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by xMUGIx
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カテゴリ:中国( 20 )

愛新覚羅氏

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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1936年昭和11年01月13日
溥儀&関東軍司令官南次郎の会話

南◆日本の皇室ではお賑やかに渡らせらるるに比しまして
満州国の御皇室ではお寂しいような気が致します。
それは御世継の御皇子がいまだ挙げられぬことでございます。
皇后陛下との間に御皇子が御出来になることが何よりも望ましきことでございます。
それが当分見込なしとせば、
方法を設けて一日も早く御皇子をもうけるように致さねばならぬと存じます。
陛下には何かお考えになり、何か御方法をお講じになっておらるるでしょうか。

溥儀◆この事は既に昨年以来人をして選定せしめておりまして、
遠からず仮選定の人も来満しうる事と思われます。

南◆遠慮なく申し上げしむれば、条件はただ二つであります。
それは血統の正しきことと、体格の健全なることでありまして、
その他はいかなる条件なりとも陛下において御自由に遊ばされてよろしきかと存じます。

溥儀◆濤貝勒と朱なる者に命じておりましたが、
昨年さらに大格格にも依頼して人物を物色させております。
写真を見たばかりでは不十分ゆえ、
はじめは女官に採用するという意味で呼び寄せ宮中に入れ、
格格等と共に起居せしめその性格人物等を十分に見定めた上、
これを妃〔側室〕とすることにせんかと思っております。

南◆それはよろしいことと存じます。なるべく早く実現せんことを希望致します。


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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1936年昭和11年07月01日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

溥儀◆目下妃の候補者とも言うべき者を招き、
格格等と日々読書等致さしめその人物性格等を内察中なるが、
皇后の父栄源が各種の風評を流布しつつある次第にて、
かかる近親者にしてなおかつこの挙あることははなはだ遺憾である。

植田◆妃を立てる事は前任者南の時より大いに考量している事でありまして、
御皇室の繁栄のために一日も早く適当なる方を得らるる事を切望しておるのでありまして、
軍幕僚ことに吉岡安直参謀等とも話し合っておるのでありますが、
性格の良きこと、身体の健康なることが第一条件でありまして、
門閥の如きは第二に置いてよい事と思います。


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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1937年昭和12年01月30日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

植田◆溥傑氏の御結婚が決定致しますれば、
陛下の御弟妹のお年頃の方は全部お方づきになる事になりますので、
陛下も御安心遊ばさるる事と存じます。これは誠に慶事に存じまするが、
第一番に大切なる陛下の方が決定致しませぬ。
誠に申し訳がありませぬ。これもなるべく早くお決め致したいものと存じております。

溥儀◆種々心配していただいてありがとう。現に宮中において読書しておる者が2人あります。
いずれも純粋の満州旗人で、一人は18歳で一人は14歳であります。
18歳の方は小学校にも行った事なく文字もあまり多く知らぬくらいですが、
性質極めて温順であります。
14歳の方は小学校だけ北平で済ましたくらいの子供で、
白紙同様これからはいかようにも教育ができます。
この2人の内1人を妃とするか、また2人とも採用せぬか今のところ未定であります。
要は気質よろしく温順にして体格健康である事が第一で、容貌は第二であります。

植田◆左様であります。選ばれる方はやはり東洋風の貞淑温順の性格に体格健康にして、
また聡明なる事が必要であります。民国式の三民教育を受けた者はいけませぬ。
溥儀◆要するに忠孝の念の厚い者が大切であります。
自分の選ぶ婦人も性質温順にして皇后との関係も円満に行く者が必要で、
常に外出して走り回るような者では宮中の規則を破壊する恐れがあります。


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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1937年昭和12年02月17日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

溥儀◆かの妃の件ですが14歳と17歳の両人について種々研究しましたが、
14歳の方は性質も良く身分も正しい者ですがあまりに若くて問題になりませぬ。
17歳の方は当方へ来て以来二格格・四格格・五格格等と常に会食会談等の間に
その性格等について観察したところによると、誠に純良なようであります。
これは大格格が推薦してきた者で正黄旗人の家に生まれ血統正しく者ですが、
家は貧しく父は数年前死亡し母も一昨年死亡し伯母の家に養われてきた者で、
極めて孝心厚く温良の者でありますから、
これを【秀女】として入廷せしめ妃とすることに一昨日内定しました。

植田◆陛下におかせられましても充分に念に念を入れて御調査になり
御研究になった事でありまするから間違いは無い事と信じまするが、
私が軍司令官として御同意を申し上ぐるためには、
私の方でも取り調べまして将来いかなる方面より故障が申し出てきましても
これを押えるだけの根拠を作っておかねばなりませぬ。
またその一族の者が幸福にありつかんと種々累を及ぼさぬとも限りませぬ。
この方面の御調査はいかがでしょうか。

溥儀◆今回の者はこの点は心配ないのであります。妃とせず秀女として入廷せしむるので。
秀女というのは昔から清朝の宮中に奉仕する旗人の娘に用いた名で、
妃も秀女から挙げらるるのが常であります。
今回も秀女として採用し、家族とは一切関係を絶つ事、
養育してきた伯母に対しては1年に1回または2回の面会を許す事とし、
その他親族関係者とは一切絶縁する事としました。


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by xMUGIx | 2007-01-10 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

溥儀には正室が1人、側室が3人、平民になってからの妻、計5人の妻がいた。




■第2夫人 淑妃/額爾德特 文繍
1909-1953 明治42-昭和28 44歳没

文繍は紫禁城で何度か自殺未遂を起こしたことがあった。
国民軍に追われて皇帝溥儀・皇后婉容とともに紫禁城を逃れて
天津に移った後もまた自殺未遂を起こした。
溥儀は彼女を厳しく監視させると同時に、文繍の妹文珊を呼び寄せて相手をさせた。
1931年昭和06年08月25日、文繍はまた自殺未遂を起こした。
文珊は姉の気晴らしのために外出を溥儀を申し出た。
外出を許された文繍と文珊は自動車に乗り国民ホテルに向かった。
ホテルの部屋には3人の弁護士が待っていた。すべて姉妹の計画だったのである。

