直球感想文 洋館

2017年 更新中
by xMUGIx
カテゴリ
イギリス
イタリア
オーストリア
オランダ
ギリシャ
ザクセン
スウェーデン
スペイン
デンマーク
ノルウェー
バイエルン
フランス
ブルガリア
プロイセン
ベルギー
ポルトガル
ルーマニア
ロシア
朝鮮
中国
その他
以前の記事

カテゴリ:中国( 20 )

愛新覚羅氏

◆川島廉子
1913-1994 大正02-平成06 81歳没
川島芳子の姪/川島浪速の養女となって芳子の義妹となる


■父 11代粛親王憲章/川島芳子の兄
1885-1947


■前妻 那彦図氏
1883-1908

●廉【金原】
●連組


■後妻 唐蓮氏
1886-1937


●連綏
●廉鋁 川島廉子
●廉錞
●廉【金愛】
●連紳


■夫 
1908-2001


●長女 文敏
●二女 文敍
●三女 文敞
●長男 文徴
●二男 文肇
●三男 文徽
[PR]
by xMUGIx | 2007-01-25 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の同腹妹 愛新覚羅顕琦/川島速子

父に続いて母も亡くなり、私は3番目の姉の手で育てられました。
彼女はお茶の水にあった女子高等師範学校に留学したのですが、
父危篤の知らせで帰ってきてからはもう日本には行かず一生独身を通しました。
旅順で康徳女学校を創設して自ら校長の任にあたり、
第二次世界大戦の終わりまで就任しておりました。
私がおぼろげながら覚えている父は背があまり高くなく、
頭にまだ弁髪のある目の小さい割に鼻の大きな顔立ちでしたが、
大きくなってから背があまり高くないどころか大変低いことを知りました。
父の没後旅順の家に残ったのは、独身の姉とすぐ上の姉の3人だけで、
私も旅順第二尋常小学校に通いだしました。そのご旅順高等女学校に進みました。
清の滅亡で父は教育がいかに大切であるか、
広く世界の情勢を知ることの重要さを感じたのでしょう。
私達38人の子供らは、長兄がイギリス、二兄がドイツ、三兄がベルギーの他は、
みな日本の学校に入れられました。

1927年昭和02年芳子は旅順で
蒙古のパプチャップ将軍の二男カンジュルジャップと結婚式を挙げました。
芳子は私より一回りほど年長で、同腹の姉です。
父が日本人を利用して清の復辟を祈願していたため、
当時父に取り入っていた川上浪速という日本人に連れられて行きました。
川島は父にとても忠実に仕えておりましたので、父の死後
川島が私の家の者に横柄きわまる行動に出ることは夢にも思わなかったのでしょう。
小さい時に日本へ行きましたので、
芳子が旅順に来るまで私は会ったことがありませんでした。
しかし彼女の噂は聞いておりました。
小さい時から抜きんでてきれいであった事、
嘘が上手で母からいつも叱られていたそうです。
成人してからの嘘はさらにひどく、
一つの事に三日三晩嘘を続けて平然としていたという事です。
私は一目この姉を見て「たしかにきれいだなあ」と思いました。
その時の芳子の髪はウェーブがゆるくつき、
前頬のところでカールが一つという今までに見たこともないヘアスタイルで、
当時の静かな旅順の町で彼女が歩くと100メートル先からもう目立つのです。
ある時買い物に行きました時、バッタリ芳子に会ってしまいました。
彼女は遠目にも目立つ真っ白な毛皮のハーフコートにスカートでした。
おまけに惜しげもなく大根足を丸出しでハイヒールを履いておりました。
(彼女は小柄で手も足もきれいでしたが、脚だけは大根でした)
私はしまったと思ったのですがもう遅く、
姉はすぐ私を見つけ「チビ、何しにいくの?」と声をかけました。
手の中に何か持っているようなので近づいてみたらそれはライオン歯磨きでした。
しかもその歯磨きはどうしたことかフタから中身がぐっしょりと出て、
彼女の手のひらいっぱいにくっついているのです。
それを見て彼女は「ワッハハハ」とあたりかまわず笑い出したので、
人だかりがしてきて私は慌てて店の中に逃げ込んだものです。

間もなく芳子は旅順のヤマトホテルで結婚式を挙げる事になりました。
パプチャップ将軍は父が旅順に亡命したあと清の復辟運動を起した時、
父と行動を共にした蒙古の将軍です。この将軍の子女はみなとても美人で、
二男坊のカンジュルジャップも美男で男らしい人でした。
彼は芳子を愛しておりました。しかし姉はとても家庭におさまる性格ではありません。
でも結婚式の時はいかにも花嫁らしく装い、来客全部に深い印象を与えたのです。
この日姉は自分で化粧し、ヴェールも自分でつけました。
芳子の結婚写真は大きく引き伸ばされて、
旅順の成田写真館のショーウィンドウに長い間飾られていたものです。
結婚後まもなく彼女達一家は大連に引っ越して行きました。

満州国創立と同時に、私とすぐ上の姉は奉天を経て新京に連れて行かれ、
長春高等女学校の寄宿舎に入れられました。
このとき芳子も長春におり、
彼女の家は学校のすぐ近く、たしか錦町だったと覚えております。
私はもう中学生でしたので、芳子を取り巻いていた日本の軍人をよく覚えております。
奉天では河本大作さんや田中隆吉さんなどでしたが、
新京の時は主として多田駿少将や筑紫熊七中将などでした。
多田少将は梅屋旅館という日本風の宿に泊まっていて、
芳子は錦町に家を構えておりましたがほとんど毎日ここに入り浸っておりました。
芳子が機嫌を損ねて梅屋旅館へ行かなくなると、
多田さんは和服のとんび姿で車にも乗らず相当の道のりを歩いて来たものです。
その頃芳子の世話をしていたのは若い日本女性で名前を千鶴子といい、
芳子は真野子爵の娘だと言っていましたが、私は信じませんでした。
他に手塚安一という若い男の人を自分の秘書だと言っておりましたが、
中国名を張平山といい運転ができ、よく私を載せて方々へ連れて行きました。
奉天でも新京でも芳子は晩になるとダンスホール通いでした。
土曜日寄宿舎から帰ると、晩はダンスに連れて行ってくれました。
その頃私は芳子の趣味で、家ではいつも黒ビロードに真っ赤な裏の背広の上着と、
同じ黒ビロードの半ズボン、白のワイシャツに赤ネクタイという服装でした。
私はダンスホールの人気者になってしまいました。
芳子のそばにおりますとすべてこんな調子なので、
上の兄は心配して私とすぐ上の姉を日本に連れて行く事にしたのだそうです。
私が学習院に通学している頃、芳子が東京に来たことが2度ほどありました。
その後また会うのは私が日本から帰国して北京に定住したあとです。

学習院を卒業してから日本女子大学に入学しました。
日本女子大学英文科で私は1年生を楽しく過ごしましたが、2年生になってから
真珠湾攻撃が始まるや外人の先生はみな帰国してしまい自習ばかりになりました。
物資欠乏も日に日に激しくなり、兄達は心配してとうとう私を帰国させる事にしたのです。
1941年のクリスマスの前の日のことです。
これがまさか日本との40年もの長いお別れになろうとは夢にも思いませんでした。

1945年08月の北京を、私は今も鮮やかに思い出す事ができます。
ポツダム宣言が公布されて日本は負けてしまい、北京の日本人も大変な事になりました。
自分にも大きな不安がのしかかっていました。
私達兄妹は自分の家から東単の広い庭つきの家に引っ越しました。
これは同腹長兄の憲立が自分の妻が日本人であるため、
他の兄弟姉妹に迷惑がかかるといけないという考えから決めた事です。
まだ東単に引っ越す前、私と芳子が大喧嘩したのです。
芳子は昭和のはじめに男装の麗人として日本で脚光を浴びており、
服装はもとより言葉も完全に男言葉でした。
芳子は私に一緒に住まないかと何度も誘いました。
私は当時の彼女の周りの人達を見、また彼女自身の生活態度を見た時から
がっかりしていたので、とてもそんな話に応じる気になれず断り続けました。
そしてできるだけ顔を合わせないように毎日親戚の家に行っておりました。
それが彼女の逆鱗に触れたのでしょう。ある日とんでもない方法を用いたのです。
彼女の身辺の世話をしている日本人男性小方八郎の名前を使って、
私にラブレターを送ってきたのです。
ひと目でわかるその卑劣なやり方に私が怒ったのは言うまでもありません。
それで私達姉妹の間は明確な感情の割れ目が生じてしまい、
それっきり私は彼女の家へも行かなくなったのです。
しばらく経ったある日、
彼女は突然見知らぬ中国のならず者を連れて私の部屋に来て大暴れに暴れました。
私に「謝れ!」と言うのですが、謝る理由がないので
「話があるなら、そこへ座って静かに話したらよい」と言うと、
「俺はお前ほど学問はないからな。お前は口から先に生まれてきたのだろう。
俺を馬鹿にしてるのだろう」と言ってガラス棚や窓ガラスを割り出したので、
母屋の人達がびっくりして飛んできました。
私はそれまで一言も大声を出していません。
彼女は軍刀で私を打てば、私が大声を出して助けを呼ぶと思ったらしい。
使用人が大声で下の兄が帰ってきたと告げたので、
彼女はびっくりして打つのをやめました。
その兄が「何をするのだ、話があるなら僕の部屋へ行こう」と彼女を連れて行くのを、
私は後から追っていき「なぜこんな下品な振る舞いをするのか理由を言いなさい」
と決めつけると、しばらく彼女は黙っていましたが
「お前はなぜ俺の誕生日に来なかったか」と言うのです。
私があきれて「あんたは年に何度誕生祝をやるのかしれたものじゃないわ。
何かと言えば誕生日だと皆からいろいろもらう下品な行いはやめた方がいいわよ」
とやり返すと、彼女はよほど悔しかったのか足で私を蹴りました。
兄は「何をするのか!」と彼女を引きずり押しのけました。
このとき長兄が帰ってきたのです。
兄と弟に殴られたら大変と思ったのでしょう。さっそくならず者を連れて逃げ出しました。
長兄が「どうした?彼女は何をしに来た?」と聞くので、
「ケンカよ。私が誕生日に行かなかったからって殴り込みに来たのよ。
見て、ガラス棚と窓ガラスを」と言うと、
長兄ははじめて奥の間の様子を見てびっくりしパッと飛び出していきました。
長兄は庭のカンヌキを持って玄関に走って行って、
まだ木炭車でエンジンのかからない車の中をめがけて突っ込んだそうです。
そのとき彼女は座席の下にしゃがみこんで、早く車を出せと大声で叫んでいたそうです。
幸いな事にやっとエンジンがかかり、彼女は逃げ去りました。
もうこのとき彼女はモルヒネ中毒で完全に人格に破綻をきたし、
何を言っても無駄のように思われました。

私達が東単に移ってから2年後、国民党が北京に入り、
北京は日本時代よりも騒々しく一日として落ち着いた日はありません。
芳子が逮捕され裁判に回されたのはちょうどこの頃です。
毎日のように新聞に彼女が法廷で国民党の審判官を翻弄している様子が載り、
北京市民の話の種となっていました。
長兄は兄妹の情として彼女を見捨てるわけにもいきません。
いろいろな方法を考えて差し入れもしておりました。
芳子の判決がまだ決まらぬうちに、共産党入城の声はますます高まっていきました。
たしか1947年秋のことだと思います。
突然新聞に『漢奸金璧輝被判死刑』が発表されました。
金璧輝は芳子が自分でつけた中国名です。
ただしこの時は初判で、その後再審が申請されて相変わらず世の中を騒がせていました。
毎日のように彼女の法廷で審判官をあなどる様子が出たり、
公然と国民党の悪口をたたく有り様が民衆の間では大変な人気でした。
長兄は心配して外でいろいろ対策を考えていたようで、毎日のように外出していました。

1948年03月の末も近づいたある日、
突然「金璧輝今晨06時40分于北京第一監獄被告執行」というニュースが出ました。
私は芳子の倒れている写真つきの新聞を見て、
しばらくの間なんとも言えない複雑な気持ちでした。
でも正直なところ、涙の一滴もこぼれてきませんでした。
私はむしろ彼女の最期はこんな風であった方が
彼女らしくて良いのではいかとさえ思いました。
そのご兄が彼女の死後の処理を北京東観音寺のお坊さん古川氏に依頼したと聞きました。
まもなく私は友人から2葉の写真を見せられました。
芳子が処刑された直後のもので、1枚は処刑直後地面に倒れているもので、
頭髪は長く女性の断髪となっていましたが間違いなく本人でした。
もう1枚は日本文字で川島浪速宛の遺言でした。
これは外国記者が撮ったものだという事でした。
監獄の中で彼女はモルヒネ注射も断たれ
髪も長く伸ばさせられたという事は聞いておりましたので、
昔の彼女のイメージと違うと思う人がいるのも無理からぬ事です。
頭部の方に立って上から撮ったその写真は、
バッサリと髪が乱れて顔ははっきり撮れていません。
しかし身体つきといい手足の形といい、彼女である事には間違いありません。
当時すでに40歳を越していた彼女は、前より多少太っておりました。
これで金璧輝の件は一応落ち着いたかのようですが、
2ヶ月も経たないうちに巷ではまたまた彼女の事でもちきりとなりました。
今度は死んだのは替え玉だという流言です。
当日処刑される時、国民党はなぜか中国の記者を一人も入れず
アメリカの記者を入れただけでしたので、
中国の記者連中は憤慨して裁判所に対する憤懣やるかたなく、
替え玉だと大々的に報道したからだという事でした。
このため今になっても、川島芳子は生きていると信じている人がいるのです。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
[PR]
by xMUGIx | 2007-01-24 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

