宮内庁に出向いて離婚の手続きを取ってしまった」となる。

「欣也と明子はこちらで引き取ることにするが、忠久はそちらへ渡すから頼みます」
と李鍵の言う通り、李鍵が欣也と明子を、誠子が忠久を引き取ることになる。
のちに明子も誠子と暮らしたいという希望で、李鍵の元から誠子の元へ行った。
長男忠久については、、戦時中の血液検査で李鍵の子でないことが判明していた。
李鍵は「誠子は私との婚約前からある華族の青年と親しくしていた。
私は軍人として泊りがけの演習にもよく出かけたが、
そんなとき誠子は彼の家に行っていた」と述べている。
誠子は銀座倶楽部の雇われ社長をクビになり、飲み屋<よしの路>を開業。
子供たちのために水商売から中華料理店<桃山>に変更。
さらに寿司屋<桃弥摩>に変更した。

誠子は、明治天皇の御落胤を自称する怪僧 橘天敬と同棲するようになる。
10年後 橘天敬が死亡した後は、新興宗教真如苑に入信して念仏の毎日を送る。
橘天敬には妻子がいたため、誠子は入籍していない。




■後妻 前田美子




●前妻の子 欣也
●前妻の子 明子
●前妻の子 忠久
●後妻の子 孝哉
●後妻の子 まや
●後妻の子 久美


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後妻の子 桃山孝哉 開成高校教頭

孝哉が自身の出自を知ったのは父親の死亡時であった。
それまでも「あなたは李王家の血筋だ」と聞かされたことがあったが、
母親が一笑に付して否定したため信じていなかった。

李垠王の子李玖の死亡後、後継者として直系に最も近い孝哉に注目が集まったが、
「自分は100%日本人だと思っている、
李王家のことや王位継承うんぬんは私には何ひとつ関係のないことです」と否定した。
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by xMUGIx | 2002-01-15 00:00 | 朝鮮

李氏

大韓帝国初代皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
徳恵は王族として扱われた。




◆徳恵翁主/徳恵姫
1912-1989 明治45-平成01 76歳没

*朝鮮では側室から生まれた王女には<翁主>使用し、
正妻から生まれた王女には<公主>を使用する。

*徳恵自身は王族であるが王族の直系ではないため、
日本での敬称は「殿下」ではなく「姫」を使用する。

*宗武志伯爵と結婚、一人娘正恵を生むが、結婚前からの精神病は悪化しつづけた。
戦後の華族制度廃止に伴い、宗伯爵家も家屋敷を失い使用人もいなくなった。
徳恵も精神病院に入れざるをえなくなる。

*娘正恵が結婚した年に夫妻は離婚、武志は再婚して新たに3人の子供に恵まれる。

*1962年昭和37年韓国に帰国が許され、
同じく韓国に渡った義姉李方子/李垠王妃と共に住まった。

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韓国にて   左 義姉方子   右 徳恵
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■夫 宗武志伯爵
1908-1985 明治41-昭和60 77歳没

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●正恵

*23歳の時に大学時代に知り合った26歳の中学の英語教師の男性と恋愛結婚したが、
翌年遺書を残して失踪、生死不明のまま死亡と認定された。

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学習院で同級だった相馬雪香 尾崎行雄の娘/相馬恵胤子爵夫人

韓国の李垠殿下のお妹さんで徳恵様という方が、私達のクラスに入ってこられました。
徳恵様は我々と同じ制服のセーラー服でしたが、
お付きの女官達はピンクやブルーや黄色の韓国服を着ておられ、
まるで天女の羽衣を思わせるような姿でサーッとクラスに入ってこられたのです。
その美しさに強い印象を受けました。

先生から「徳恵様と仲良くするように」という御話がありました。
おせっかいな私はさっそくお相手をしようと思い、お友達になりました。
口数の少ない方で何を言ってもあまりお返事をなさらないで、
「ハイ、ハイ」とおっしゃるだけでした。
昼休みになると遊びにもお誘いするのですが、教室に座っていらっしゃるのでした。
どういうお育ちをなさったか知りませんでしたが、運動などもあまりなさらないのです。
運動会などはいつもビリなので、本当にお気の毒でした。