元皇帝が離婚を叩きつけられた事件は大スキャンダルとなり、
文繍の家族も反対に回ったりと世間にも賛否両論が巻き起こった。
紆余曲折の上、和解が成立。条件は以下の通り。

1 協議成立の日から双方の関係は完全になくなる
2 溥儀は文繍に対して、5万5千元の終身生活費を支払う
3 文繍が日常使用していた衣類と物品を持って行く事を認める
4 文繍は実家に戻り永遠に再婚しない
5 双方は互いに名誉を毀損しない
6 文繍は裁判所から調停要求の訴状を撤回し、このあと二度と訴訟を起こさない

離婚後北京で小学校の教師となった彼女は中華人民共和国成立後に英雄視されたが、
再婚したジャーナリストが蒋介石政府と関係していた事がたたって貧窮のうちに死亡した。

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愛新覚羅溥佳

溥儀が16歳になった頃、父載濤・伯父載灃・載沢が皇后の人選に取りかかりました。
このニュースが伝わると私の家には令嬢の写真を届けに来る人が後を絶たず、
門前市を成す有り様です。
ただし、当時は満州族と漢族は婚姻できないという決まりがありました。
条件は、蒙古の王公あるいは満蒙の旧臣の娘でなければならないということでした。
父は何度かに分けてこれらの写真を宮中へ持って行きました。
溥儀と太妃達に選ばせましたが、どれもこれも気に入られなかったのです。
それで、かなり時間が長引きました。それから何回かふるいにかけて、
満州族 郭布羅栄源・満州族 額爾徳特端恭・満州族 衡永・蒙古の王公 陽倉扎布の
4家の令嬢だけを残しました。

さらに丹念に選んだ結果、栄源の娘婉容と端恭の娘文繍が残ったので、
二人の間で激しい競争が繰り広げられたのです。
婉容は私の父が推薦して、瑾妃の支持を得ていました。
文繍は伯父載洵が推薦して、敬懿皇貴妃/瑜妃の支持を得ていました。
翌年の春もはやこれ以上引き延ばせないという時になって、
伯父載灃が婉容と文繍の写真を持って宮中へ行き、溥儀の聖断を求めたのです。
彼は何のためらいもなく、婉容を皇后に指定しました。
王公や教師達はまたもいろいろと協議して、
文繍を妃〔側室〕に立てるようにと溥儀に勧めたのです。
私の知る限りでは、溥儀はもともと妃を立てたくなかったようです。
おそらく同意するしかなかったのだと思います。

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■第3夫人 祥貴人/譚 玉齡
1920-1942 大正09-昭和17 22歳没

満州族貴族の出身、溥儀が唯一寵愛した側室といわれるが、早逝した。
溥儀との間に跡取りが生まれることを危惧した日本軍による毒殺とも言われる。

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溥儀の甥 愛新覚羅毓嶦の妻 楊景竹

祥貴人は背丈は160センチぐらいで、すらっとした身体つきのお方でした。
目鼻立ちの整った心持ちふっくらとしたお顔、
長い睫毛の下に可愛らしい目がパッチリしていました。
スタイルの良い聡明な女性だという感じを受けました。
私は次第に祥貴人が内向的な性格の方で、
重大な事柄については心の中でわかっていればよいという程度にしておられて、
決してはっきりと指摘するような事がないのだということに気づくようになっていました。

上の子が生まれた時、祥貴人にも御挨拶に上がりました。
彼女は苦しそうな笑顔を浮かべられてお祝いを述べられ、
「おめでとう」と言って下さいました。
「子供を生むなんて、私には一生だめでしょうね」
祥貴人のこの御言葉はとても強い印象として残っています。
私は家に帰ってからこのことを他の人達にも話して、みんなで大笑いしたものでした。
兄嫁は言ったものです。
「だって、何のためにお嫁に来ていただいたの。
皇太子を生んでいただくためじゃないの」


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周君適

宮中では上の者から下の者まですべての人達が、溥儀と祥貴人の間はしっくりしていて
婉容も文繍も足元に及ばないと思っておりました。
しかし、真実はそうではありませんでした。
皇帝の親戚関係にあたる女性達が祥貴人の御相手をして麻雀をしていました。
その時、みんなが口をそろえて祥貴人は幸せな方だと御世辞を申し上げました。
そのとき祥貴人は急に真顔になり、「私は未亡人のようなものよ」とおっしゃいました。
溥儀は昼は御一緒しておられるのに、夜は自分の部屋に戻られていたのです。


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■第4夫人 福貴人/李 玉琴
1928-2001 昭和03-平成13 72歳没

満州国皇帝時代に15歳で側室に選ばれた。
今までの側室の中で唯一の平民出身でチャキチャキの下町っ子だった。

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溥儀の甥 愛新覚羅毓嶦

李玉琴が宮中に入る経緯はこうである。
吉岡安直が女子生徒の写真を綴じた物を持ってきた。
一枚一枚の写真の下に略歴を書いたカードが貼ってあった。
吉岡が去った後、溥儀は我々宮廷の学生を書斎に呼び込んで
アルバムを一ページ一ページめくってみせた。
我々の意見を聞きながら考えをまとめようとしていたのだ。
「これは真面目で情が厚いタイプだ」「これはきっとおとなしい」とか。
しかし我々が良いという人は溥儀の眼中にはなく、最後に彼自身の判断で李玉琴を選んだ。
彼女がお人好しで単純で幼稚であることは写真を見れば一目瞭然である。
これこそまさに溥儀の望むところだった。略歴を見てもこの子が最年少だった。

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満州国崩壊後、社会主義国となった中国で身分を隠し様々な職に就く。
明るく美しい玉琴に求婚する者は多かったが、
溥儀との離婚が成立していなかったため玉琴は断り続けるしかなかった。
そのうち工場の診療所の医者と恋に落ち妊娠するが、
溥儀の側室であったことが職場にバレ、仲を裂かれてしまう。
玉琴は溥儀が収容されている撫順戦犯管理所所長金源に掛け合う。