1932年昭和07年野砲第四連隊大隊長に任命された田中は、
芳子を奉天の満州国軍政部最高顧問多田駿大佐に託して帰国する。
芳子は多田と愛人関係になり、特製の軍服に身を固め安国軍の司令官におさまった。
このニュースは日本でも大きく報道されたが、実際は芳子は特に何の働きも果たさず、
プロパガンダに利用されただけに終わる。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
朝日新聞 1933年昭和08年02月 

男装の麗人川上芳子嬢、熱河自警団の総司令に推さる 雄々しくも兵匪討伐の陣頭に

彼女がこの大任に当るについては満州国に人無しといえども、
芳子嬢を出すには及ばぬと非難する者もあるが、
まずやらしてみなければわからぬと彼女の活躍に非常な期待がかけられている。
男装の佳人川島芳子嬢は華々しい存在の一つである。
満州事変上海事変から満州の建国へと着々として進展して行く東亜新情勢の
発展の中にはいつも彼女のスマートな凛々しい男装の姿が見受けられた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和08年芳子をモデルに小説『男装の麗人』を書いた村松梢風

最近川島芳子さんの評判は大した事になってしまった。
「いったい川島芳子という人はほんとにエライ女性なのか」と私はよく人から聞かれる。
エライと言っていいか感心だと言っていいか、私にはわからないのだ。
その当時、上海で川島芳子さんの噂をよく耳にした。
事変前から日本の一スパイとして盛んに地下活動をやっていたという事や、
現在でも某方面と関係があって種々の活躍をしているような噂だった。
しかしいろんな噂はあっても、
事実芳子さんがどの程度の働きをしているかという事はほとんど誰も知らなかった。
ばかりでなく、だいたい川島芳子という女性はいかなる人間であるかという事についても、
本質的には従前から少しも世間に紹介されていないのだ。
デマやゴシップは盛んに人の口端にのぼるが、本体はほとんど知っている者はない。
まったく彼女は謎の女性、不可解な存在だった。
植物や花にも変り種があるように、甚だしく類型を異にした女性が稀に現れて、
破天荒の快事業を成し遂げるというような事を想像するのも悪い気持ではない。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
陸軍大佐 河本大作の三女

大連の家には川島芳子さんがよく訪ねてこられました。
昭和10年前後だったと思いますが、
財政困難になった彼女に父ははお小遣いをあげていたようです。
断髪で軍服姿の彼女はなんだか宝塚の主役のようで、
女学生だった私はダンスホールに連れて行ってもらったり
蒙古の子守歌を教えてもらったりしました。
あるとき妹と二人で入浴していたら芳子さんが入ってこられて、
私達は大声を上げた事があります。
考えてみれば女同士だから、騒ぐ事はなかったのに。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


やがて関東軍は芳子を持て余すようになり、1936年昭和11年日本に送り返す。
芳子は大物相場師伊東阪二の愛人となる。
伊東坂二(イトウ ハンニ)は本名松尾正直、三重県の生まれで
伊勢の伊・東京の東・大阪の阪を取って名前をつけた。
二人の住居は東京九段にあった。
芳子と別れた後の伊東は詐欺事件を繰り返し、
1948年昭和23年に逮捕されたのを機に世間から姿を消し、
昭和40年代にひっそり息を引き取った。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
日印協会理事 副島八十六の娘 昭子

九段のお宅はよく覚えています。
芳子さんの寝室は緑の絨緞に真っ赤なベッドという派手なもので、
入り口に【司令室】と書いてありました。
仏壇には芳子さんの字で【御先祖様】と書いた紙が下がり、
座敷には御簾を掲げていっぷう変わった雰囲気でした。
月見の宴などを開いた時には、
女優の水谷八重子・栗原すみ子らを招いて賑やかなものでした。
伊東さんと出会った事はありませんが、一緒に暮らしておられるというのがもっぱらの噂で、
家族は他に千鶴子さん〔秘書〕・ピーター〔預かっていたアジア男児〕、
それに廉子さんの姿も時々見かけました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


1937年昭和12年、
伊東と別れた芳子は天津の日本租界松島街で中華料理店【東興楼】を経営し、
天津の【東興楼】、北京の自宅、福岡東中州のホテル清流荘を行き来していた。
1939年昭和14年、家賃滞納のため【東興楼】は立ち退きとなった。
日本へは静養という名目で九州大学病院をはじめその他の病院を転々としながら、
白羽二重の和装に断髪といういでたちで東中州の料亭で遊び回っていた。
そして、ダイヤを散りばめた時計が盗まれたとか5千円が消えたとか
病院の医師がキスをしたとか薬局が水増し請求をしたとか
次々に警察に言い立てるようになるが、いずれも狂言だった。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の秘書 小方八郎

あの人は悪気はないんですが、人を騒がせるのが好きだったんです。
寂しさを紛らわせるためだったのか、どうもあの点だけは理解に苦しみます。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和14年、福岡で芳子に可愛がられた福岡高女の女学生 園本琴音/旧姓鹿毛琴音

「琴ちゃん」と何か言いかけて、「ちょっと失礼。身体に残った銃弾の痕が痛くてね」
ふくよかな太ももの透き通るように白い肌に鉛色の注射器が斜めに突き刺さり、
静かに押す指の間からガラスの筒が鈍く光っていた。

ある日 真顔で芳子様が、
「琴音ちゃん、僕のことをお兄ちゃんと呼んで」とおっしゃった事があった。
私は一度も呼べなかった。そんな簡単な事がなぜできなかったのか。
若さ、それだけの事だったのに悔やまれる。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
右翼政治家 笹川良一への取材

1940年昭和15年大衆党総裁として満州へ慰問飛行を行った笹川が
北京のホテル翠明荘に滞在した時、旧知の由利少尉から
多田駿の命によって「芳子を始末しろ」と仰せつかって頭を痛めていると打ち明けられる。

「上海では特務機関の田中の元で情報部員として、まあ、かなりの功績をあげとるんですが、
最近、軍では少々彼女をもてあましていましてね」と由利は告げた後、
「軍で使うだけ使っておいて、多少悪い事があるからといって始末するのでは
道義にはずれる行為ですから、私にはとても彼女はやれんのですよ」
と笹川に相談を持ちかけた。

笹川は「むごい話だ。よろしい、これから芳子に会って善処してみましょう」と言い、
北京の北池子にあった芳子の住居に駆けつけた。
笹川が芳子に事の概略を語ると、芳子は涙ながらに身柄を笹川に任せると伝えた。
笹川はその日のうちに芳子を大連の、かつて川島浪速が住んでいた家に引き込ませた。
そのご笹川が日本に帰国すると、
芳子は後を追って来て土地勘のある福岡に荷をおろし笹川を慕い続けた。

「いつ聞いても、年は27歳と言いよった。
しかし誰がしつけたのか、私が脱いだ袴をきちんと畳んだのには驚いた。
あの時分でも、袴を畳める女性はそうざらにはいなかった」
笹川の目前でいきなり股に自分で注射針を刺したとも言うのだが、
何のための注射であったかは笹川も確かめていない。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の秘書 小方八郎

日本では山王ホテルの一室にこもって、毎日何をするでもなく過ごしていました。
動物好きの彼女は浅草で猿を見つけて部屋で飼い始めたんですが、
それが子を産んだりして最後は4匹にもなりました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


相変わらず中国と日本を行き来していたが、1945年昭和20年の敗戦は中国で迎える。
日本への帰国を勧める者も多かったが、芳子は中国に留まり放蕩の生活を続けていた。
しかしついに11月、北京の自宅にいた芳子は国民党軍に逮捕される。
漢奸として起訴され3年に渡って裁判が続けられたが死刑判決が下され、
1948年3月25日に銃殺刑となった。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の同腹兄 愛新覚羅憲立

芳子には理想がなく、また芳子の取り巻きはあまりに通俗的な人物が多すぎた。
もし彼女が思想的に基礎を踏まえた教育を受けたなら、
頭脳も勘も抜群の資質を備えていた彼女のことだから、
なんらかの歴史的役割を担う人物になっていたかもしれない。
しかし家庭的に恵まれず、くわえて生来の特異な性格の故もあって、
その一生は無意味な独走の繰り返しに終わっている。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の同腹妹 愛新覚羅顕琦/川島速子 学習院に留学

芳子はたしかに聡明でした。
しかし公平に見て、スパイ行為をするほどの力量はありません。
彼女の悲劇の原因の一つは川島浪速の養女になった事にあり、
もう一つは美貌にあります。美貌がたたったのだと思いますよ。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の実姪/義妹 愛新覚羅廉鋁/川島廉子 松本高女に留学

大連で芳子としばらく同居しました。
叔母は白いハイネックのセーターを着ていましたが、私がそれを褒めると
兎皮を器用に使って同じような上着を私にも縫ってくれたのを思い出します。
料理の味付けも上手かったし、日本にいた頃は
留学中の一族の世話を親身になってしたりしてよく気のつく人でした。
あのような運命に巡り合わねば、いい主婦になったでしょうに。
私個人としては、可哀想な女性という気がしてなりません。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
川島浪速の義理の孫 原田伴彦の芳子への弔辞

彼女の武器は、絶世の美貌と愛新覚羅王朝の貴種の血と金力と
あふるるばかりの才気と頭脳であった。
しかし彼女の悲劇の原因もそこから発した。
彼女の生活には理想もなければイデオロギーもなければ、
近代的性格はほとんど存在しなかった。
彼女のスパイ活動がどのようなものであったか、私はその真相を知らぬ。
一切の虚飾を取り除いたとき私の目に映る彼女は、
幸福なる女性の本道を行く事ができなかった不幸な一女性であり、
かつそれだけに自ら選んだ世紀のマヌカンの姿のカリカチュアがあまりにも哀れだからである。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
[PR]
by xMUGIx | 2007-01-23 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

川島浪速は満州浪人の大将と呼ばれた男で、
満蒙独立運動に関心のある大陸浪人や学生が多く出入りしていた。
赤羽字稲付(現在の赤羽2丁目)にあった川島の屋敷には桜の木が200本もあり、
近所からは【お花御殿】と呼ばれていた。
来日した芳子は、まず赤羽の東京府立豊島師範付属小学校に入学した。
紫地に浮き織りの地厚な袴を胸高にはき、黒の編み上げ靴を履いて通った。
1学年下の劇作家田中澄江も、一般児童がセルの袴をはいている中で、
紫緞子の芳子は目立ったと回想している。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
幼なじみ 石川倫

芳子さんの美しさは雛の段から抜け出してきたお姫様のようで、
その印象は今でもはっきりと覚えている。
庄野という老婦人や多くの書生・下女達にかしずかれていたが、
いつでも孤独であったらしい。

彼女はよく唱歌を歌った。おもちゃには人形らしきものはなく、
オルガン・お手玉・まり・竹馬などであった。
竹馬は物干し竿のように丈長で、
乗る時は物置小屋の屋根からとか塀によじ登ってから乗り移ったりしていた。

ザクロの蕾のような唇からもれる声は太く、
箸でちぎったようなぶっきらぼうな言葉遣いはおよそ男性的であった。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小学校の1年後輩 劇作家田中澄江

芳子は私達が先生と呼んでいた実習生を「おい、君」とよんでいた。
赤羽にあった川島邸からいつも紺絣に小倉の袴の書生がついて来ていたが、
その名を呼び捨てにしていた。
満州浪人の大将と言われていた川島邸は、椎の大木に囲まれた庭の広い家で、
玄関に出迎える女中、芳子の部屋へお茶とお菓子を運ぶ女中の違ったのと、
芳子がやはり「おい」と命令していたのを覚えている。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小学校の同級生 大河内一雄

きれいな洋服を着て愛らしかったばかりでなく、態度言動はまことに活発であったので、
たちまちクラスの人気者になった。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
川島家に出入りしていた士官学校生 鈴木常喜への取材

生徒たちが庭で談笑にふけっている真ん中めがけて、
芳子は自分の頭の3倍もあるようなマリを二階から投げ下ろしてくる。
大急ぎで駆け下りてくると、青年たちを歯牙にかける様子もなくさっとマリを拾うと、
また二階へ男の子のように駆け上ってゆくのである。
二階へついたと思うと、また生徒たちの中へマリを投げ込んでくる。
(きれいなかわいい、しかしなんと乱暴でお転婆なお嬢さんなのだろう)
そんな印象を鮮やかに残していた。

男の子達がキャッチボールをしていて芳子の足元にボールが来た時、
さっと取って別の方向に投げた事や、書生や女中を呼び捨てで「おい」と命令したり、
他の生徒が先生と呼んでいた実習生を「おい、君」と呼んでいたことも覚えている。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
跡見女学校時代の芳子をよく見かけた赤羽の開業医 石井正文

車輪の音をきしませながら、一頭立ての馬車が赤羽駅前広場に止まる。
御者は姿三四郎そっくりの格好をした書生である。
馬車を止めると直ちに後部のドアを開けて丁重に一礼、
「姫様、行ってらっしゃいませ」と挨拶を申し上げる。
中から茄子紺の女学校の制服を着た、
輝くばかりの美貌の少女が袴を淑やかにたくし上げながら降りてきた。
「御苦労さまでしたわね」とにっこり微笑みながら、改札口に入ってきた。
赤羽駅の女王が出現したのだ。
駅頭の人々は男女を問わず、みな呆然と見とれてしまった。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
跡見女学校時代の教師 井上幸子への取材