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徳恵の義姉 梨本宮守正王の娘/李垠王妃 方子

夏休みには私が付き添って伊香保に避暑されていましたが、
秋になって学校が始まっても、
行きたくないと終日床につかれて食事にも出ようとされません。
夜は強度の不眠症で、時には突然外に飛び出され、
驚いてお探しすると裏門から赤坂見附の方へ歩いておられたりということもあったので、
ただごとではないと精神科の先生に来診をお願いし、
看護婦もお付きして当分は大磯の別荘で静養されることになりました。

もともと内気な方だったとはいえ、私などには明るく希望に満ちたお話しぶりで、
将来は学校の先生になって、と ご利発なお言葉を頼もしく伺っていたのに、
今は鬱々として床についておられるばかりなのです。
「早く元気におなり遊ばして・・・」
とベッドの枕辺にひざまづいて幾度となく涙を流してお話ししましたが、
受け答えもなく、ついに早発性痴呆症と診断されました。

ところが昭和06年を迎えて徳恵様はだいぶ落ち着かれ、
お食事も進んでお話しも少しは調子良く話されるようになったため、
宗伯爵との御縁談も順調に進んで
05月08日には御結婚式が挙げられることになりました。

この日の早いことを誰よりも望んでいた殿下〔李垠王〕と私であったとはいえ、
また小康を得られたとはいいながら
白い洋装のお姿が何かしらおいたわしい思いがして、そっと涙をぬぐったことでした。
再発への心配と、朝鮮の血を無理矢理日本の血の中へ同化させてしまおうとする
当局の意図への反発も、秘かに感じていた私でした。


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宗武志の教育係であった平山為太郎の日記 昭和06年11月03日

午前10時、伯爵〔宗武志〕に伺候し、古森氏・斎藤家令・伯爵と4人、
絵画の談および蘭の培養等につき長時間談話をなす。
その時に徳恵夫人も突然来席あり。
挨拶を述べしも、一言の言葉なく答礼ありしのみ。
そして絶えず声を出して失笑せらるること数次、真に病的の挙動なり。
伯爵の御胸中 果たして如何、嘆息の至りなり。 


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昭和13年から昭和15年まで宗伯爵家に勤めた中村国枝の証言

対馬の小学校時代、宗武志の担任を務めた米田隆太の娘
その縁で女学校卒業後、上京して宗伯爵家に勤める

私は正恵さんのお勉強やお遊びのお相手をするのが第一の仕事で、
他にお掃除や縫い物などもいたしました。
正恵さんは当時小学校の1年ぐらいでしたが、細くて弱い体のお子さんで、
御養生のために湯河原の温泉へお供したこともあります。
学習院の送り迎えにもお供いたしました。
父兄会に私が代理で出席したこともありました。

当時の宗家には十数人の人が働いていたでしょうか。
私達は御当主を<伯爵様>とお呼びし、徳恵様のことを<御前様>とお呼びしていました。
伯爵様は週に何回かは千葉の方へ講義にお出かけで、
遠いので夜遅くなられることもありました。
広い洋間の書斎があって、よく書き物などをしておられました。
伯爵様がお風呂に入って大きなお声で『この道』を歌っておられたのを覚えています。
とてもいいお声でした。
一度、伯爵様とピンポンをしたことがありましたが、あれは応接間だったかしら・・・。

徳恵様のお世話はミヨさんと和田さんの二人が主にしていました。
お召し物は洋服のことも和服のこともありました。
具合の良くない時、御寝巻にガウンをかえけたお姿も多かったようです。
お身体の華奢な、手も本当にほっそりとしてきれいな方でした。
時々2階から、誰も相手がいないのに笑う声が聞こえることもありました。
時たま2階から正恵さんの部屋に降りてきて、
椅子にじっと座っていらっしゃることもありました。
そんな時 何もおっしゃらないのですが、
お名前をお尋ねすると漢字で<徳恵>とお書きになります。
「お子様は何とおっしゃいますか」と聞くと「正恵」とお書きになりました。