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撫順戦犯管理所所長 金源

食堂へ誘い昼飯を出して話を聞いた。妊娠している事は誰の目にもわかった。
彼女の相談というのは、
この妊娠の事実を溥儀に打ち明けるべきかどうかという事だった。
溥儀はその頃いずれ彼女と新しい家庭を築きたい夢を持っていた。
だから妊娠している事を打ち明けると動揺するだろうし、
改造にも悪い影響を及ぼす事は明らかだ。
とにかくその子供を生んでそれからの事は改めて相談しよう、
そういう返事しかできなかった。
すると彼女はそれなら自分もここへ入獄させてくれと言いだした。突然の事で驚いた。


入獄はかなえられなかったが、
極秘裏に処理するという点で管理所と玉琴の利害は一致した。
玉琴は恋人だった医者の職場に押しかけた。

大きな腹を叩きながら、この子のお父さんはだれですかと言った。
その辺の事情はそこでも知っていた。
出産まではそこが面倒をみて、生まれた子供もそこが仲介して養子に出した。

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1958年昭和33年、長春中央電視台録音部チーフ黄毓庚と再婚、一人息子をもうける

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■第5夫人 妻/李 淑賢 バツイチ
1925-1997 大正14-平成09 72歳没

溥儀は服役15年後に釈放された。
友人から看護婦だった李淑賢を紹介されて結婚。
周恩来首相も祝福した。
性的不能を事前に知らされていなかったため激怒したが、
慌てた党関係者ら周囲の説得により離婚をあきらめた。

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第5夫人 李 淑賢

新婚の一週間はてんてこ舞いの中であっという間に過ぎた。
夜ベッドに横になるとすぐに溥儀の軽いイビキが聞こえてきた。
しかし結婚式の夜以来、新婚生活の二週間目になっても夜は別々の布団だった。
最初は不思議に思ったが、皇帝だった人には特別な修養でもあるのかなと思ったりした。
私が床についても、彼はソファに座ったままで煙草を喫ったり本を読んだりしていた。
追いつめられた彼は涙声で、自分は男性として不能であり、
妻と正常な性生活ができないことを白状した。
「なぜ結婚する前に、すべて打ち明けてくれなかったのよ」と私は怒って尋ねた。
「言いにくい事だし、それを知れば結婚に応じてくれないのではないかと心配したからだ。
もしかしたらという気持ちもあったのだ」
「もう後の祭りだわ。私ももう30過ぎよ、子供が欲しいのよ」
「子供が欲しいなら、一人もらってくればいいと思うよ。
何でもお前の好きな事をしてあげ、お前を幸せにしてあげる。
他に何か別の条件があってもいいよ。ボーイフレンドを作るとかね。
ただ一つのお願いは離婚しないで欲しいということだよ」

実を言うと、溥儀も自分の病気はもう治る見込みがないことをよく知っていた。
16歳の成婚以来、婉容・文繍らの妃とも男女の関係はなかったし、
後に譚玉齡・李玉琴をもらった時も、飾り物としてもらっただけだった。
溥儀が私に話してくれた話では、
宮仕えの女は年増で、みんな自分よりはるかに年上だった。
当時溥儀はまだ子供で何も知らずすべて女達のますがままに、
時には女が一人ではなく二、三人がベッドに入ってきた。
溥儀がクタクタになるとやっと寝かせてくれ、
翌日起床する時にはいつも頭がボーッとして太陽の色が黄色に見えたくらいだったそうだ。
溥儀が宦官にその事を話すと、宦官たちは彼に薬を飲ませた。
その薬を飲むと男に飢えた女達の相手をする事ができたが、
その後だんだんそういうことをするのに、ますます興味を覚えなくなるのだった。

二人だけの秘密はとうとう全国政治協商会議のある責任者の知るところとなり、
その人はわざわざ私を呼んで言った。
「溥儀のその件については上の方では知っていました。
彼に生理的欠陥がある事だけにとらわれず、
もっと大きなところから見てほしいと思います。
政治的な影響という事も考えてほしいのです。
今後彼の仕事・学習・生活の面でどんな事にぶつかっても、
何か相談したい事でもあればいつでもどうぞ」
私ももう望みをかけないようになり、
二人で幸せに暮らしていければよいと思うようになった。
それ以来、彼は私のことを妹して呼ぶようになった。

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溥儀の妹 五格格 韞馨への取材

二人の「李」、李玉琴と李淑賢についての印象を尋ねた。
かつて五格格と呼ばれた時代から内気で恥しがり屋と言われた韞馨は、
「二人とも同じ。どちらもお金のことばかり」とつぶやくように答えてくれた。
美しい銀髪に囲まれた頬にかすかに血の色を浮かべて。

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by xMUGIx | 2007-01-09 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

溥儀には正室が1人、側室が3人、平民になってからの妻、計5人の妻がいた。




■第1夫人 孝恪愍皇后/郭布羅 婉容
1906-1946 明治39-昭和21 40歳没
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郭布羅栄源&前妻愛新覚羅氏の子。
北京生まれ、天津育ち。
貴族出身で裕福な家庭に育った。

生母は幼い頃に亡くなってしまうが、後妻の愛新覚羅恒香は婉容と仲が良かった。
当時の天津は諸外国の領事館が集まった国際的な都市だった。
父栄源は西洋文化を取り入れており、男女平等の考えから婉容にも教育を受けさせた。
容姿端麗でハイカラなお嬢様に成長した婉容は、
英語に堪能で外交官の妻となり海外で生活するのを夢見ていた。

しかし婉容は16歳の時に清朝皇帝溥儀の皇后に選ばれ、
北京の紫禁城で暮らすことになってしまう。
しかも習慣により正室の婉容と側室の文繍とは同日に結婚した。
一夫一婦制の現代的な考えを持つ婉容には最初から不快感を拭えない結婚だった。

もはや清朝は滅びており、溥儀は国を持たない形だけの皇帝だった。
溥儀にはやることがない。とすれば婉容にもやることがない。
外界との接触も絶たれ、紫禁城の中で二人は退屈を深めてゆく。
彼女の唯一の楽しみは城内を舶来の自転車で乗り回すことだった。