「御自分の意見ははっきりおっしゃる方でした」と回想している。
井上によれば、芳子は雨の日に他の生徒が上手に歩いてくるのを、
かまわず歩いて袴をびしょびしょにして、学校に着くなり
普通では恥ずかしくてできない袴なしで、平気で乾かしていたという。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
松本高女時代の先輩 山崎わごへ

松本座という芝居小屋で開かれた音楽会では、芳子さんの紫色の羽織が男性の間を駆け巡って。
誰とでも握手したり笑ったり騒いだり。まあその音楽会の時なんてのは、もう蝶々のようでしたねえ。
帰り道でも松本第一中学の生徒だとか松高の生徒なんかが、後ろなり前なり彼女を囲んで。
もう本当に女王様だったね。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の同腹弟 愛新覚羅憲東

連隊旗手 山家亨は後に満州に渡り、満映の甘粕大尉の元で大陸の芸能界を支配した。

松本時代の山家さんの下宿は、浅間温泉にありました。
芳子が彼の部屋の表に立って窓越しに山家さんと話している様子は、
子供心にも何かしら切ない関係を感じさせられたものです。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


大和丸事件
芳子に思いを寄せていた大和丸こと森山英治が、芳子を川島から奪うと騒ぎ立て、
09月10日から一週間ばかり新聞で連日報道された事件。

2ヶ月後の11月21日には、
『支那語が取り持つ芳子さんの結婚 松本五十連隊の中尉と出来上がった恋』が報道される。

芳子に説教をした某氏とは愛国党の志士岩田愛之助と言われる。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
原田まつしま ※意訳

大正13年10月31日原田は子供を連れて川島邸を訪ねた時、断髪直後の芳子に出会う。
「私も驚いたが、子供も驚いてまじまじと眺めている。芳子は子供に向かって、
『今日からお兄ちゃんと言うのだよ』と宣言した」
帰りがけに芳子は大声で原田に、
岩崎氏には髪を切り落とした事を内緒にしておいてくれと頼んだ。
ところがその日の夕方、
芳子自身が坊主頭に絣の筒袖、朴歯の下駄といういでたちで岩崎邸を訪ねていた。
原田は「それでは今朝大声で頼んだことは何のためであったか」といぶかっている。
髪を切った事について原田は川島浪速とは一切語り合わなかったが、
「さぞ父としては気にらなかったことであろう」

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
朝日新聞 1925年大正14年11月22日

さる25日の火灯し頃、温泉町の信州浅間の支那料理松本亭の土間に、
高い朴歯の下駄をつっかけ早大の制服を着たグルグル坊主の眉目秀麗な青年が、
「おい女中さん、酒を持ってこい」と強いてきつそうな声を出して
側の老人にしきりに杯を重ねさせていた。
バンカラなこの青年学生こそ、例の川島芳子嬢の変装姿であった。
芳子さんは断髪して男装を始めたのである。これには複雑した悲喜劇がある。
さきに大和丸の自己宣伝で世間の噂になった時、憤慨した某氏が
「そんな噂があっても、お嬢さんには絶対そんな事実があるはずがないと
世間が自然に打ち消すまで修養しなければ駄目です。
死んだ同志や祖先に対して何と申し訳をされる」と猛烈に教訓をやって玄関まで退出すると、
芳子嬢の居間でズドンと銃声が怒った。
ハッと思って駆けつけると、芳子嬢は朱に染まって苦悶していた。
机上には『自分のために皆を心配させて申し訳がない』と鉛筆の走り書きがあった。
驚いた一同はすぐに医師を招いて応急手当を加えた結果、
幸いピストルの弾は外れ命は取り止めた。この事実は当時秘められていた。
そして苦悶の生活を続けていた芳子嬢は、またも弟の元に支那語の稽古に出入りしていた
中尉山家亨との間にあられもない艶っぽい宣伝が行われた。
女ながら清朝復古を理想とし使命としているという男勝りの芳子嬢は、
「自分が女でいるから面倒が起る」と数日前家人の隙をうかがって自分で黒髪を切り、
間もなく床屋へ行ってきれいなクルクル坊主になってしまった。
そして和服の時は書生のように朴歯の下駄をはいて歩く姿に、
川島氏ら一同も今更のように舌を巻いている。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の実姪/義妹 愛新覚羅廉鋁/川島廉子 松本高女に留学

芳子は時々背骨の第二関節が痛いと言っておりまして、
カリエスだと聞いた事もあります。
左胸のピストルの傷も見せてもらった事があります。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
朝日新聞 1926年大正15年10月21日 ※意訳

奥さんを連れて芳子嬢が大連へ 長野高女を3年でよして芳子嬢に走った夏子さん

春まで金ボタンの詰襟だった芳子嬢は、
今度は黒の背広に中折帽という装いであっぱれ紳士ぶりを発揮しているが、
野尻村の前村長の孫夏子さん(17)が芳子嬢と一緒に暮らすと大連行きを決意し
高校を辞めてしまったが、芳子嬢は「これが僕の奥さんなんです」と紹介している。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


1927年昭和02年、20歳の芳子は24歳のカンジュルジャップと結婚。
カンジュルジャップも赤羽の川島家に留学していたので、
小さい頃からの幼なじみでもあった。
結婚して中国に渡るが、3年後芳子は家を出たまま帰らなかった。
それからの芳子は男性遍歴を繰り広げることになる。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の同腹兄 愛新覚羅憲立

「カンジュルジャップが絶え間なく手紙を寄こすし、
自分も彼を嫌いでないから結婚しようと思う」と言うのを聞いて、
本人がその気ならと私は結婚を許可しました。
たしか、張作霖事件の前年だったと思います。
親父が亡くなった以上、
長男〔同腹の長男、全兄弟の長男は別〕の私が許可を下す役にあるわけです。
彼と芳子は子供のころ赤羽の川島邸で一緒に暮らした事もあるし、
客観的に見れば良い組み合せでした。

正確に言うと、離婚ではなく家出です。
当時は法的な結婚手続そのものがありませんでしたから。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の異腹姉 愛新覚羅顕珴

二人の仲は決して険悪だったわけではなく、
カンジュルジャップはいつ芳子が帰ってきてもいいように
家の中を整頓して待ち続けていたのが痛々しいほどでした。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の同腹兄 愛新覚羅憲立

カンジュルジャップは蒙古の楊王の孫娘にあたる17歳の女性と再婚する。
芳子はその結婚式に現れ、祝辞を述べた。

そもそも再婚相手を探してあてがったのは芳子なんですよ。
その日、式服のカンジュルジャップ夫妻と
ベレー帽をかぶった芳子とが並んで撮った写真を私は見ています。
芳子は自分はあくまでも【正妃】であり、
主人に【第1側妃】を持たせたと考えていたんじゃないかと思います。

カンジュルジャップは後妻との間に6人の子供をもうけたが、
芳子は後妻が出産するたびに、おもちゃなどを持って駆けつけた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
信濃毎日新聞 1931年昭和06年05月14日

エログロの権化、川島芳子の此頃

問題の令嬢川島芳子は目下当地の支那旅館中華ホテルに滞在し、
国民政府の要人連を訪問し何事か画策中であるが、
夜になると各ダンスホールを飛び回ってエロ気分にひたっておる。
彼女は自らジャンヌ・ダークを気取って清朝の回復を叫び、
特に反蒋問題の中心となっている胡漢民氏に会見を望んで日本公使館に運動中である。
彼女の行動は猟奇的な支那側要人から非常に注目されているが、
エロとグロの権化のような彼女はあまりにバンプぶりを発揮するので
かえってその精神状態を疑われ、
そのうえ経済的にも困り抜きホテルの支払いも相当滞っている。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


満州事変が勃発、マスコミが描く芳子のイメージも大きく変わる。
昭和05年上海で陸軍特務機関田中隆吉少佐と愛人関係となる。
【謀略の田中】と呼ばれたほどで、大陸政策の闇の部分を支えた人物である。
芳子は鳥打帽に背広姿の男装で諜報活動を行い、田中の指示で上海事件を起こさせる。
また同年上海で16歳の千鶴子と出会い、
千鶴子は身辺の世話をする秘書として3,4年を芳子と過ごした。
後に結婚、戦後も幸せな家庭生活を送った。

田中と関係を続けるかたわら、日本で政治家の今里準太郎とも関係を持った。
1931年昭和06年二人は神田錦町芳千閣ホテルに滞在し、
900円の宿泊代を踏み倒して行方をくらませた。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
婦人倶楽部 1933年昭和08年09月号

千鶴子◆お兄さん(芳子)にも御両親がありませんし、私にも両親がないものですから、
本当にそのおさびしい心持ちはよくわかります。

芳子◆僕の美しい奥さん、いまのさびしい私にとって、たった一人の味方であり同情者。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
朝日新聞 1931年昭和06年11月16日 ※意訳

大連に向かう瀟洒たる背広の青年は、満蒙の風雲急なるに乗じ由緒深き祖先の地に
新しき天地を開拓すべく馳せ向かった芳子の男性に還った雄々しい姿で、
上海で例の断髪洋装のモガスタイルで噂の的になっていたが、満州事変突発し
彼女の祖先発祥地に新しい時代が生まれようとする機会到来に乗じ北上したので、
今後の活躍ぶりを上海人はほほえましく期待している。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
[PR]
by xMUGIx | 2007-01-22 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆川島芳子/愛新覚羅顕㺭
1907-1948 明治39-昭和23 41歳没

清朝皇族第10代粛親王善耆の第14王女愛新覚羅顕㺭
8歳の時、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり川島芳子と名乗る。




■父 愛新覚羅善耆 第10代粛親王
1866-1922

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
息子 愛新覚羅憲立

いま北京市営の靴下工場になっている粛親王府は、
4000坪の敷地に数百の部屋を持つ建物を擁していました。
北京で一番早く二階建てを造ったのは私の親父で、
当時から自家発電と自家水道がありました。
別棟としてフランス式の洋館を造り、
パイプオルガンにシャンデリアが輝いていたのも覚えています。
庭には噴水があり稀に見る近代建築だったので、
人々は親父が外国の薬に中毒したと噂したそうです。
しかし子供の目から見ても親父は改革の気魄に満ちた人物で、
特に日本の明治維新に強い関心を抱いていたようです。

*清朝滅亡後は、北京から旅順に逃れた。旅順では元ロシアのホテルに住まった。
粛親王一行の生活費は月に3000円以上だったが、川島がどこからともなく工面し、
家政は川島の妻福子が行った。

庭だけで5000坪はあったでしょう。部屋数は28だったと思います。
親父は当然二階の広い一室を占めていました。
結婚した兄姉には一室ずつあてがわれましたが、
あとは同腹の弟妹が2,3人ずつ同室で過ごす事になりました。
部屋には日本陸軍のベッドが2つずつあり、
薬莢を利用して作った灰皿があったのを覚えています。
食堂には8人ずつ座れるテーブルが7つ8つ並んでいました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


正室1人・側室4人・子女は36人いた。


■正室 赫舍里氏

●憲章→娘廉鋁は川島廉子
●憲徳
●憲真
●顕瑄
●顕珥


■第1側室 程佳氏

●憲平
●憲宣
●憲奎
●顕珊


■第2側室 佟佳氏

●憲英
●憲貴
●憲原
●憲均
●顕瑡
●顕珴
●顕珣


■第3側室 姜佳氏

●憲邦
●憲雲
●憲久
●顕琪
●顕玖
●顕琮


■第4側室 張佳氏

●憲立
●憲方
●憲基
●憲開
●憲容
●憲東
●顕㺭 川島芳子
●顕瑠 川島浪子
●顕琦 川島速子





■養父 川島浪速 
1866-1949 慶応01-昭和24

川島は松本藩士川島良顕の子として生まれ、
明治維新後上京して外国語学校支那科(現東京外国語大学)に入学したことから
大陸に強い関心を持つようになり、ついには退学して中国へ渡った。
上海で軍部・政界・大陸浪人達との人脈を深め、日清戦争の際には陸軍の通訳となった。
川島は清朝に雇用され北京警務学堂の学長に就任し、警察制度の改革に尽力する。
清朝に雇用された外国人のなかでもその給料はトップクラスであり、
粛親王 愛新覚羅善耆ら皇族とも知り合うことになる。
清朝滅亡後は川島が粛親王一族を北京から旅順に脱出させた。
二人は満蒙独立運動を目指して義兄弟の契りを結び、芳子を川島の養女にした。
粛親王は芳子以外にも多くの子や孫を川島家に預け日本に留学させた。




■養母 川島福子 鹿児島出身・旧姓川井田

夫妻は見合いで、夫37歳&妻21歳で結婚、すぐに北京へ渡る。
旅順では亡命した粛親王一族を取り仕切る女官長のような役割を担っていたが、
10年後失意のうちに日本へ帰国、
潔癖症が高じて神経症となり夫婦仲も悪化、別居を繰り返す。
浪速が東京を引き払って郷里松本に転居すると、
福子も郷里の鹿児島に戻り完全に別居状態となる。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
浪速の義理の孫 原田供彦

正妻がそばに居らぬ、
それだけの理由ではないが、浪速は女中を側近にはべらせた。
その女中も時折り交替した。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
松本時代の家庭教師 土屋隆瑞

夫人は鹿児島に別居中で、光子・幸子という婦人二人が同居していた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
芳子の同腹弟 愛新覚羅憲東