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1908年 明治41年
宗武志 誕生


1912年 大正01年
徳恵 誕生


1919年 大正08年 徳恵07歳
徳恵の父死去


1925年 大正14年 徳恵13歳 
徳恵来日、兄李垠家に住まう。


1929年 昭和04年 徳恵17歳  
徳恵の母死去


1930年 昭和05年 武志22歳 徳恵18歳 
李垠・方子妃・徳恵 完成した李王家新邸へ転居 
「早発性痴呆症」と診断される
武志と徳恵 初対面


1931年 昭和06年 武志23歳 徳恵19歳 
武志と徳恵 結婚


1932年 昭和07年 武志24歳 徳恵20歳 
正恵 誕生


1946年 昭和21年 武志38歳 徳恵34歳 正恵14 
徳恵 入院


1955年 昭和30年 武志47歳 徳恵43歳 正恵23歳 
正恵 結婚
武志と徳恵 離婚
武志 再婚


1956年 昭和31年 武志48歳 徳恵43歳 正恵24歳 
正恵 失踪、生死不明のまま死亡認定


1962年 昭和37年 武志54歳 徳恵50歳 
徳恵 韓国に帰国


1985年 昭和60年 武志 死去 77歳


1989年 平成01年 徳恵 死去 76歳

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by xMUGIx | 2002-01-14 00:00 | 朝鮮

李氏

大韓帝国初代皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李垠は王族として扱われた。




東京本邸 港区赤坂
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◆李垠王
1897-1970 明治30-昭和45 72歳没

*学習院を経て陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校で教育を受けた。
戦後身分喪失、妻とともに韓国に帰国した。

*朝鮮語・日本語・英語が堪能であった。




★婚約者 閔甲完
1897-1968 明治30-昭和43 71歳没 

李垠とは生年月日が全く同じという縁があった。
10歳の時に李垠との婚約が決まったが、
李垠はその年から来日したため婚約解消となった。
別の男性と結婚させようとする日本政府の圧力から逃れるため上海へ亡命する。
戦後1946年昭和21年、
49歳の時にようやく韓国へ帰国できたが生涯独身を通した。


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亡命先の上海にて 弟と
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■妻 梨本宮守正王の娘 方子女王
1901-1989 明治34-平成01 87歳没
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韓国にて
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イギリスにて
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フランスにて
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方子は15歳の夏休みに家族とともに大磯の別邸に滞在していた時、
自分の婚約発表を新聞で初めて知ったということになっている。


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李方子の母 梨本宮伊都子妃の戦後の手記

この年8月私たち母娘3人は、大磯の別邸で夏を過ごしていたのです。
ある朝 朝刊を広げた方子は「アッ!」と息をのんだかと思うと、
両手をわなわなと震わせました。
その新聞には、「いよいよ王世子と方子女王の御婚談発表せらる」
という大きな活字と二人の写真が並べてあったのです。
「やはり本当になったのですか」驚きをおさえながら方子は言うのでした。
私は宮様の言葉を伝えなければなりませんでした。
「あなたにはなんとも気の毒ながら、おもうさま(宮様)と御相談の上、
いろいろの事情でお受けすることになったのです。
陛下の思し召しで御国のためと言われては、どうしようもありません」


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李方子

「いったいこれは・・・」
自分の婚約発表を新聞で知らされる・・・なんとも納得いかない思いでした。
大正もはじめのその頃は、
一般世間でも親とか家とかのために結婚することは珍しくなくて、
本人の意志は重んじられないのが普通でした。
皇族の場合はもっと自由がないとはいえ、
それならそれでせめて新聞に出る前に覚悟も決め、
「お受けいたします」ときっぱり申し上げたかったと思うのです。

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しかし、事実は違う。この結婚は梨本宮家が望んで実現したものであった。


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当時の梨本宮伊都子妃の日記

宮内大臣〔波多野敬直〕参られ、伊都子に会いたき旨ゆえ、じかに対面す。
他にはあらず、かねがねあちこちに話し合いおりたれども、
色々難しくはかばかしくまとまらざりし方子縁談のことにて、
ごく内々にて寺内〔朝鮮総督寺内正毅〕をもって申込み、
内実は申込み取り決めたるなれども、都合上 表面は陛下思し召しにより、
御沙汰にて方子を朝鮮王族李王世子李垠殿下へ遣わすようにとのことになり。
ありがたく御受けしておく。しかし、発表は時期を待つべしとのこと。


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小原駩吉男爵の証言 宮内省宗秩寮の事務官としてこの縁談のパイプ役を務めた