謁見した外国人は婉容のことを、
「触れれば壊れてしまう繊細で美しい陶器のようだ」と表現した。
国民政府により紫禁城を追われた溥儀は日本帝国軍の手引きで天津に逃れる。
溥儀は正室の婉容と側室の文繍を連れていた。
紫禁城の広さが二人の女の関係を緩和していたが、天津の建物ではそうはいかない。
側室と顔を合わせることが大きなストレスとなって、婉容はアヘンに手を出すようになる。

そして日本帝国軍が作った満州国の皇帝にまつり上げられた溥儀は長春に住まう。
しかしここでも日本帝国軍に監視される生活はますます彼女をアヘンに溺れさせていった。


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宦官 趙栄升

皇后は食事が終わると8つのアヘン玉を吸うので、
そのつど二十数分も伺候しなければならなかった。
アヘンの吸飲に伺候する時は、床にひざまずかなければならない。
皇后は左側でアヘン玉を吸ってから寝返りをうつ。
その時アヘンの道具を反対側に持っていき、
彼女が右側で4つのアヘン玉を吸うのに伺候する。


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関東軍副参謀長 岡村寧次大将

秩父宮殿下が名代として満州においでになった時、奇跡が一つ起った。
それは満州国皇后のことであった。元来ヒステリー症にかかった彼女は、
いまだかつて人前に顔を出すことはなかった。
満州国の要人らも彼女に会ったことはなかった。
しかし思いがけなく皇后が臨席した。皆はびっくり仰天。
話しによれば、病状が突然好転したそうだ。


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溥儀は自伝『わが半生』の中で、
「私が彼女について知っているのは、アヘンの習慣に染まったこと、
許しえない行為があったことぐらいである」と書いている。

許しえない行為とは、婉容が浮気をして子供を出産したことであろう。
彼女の子供は生まれてすぐにボイラーに放り込まれて始末された。
この事件の後、婉容は身なりにも構わなくなった。


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溥儀の甥 愛新覚羅毓嶦

婉容のドアの隙間からはアヘンの煙が流れ出てくる始末だった。
ちょうど溥儀に付き添って行こうとすると、溥儀が向かいを指差した。
その指先に見えたのは婉容だった。
黄土色の寝巻を着ていたが、頭はボサボサでで骨と皮ばかりに痩せ、
顔色はアヘンの煙のようで本当に驚いた。私は長く見るに堪えず、
また溥儀がこんな風になった婉容についてどんな思いでいるのか聞く事もなかった。

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アヘン中毒と日本人嫌いのため、婉容は公式の場にはほとんど姿を見せなくなった。
髪は乱れたままですり切れた服をまとい、不健康な生活のため視力をほとんど失い、
自力で立ち上がることすらできなかった。
かつてのハイカラで容姿端麗なお嬢さんの姿は跡形もなかった。
溥儀は婉容に手を差しのべることもせず、離婚を考えていた。

1938年07月16日から1939年07月10日までの金銭出納簿によると、
婉容は740両のアヘンを買っている。毎日平均2両吸っていたことになる。
また30,430本の煙草も買っている。アヘン同時に毎日平均85本吸っていたことになる。

1945年昭和20年、ソ連軍が満州国に迫ったため
溥儀と親族、満州国幹部、日本軍は首都を放棄して
満州鉄道の特別車で朝鮮との国境付近まで避難した。
8月15日、日本が降伏したことにより満州国も崩壊した。

溥儀と溥傑は日本軍機を使い空路で日本に亡命を図った。
婉容と浩たちは同行できず、陸路と海路で日本に向うこととなった。

しかし、溥儀と溥傑は飛行場でソ連軍に拘束されソ連の収容所に送られた。
さらに二人は中華人民共和国に送還され、収容所で中国共産党の「再教育」を受けた。

翌1946年昭和21年、陸路を進んでいた婉容・浩・嫮生一行も共産党軍に捕らえられた。
おりしも共産党軍と国民党軍との間で国共内戦が始まったため、
一行は共産党軍に中国各地を転々と連れまわされることになる。
途中で婉容は浩母子と引き離され、監獄の中で孤独の内に死亡した。


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溥儀の第4夫人 李玉琴

アヘン中毒がひどくなってからは、婉容はむら気でした。
このような主人に仕える宦官達もまた気まぐれで、
まるで荷物か捨て猫のように皇后をあしらうかと思うと、
こんなに皇后の身体が衰弱しているのに普通の人と同じ食事しか与えない、
と泣かんばかりに訴える。

二人の宦官が彼女を支えて、さっと引戸を開けた。
その時私は初めて皇后に会った。そして自分の目を疑った。
痩せこけてしまっていて、人間ともつかず幽霊ともつかない姿だった。
顔面は青白く、眼差しに力がなく、二寸ほどの髪の毛がボウボウと生えていた。
背丈は163センチぐらい。ヨレヨレの汚れた古い寝巻を着ていた。
長い間洗濯もしていないので、どんな色だったのかもうわからなくなっていた。
本当に気が狂っていたようだった。
私は急いで近づき、御機嫌を伺った。「皇后陛下、幸多からんことを」
彼女は私を見て笑いアヘンで黄色くなってしまった歯を見せ、太い声で言った。
「素晴らしいわ、素晴らしいわ」
数分もすると立っていられなくなり、宦官は急いでベッドへ連れ戻した。

臨江で列車を降りると、私は皇后を支えてトラックに乗せ助手席に座った。
初めのうち彼女は私から離れたがっていたが、
彼女の身体があまりにも弱かったので自然と私の身体に倒れかかってきた。
私は彼女をかかえ、彼女は私を信頼して身体ぴったりとくっつけていた。
婉容の態度はとてもよく、泣いたり騒いだりしなかった。

婉容はなおアヘンをかなり吸っていた。部隊の同志は二日置きにアヘンを届けて寄こした。
彼女の下女はすでに離れてしまっていた。彼女は自分で始末をする事ができないので、
掛布団や敷布団や服を糞尿や月のもので汚してしまい臭気を発散させていた。
私は彼女の布団を二組と服を、みな解いて洗ってやった。
他人がどうあれ私たちは一家なのだから、世話をしなければならないと考えただけだった。
病状があんなに悪化してしまって、本当に可哀想だった。