松本の家にはお妾さんが同居していました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::




●養女 川島芳子 愛新覚羅善耆の子
●養女 川島廉子 愛新覚羅善耆の孫/芳子の姪 愛新覚羅廉鋁




★夫 カンジュルジャップ 夫24歳&妻20歳で結婚、3年後離婚、
芳子の紹介で別の女性と再婚して6人の子供をもうける。
1903-1971




::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

1906年 明治39年
溥儀生まれる
芳子生まれる

1907年 明治40年
溥傑生まれる

1908年 明治41年
溥儀、12代清朝皇帝に即位

1912年 大正01年
溥儀、辛亥革命により退位
芳子来日、川島浪速の養女となり、跡見女学校に入学

1921年 大正10年
川島家浅間温泉へ転居、芳子は松本高女2年に編入

1922年 大正11年
溥儀、正室婉容・側室文繍と結婚
芳子の父粛親王死亡、葬儀のため渡満
半年後帰国、松本高女より復学を拒否される 断髪して男装を始める

1924年 大正13年
溥傑、唐怡莹/唐石霞と結婚
溥儀、クーデターにより紫禁城から脱出

1925年 大正14年
溥儀、イギリスやオランダへ庇護を要請するものの拒否され、
日本大使館が手を差しのべ天津日本租界内に住まう

1927年 昭和02年
芳子、イトコのカンジュルジャップと結婚 女装に戻り渡満

1928年 昭和03年
芳子、カンジュルジャップと離婚 再び男装となる

1929年 昭和04年
溥傑、日本へ留学 唐怡莹/唐石霞との結婚解消

1931年 昭和06年
溥儀、側室文繍と離婚
日本軍から満洲国皇帝就任を打診され、日本軍の手引きで満洲へ移る

1932年 昭和07年
満洲国樹立

1934年 昭和09年
溥儀、満洲国皇帝に即位

1937年 昭和12年
溥儀、譚玉齢を側室とする
溥傑、浩と再婚
芳子、天津で中華料理店【東興楼】を経営

1938年 昭和13年
溥傑の長女慧生が生まれる

1940年 昭和15年
溥傑の二女嫮生が生まれる

1941年 昭和16年
太平洋戦争勃発 

1942年 昭和17年
側室譚玉齢が死去

1943年 昭和18年
溥儀、李玉琴を側室とする

1945年 昭和20年
日本が敗戦して満州国は崩壊、溥儀・溥傑は日本への亡命を図るが、
ソ連軍に拘束され二人はソ連の収容所に送られる
芳子、国民政府の憲兵に逮捕される

1946年 昭和21年
婉容・浩・嫮生が共産党軍に拘束される
正室婉容が死去する
溥儀、極東国際軍事裁判に出廷

1947年 昭和22年
芳子、死刑判決を受ける

1948年 昭和23年
芳子、死刑執行

1949年 昭和24年
養父川島浪速死亡

1950年 昭和25年
溥儀と溥傑、中華人民共和国に送還され、
戦犯として収容所で中国共産党による「再教育」を受ける

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
[PR]
by xMUGIx | 2007-01-21 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆昭和32年12月01日

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
福永嫮生

その日の昼前、姉は体調が悪いらしく早めに帰宅しました。
夕方になってアラカワと名乗る男子学生から電話がありました。
姉は「私、風邪をひいて休んでおりますのよ。そんなこと、無理ですわ。
いらしていただいても困りますッ!」と拒絶。しかし結局押し切られたようで、
「自由ヶ丘に行って参ります。一時間ほどで戻って参りますから」
と言って出かけ、しばらくしてから帰ってきたのです。
姉は父とよく似ていて、人から頼まれると断れない性格でした。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年12月02日 慧生、3人にSOSを送る

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐藤静代の証言

「ちょっとオサトに見ていただきたいものがあるの」
慧生はショルダーバッグの口を開いた。バッグいっぱいに新聞紙の包みが見えた。
「これ、ピストルなの」
「どうなさったの!そんな恐ろしいものを」
「大久保君が青森のご実家から持ち出されたものなの。
『この銃で自殺する』っておっしゃって。
わたくし一生懸命説得してお預かりしましたのよ」
慧生に動揺した様子はなく、いつものおっとりとした口ぶりだった。
「重いのよ。持ってごらんなさい」 慧生はバッグを佐藤に差し出した。
「こんなもの持っていらっしゃるだけでも危ないわ。
どなたかちゃんとした方にお預けになった方がよろしいわ。そうなさいませ」
手に持ったバッグを戻し、佐藤はそう言った。
「ええ・・・」 慧生は少し途方に暮れるような眼差しをした。
「こんな怖いものお持ちになっちゃだめよ。おわかりになって」
「ええ、そうしますわ」


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子

いつも大久保さんとのこといろいろ聞かされて私の心がマヒしていたのか、
あのことの2日前にエコちゃんのハンドバッグの中に
大久保さんから預かったというピストルを見ておりながら、
それがあんなことになろうとは夢にも思い及ばなかったとは、
本当に申し訳ないと思うと同時に自分が情けなくなります。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

慧生と思われる女性から新星学寮の穂積五一宛に電話が入る。
穂積はインフルエンザで寝込んでいたため妻が対応したが、
相手は名乗らず「大久保さんが最近・・・」と言ったところで切れた。
そのため妻は穂積に特にこの電話のことを告げなかった。

夜、大久保が穂積に相談したいことがあると来るが、
穂積が発熱中のため何も言わず部屋へ戻る。


◆昭和32年12月03日 事件前日 

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐藤静代の証言

佐藤は大学で慧生の顔を見るなり昨日のピストルの件を尋ねたが、
慧生の反応は鈍く「ええ・・・」と言ったきりそれ以上は話さなかった。
佐藤は「大久保君に絶対渡してはだめよ」と念を押した。
二人は「じゃ、ご機嫌よう」と笑顔で別れた。
佐藤は慧生に特に変わった様子はなく、
ピストルの件は何らかの形で解決され事なきを得たものと思っていた。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
新星寮生の証言

大久保は、最近不安定な精神状態にあった。
酒もやめ、アルバイトをして、生活を慎ましくして、結婚資金を貯めるのだと言っていた。
「大学院へ行きたいのだが結婚のために働かなければならぬ。
高校の先生になる以外ない」などと漏らしていた。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
新星寮生の証言

大久保は部屋を片付け、友人にやると言って辞書類を風呂敷包みにして外出した。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
辞書類をもらった友人の証言

「国文科をやめるから、この辞書は君にやる」と言って渡し、
7時頃外で夕食をとって11時頃別れた。
死ぬようなそぶりは感じられず、おかしいとも思わなかった。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年12月04日 事件当日

慧生は朝8時いつものように弁当を持って家族に挨拶をして自宅を出る。
複数の目撃者がいることから、大学には向かったものと思われる。
大久保は朝、スーツにコート、カバンを持って寮を出る。

12月04日の消印で大久保の手紙は慧生から、慧生の手紙は大久保から、
それぞれまとめて別のポストから大久保の母宛に郵送する。
慧生がまとめた大久保の手紙は、02月05日を境に2束に分けて赤いリボンで結ばれ、
慧生の字で「婚約前」「婚約後」と記されていた

12月04日の消印で、慧生は穂積五一宛ての遺書を投函する。

二人の貯金をおろし、大久保は自分の靴を買い、慧生にエンゲージリング買う。

二人は夕方修善寺駅からタクシーに乗り、午後5時頃天城峠のトンネルの手前で降りた。
タクシーの拾えるような場所ではないことから
運転手が「待っていましょうか」と言ったが、
男は「地理はよく知っているからいい」と言って少し登りかけてまた戻り、
「最終のバスは何時か」と聞いた。女が先に立って道を登って行った。
不審に感じた運転手はその後 警察に通報した。

門限の午後8時になっても慧生が帰宅しないことから、
嵯峨家はあちこちに問い合わせ、午後10時と午後11時には新星学寮にも電話を入れる。
寮生が大久保の部屋を捜索すると、日記が破ってあり、
スクラップブックに貼ってあった慧生からの手紙もはがし取られていた。

※この日すでに二人は心中していた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
福永嫮生

当時わたくしは学習院女子高等科の2年生でございましたから高田馬場へ、
姉は大学のある目白へ通っておりました。
『ナイナイ(お母さん)、行って参ります』と、
いつものようにお弁当を持って姉の方が一足早く家を出たのでございます。
変わらない穏やかな声でございました。
ところが、門限の午後8時を過ぎても帰ってきません。
家族は心配して親戚中に電話をかけまくりましたが、姉の所在は不明。
大久保さんが住んでいる学生寮に電話をかけても、彼もまた帰ってはいませんでした。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年12月05日

午前、嵯峨家が新星学寮を訪れる
午後、12月04日消印の慧生から穂積宛ての遺書が配達される
夕方、嵯峨家が再度訪問、慧生の母親に見せたいからと慧生の遺書を持ち帰る。
穂積はすぐに返却することを条件に遺書を貸し出す。


◆昭和32年12月06日

出奔前に大久保が伊豆の地図を見ていたことを頼りに、寮生たちが捜索を始める。

夜、嵯峨家が事件を公表する。


◆昭和32年12月07日

新聞各紙の朝刊のトップ記事となる。

学習院の同級生らが捜索に加わる。
木下明子・佐藤静代も参加。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子の証言

正午、木下明子は穂積五一に電話を入れる。
エコちゃんのお母様から、
報道関係には大久保さんに誘拐されたと言ってほしいとの申し出あり。
私は今後一切報道関係には会わぬ。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年12月08日

嵯峨家と大久保家が話し合いの末、事態を穂積に一任することを決定、
穂積は交際を認めるから戻ってくるよう新聞・ラジオを通じて呼びかける。


◆昭和32年12月09日

遺留品が発見される。
男物の靴・女物のレインシューズ・男物のシャツ・
女物のシャツ、シュミーズ、ズロース、上履きズロース。
女物のシャツとシュミーズは肩の部分がかなり破れていた。
二人はここで新品の下着と靴に着替えたものと思われる。


◆昭和32年12月10日 遺体発見

午前9時半頃、
天城トンネルからハイキングコースを登った百日紅の木の下で二人の遺体発見。

大久保は、黒のオーバー、紺のズボン、新品の靴、右こめかみに穴、
右手にピストルを持っていた。
ピストルは、戦前満州で憲兵をしていた大久保の父の持ち物だった。

慧生は、黒のオーバー・水色のセーター・白地に黒と茶の格子のスカート・黄土色の靴。
左こめかみに穴、左目を半ば開いている。左手にはエンゲージリング。
腕時計は07時20分で止まっていた。

遺体のそばには、紙に包まれた髪の毛と爪が置いてあった。
二人の両手の爪先は歯で噛み切ったようにギザギザであった。
半分食べた甘栗の袋と食べた皮を包んだ新聞紙・懐中時計・学用品・
靴下止め・コンパクト・口紅3本・香水2瓶・その他。

午後5時湯ヶ島の派出所で検死後、納棺。
二人の遺体は三島で荼毘に付すことになる。
別行動を取ろうとする嵯峨家に対して、
学生たちは二人の柩を一緒に霊柩車に乗せてほしいと頼む。
午後11時火葬。嵯峨家は慧生の遺骨と先に帰ってしまう。
分骨して骨だけでも一緒にさせてほしいという学生たちの申し出は拒否される。
大久保家もこのまま青森に戻りたいと言う。
穂積が説得して大久保の遺骨は寮に運ぶことになる。


◆昭和32年12月11日

慧生は自宅の嵯峨家で、大久保は寮で、それぞれ通夜が行われる。


◆昭和32年12月12日

午後1時、嵯峨家の400坪の庭で慧生の告別式が行われる。

返却してもらうはずだった慧生の遺書は焼却したとの嵯峨家の返事に穂積は激怒する。


◆昭和32年12月13日
大久保家、遺骨とともに青森へ戻る。
新星学寮生と学習院生が上野駅まで見送る。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
穂積五一

12月05日、慧生さんの封書の手紙が配達された。
便箋5枚ほどに、綺麗な文字で細々と澄み切った感動を与える手紙であった。
『何も残さないつもりでしたが、先生には気が済まないので筆を取りました。
大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、
私はそれを思いとどまるよう何回も話しました。
12月02日の日も長い間大久保さんの話を聞いて、
私が今まで考えていたことが不純で、
大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。
それでも私はなんとかして大久保さんの気持ちを変えようと思い先生にお電話しましたが、
お風邪で寝ていらっしゃるとのことでお話しできませんでした。
私が大久保さんと一緒に行動を取るのは、彼に強要されたからではありません。
また私と大久保さんのおつきあいの破綻やいざこざでこうなったのではありませんが、
一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。
けれど、先生にだけはわかっていただけるものと思います。
両親・諸先生・お友達の方々を思うと、なんとも耐えられない気持ちです』

大久保君は慧生さんのこともまったく誠実一路であったが、
それだけに慧生さんのある時期までの彼を試すような態度は
彼の神経をすり減らしたに違いない。
大久保君は慧生さんとの交際によって自分の頑なな性格が和み清められてゆく喜びを
絶えず寮友にもらし慧生さんを天使のように崇めていたが、
交わりがどちらからともなく接近するに及んで性の問題に逢着するに至った。
その上、例えばボーズ氏の態度や手紙も当時の彼に影響がなかったとは言えないだろう。
大久保君の死の原因は、
このような諸々の事がらが交錯して彼を痛めたところにあるように思われる。