婚約の2~3年前 小原が梨本宮家を訪問すると、
伊都子が「もし成立するものなれば、
方子を王世子の妃となすことはいかが」と切り出した。
伊都子は以前から母の鍋島栄子侯爵夫人や伯父の藤波言忠子爵から
李王家との縁談を勧められており、梨本宮家もそれを希望していたのだ。

翌日 小原は梨本宮家の希望を宮内大臣や宗秩寮総裁に報告するとともに、
方子の成績や健康を調査した。
たまたま帰国中だった朝鮮総督寺内正毅にも相談し、
「至極適当の御縁談なり」という賛同を得ている。
ただし寺内は、朝鮮の動向を気にして
好機が訪れるまでは話を進めない方が良いとの慎重論を取った。
そこで婚約成立まで「はかばかしくまとまら」なかったのであった。


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李方子周辺への取材

当時の学友は「方宮様が内気だなんてとんでもない」と笑う。
敗戦後皇族という枠から解放されて、方子はしばらく自由を楽しんでいる。
そのひとつは買い物であった。問屋街やデパートの特売場で
買い物をしている方子の姿を何人かの人が目撃している。
問屋街では値切る事も覚えたと方子は言う。
こうした方子の様子を、
当時の皇族方は「方宮様のなさることは…」と眉をひそめていたらしい。
方子は買い物のたびにそれらの品物をタクシーに満載して帰ってくる。
当時良質の者があろうはずもなく、
方子がとても安かったのよという商品は安物のビニールのハンドバッグや靴などであった。
私にこの話をしてくれた侍女は、
どうにも仕方がないという表情で眉根にしわを寄せて首を横に振っていた。
「御自分でお金を払って買い物なさる事が、
お珍しくて楽しくて仕方がないという御様子でした。
他の妃殿下方はひっそりしておられましたのに…」

方子と澁澤栄一の孫である澁澤多歌子とは、
三笠宮に紹介されて以来親しいつきあいが続いていた。
「いつでしたか私が果物を買いに出ましたのです。
李王様が御一緒されることになりました」
小さな八百屋に入ったきり李垠がなかなか出てこない。
多歌子がのぞくと「これはいかほど?あっ、そう」
とそこらじゅうの品物の値段を聞いていた。
「買わなければ悪いなどという下々の感情など無縁の御方ですものねえ。
あんな温厚な紳士が参謀長では、戦争に負けるはずだわねって言い合いましたものですよ」


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李垠の秘書 趙重九/長重九

*趙は李垠の遠縁で、趙の父はかつて李垠の侍従武官長でもあった。

「王家が滅亡するのは当然であるのだが、
もっとまともな滅び方をしてほしいのがせめてもの願いである」

趙は朝鮮王朝500年の王者らしい滅び方と秘めていた腹案があった。
それは李王家のすべての財産を国に献納し、
東京邸は韓国大使館など国の公共的なものとして使用する。
それをすればたとえどんな新政府ができたとしても、李王家を放っておくはずがない。
それに国民も、さすが王家と崇拝の念を失わないであろうというものであった。
「王殿下も妃殿下も、そこまでの潔さがありませんでした」

「内閣官房長官楢橋渡と気安く話ができるようになると、
私の面前でついに御自身の口からは決して言ってはならない事を言ってしまった。
『私の地位はどうなりますか?どうかこれまで通りの待遇をしてもらえませんか?』
私はその言葉を聞いた瞬間顔から火が出る思いがし、怒りがむらむらと胸を突き上げてきた。
私は中座してしまった。私の目からは涙があふれてきた。
このような哀願は、側近の者が万策尽きた最後に言うべき言葉である」

楢橋は「できるだけの努力を致しましょう」と返答した。
その上で新憲法の草案作りを伊藤博文ゆかりの地である滄浪閣行いたいので
日本政府に譲っていただきたいと申し出た。
滄浪閣は伊藤博文が大磯に建てた邸宅であり、
1921年大正10年に李王家から伊藤公爵家から12万3600円で購入した物である。
李垠と趙は楢橋の意見に賛同して滄浪閣を譲渡することにし、
李王家の紋章が入った和洋食器を揃えて大磯に贈り届けた。
ところが滄浪閣は政府の所有にはならず、「楢橋」の表札が掲げられる事になる。
その後滄浪閣は西武グループに売却され、大磯プリンスホテル別館となった。