婉容を一緒に連れて行く力が無かったことを、いま思い出しても悲しくなる。
そのころ長春には彼女の親戚や貴族の友人達がいた。
しかし彼女を引き取る者はいなかった。
彼らはこの皇后のおかげでどれだけ富貴をきわめたかしれないのだ。
私が去ってから嵯峨浩も日本に帰り、婉容ひとりだけが部隊に残った。
この部隊が長春から撤退する時、
このかわいそうな中国最後の皇后は部隊と一緒に行く他なかった。
部隊は全中国解放のため各地で転戦しなければならなかった。
彼女を連れていては行動の邪魔になってしまう。
部隊が延吉に着いた時、彼女をそこに残すより他になかった。
こうして彼女は敦化で死んだのだと言う。


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溥傑の妻 嵯峨浩

留置場に入れられてからの皇后は、お気の毒で見ていられないほどでした。
アヘンが手に入らなくなったため、禁断症状に苦しむようになったのです。
「助けて!誰か助けて!」
皇后は終日狂気のように叫んだり呻いたりしながら、
板敷きの上を転げ回り目をむいては苦悶なさるようになりました。
食事だけは召し上がりますが、用便はもう御自分ではできなくなっておられました。
半ば狂乱状態の皇后はかつて宮殿にいらした頃と錯覚されてか、
「ボーイ、サンドイッチを持っておいで」「さあ、早く湯上りのタオルをお寄こし」
などとわめき散らされます。
そんな皇后の姿をひと目見ようと
刑吏や共産党軍の幹部達が入れ代り立ち代りやってきました。


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溥傑&嵯峨浩の娘 福永嫮生

吉林から延吉に運ばれた嫮生らは、
「漢奸偽満州国皇族一同」と書かれた大きな白旗がくくりつけられた荷馬車に乗せらた。
沿道の人々は罵声を浴びせ、荷馬車に石を投げつけた。

母の身体にしがみついておりました。怖うございましたよ。
皇后様はそんな時でもぼんやりと、もう何の反応もお示しにはなりませんでした。

皇后様はとてもお痩せになっていらして、
時々ここが宮廷と思われたのか侍女を召し使うように
「お湯を持ってこい」「風呂の準備はできたか」などと大声を出していらしゃいました。
母はいつも皇后様のためにアヘンを大切に自分のカバンに入れておったのでございますよ。
お薬が切れるとそれはお苦しみになって…。
そのお声は小さな子供には何かとても恐ろしゅうございました。

皇后様のお苦しみは凄まじいものでございました。
一日中昼となく夜となく「助けて!助けて!」と叫ばれて…。
その声がうるそうございますので、
周りの監房に入っていらっしゃる方が怒鳴られるのでございます。
皇后様はご自分ではもう何もおできになりませんでしたので、
母はお食事をお口にお運びしておりました。
皇后さまは170センチもある大きなお身体でいらっしゃいますが、
母が下のお世話もすべて一人でお助けしておりました。
母は「洗濯も掃除も致しますので、お食事の時だけでもお部屋に入れて下さいませ」
と頼んでおりましたよ。
「それがだめならせめてアヘンだけでも」と兵隊さんに懇願しておりました。


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溥儀はソ連の収容所で婉容の死を知った。


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溥儀

長期に渡る冷淡な境遇の中に置かれてきた婉容の経歴は、
新中国の青年にとってとても理解できない事だろう。
生まれてすぐに運命が決定されたのでないとしたら、
結婚の時には彼女の最期が決められていたのだ。
後になってしばしば考えたのだが、天津にいた頃もし文繍のように私と離婚していたら
あのような末路はたどらずに済んだに違いない。

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婉容と彼女のアメリカ人家庭教師イザベル・イングラム
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婉容の煙草に火を点ける溥儀
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by xMUGIx | 2007-01-08 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

辛亥革命で退位させられた溥儀らは、そのまま紫禁城に幽閉される。
皇帝の地位は失ったものの、紫禁城の中はそれまでの生活が続いた。


1925年昭和元年、クーデターにより溥儀らは紫禁城を追い出される。
溥儀、イギリスやオランダへ庇護を要請するものの拒否され、
日本大使館が手を差しのべ天津日本租界内に住まう。
ドライブ・テニス・スケート・ダンスパーティーなどを楽しみ、各国の友人達と交際した。
自由で楽しい日々は7年も続いた。


1934年昭和09年
溥儀、満洲国皇帝に即位。


溥儀は1935年昭和10年04月と1940年昭和15年06月の2回、日本を訪問している。


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女官吉田鞆子の手記 1940年昭和15年06月29日

この日は皇太后主催の午餐会が開かれた。
食卓の席順は、正面の【お簾屏風】を背に貞明皇后、
貞明皇后の左右に溥儀と高松宮喜久子妃、
向かい側に三笠宮・秩父宮勢津子妃・高松宮が座った。

正12時大宮御所へ御参入。まず謁見所にて太后宮に御体面。
大宮様には紫縮緬に黒のレース全体にかかりたる御服を長くひかせ給い、
皇帝にはモーニングの御略服にて成らせ給う。

御手土産の陶高坏二、一徳一心、正心克己修身、復礼の御真筆入、
青玉の杯、中央丸の窪みを日の丸になぞらえ左右より龍の対えに彫あり。
日満提携の図とみなし、数ある中より選び出されしよし。
太后宮より御手づから皇帝に御扇子と御写真帖とを御贈進あり。
御扇子は白無地象牙骨にて先帝陛下の御常の御用の御品のよし。
それに川合玉堂画伯をして
太后宮御初皆様の御印を描かせ給える御心入れのこよなき御記念の御品、
御手渡し遊ばされけるをいといと御満足気に御頭を下げさせ給う御有様、
真の御親子のごとく御懐かしげに見上げ奉られける。

桜楓の並木の坂路を登らせ給う。
坂路にかからせ給うや、皇帝は必ず太后宮の御手を戴かせ給うは、
先年の御来訪の折も御同様の御事にて、
これぞ東洋ことに支那における敬老の一美風と推しはかり奉る。


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三笠宮崇仁親王&百合子妃

Q◆貞明皇后には秩父宮様と高松宮様の間にもうおひと方ご懐妊だったとうかがいます。
貞明皇后が来日した溥儀皇帝を大変御心を込めておもてなしになったのは、
その流産された御子様と御年が近かったためとも言われますね。