大久保君が慧生さんのことで私に相談したのは前後3回にとどまっている。
当初彼女との交際について、
次にその年の暮れの慧生さんをめぐる決闘事件、
最後に越えて昭和32年の10月末頃のセックスについての質問。

慧生さんが大久保君を本当に選ぶに至ったことは、私には実は意外であった。
慧生さんに初めて会った時、いがぐり頭の、さして風采のあがらぬ、
ややかたくなな感じを与える大久保君とあまりにも違う、
美しく聡明で物柔らかな慧生さんとはおよそ対照的で、
二人は恋愛に進まない、大久保君は失恋に終わると私に思わせた。
大久保君のことをひたすら家人に秘し
家人に同調して彼を誹謗しながら一人苦しんでいた彼女、
打ち明ける家人とてなく何でも木下さんに話さねばいられなかった彼女、
惻々の情禁じ得ないものがある。
大久保君と慧生さんはかくして遂に相携えて天城山に消えたのである。
二人の御両親の嘆きは深く消えることのないものであるが、
それだけにこの悲しい死の事実に反省を願ってやまない。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
福永嫮生

姉のコートのポケットには、
父が千葉の稲毛の海岸で拾いました美しい小石が入っておりました。
会うことすらかなわない父に繋がる たった一つの宝物として、
姉はいつも肌身離さず持っていたのでございます。

姉の死から、母も私も体調を悪くして寝込みがちになってしまいました。
学習院高等科の先生は姉の事件について「学習院の名誉を汚された」と話され、
私は精神的なショックを受けました。
十二指腸潰瘍になって、それから何年も治らなかったのです。

二人を乗せたタクシーの運転手は、姉が大久保さんに何度もこう話したのを聞いています。
「ここまで来れば気が済んだでしょう。遅いから、もう帰りましょう」
さらに登山道に沿ってちぎられた学習院大学のパンフレットが点々と続いていました。
それは生還のための目印だったはずです。

家に残された姉のカレンダーには、12月の予定がびっしりと書き込まれていました。
来年の年賀状も書きかけのまま机の上に積まれていました。
注文したオーバーコートもまもなく出来上がる予定で、
姉はそれが届くのをとても楽しみにしていました。
それに若い女性が死を覚悟するような時、自分の身の回りでこれだけは
後始末をしておかなければ恥ずかしいと思い当たることがあるはずです。
姉はその後始末をしないまま家を出ていました。
きっと帰宅すると心に決めていたからに違いありません。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子

あの時、ああすれがよかった、
こうもすればよかったと悔やまれることばかりでございます。
あのころエコちゃんはほとんど毎日のように、その日あったいろいろなこと、
特に大久保さんのことをまるで報告するように私にお話しになっていらっしゃいました。
けれども、お家には何もお話しになっていないとのことでございました。
御自分ではお話になっていないおつもりでも、
きっとお母様方は御存知になっていらっしゃるとばかり思っておりました。
ところが事件後、お家には一言もお話になっていなかったと承り、
何にもおっしゃらずに死んで行ったエコちゃんの御心の中を察して、
本当にお気の毒に存じます。

ただお二人のお手紙からもおわかりになると思いますが、
お二人は本当に愛し合っておりました。
それは常にお二人の間にいた私が一番よく存じていることであります。
そして最後には生命まで捧げて愛されたその方を、
なにか誘拐者のように言われますことは、
エコちゃんにとってもどんなにか悲しいことではないかしらと思われてなりません。
どう考えても、すべての点で聡明なエコちゃんが、誘われたからといって、
それだけでついて行くようなそんな無分別な軽はずみな方ではないと、
今でも私はかたく信じております。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐藤静代

天城で運転手から聞いた言葉が今でも耳から離れない。
「今なら、まだ間に合う」というのは、
「今なら、帰宅時間に間に合うから」という意味ではないかと思っている。
エコちゃんは少なくともタクシーを降りる時点まで死ぬつもりはなく、
死にたくなかったが、帰るに帰れなくなって、ついに死の道行きに巻き込まれてしまった。
エコちゃんはいつも大久保君の母親の役割をしていらした。
穂積先生に最後の手紙を書いた後も、
何とか自殺を思いとどまらせようと一生懸命だったと思います。
彼女はどんな時でも人を拒まない優しさをお持ちでした。
その優しさが命取りになったのだと思います。
今でも銃を見せられた時、一緒について行ってあげればよかったと。
ああすればよかった、こうもすればと。
もう事件から50年以上も経っていますけれど、ずっと心にトゲのように刺さったままで。
助けを求めていたエコちゃんを引き止めることができなくて、
申し訳なかったという気持ちでいっぱいです。
『エコちゃん、本当は死にたくなかったのよね』
そう、彼女の亡骸に声をかけてあげたいのです。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
クラスメイトだった男子学生

エコちゃんは、美しく上品で優雅、聡明、快活。
勉学だけでなく、音楽や美術にも造詣が深かった。
大久保は自分の孤独を救い励ましてくれる女神か天使のように一方的に憧れ、
一途に慕っていた。
感情と行動に距離がなく猪突猛進、愚直なまでに実直な男だったから、
上流のお姫様だったエコちゃんにとっては
彼の行動のすべては新鮮な驚きだったんじゃないかな。
華族社会にはない新しい関係だというような。
エコちゃんは性別を問わず誰にでも誠意を尽くして付き合う人だったから、
秘かに心を寄せていた男性は多かったと思う。
エコちゃんは無菌状態で大学に入ってきて、誰に対してもあまりにも優しすぎた。
純真すぎて、
一人で死のうとする大久保を放っておけなくて悲劇に繋がってしまったんだと思う。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


a0130272_20584149.jpg

[PR]
by xMUGIx | 2007-01-15 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆昭和32年01月

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和32年01月01日 大久保から慧生への手紙

12月30日午後0時半過ぎ、日吉のお宅を訪問いたしました。御存知でしたか?
28日夜、眠らずにいろいろ考えました。
29日朝に至り、日吉に参ろうと決心いたしました。
どんなことがあっても、【慧子】に一度お会いしたかったのです。
誰が何と言おうとどんなことが起ろうとも、その意は曲げられませんでした。
御女中の御言葉ですと、だいぶ調子が良いとのことゆえ、
そしてお休みになってるとのことゆえ、お会い致したくお見舞いに上がったのでしたが、
一筆記して帰るより仕方がありませんでした。
門を入るや、スピッツが武道の姿を見て吠えたてて帰るまでやめませんでした。
犬にも親しまれぬのかと考えると情けなくもあった。
確か妹さんと思いますが、家の中のより武道の姿をかいま見ていましたね。
【慧子】に本当によく似ていましたね。
姉妹とは似てるものとは知りながら、【慧子】に一目会えたような気になりました。

風邪で休んでおられたのにわざわざ登校され、
冷たい教室で語ったために悪化したのではないかと思い、
武道どうしようもない気持ちです。
武道のような人間に好意と愛情を持って下さり、誠に感謝にたえません。
ふてくされたような武道のゆえに、
いまだ人前で泣いたことのないという【慧子】が泣いてくれました。
その心を必ずしも誠に受けなかった武道の頑迷、いま反省して深く恥じ入ります。

【慧子】は以前別れる時に武道がよく口にした言葉
「もし生きていたら、また会いましょう」、この言葉を【慧子】は大変嫌いましたね。
そういうことは口にすべき言葉ではありませんね。以降用いません。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
慧生が木下明子に語った言葉

お家の人ったら武道さんのことをなんて図々しい人なんだろうと言うの。
わたくしも、ほんとね、ねんて図々しいひとでしょうって調子を合わせておいたけど、
そんな自分が哀れになってお布団かぶって泣いちゃったわ。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和32年01月02日

父はとやかく言いましたが、母は武道の気持ちをわかって下さいました。
いい母を持ったと思います。

もう日吉には参りません。気を悪くしてなどおりません。満足いたしております。
誰がなんと言おうとどのように扱われようと、
そんなことよりもっともっと大切なことがあったのです。
そのゆえ無理して、無理を知りながら決行したのです。
小生何も悔いなく新年を迎え得ました。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
大久保の父 大久保弥三郎

なにしろ武道が家に帰ると、すぐ後を追って毎日のように手紙が来る。
裏を見ると愛新覚羅慧生と書いてある。
愛新覚羅家がどんな家であるかはもちろん私も知っていたので心配はしていたが、
二人がそんなに思いつめていたとは気がつかなかった。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年02月05日 秘密の婚約
目白のそば屋で語り合った末に、二人は婚約を決める。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
慧生が木下明子に語った言葉

大久保さんはこう言うの。エコちゃんの将来のために自分は身を引きます。
けれどもしエコちゃんの身に何か不幸なことが起こったら、
いつでも僕が引き受けますって。その一言で、私の心は崩れたの。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



◆昭和32年6月 婚約解消騒ぎ

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子の証言

婚約したものの、実際に結婚する際のトラブルを考えると慧生は腰が引けた。
慧生はお互いに相愛する気持ちに変わりはないけれども、
お互いの将来を縛るような婚約は一度解消した方がよくないかと言い出した。
大久保は絶望のあまり「人生に真面目な努力をする意欲はなくなった。
不良にでも遊び人にでも、何にでもなる」と言い、
数日後慧生に「俺は赤線に行ったよ」と告げた。
慧生は木村明子のところへ飛んで行って、
「汚らわしい。もう絶対にやめる。これで決心がついたわ。
決心がついた以上穂積先生にもハッキリ申し上げてキチンとしていただこうと思うの。
お願いだから一緒に行っていただけない?
わたくしオトナの前へ出ると唇が痙攣して物が言えないんですもの」
明子は念を押した。
「エコちゃん、今日はオトナにお話しするのよ。
いいかげんなことは言えないのよ。大丈夫?」
「大丈夫! 絶対に別れる」
穂積と対座しても慧生は世間話ばかりしていっこうに用件を切り出さない。
たまりかねた明子が切り出した。ところが穂積の返答はピントはずれだった。
穂積はこの時まだ二人の婚約を知らなかったので、いつもの痴話喧嘩だと思ったのだ。
穂積が大久保の欠点と美点を話すと慧生は嬉しそうに賛同したため、
明子は馬鹿らしくなり、結局別れ話も立ち消えになった。
ちなみに、赤線へ行ったというのは嘘だった。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年07月
大久保は大学院進学をあきらめ、アルバイトをして二人の将来のために貯金を始める。
金は慧生が預かり、月に一度預金するルールとなっていた。


◆昭和32年08月

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和32年08月01日 慧生から木下明子への手紙

私の方は御陰様でどうにかやっておりますから御安心くださいませ。
でも決してスムーズというわけではなく相変わらずケンカばかり盛大にしておりますが、
成り行きに任せていきたいと思っております。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年秋

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
慧生が木下明子に語った言葉

父の愛も知らず、長い間離れて暮らした母は
満州からの引き上げの時には一緒にひどい苦労をしたという感情から
妹には一心同体のような愛情を持っているらしい。
可愛がって育ててくれた祖母も、今はサッサと自分の部屋に閉じこもってしまうし、
叔父もお嫁さんが来てからは離れの自分たちの生活に入ってしまうし、
この孤独感はどうしようもない。
大久保さんは待ち合せの時間に自分が遅れても、
それがたとえ2時間になろうと3時間になろうと必ず待っていてくれる。
たいていの男の人はそんなに待つなんてことはしないだろう、見栄のために。
あの人にはそういう見栄はないのだ、ただ自分のまごころに忠実なだけなのだ。
何よりも感ずることは、
人間の心の暖かさ、誠実さ、気楽さ、ほのぼのとした人間味である。
髪がボサボサでもいい、下駄を履いていてもいい、そんなことは枝葉末節だ。
虚飾と虚栄だけの世界を浮遊しているような自分たちの生活から見れば、
これが人間の生き方だという感じがしみじみとする。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和32年11月

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子

私は念を押しました。
「学校を卒業して大久保さんと結婚すると言うけれど、
大久保さんの月給はいくら良くても1万3000円ぐらいのものでしょう。
あなた、本当にそれでやっていける覚悟があるの?」
「私のことをお嬢様とお思いになっていらっしゃるかもしれないけれども、
今の私の家の生活はとても苦しいのよ。
私は夕餉のオカズがサンマ一尾という生活だってできるのよ。
それに共稼ぎだって何だってする覚悟もあるのよ。だけど私は身体が弱いでしょ。
大久保さんはそれを心配して、
たとえ自分は飢えても君にはそんなことさせないとおっしゃるの」

話はお家の人々の反対を押し切って結婚した場合のことに移りました。
「お母様は私が中国へ帰るものと思い込んで
中国語を習わせたりして期待してくださっているので、
とても悪くて帰る意志がないなんてことは言えないの。
私が中国へ帰りたくないというのは、大久保さんとの結婚とは別の問題なのよ。
わかるでしょう。
でももし私が大久保さんと結婚したいと思ってるなどということがわかったら、
学校へも行かせてくださらないかもしれないわ。
だからといってあと3年間それを黙っているなんて、
お母様を裏切ることになるのでとても苦しいの」

聡明なエコちゃんは対策を立てたのです。
それは大久保さんとの交際の仕方を思い切って改めるということでした。
学校でも今までのようにいつも二人でいるというようなことはやめる、
手紙の往復もやめ、一方通行にする(自分の方からだけ出す)
お会いするのは日を決めて一週間に一度とし、そのかわりその日はゆっくりお話しする。
こうすればお家の方にトラブルの起こることも防げるし、
また大久保さんのためにもなると言うのです。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
慧生が佐藤静代に語った言葉