当時日本のキリスト教界では、
国際キリスト教大学を日本に設立しようという運動が起きていた。
李王家が東京邸献納に乗り気でないのを知って、
それなら国際キリスト教大学の本部のような公共のものにされてはとの相談である。
大学創立委員会は代金として10万ドルを提示してきた。
当時の10万ドルは3600万円である。
財産税の750万円を支払っても3000万円近い金が残る。
その金利だけで王家は悠々と暮らしてゆけると趙は思った。
ところが趙には内緒にされていたが、
李垠はホテルのようなものにして自分も直接経営に参加し、
華やかな社交場への出入りを夢見る話を進めていた。この甘言に乗せられて、
国際キリスト教大学の本部にとの話は取り巻き連中と一緒に賛成しない。
「李王が大学の理事の一人になられれば、世間的にも申し分ないじゃないですか、それを」
と趙は今でも残念で仕方がありませんと繰り返す。

その後も趙はマッカーサーに直訴までして
李王家が王家らしい終焉を迎えるために努力した。
しかし、刀折れ矢尽きた趙は李王家を去った。
1947年昭和22年10月14日、方子たちは正式に臣籍降下した。
財産税を納める手立てもないまま、方子は平民となった。


「李王のこの未練が、ついに国民から捨てられるのである」
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梨本宮家が李王家との縁談を望んだ理由は、
一つには皇族女子が華族に嫁げば皇族でなくなってしまうが、
かと言って候補となる皇族男子の数が少ない点、
もう一つには梨本宮家の子供は女子2人のみであるため、
将来宮家は廃絶されることが決まっていたので確固たる地位を予定しておきたかった点、
李王家であれば皇族に準ずる王族であり、さらに李王家は財産家でもあった。

方子には本当に知らされていなかったのかもしれないが、
梨本家をはじめとする周囲は充分に承知していた縁談であった。




●李晋 早逝
●李玖 





◆李玖●子供ナシ
1931-2005 昭和06-平成17 74歳没
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■前妻 アメリカ人女性 ジュリア・ミューロック 離婚
american Julia Mullock
1928- 昭和03-

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方子妃と
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純宗の皇后尹氏と
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■後妻 占い師 有田絹子


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李玖はアメリカに留学、マサチューセッツ工科大学建築科を卒業、
ニューヨークの建築事務所に勤めた。
仕事の関係で知り合った美術学校卒業のアメリカ人女性ジュリア・ミューロックと結婚。
帰国を許された両親とともに夫妻も韓国へ渡るが、女性問題で離婚する。
さらに事業の失敗をきっかけに日本に戻り、
天照大神の化身を自称する占い師有田絹子と再婚。
絹子の指図で「成功は有田女史のお力で実現する。信じなければボロボロになる」
などと言って金を騙し取るという詐欺事件も起こす。
かつて自邸であった赤坂プリンスホテルに滞在中、心臓マヒで死亡。
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by xMUGIx | 2002-01-13 00:00 | 朝鮮

李氏

大韓帝国初代皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李堈は公族として扱われた。




◆李堈公
1877-1955 明治10-昭和30 78歳没

*庶子として冷遇され、16歳になるまで父親高宗に会えなかった。
待遇の不満から素行不良となり、死ぬまで日韓両政府を振り回し続けた。

*18歳の時に日本に逃亡、本国からの再三の帰国命令を無視する。
高宗からの頼みで福沢諭吉がお目付け役になるが、放蕩と散在はやまなかった。

*そこで、20歳の時に高宗からアメリカ留学を命じられる。
アメリカでも少なくとも3人の女性、
アンジー・グラハム、クララ・ボン、メリー・ボブンスと恋愛問題を起こし報道されている。

*28歳で留学を終えたが、母国に帰らず横浜で暮らす。
多くの妾・愛人を作り、多くの庶子を作った。
死亡時の調査によると、妻18人・子供28人である。

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■妻 金思濬男爵の娘 金修徳
1880-1964 明治13-昭和39 84歳没
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公族と認められた子供は二人


●側室鄭氏の子 李鍵
●側室金氏の子 李鍝
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by xMUGIx | 2002-01-12 00:00 | 朝鮮

李氏

大韓帝国初代皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
純宗は王族として扱われ、昌徳宮李王と称された。