百合子◆満州の皇帝はそういう御年回りでしたから、それはそれはお優しくされたと思います。
私が上がる前の年でしたが、いろいろと御話はうかがいました。

三笠宮◆本当に親子のようでした。皇帝の方も坂道などはちゃんと手を差しのべられたりして、
真に自分の親に対するような御態度でした。

Q◆戦後すぐに東京裁判が始まります。
貞明皇后があれほど我が子のように御可愛がりになった溥儀が
検察側証人として出廷して、日本に大変不利な証言をなさいました。
溥儀の証言にはかなりショックを御受けになられたのではないでしょうか。

三笠宮◆そうでしょうね。しかしそれは強制的に言わされている事もお分かりだったと思います。
貞明皇后に対する御気持ちはもう本当の親に対するような気持ちではなかったかと思います。

Q◆やはり溥儀の事は御心残りのままだったのでしょうね。

三笠宮◆昭和15年06月に溥儀が来られた時には、
お茶のお点前の道具から食器に至るまで、
すべて溥儀のために御作りになったくらいですからね。

Q◆あんまり仲がおよろしいので、御覧になっていた秩父・高松・三笠の三宮様が
焼きもちを焼かれるぐらいだったという逸話が残っております。
「おたた様は我々より溥儀さんの方がお可愛いらしいね」と。

三笠宮◆そのくらい心底から仲がおよろしかった。

百合子◆やっぱり西欧的な御教育もあったのかしら、
大宮様に手を差しのべられて優しくされるというのは。
エスコートしなくてはいけない、というような事は御心得だったんでしょうか。

三笠宮◆私は陸大の時だったね。陸大で満州旅行をするという時も、
貞明皇后から帳面にいっぱい細々書き込んだのを伝えてくれと言って渡されたものです。
御自分で御書きになってね。
それで新京に行って皇帝に御会いして、そのメモをお伝えしたわけです。


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皇太后宮事務主管 筧素彦

溥儀皇帝も深く感動され、本当の御親子のようであったと言われている。
ところが戦後皇帝は東京裁判でいろいろと問題の多い陳述をされたので
本当に残念に思し召され、
私にさえ「あれほど誠心誠意お可愛がりしたのに」と御無念さをおもらしになった事があった。
皇帝もソ連に抑留された身で言われた事ながら、あの愚痴をお聞かせにならない大宮様が、
よほど御無念だった事と思うのである。


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1945年昭和20年、ソ連軍が満州国に迫ったため
溥儀と親族、満州国幹部、日本軍は首都を放棄して
満州鉄道の特別車で朝鮮との国境付近まで避難した。
8月15日、日本が降伏したことにより満州国も崩壊した。

溥儀と溥傑は日本軍機を使い空路で日本に亡命を図った。
婉容と浩たちは同行できず、陸路と海路で日本に向うこととなった。

しかし、溥儀と溥傑は飛行場でソ連軍に拘束されソ連の収容所に送られた。
さらに二人は中華人民共和国に送還され、収容所で中国共産党の「再教育」を受けた。

翌1946年昭和21年、陸路を進んでいた婉容・浩・嫮生一行も共産党軍に捕らえられた。
おりしも共産党軍と国民党軍との間で国共内戦が始まったため、
一行は共産党軍に中国各地を転々と連れまわされることになる。
途中で婉容は浩母子と引き離され、監獄の中で孤独の内に死亡した。

収容所での溥儀は模範囚で、礼儀正しい言動を行っていたが、
自分で服や靴を脱げない、掃除ができない、作業が溥儀のところで滞るなど
しばらくは溥儀の生活力のなさに周囲の不満が絶えなかったという。

1960年昭和35年、溥儀は釈放される。
周恩来首相が便宜を図り、
一般市民の生活に慣れることを目的に北京植物園で庭師として働くことになった。
その後は政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う。

そして1962年昭和37年、看護婦をしていた一般人の李淑賢と再婚した。

文化大革命の嵐が吹き荒れる中、溥儀はガンを患った。
「反革命的」な出自である溥儀の治療を行って紅衛兵たちに攻撃されることを恐れた
多くの病院から入院を拒否されたが、
周恩来首相の指示で北京市内の病院に入院することになった。
ここにも紅衛兵たちが現れて非難したため医師たちが溥儀の治療行為を行わず放置されたが、
周恩来首相が院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。

しかし入院時には既に末期状態であり、回復の見込みはなかった。
1967年昭和42年死去。

浩の自伝『流転の王妃』よれば、
死の間際に溥儀は「日本のチキンラーメンを食べたい」と言ったという。
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by xMUGIx | 2007-01-07 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

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1906年 明治39年
2代醇親王載灃の長男溥儀生まれる
溥儀正室婉容生まれる