わたくし、いずれ中国に帰って蒙古の王族と結婚させられるかもしれないわ。
いやだわ。でも、たぶんそうなりますわ。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
福永嫮生

中国のことはすべて『お姉様がおやりになること』と、
その頃のわたくしは学生生活を気楽に楽しんでおりましたの。
わたくしは小さい頃の中国への恐怖心が強うございましたので、
姉ほどの思いはなかったのでございます。
姉は『将来、日中の架け橋になるために北京の大学に留学したい』
『いつの日か父と一緒に中国文学を研究したい』
という夢をよくわたくしに話してくれておりましたが、
わたくしはのうのうと日々を過ごしておりました。

父は私たち姉妹が結婚適齢期に近づいたことに手紙で触れていました。
『もしそういう問題が起こったら、結婚は本人次第。
周囲は助言する程度にとどめておくこと。
慧生が選ぶ相手なら間違いないと、私は信じている』
そんな父の手紙に姉は喜びました。
「お父様って、世界で一番理解があって、御立派ね」

姉は大久保さんと交際するようになり、
父に『ボーイフレンドがいて、彼が好きだ』と書き送っていたと後で知りました。
母が二人の交際について好感を持っていないことについて姉は触れず、
『どうしたらよいか』と悩んで父にアドバイスを求めていました。
父はその手紙だけでは返事のしようもなく、
戦犯管理所にいる身だけに、こう書き送っています。
『詳しい事情がわからないから、母の言うとおりにするように』

父からの返事は、姉が期待した内容ではなかったかもしれません。
姉は家族から大久保さんとの交際を良く思われなくて、
思い余って父に手紙を書いたのでしょう。
しかし、思いつめた様子も、落ち込んだ様子も見えませんでした。
生きるの死ぬのといった深刻な状況にはとても見えなかったのです。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
11月10日 慧生から大久保への手紙

家に帰ってから、やはり少し熱が出てしまいました。
学校に参りませんでもどうぞ御心配なさいませんよう。お便りなど下さいませんよう。
でも今日は本当にお茶の水まで行ってお会いできたかいがございました。
あんなに良いお母様だとわかって、
本当に武道様の妻にしていただく幸せを感じております。
熱は大したことはございませんから、
くれぐれも御心配なさらないよう、くれぐれも御見舞いやお便りは下さいませんように。
こんな至らないところばかりの私を変わらずに思ってくださること、
本当に申し訳なく存じております。少しでも良い妻になれるようにつとめて参ります。
どうぞくれぐれも御心配なさらないでね。私はいつまでも武道様と御一緒におります。
あと2年すれば御一緒にいられますから。
どうぞ将来のことをお思いになって、御見舞いにはいらっしゃらないでね。
それから御手紙もね。それではまた、ごきげんよう。
大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな 武道様へ


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
11月17日 慧生から大久保への手紙

武道様は普通の人と変わっていらっしゃって、
服装なんてあまりお構いにならないし、人に対しても割にそうでしょう。
私がどんな格好をしても平気で歩いて下さるし、
私の家庭のことなんかも平気で受け入れて下さるし、
そういう根本的な思いやりと礼儀がおありになる方なのです。
私は武道様のそういう根本的なあたたかさが好きなのです。
失礼ながら下品な言葉で言えば、「ゾッコン参って」います。

それに比べて私は、やはりうわべということからなかなか解脱しきれない人間です。
下駄をおはきになることや帽子をおかぶりになることを、
とやかく申し上げたことつくづく恥ずかしいことだったと思います。
私の感覚からすればどう感じるにしても、
武道様がかぶることを是となさってかぶっていらっしゃることですから、
快くかぶらせてあげることが私のなすべきことだと思います。
世間の人があまりかぶっていないとしても、
自分の夫を世間並みにさせようとすることこそ、女の浅知恵というものだと思います。
ですから帽子をおかぶりになりたかったら、おかぶりになって下さいませ。
本当に私って、愚痴だとか虚栄心だとかおしゃべりだとか、
女の典型的な悪いところの停留所のようなものね。
これから少しずつ気をつけて捨てるように心がけますから、
どうかもうしばらく我慢なさってちょうだい。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
11月20日 慧生から大久保への手紙

大学だけでおやめになってもかまわないとおっしゃっていらっしゃいましたけれども、
今はそうお思いになっても将来きっと後悔をなさると思います。
ですからこの際、
大学院にお進みになることを一応の方針になさってはいかがかと存じます。
私のことはお考えにならずに、
本当に御自分で一番なさるべきコースをよくお考えになって下さいませ。
私ひとりが女性というわけではございませんが、お仕事の方はそうはまいりません。
お仕事は生涯に繋がることでもあり、たった一つのことでございます。
もし私と結婚してくださるために学業も途中でなげうったりなさるようなことがあれば、
武道様のお仕事と生涯を狂わせる結果になり、私はそれを一生苦にしなければなりません。
こんなに身体が弱い身では、武道様に御負担をおかけするばかりだと思います。
私が家で寝ていることが多ければ、それだけお仕事の負担になります。
身体が丈夫なこと、これが家庭生活の何より一番必要な資本でございますから。
私は武道様のためになることでしたら、いつでも喜んで身を引くつもりでございます。
どうぞ、くれぐれももう一度お考えになって下さいませ。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
11月23日 大久保から慧生への手紙

大学院進学については考えることが多々あります。
大学院を出て博士になり大学教授という名の職業に就いて生涯を送ることは、
田舎の一教員として名を知られることもなく終わることに比べると、
世俗的意味においては確かに出世ということにはなるでしょう。
そのような名誉欲は、小生と言えども凡人なるがゆえにあることを認めます。
私は正直に言います。博士もよい、古文書にかじりつくこともよい、
しかし生まれた者を正しく強く育てることの方が、
より楽しくより責任の高い仕事であると私は信じます。
これから伸びていこうとする新しい芽を育て、
正しい道を示すことが自分の天職と考えております。
以上のように、私は大学院に行く心は寸分だにございません。

たとえ御身が私と結婚してくださらぬとしても、大学院などには参りません。
私は結婚について、何も立派な条件は持っておりません。
また相手に対しても何も望みません。
ただ私とともに清貧に甘んじてくれて、私の考えをよく理解してくれて、
私の子供を正しく育ててくれる女性でありさえすればよろしいのです。
確かにエコは身体が弱いかもしれない。しかし私は御身が一年中床の中にいるとしても、
私の心を解してくれさえしたら何も望みはいたしません。
言いたいことは、済まないが、御身が私を誰よりも愛し信じていてくれるなら、
結婚してくださいということだけ。
私は御身を誰よりも愛している。御身のすべてを愛している。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆同月 男子学生に婚約のことがバレる
ボーズ氏は慧生や木下が属しているサークルのリーダーだった。
木下はボーズ氏に呼び出され、慧生への思慕を打ち明けられた。
木下は以前から慧生に「なんとか断ってよ」と頼まれていたことから良い機会と思い、
「でも、エコちゃんは大久保さんと婚約なすっていらっしゃるのよ」と言った。
ショックを受けたボーズ氏は、慧生と大久保に長文の手紙を送る。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
11月26日 慧生から木下明子への手紙

昨日大久保さんからお手紙いただいとのでございますが、
ボーズ氏から大久保さんに13枚くらいのお手紙が行ったとのこと。
そのお手紙も同封してございましたが、ずいぶん感じが悪くて腹が立ちました。
私の悪口がほとんどなので、ずいぶん卑怯なことをなさると思いました。
大久保さんは全然なんとも思っていないらしいのでそれはよろしいのでございますが、
でもこのことボース氏にはおっしゃらないでくださいませ。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
11月28日 慧生から大久保への手紙
 
帰りましたらボーズ氏からの手紙が机の上に乗っておりました。
ボーズ氏のお手紙読んでみて、くやしいという私個人の感情を取り除いてよく考えみれば、
確かにボーズ氏のおっしゃるような欠点がございます。
また、私のこれまで取ってきた態度を振り返ってみれば、
私という人間がボーズ氏のおっしゃるように価値判断されたのも当然だと思います。

国文の男性の方の中では私は決して良い目で見られていないこと、よく存じております。
それもみんな私の天邪鬼から来たことで、
武道様との感情を人に知られたくなかったためでしたけれども、
どんな理由があったにしてもそのために他の人を平然と犠牲にしたとすれば、
一般的に罪悪であることにかわりはございません。
武道様を好きなら好きで、
それを堂々と伸ばせなかったところに私の性格の欠陥があったと思います。
どんな理由があったにしたところで人の感情を平然と弄んだということは、
私にそれだけ不感症な部分があったということでございます。

私は武道様の御方針を私の方針とし、武道様の御性格を私の性格として、
あくまでも武道様について行くつもりでございましたから、
私自身の性格のことについてはいくらかなおざりにしていたようでございます。
けれども、子供を育て家庭を作っていくことを考えてみますと、
ことに子供に与える影響を考えます時、
これはやはり私自身の性格を直さなければと思います。
同じ屋根の下に住んでいる家族の者にいたしましても、
母でさえも私の性格についてはすべては知っておりません。
家で生活しておりましても、
ただ食事を一緒にして雑談するだけの家族には少しもわかってはおりません。
私のすべてを、少なくとも一番多く知っていらっしゃるのは、
なんといっても武道様でございます。
私の家のこともすべて御存知のうえ、同級生として友人として恋人として夫として、
あらゆる角度からほとんどすべての角度から御存知でございましょう。

2月婚約の頃、武道様から私の欠点を指摘していただいたことがございましたね。
あの時の御言葉、今でも覚えております。
たとえ貧しくとも
本当に正しいことはどこまでもやり抜くことが本当の生き方だということを、
理論ではなく御自分の生涯をかけて私に教えて下さろうとしていらっしゃいます。
私とて理論ではたとえ貧しくても正しいことを貫き信頼し合って生きていくことが
一番正しい良い生き方だとは思っておりましたけれども、
イージーゴーイングなプチブル的な家庭に育った関係上、
いざとなると理論が先走ってしまって本当に腰をすえて考えることはできませんでした。
武道様がいらっしゃらなかったら、
私はイージーゴーイング的な生き方から抜け切れなかったかもしれません。
私の性格の良いところも悪いところも、
小さい時からの環境の影響がずいぶんございました。
これらの生涯を、これまでの生活と縁を切って
一緒に過ごして下さろうと言って下さることが最大の御忠告でもあり、
本当の意味での信念に基づいた生活を教えて下さることでもあると思います。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子の証言

新調したブルーのカーディガンを「似合うでしょう」と一回転して見せてから、
「実はちょっとお話があるの」二人が奥の方のテーブルに腰を下ろすと
慧生は小声で「誰にも聞こえないわね」と言ってから静かに語りだした。

「ある意味では
あれだけ正確にわたくしの欠点を衝いたボーズ氏のお手紙をお読みになっても、
大久保さんはわたくしに対する態度を少しもお変えにならないの」
と非常な感激を示した。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


a0130272_20574869.jpg

[PR]
by xMUGIx | 2007-01-14 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

◆愛新覚羅慧生
1938-1957 昭和13-昭和32 19歳没


●慧生 愛称エコ 
母・妹とともに母の実家である横浜市港北区日吉の元嵯峨侯爵家に住む  
●嫮生 慧生の妹 愛新覚羅嫮生、結婚して福永嫮生 
●大久保武道 青森の資産家の出身、文京区森川町の新星学寮に住む
●穂積五一 新星学寮の学監
新星学寮は学習院の寮ではなく様々な大学の学生が暮らしていた
●木下明子 親友、学習院のサークル「東洋文化研究会」の仲間
●佐藤静代 親友、小中高大と同級生で同じ学習院文学部国文科 愛称オサト


◆昭和31年(1956)04月 慧生・大久保 学習院大学文学部国文科入学

慧生が国文科に入学した時、同じクラスには男子が17名・女子が30名いた。
都会的で洗練された男子学生の中に独特の雰囲気を持つ大久保武道がいた。
強い青森訛りがあり、丸坊主に丸メガネ、雨でもないのに長靴を履き、
大学でただ一人学生帽をかぶっていた。(学習院には学生帽はなかった)
クラスメートの証言によると、大久保はよく死を口にした。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
福永嫮生

講義のノートを貸してほしいという名目で言い寄ってくる男子学生も2人いたそうです。
そのうちの1人について姉が帰宅してうれしそうにこんな話をしていました。
「食堂で一人で5人前ぐらいいろいろ取って並べて食べている人がいるのよ。
東北から来ているズーズー弁の人なの。
ノートを借りたいのはきっとまだ大学に慣れないのよ」


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子

もう夏休みも近い頃だったと思います。
慧生さんが一人の男子学生を連れて教室に入ってこられました。
私はその人を見るなり意外な感じがしました。
というのは、その人は坊主頭でいまどき流行らない円形のメガネをかけ、
顔はニキビで皮膚の色が見えないという感じ。
しかも天気が良いのにゴムの長靴を履いてらっしゃるのです。
慧生さんはこの方大久保さんと言って私に紹介なさいました。
私は大久保さんにもどうぞと言って席をおすすめしましたが、
いや長靴が臭いから失礼しますと言ってずっと後ろのお席にお着きになりました。
あの人なによとエコちゃんにお尋ねすると、
エコちゃんは笑いながら、あの方少し変わっているのよ、
自分でこれと思った人のためなら火の中へでも飛び込みって型の人よ、
面白いところのある方よ、とおっしゃいました。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐藤静代