◆大韓帝国2代皇帝/初代李王 純宗●子供ナシ
1874-1926 明治07-大正15 52歳没

*皇太子時代に政争に巻き込まれ、コーヒーにアヘンを盛られて暗殺未遂される。
歯は抜け落ち胃潰瘍や腎萎縮を併発して、生涯病弱であった。

*しかし記憶力には優れ、謁見した者の氏名はすべて覚えていた。
起床・就寝・入浴などの時間は自ら時計を見て時間を厳守した。
平日は毎日午後2時から4時まで趣味のビリヤードに興じ、
夜は蓄音機での音楽鑑賞を好んだ。

*フランス料理が好きで、ほぼ毎日洋食だった。

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ロンドン・デイリー・メイル記者 フレデリック・アーサー・マッケンジー

純宗は背が高く、ぎこちなく、不器用で、うつろに見える。
口を開けたままアゴを落とし無関心な眼差しをして、
知的関心の揺らめきもないような顔でおられる。

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■前妻 純明孝皇后 閔氏 死別
1872-1904 明治05-明治37 32歳没




■後妻 純貞孝皇后 尹氏
1894-1966 明治27-昭和41 72歳没
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左から 李垠 純宗 高宗 純宗皇后 徳恵翁主
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左から 徳恵翁主 李垠妃方子 純宗皇后 純宗 李垠 側近に抱かれた李晋
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by xMUGIx | 2002-01-11 00:00 | 朝鮮

李氏

◆26代朝鮮王/大韓帝国初代皇帝 高宗
1852-1919 嘉永05-大正08 67歳没

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
高宗は王族として扱われ、徳寿宮李太王と称された。

*高宗の日常生活は昼夜逆転。寝室に向かうのが午前3時、起床は正午。
朝食は食べずに午後2時におやつを食べ、午後11時に夕食をとった。
食事はほとんど朝鮮料理で、毎週水曜日に西洋料理というメニュー。
入浴は週1回で、運動もほとんどしなかった。

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■前妻 明成皇后 閔氏 通称閔妃 暗殺
1851-1895 嘉永04-明治28 44歳没 
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■後妻 純献皇貴妃 厳氏 通称厳妃
1854-1911 嘉永07-明治44 57歳没
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★側室 貴人梁氏
1882-1929 明治15-昭和04 47歳没
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高宗の主要な子供たち


●前妻閔妃の子 李坧 純宗 27代朝鮮王
●側室張氏の子 李堈 義親王→子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主


高宗と純宗
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by xMUGIx | 2002-01-10 00:00 | 朝鮮

李氏

◆李昰應 興宣大院君
1820-1898 文政03-明治31 78歳没

大院君とは直系でない国王の実父に与えられる称号である。
息子李載晃が朝鮮王 高宗となったため大院君となった。

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■妻 閔氏
1818-1898 文政01-明治31 80歳没


●李載冕 李熹公→子は李埈鎔/李埈公
●李載晃 26代朝鮮王・大韓帝国初代皇帝 高宗
●長女  趙慶鎬男爵夫人
●次女  趙鼎九男爵夫人




★側室 李氏
1884-1978


●庶男 李載先
●庶女 李允用男爵夫人





◆李載冕 李熹公
1845-1912 弘化02-大正01 67歳没

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李載冕は公族として扱われ、李熹公と称された。
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■前妻 洪氏 死別
1844-1887 天保15-明治20 43歳没




■後妻 李氏
1883-1978 明治16-昭和53年 95歳没

李熹公は57歳の時に20歳の李氏と再婚した

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●前妻の子 李埈鎔 李埈公
●前妻の子 長女  金仁圭夫人
●前妻の子 次女  金斗漢夫人
●側室の子 庶女  金奎定夫人





◆李埈鎔 李埈公
1870-1917 明治03-大正06 47歳没

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李埈鎔は公族として扱われ、李埈公と称された。

*日本に留学

*実子がなかったため、イトコの李堈の子李鍝を養子にする。

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■前妻 洪氏 死別




■後妻 金氏
1878-1955 明治11-昭和30 77歳没

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●側室全順嚇の子 李辰琬 尹源善夫人
1916-1997 大正05-平成09 81歳没

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by xMUGIx | 2002-01-09 00:00 | 朝鮮


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