1907年 明治40年
2代醇親王載灃の二男溥傑生まれる

1908年 明治41年
溥儀、12代清朝皇帝に即位

1912年 大正01年
溥儀、辛亥革命により退位

1919年 大正08年
イギリス人レジナルド・ジョンストンが溥儀の家庭教師となる

1921年 大正10年
母幼蘭が自殺

1922年 大正11年
溥儀、正室婉容・側室文繍と結婚
アメリカ人イザベル・イングラムが婉容の家庭教師となる

1924年 大正13年
溥傑、唐怡莹/唐石霞と結婚
溥儀、クーデターにより紫禁城から脱出

1925年 大正14年
溥儀、イギリスやオランダへ庇護を要請するものの拒否され、
日本大使館が手を差しのべ天津日本租界内に住まう

1929年 昭和04年
溥傑、学習院高等科に留学 唐怡莹/唐石霞との結婚解消

1931年 昭和06年
溥儀、側室文繍と離婚
日本軍から満洲国皇帝就任を打診され、日本軍の手引きで満洲へ移る

1932年 昭和07年
満洲国樹立

1933年 昭和08年
溥傑、大日本帝国陸軍士官学校に入学 

1934年 昭和09年
溥儀、満洲国皇帝に即位

1935年 昭和10年
溥傑、大日本帝国陸軍士官学校卒業

1936年 昭和11年
嵯峨浩、女子学習院卒業

1937年 昭和12年
溥儀、譚玉齢を側室とする
溥傑、浩と結婚 夫妻は満州へ

1938年 昭和13年
溥傑の長女慧生が生まれる

1939年 昭和14年
溥傑、満州国駐日大使館に任命され、一家は東京へ

1940年 昭和15年
溥傑の二女嫮生が生まれる 一家は満州へ

1941年 昭和16年
太平洋戦争勃発 

1942年 昭和17年
側室譚玉齢が死去

1943年 昭和18年
溥儀、李玉琴を側室とする
溥傑、陸軍大学校に入学 一家は東京へ

1944年 昭和19年
溥傑、陸軍大学校卒業 
学習院初等科に在学中の慧生を日本に残して一家は満洲へ
これが溥傑と慧生の永遠の別れとなる

1945年 昭和20年
日本が敗戦して満州国は崩壊、溥儀・溥傑は日本への亡命を図るが、
ソ連軍に拘束され二人はソ連の収容所に送られる

1946年 昭和21年
婉容・浩・嫮生が共産党軍に拘束される
正室婉容が死去する
溥儀、極東国際軍事裁判に出廷

1947年 昭和22年
浩と嫮生、引揚船で日本へ

1950年 昭和25年
溥儀と溥傑、中華人民共和国に送還され、
戦犯として収容所で中国共産党による「再教育」を受ける

1951年 昭和26年
父載灃が死去

1954年 昭和29年
慧生が周恩来に嘆願の手紙を出し、溥傑と妻子との文通が認められる

1957年 昭和32年
慧生が死去

1959年 昭和34年
溥儀、釈放 

1960年 昭和35年
溥傑、釈放

1961年 昭和36年
溥傑、中国で妻子と16年ぶりに再会 一家は北京に住まう

1962年 昭和37年
溥儀、李淑賢と再婚

1966年 昭和41年
文化大革命勃発 溥傑の自宅が紅衛兵に襲われる

1967年 昭和42年
溥儀が死去

1968年 昭和43年
嫮生、日本で結婚

1987年 昭和62年
浩が死去

1994年 平成06年
溥傑が死去

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◆清朝12代 宣統帝 溥儀 → 満州国皇帝 溥儀
1906-1967 明治39-昭和42 61歳没

11代光緒帝のいとこ
2代醇親王載灃&正室瓜爾佳幼蘭の長男
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光緒帝の死の翌日、西太后が亡くなった。
西太后が死の直前に溥儀を次代皇帝に指名したため、2歳10か月で即位する。
醇親王載?は、兄である光緒帝を裏切った袁世凱を失脚させた。
しかし辛亥革命が勃発し、革命派と手を結んだ袁世凱が溥儀に退位を迫った。
溥儀は名ばかりの皇帝として紫禁城に軟禁された。
そして袁世凱が中華民国大総統となった。
ここに、西太后の死去からわずか3年で清朝は滅びた。


溥儀のイギリス人家庭教師レジナルド・ジョンストンと
婉容のアメリカ人家庭教師イザベル・イングラム
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溥儀がレジナルド・ジョンストンから付けられたイングリッシュネームはヘンリー、
婉容がイザベル・イングラムから付けられたイングリッシュネームはエリザベスだった。
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溥儀には正室が1人、側室が3人、平民になってからの妻、計5人の妻がいた。


第1夫人 皇后 婉容
第2夫人 淑妃 文繍
第3夫人 祥貴人 譚玉齡
第4夫人 福貴人 李玉琴
第5夫人 妻 李淑賢
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by xMUGIx | 2007-01-06 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

溥儀・溥傑の父である2代醇親王載灃の子供たちと、
婉容の父である郭布羅栄源の子供たちは、互いに婚姻関係で結ばれていた。


◆2代醇親王 載灃
1883-1951 明治16-昭和26 67歳没
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父と溥儀・溥傑
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■正室 瓜爾佳 幼蘭
1884-1921 明治17-大正10 37歳没 自殺

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溥傑

母は端康大妃〔光緒帝の側室瑾妃〕との折り合いが悪く、
私が14歳の時ノイローゼとなって自殺した。


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溥傑の娘 福永嫮生

父が14歳の頃、生母が宮中の権力争いに巻き込まれて
アヘンを飲んで自死するという出来事がございました。
清朝復興を願う瓜爾佳氏は「大清皇帝をお助けして祖先の功績を回復するのです。
どんな時でも愛新覚羅の子孫だという事を忘れてはなりません」
と父の手を取ったまま亡くなりました。
父はその遺言を生涯忘れなかったのでございます。


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母と溥儀・溥傑
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■正室 瓜爾佳氏の子 

●溥儀  婉容と結婚 イングリッシュネーム:ヘンリー
●溥傑  日本人嵯峨浩と結婚 イングリッシュ:ウィリアム
●大格格 韞瑛 婉容の兄潤良と結婚・本人死別 イングリッシュネーム:ルーシー
●ニ格格 韞龢/金欣如 鄭広元夫人 イングリッシュネーム:メアリー
●三格格 韞穎/金蕊秀 婉容の弟潤麒と結婚 イングリッシュネーム:リリー


★側室 鄧佳氏の子

●四格格 韞嫻/金韞嫻 趙琪璠夫人 イングリッシュネーム:エレン
●五格格 韞馨/金蕊潔 万嘉熙夫人 イングリッシュネーム:ローズ
●溥任/金友之
●六格格 韞娛/溥韞娛 王愛蘭夫人 
●七格格 韞歡/金志堅 喬宏志夫人


左から 三格格韞穎 溥傑 溥儀 ニ格格韞龢
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◆郭布羅栄源
1884-1951


■前妻 愛新覚羅毓朗の娘 恒馨


■後妻 愛新覚羅毓朗の娘 恒香 前妻の妹
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●前妻の子 潤良 溥儀・溥傑の妹 大格格韞瑛と結婚 相手死別
●前妻の子 婉容 溥儀と結婚 イングリッシュネーム:エリザベス
●後妻の子 潤麒 溥儀・溥傑の妹 三格格韞穎と結婚