慧生とは小中高大の同級生で、慧生の死の一ヶ月後 学習院大学を退学した。
そのため当時から50年間、マスコミには一切語ることはなかった。

告別式で学生を代表して弔辞を読んだのはわたくしです。
命はいつまであるかわかりません。
これまで胸にしまっていたものを今日はすべてお話しさせていただきます。

エコちゃんは天真爛漫で華があって明朗快活、
ウィットに富んでいていつもクラスの中心にいるような方でした。
でも前にしゃしゃり出るようなタイプではなくて、
相手の気持ちを第一に考え行動しようとするところがありました。
それと対照的に大久保君は学習院のカラーにはまったく馴染まない存在で、
青森訛りを気にしておられたのか親しい友人もなくいつもポツンと一人でいらしたから、
エコちゃんはそれはとても気になさって、いつも声をかけて差し上げていました。

大久保君は入学当時からよく自殺を口にするところがあって、
クラスメートなら誰でも彼の自殺願望は知っていました。
エコちゃんは母親のようにそれを心配していつも心を砕いていらした。
お優しすぎるんです。
ですから事件が起きた時も、クラスメートはどうしてエコちゃんが?と思いました。
いつも冷静で賢明なエコちゃんが死を選ぶことは絶対にないと。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
穂積五一

寮における武道君の生活態度は非常に積極的で、
常にいかなる困難をも克服していくんだという青年らしい気魄に燃えていた。
死とか逃避とかいう否定的な言動はまったく見られなかった。
事件の後 学習院の友人達に彼は学校では時々死という言葉を口にしていたと聞き、
実は愕然としたのである


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
大久保の弟

兄は母以外の女性との間に子供を作った父のことをよく思わず、
自分は父とは違うと思っていた。でも慧生さんを好きになればなるほど、
自分の中にも流れている父の血への恐れが増したのでしょう。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和31年06月26日 この日大久保は初めて慧生を自宅まで送る。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年06月26日 大久保の日記

ビデオホールにおけるリサイタルに{慧子}と二人で行った。
目白の東京パン食堂部で食事し、{慧子}の身の上話を聞かされた。
慧生との交際の本格的な第一日であったのだ。
この日こそは生涯の一重大事の発端をなしたのだ。
愛新覚羅慧生なる人の家も一応は知ったし、同情を禁じ得なかった。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


家族は「あの人いったいなに?ガスの集金人かと思った」と言って、
すべてが学習院らしからぬ彼を笑った。
この一言で慧生は大久保との交際は家族の理解を得られるものではないと判断し、
それ以来大久保の来訪を禁じ、大久保との交際を家族に秘するようになった。


◆昭和31年07月 大久保、夏休みに無銭徒歩旅行をする

慧生は上野まで大久保を見送りに行き、梅干しを贈った。
慧生は上野で大久保を探し回ったが見つけられず、
ふと足元を見るとリュックを枕にしている地下足袋姿の大久保を発見した。
「レディが盛装してお見送りするというのに、
もう少しなんとかした格好でいてくれればいいものを」と慧生は周囲に愚痴った。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年07月14日 大久保から慧生への手紙

明日より一泊するごとに一本ハガキをお送りいたします。
一日でも欠けたら、死んでるかどうかした時でしょう。
生まれてこのかた、他人からこれほど親切にされた経験がありません。
良き姉さんであります。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年07月17日 慧生から木下明子への手紙

※「青森氏」=大久保、「この方」=あなた

ミスター旦那が変にこじれてきてどうしたらよいかわかりません。
青森氏の下宿の玄関まで行かなければならないので、
一人ではいけないと思いましたのでミスター旦那に来てもらったわけです。
その間じゅう青森氏とミスター旦那がものすごく仲が悪くて、
もうちょっとでヒステリーが起きそうになりました。どうしたらいいとお思いになる?
ミスター旦那とつきあう意思がないのに
一緒に来てもらったりしたのは私が悪かったと思いますけど、
私としては男性という意識なしに
青森氏のお友達でもあるしと思って行ってもらったつもりです。
それから青森氏青森に向けて出発したらしいのだけど、
それ以来毎日手紙が来るのでママの手前困ってしまいます。
『明日より一泊するごとに一本手紙をお送りいたします。
一日でも欠けたら、死んでいるかどうかした時でしょう』
というので断る方法もないし、ノイローゼになりそうよ。
この方の御忠告通りママに黙っているなんていうことはぶち壊しです。
大学辞めろなんて言われたらどうしようかと思います。
私あと4年間大学に行けないかもしれないわ。
やっぱりママの言う売れ口の方に行く運命らしいわ。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年07月30日 慧生から木下明子への手紙

帰って机の上を見ましたら青森氏から来ていました。もう3通来ております。
フナフナなんてすっかり忘れていましたら、今朝軽井沢から手紙が来ました。
でも御心配なく、フナフナなんか問題にしていません。
青森氏からの御手紙、もっぱら郷里の工業的発展とか
郷里に対して愛を持って活躍しなければならぬとかいうことばかり書いてあって、
ますます右派的に見えます。
私は育ちがブルジョア風だし、
青森氏は泥にまみれて田に働いているお百姓さんを一番尊敬し、
映画を観たり口紅をつけたりすることを快く思わないような人だし、
どうしてもついていけないような気がします。
私の親族と青森氏の親族とは生活も考え方も違い、
私自身でさえ青森氏とは育ち方も考え方も違うし、
青森氏の考え方、生活の仕方にはついていけません。
結婚生活というものは、
お互いに相手のために少しずつ譲り合うことにより円満に行われるものだと思いますが、
青森氏は自分がしようと思ったことはどんなことがあってもする性格なので、
相手に対して譲るなどということは決してせず、
自分のペースに人をも従わせようとする人のようです。
青森氏という人は、平凡に人のする通りに勤めて平穏な家庭生活を楽しみ、
課長や重役になって円満に社会に出て行こうとする人ではなく、
自分の思ったことを周りにはおかまいなくやり抜くことを生きがいにする人だと思います。
私のお嬢さん的な臆病な悪い点だと思いますけれど、
いざとなって母や親類の反対を押し切ってまで
そういう性格の人についていけるかどうかということになると、
どうしても不安でついていくことができません。
と言って同じ生活程度で趣味も同じ考え方も同じという同士でも
叔母のようなことになる例もあるし、
むしろ性格や親族などがまったくかけ離れた人でも、
私が本当に頼りにできる個性とか実力を持った
青森氏のような人の方が幸福かもしれないし、
私にはどちらが正しいのかわかりません。
青森氏と話をしていてよく話題がなくなったり黙ったりすることがあるの。
ミスター旦那とは不思議になんでもなく話ができて、
話しているのが楽しいという気持ちになります。
とにかくウラナリの時は尊敬しきって口をきいてくれるのも光栄の至りで
姿を見ただけでありがたがっていましたけど、
青森氏に対しては欠点が目につくし、尊敬という気持ちは全然ありません。
田舎っぺだと思うし、頭の方も私より少し幼稚だと思っています。
恋愛なんていうものではないことは確か。
ウラナリの時のノボセ方とはまるで違います。冷静です。
青森氏には決して決してネツなんか上げませんから御心配なく。いたって冷静に観察中。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年08月04日 慧生から木下明子への手紙

おっしゃることよくわかりました。あと4年おつきあいしてみることにいたします。
彼は中央線のお茶の水で降りるのよ。この方と同じ線じゃないかしら。
もしそうだったら、今度機会があったら話してみてくださらない?
この方の第六感でピンと判断していただきたいと思います。

今日この方のお便りと一緒に青森氏のが来ておりました。
青森氏は例の通りですけれど、今日のはロマンティックでした。
浜辺で夕焼け雲を見て涙がこぼれたそうです。
夕焼けはきれいだとは誰でも思いますが、いちいち涙をこぼす必要はないと思うわ。
私ってこの通り冷淡なのですから申し訳ないようね。
私がやっぱり本当に心を捧げたのは残念ながらウラナリのようです。
初恋だったからかもしれないけど、あれが本当の愛情というものだろうと思います。
それに比べて青森氏と話しても大して感激なんかしないし、欠点ばかり目につくし、
頭の方は私の方が上じゃないかしらなんて思ったりして尊敬なんて全然ないんですもの。
青森氏はミスター旦那よりは良いけれど、
それでもすっかり寄りかかろうとするには子供すぎるし考え方も単純です。
私ってとてもフクザツなのよ。30ぐらいの人でないと話が合わないように思えます。
それにある程度経済的独立があって、
私にある程度自由にさせてくれる人の方が良いと思いますけど。
私がダンス・麻雀などをすると知ったら青森氏はきっとギョッとするでしょう。
そういう点もすべて受け入れて
一緒にダンスもしてくれるというくらいの融通性がなければ、私ついていけないわ。
私って精神的にものびのびと自由にさせていてくれないと息が詰まります。
でもとにかくあと4年あるのですから、クヨクヨしないで、
またもっと良い口があるかもしれないし、ノビノビ過ごそうと思います。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年08月09日 慧生から木下明子への手紙

家にいるとママとおしゃべりばかりしているうちに一日が経ってしまいます。
結婚問題について考え方を教えているところですが、
理屈ではわかったような顔をしていても、
いざ直面するとものすごくガンコだろうと思いますので困ります。
でもウチのママはまだ若いし、手紙が来たり交際したりすることは理解してくれます。
いつも見せてなんて言いませんけど、こちらから見せるようにしています。
青森氏やミスター旦那のも、子供みたいだと笑って見ています。
でもそれがもし結婚相手と考えるなんていうことになったら、
モーレツに驚いてガンコになるのよきっと。
でも考えてみれば親の心配するのも無理ないと思います。
もしエコに子供があって青森氏のような人のところに行くと考えつつあるのを知ったら、
いくら子供を信用していてもやっぱりどんな人かわからないし心配すると思います。
親にすればなるべく良いところにやってあげたいというのは人情でしょう。
だからなるべくママの言うことも聞こうと思います。
同じ年じゃちょっと考える必要ありそうよ。単にお友達としてつきあってみます。

あれから、ミスター旦那から3通、青森氏から5通来ました。
ミスター旦那は手紙の書き方からして個性がなく、
初めにDear終わりにアデューとかバイバイなんて書いてあるのよ。
男の人のW過剰なんてゾーッとしてしまいます。
とにかくミスター旦那と長く一緒にいるとゾーッとしてきます。
私がここまで持ってきたというのは私が悪かったと思います。
やっぱり9月からは青森氏を第一に考えてることをはっきり態度にも見せ、
ミスター旦那にも納得させておく必要があると思います。
やっぱり一本筋でないと無理ね。
ことに青森氏のようなプライドが高くて孤独型の人は、女の人が冷たいそぶりでも見せると
それ以上突っ込んで恥をかくより苦しくても黙って我慢する型らしいので、
まずいことをするとまずいことになりやすいようです。
それはいいけど、青森氏という人がエコとのつきあいを恋愛だと思っていらっしゃるので、
それにエコをまるで自分のものみたいに自信たっぷりみたいなので、
それが気に入らないところです。
彼はまだ死ぬことばかり考えているらしいわ。
後に残った人間の落胆なんて考えないらしいし、
その点がわからないようだったら本当に行くべきではないと思っています。

打算なんかなしに本当に素晴らしい恋愛をしたいと思ってますけれど、
素晴らしい相手ができません。
青森氏とミスター旦那といっぺんに振って
せいせいしてしまえるような恋愛できないものかしら。
でもあの男の子2人を振ったら、どんなに恨まれるか恐ろしくなります。
4年間はどうしてもつきまとわれる運命らしいわ。
でも冷静ですから、御心配はいりません。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和31年秋

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
木下明子の証言

家族に大久保との関係を知られないように
木下明子に大量の封筒に住所氏名を書くことを依頼し、
大久保が木下明子名義で手紙が送れるようにカモフラージュをさせた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和31年11月 大久保の決闘騒ぎ

慧生には取り巻きの男子学生が多かった。そういう男子学生の一人にX氏がいた。
X氏は東京の名家の生まれで洗練されており趣味も合った。
慧生は大久保のことをほのめかして婉曲にX氏がそれ以上進んでこないように釘を刺した。
するとX氏は大久保に決闘を申し込んだ。
X氏は柔道の達人、大久保は合気道の達人であった。
意外な事の流れに驚いた慧生は木下明子のところに駆けつけて、二人で大久保を説得した。
穂積が説得した時には2日もかかったが、二人が説得するとすぐに納得した。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年11月12日 大久保から慧生への手紙

御忠告感謝にたえません。
至らぬ自分になんらセンセーションを惹起させずに済ませてくれたことを感謝いたします。
【慧子】は美しい立派な人間だ。その美点を失わず、真の女の中の女になられますよう。
そして男の中の男になりたいと思います。
小生は絶対の自尊心を持ち、
必ずや将来【慧子】にも喜んでもらえる人間になろうと思います。
今後ともお気づきの点は御注意ください。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆11月30日
大久保は訪問を禁じられていた嵯峨家に、病に伏せっていた慧生の見舞いに来てしまう。
家族が「病気ですから」と面会を断っても、応接室から一日動こうとしなかった。
家族は彼の振る舞いに危険なものを感じた。

大久保は、慧生の手紙や写真をすべて焼却し、頭を丸坊主にした。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年11月27日 大久保から慧生への絶縁状