溥儀・溥傑の妹大格格韞瑛
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婉容の兄潤良
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溥儀・溥傑の妹三格格韞穎
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婉容と弟潤麒
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ちなみに婉容の祖父愛新覚羅毓朗の主要な娘は、
●恒慧 完顔立童記・完顔碧琳の母
●恒馨 婉容の生母
●恒香 婉容の継母
●恒馥
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by xMUGIx | 2007-01-05 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆清朝11代 光緒帝
1871-1908 37歳没

8代道光帝の孫
道光帝の第7皇子である初代醇親王奕譞の第2王子
母は西太后の妹
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同治帝の死により、西太后に指名され3歳で即位する。
再び東太后・西太后・叔父の恭親王奕訢が摂政する三頭政治を始めたが、
東太后が突然亡くなった。
明らかな病状もない急死だったため、当時から不審死が疑われた。
さらに恭親王奕訢を失脚させ、西太后が完全に実験を握った。

光緒帝は成人すると西太后の傀儡から脱し、自らの親政により国勢回復を成し遂げようとしが、
あまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派は西太后へ集まるようになる。

そこで西太后の幽閉を計画したが、袁世凱の密告により西太后は先手を打って光緒帝を監禁した。
ただし諸外国に反対され、光緒帝の廃位は断念した。

そのうちに光緒帝が死亡。当時から毒殺されたと囁かれていた。
21世紀になって調査を行った結果、致死量をはるかに上回る猛毒の三酸化二砒素が検出された。
犯人については、西太后ほか諸説ある。
溥儀は自伝『わが半生』の中で、
「光緒帝は直前までは元気だったが、袁世凱からの贈り物の後に急激に体調が悪化した」
と古くから宮廷に仕える宦官から聞いたと記している。


★父 初代醇親王奕譞
1840-1891 51歳没
8代道光帝の第7皇子
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光緒帝と父醇親王奕譞
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■隆裕皇太后/孝定景皇后
1868-1913 45歳没

西太后の姪
3年ごとに紫禁城で行われる選定試験<選秀女>を受けて合格、
後宮に入り皇后となる。
西太后と光緒帝が対立していたため夫婦仲は悪かった。
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★溫靖皇貴妃/瑾妃 珍妃の姉 清朝四大太妃の一人
1873-1924 51歳没

妹とともに<選秀女>を受けて合格、後宮に入る。
紫禁城の奥向きを取り仕切った。
少年時代の溥儀の生活に干渉するなど煙たい存在だった。
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★恪順皇貴妃/珍妃 瑾妃の妹
1876-1900 24歳没
姉とともに<選秀女>を受けて合格、後宮に入る。
光緒帝に最も寵愛された妃という。

義和団の乱により北京が占領された際、混乱に乗じて西太后により
井戸に突き落とされて殺された。
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西太后をはさんで 痩せているのが孝定景皇后 太っているのが瑾妃
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by xMUGIx | 2007-01-04 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆清朝10代 同治帝
1856-1875 19歳没
9代咸豊帝の子/母は西太后
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咸豊帝が亡くなると西太后は恭親王奕訢と手を結んで、
先帝の命を受け同治帝の後見となった8人の「顧命大臣」を処刑して政権を掌握した。
東太后・西太后・叔父の恭親王奕訢が摂政する三頭政治であったが、実権は西太后が握っていた。

東太后は温和誠実な人柄で、政治に口を出すことはなかった。
同治帝は東太后に養育されたため、生母の西太后よりも東太后の方に懐いていた。

西太后は同治帝と妃の孝哲毅皇后/嘉順皇后を無理矢理引き離し、
さらに同治帝の死後は妃を幽閉して死に至らしめた。

同治帝の死因は、天然痘あるいは梅毒とされる。




★母 西太后
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★叔父 恭親王奕訢
1833-1898 65歳没
8代道光帝の第6皇子
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晩年の兄弟 醇親王奕譞と恭親王奕訢
若い時はギトギトしてたのに、二人とも西太后に生気を吸い取られてカスカスです・・・
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■孝哲毅皇后/嘉順皇后
1854-1875 20歳没


★敬懿皇貴妃/瑜妃 清朝四大太妃の一人
1856-1932 75歳没 


★栄恵皇貴妃/瑨妃 清朝四大太妃の一人
1856-1933 76歳没


★荘和皇貴妃/珣妃 清朝四大太妃の一人
1857-1921 63歳没


★淑慎皇貴妃/慧妃
1859-1904 45歳没
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by xMUGIx | 2007-01-03 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆清朝9代 咸豊帝
1831-1861 30歳没
8代道光帝の第4皇子
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第4皇子奕詝(咸豊帝)と第6皇奕訢(恭親王)は年齢・実力ともに大差なかったが、
父帝は第4皇子の方が優しさがあるとして後継者に定めた。

即位当初は熱心に政務を行ったが、
次第に部下任せになり趣味の芝居見物に熱中するようになった。
周囲が止めても死の二日前まで芝居を見物していた。
病死。


代表的な妃のみ


■東太后/慈安皇太后/孝貞顕皇后
1837-1881 45歳没

9代咸豊帝の皇后
子女なし
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■西太后/慈禧皇太后/懿貴妃
1835-1908 72歳没

9代咸豊帝の妃
子は10代同治帝

西太后の父親は清朝の中堅官僚。
17歳の時に3年ごとに紫禁城で行われる選定試験<選秀女>を受けて合格、
翌年18歳で咸豊帝の後宮に入って出世していく。
のちの同治帝となる息子を生んだことで地位は揺るぎないものになったが、
あくまでも第一位の東太后が皇后であり、第二位の西太后は皇后の称号は得られなかった。
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by xMUGIx | 2007-01-02 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆清朝8代 道光帝
1782-1850 68歳没
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主要な妃のみ


■孝全成皇后/全妃 子は第4皇子 9代咸豊帝
1808-1840 32歳没


■孝静成皇后/静妃 子は第6皇子 恭親王奕訢
1812-1855 43歳没


■荘順皇貴妃/琳妃 子は第7皇子 初代醇親王奕譞→子は11代光緒帝
1822-1866 44歳没
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by xMUGIx | 2007-01-01 00:00 | 中国


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