26日日吉に参りましたが御不在でした。用件をお話しして帰寮いたしました。
かねて御忠告受けておりながらあえて日吉を訪れましたことにつきまして、
一言記させていただきます。
これも我が身の至らなさから出たことゆえ、小生それにつきましては十分責任を取ります。
友情にせよ何にせよ対女性間の交際は、
現在の我が身にとっては非常にマイナスとなるような気がいたします。
凡人のゆえかなさねばならぬことが出来なくなるのです。それ一途になってしまうのです。
以前より再三御忠告を受けていながら、はなはだ残念千万です。
小生、他人にへつらうことはできません。
小生、今よりいくらかでも立派な人間となって、
縁あらばいつの日にかまたお目にかかることもあろうかと心に期します。
たぶん昨晩は御家の方に何か言われたことと思いますが、
今後はもうそんな御心配はお掛けいたしません。
貴姉の御手紙は全部焼却したします。
小生の手紙はお返しくださいとは申しませんが、焼却せられたく希望いたします。
今日以降没交渉なることを、ただいま宣言いたします。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
同日 大久保から慧生への手紙

25日付御手紙拝見した時は、すでに御手紙も写真も焼却した後でした。
実を言えば、今日理髪店に行って毛を切ってしまいました。

武道は己の本分と天職に死ぬのみです。ただ夢のごとき半年。
今日落掌の御手紙はお返しいたします。君が上に幸あれ。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和31年12月 大久保は慧生への思慕を断ち切るため座禅と断食の道場で荒行をする

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年12月12日 大久保から慧生への手紙

道場において4日間の修行を一心に積みました。死ぬほど厳しい修行でした。
本心を言えば、一度死んでみたかったのです。
ボーッとなり何もできませんでした。どうやら左足はコワレタようです。
そしてコワレタ足で立った時、自分の誠の欠如を悟りました。
一度慧生様に語りたいことがあります。
いかにお家が貴く現在の生活に事欠かぬからとて、
食物を無駄に食べれられることはもっとも恥ずべきことではないでしょうか。
慧生様はそれを意識することがあるのかどうか疑わしく思います。
このこと心がけられて悔いはないと思いますので、
あえて言い難きを言って進言いたします。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆同月 復縁

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
昭和31年12月19日 大久保から慧生への手紙

今日は本当にうれしい日だった。【慧子】はやっぱりいい奴だと言いたい。
失礼、奴だなんて、許せ。
この年も良き結末をつけて閉じ得る。心から感謝します。
今夜この東京を去り、故郷に帰ります。
小生来年上京の時は、新たな心で一年前の気持ちに立ち帰って来ようと決心いたしました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


◆昭和31年12月30日
高熱を出したという慧生からの手紙を受け取った大久保は、
帰省していた青森から再び上京する。
嵯峨家を訪問するが、犬に吠えられ、女中に拒絶され、
伝言のメモを残してまた青森へ戻った。

a0130272_20555868.jpg

a0130272_20561423.jpg

[PR]
by xMUGIx | 2007-01-13 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

1945年昭和20年、ソ連軍が満州国に迫ったため
溥儀と親族、満州国幹部、日本軍は首都を放棄して
満州鉄道の特別車で朝鮮との国境付近まで避難した。
8月15日、日本が降伏したことにより満州国も崩壊した。

溥儀と溥傑は日本軍機を使い空路で日本に亡命を図った。
婉容と浩たちは同行できず、陸路と海路で日本に向うこととなった。

しかし、溥儀と溥傑は飛行場でソ連軍に拘束されソ連の収容所に送られた。
さらに二人は中華人民共和国に送還され、収容所で中国共産党の「再教育」を受けた。

翌1946年昭和21年、陸路を進んでいた婉容・浩・?生一行も共産党軍に捕らえられた。
おりしも共産党軍と国民党軍との間で国共内戦が始まったため、
一行は共産党軍に中国各地を転々と連れまわされることになる。
途中で婉容は浩母子と引き離される。
やっと釈放された浩母子は日本への引揚船が出る港へ向かったが、
今度は国民党軍に身柄を拘束された。
旧知の元日本人軍人の手引きで脱出し、引揚船で日本に帰国することができた。
この時、浩の体重は30キロになっていた。

1945年昭和20年08月10日、関東軍は総司令部を新京から通化に、
そして首都も新京から臨江に遷都することに決定、
08月13日、新京駅から浩&嫮生らが御召列車に乗り、
東新京駅から溥儀・婉容・溥傑らが合流し、通化駅で関東軍が合流した。
翌日臨江駅に到着したが、臨江では適当な家屋を見つけられず、
さらに列車で大栗子駅を目指した。

一行は大栗子の東辺道開発株式会社の大栗子鉱業所の社宅に落ち着くが、
08月15日日本の敗戦を知る。満州国はわずか13年で滅びた。
関東軍から大栗子にいる溥儀に示された亡命案は、
通化から小型飛行機で朝鮮の平壌に向かい、そこで大型機に乗り換えて東京へ行き、
京都の都ホテルに入るというものであった。
小型機は3機のみであったので、
溥儀・溥傑・三格格の夫潤麒・五格格の夫万嘉熙など男性13名。
皇后・皇妹・浩たちは陸路で朝鮮に入り、そこから日本に向かうことになった。
08月18日溥儀一行は大栗子駅を立ち、翌19日鉄路で通化に到着。
しかし平壌を経由する亡命ルートは変更され、通化飛行場から奉天に向かって飛び立った。
1番機が奉天飛行場に着陸した午前11時には、飛行場は日本側の管理下にあった。
2番機が到着すると同時に十数機のソ連軍機が滑走路に降り、溥儀一行は拘束された。
一行はシベリアのチタを経てハバロフスクに送られ、長い抑留生活が始まる。
そして浩と嫮生も2年近く、母子で中国大陸をさまようことになる。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑の娘 福永嫮生

父は東京で姉に会える事を楽しみにして、母が準備した洗面道具や着替えも
「明日は東京だから」と何も持たずに行ったようでございます。
わたくしは大栗子で父と別れたのですが、まさかその後16年もの長い間
離れ離れで暮らす事になるなど、思いもよらない事でございました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

溥儀一行がソ連に連行されたことを知った陸路組は、
関東軍からの連絡も途絶え、電話もラジオも通じない大栗子で孤立する。
仕方なくまた臨江に移った。
1946年昭和21年01月、二格格韞龢の夫鄭広元が自身の安全と引き換えに共産党軍に密告、
婉容・側室李玉琴・浩・嫮生の4人は最重要人物として帝妹たちと引き離され通化に連行される。
ソ連軍は同年03月から04月にかけて本国に撤収していった。
ソ連軍の撤退を追うように国民党軍が北上してくる。
そこで04月共産党軍は浩たちを連れて長春に移動する。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥儀の第4夫人 李玉琴

言葉が通じないためほとんど話はしませんでしたが、
同じ部屋に寝起きしてみれば嵯峨浩だっていいところがある。
一枚しかない布団を大人二人が引っ張り合って寝ているのを見かねて、
二枚持っていた掛布団を一枚貸してくれました。
あんな大寒の最中に布団を貸すなんて立派な行為は、誰にもできる事じゃないですよ。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


李玉琴は長春で釈放されるが、婉容・浩・嫮生は吉林へ連行された。
その後撤退する共産党軍とともに浩らは長春→吉林→延吉→チャムスへ
と移動を強いられることになる。

延吉では「漢奸偽満州国皇族一同」と書かれた大きな白旗がくくりつけられた荷馬車に乗せらた。
沿道の人々は罵声を浴びせ、荷馬車に石を投げつけた。

06月、浩と嫮生は延吉からチャムスへ連行されたが、
婉容は延吉に放置され死亡した。

浩と嫮生はチャムスで釈放され、ハルビンへ送られた。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑の娘 福永嫮生

母は逡巡の末に、【濱口幹子】という偽名を名乗りました。
蓑笠にモンペ姿でわたくしの手を引いて開拓団員になりすまして、
引き揚げの日本人の中に紛れこんだのでございます。
濱口は母の実家の姓で、幹子は末の妹の名でございます。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


浩と嫮生は、ハルビン→長春→四平→奉天を経て09月錦州に着いた


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
満州国立ハルピン農業大学教授夫人 弘永きぬえ

*錦州の難民収容所で浩母子と過ごした日本人

お会いしましたとき浩様はひどく痩せていらっしゃいましたが、
私達と同じモンペ姿でとても気さくにお話される方でした。
やんごとないお姫様でいらっしゃるのに、ご自分の事は何でもなさいました。
浩様は物静かな中にもはっきりとお話する方で、
どんなにボロをきていても美しく気品にあふれ高貴さが漂う方でした。

引き揚げ者は食べる物もなくお水も手に入らなくて、
浩様はお水を買って私達にいつも分けて下さいました。
ソ連に連行された溥傑様の事を大変心配なさっていて、
毎日ご無事を祈ってらっしゃいました。
溥傑様の話になるととても悲しいお顔をされて。
でも日本にいらっしゃる慧生様の事などを話される時は、とても明るい顔をなさいました。
嫮生様はくりくりしたお目々の人懐っこいかわいいお嬢様でしたよ。
嫮生様は大事な大事なお芋を食べる時は必ず、私達にもちぎって分けて下さる。
でも下痢はひどく、とても痩せていらしたのがお可哀想でした。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


ようやく引き揚げ船が航行することになったので、
錦州の収容所にいた引き揚げ者は次々と船の出る葫蘆島の収容所へ移って行った。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑の娘 福永嫮生

わたくしたちは港に近い収容所に入りまして、
「あと何日で日本に帰れる」と母と二人で指折り数えて帰国の日を待っておりました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


しかし浩と嫮生はともに引き揚げてきた【ハルビン日本人会】のある人物の密告により、
乗船直前に今度は国民党軍に戦犯として逮捕されてしまう。
浩と嫮生は汽車で北京に連行され、数日後上海に連行される。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑の娘 福永嫮生

わたくしたちは木綿のチーパオを着せられ日本語で話す事を禁じられ、
今度は国民党軍の飛行機で上海に連れて行かれたのでございます。

わたくしは相変わらずお腹が痛くてトイレに行ってばかりおりましたし、
ひどく痩せて顔色も青く、誰の目から見ても衰弱していたようでございます。

母の機転でございます。往診がきっかけでわたくしたちの存在が外に洩れて、
幸運が幸運を呼んだのでございます。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


浩母子が上海にいることが、岡村寧次元司令官の【上海連絡班】に伝わり、
彼らの手引きで浩母子は救出される。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
救出にあたった田中徹雄元大尉

濱口幹子―それまでに聞いた事のない名前だった。
「その女がいったい何をしたっていうんだ?」
私はその話を持ち込んできた元軍医岡田某
(女優岡田嘉子が娘時代に書生との間にでき子供という)に聞いた。
彼もはっきりわからないらしい。
得体は知れないが、その女は軟禁されている、だが偉い女らしい。
わかるのはそれだけだと言う。とにかく間違いなく日本人だとも言った。

終戦事務連絡班は、この女性を救出する計画を立てた。
昭和21年秋、上海。すでに日本軍は帰国し、居留民もあらかた帰国が完了して、
戦犯以外にはほぼ引き揚げた済んでいた頃だ。
引揚船はこれが最後になるおそれがある時期だった。
もし残してゆけば川島芳子なみに漢奸として扱われ、銃殺は火を見るよりも明らかだ。
終戦事務連絡班の同僚達の中には、
「せっかく助かった命じゃないか、いまさら危ない事はよせ」と言う者もいた。
私にしてみれば、戦犯として死刑にされても文句は言えないこの身だった。
なんらの得にならない事をやってもるのも、
「既に亡くなっていても文句の言えない俺の生涯にとってたしかに一興だ」
私はそう思っていた。

さっそく戦犯管理所に友人を訪ね、それとなく情報を聞き出した。
その話により、濱口幹子は実は満州国皇帝の弟の妻愛新覚羅浩さんである事がわかった。
彼女が日本人とわかれば、当然居留民として帰国させねばならない。
中国側はなんとか秘密裡に彼女を中国人に仕立て、
漢奸として銃殺を狙っているのではないか。
日本人である事は衆知の事実にもかかわらず軟禁という事は、
戦犯管理所長に含むところがあるに違いない。
とすれば表面からかけあっても無駄だろう。
要は愛新覚羅さんの身柄を日本人側に奪還してしまう事だ。
そしてあくまでも濱口幹子として日本へ帰す事が最上の策だ。

私は密かに彼女の軟禁されている家の周囲を探ってみた。
潜入には夕刻が適当と判断した。
下調べを済ませ計画を綿密に立てると、私はすこぶる朗らかになった。
私は予定通り一人で自動車を運転して行った。
案外警備は手薄で、思ったより簡単に屋内に忍び込む事ができた。
愛新覚羅さんはかなりびっくりしたようだった。
「明日中に戦犯を残して全部引き揚げる事になりました。
今あなた方が逃げないともう帰国の望みはなくなります。
私を信用して、とにかく荷をまとめてついてきて下さい。
ここさえ出れれば、後はどうにかなります。」

手回り品を乗せ彼女とそのお嬢さんの二人を助手台にもぐらせると、
ありったけエンジンをふかした。こうなればフルスピードで逃げるだけである。
後から中国兵がばらばらと飛び出してくると、「止まれ!止まれ!」と怒鳴った。
そして鉄砲を続けざまに撃ち込んできた。鉄砲の弾丸はそれほど命中するものではない。
計画のうまく運んだことが愉快で、心弾む思いだった。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑の娘 福永嫮生

座席の下に折り曲げて入れられていたお陰で、ケガもございませんでした。
田中様は御自分の命も顧みず、わたくしたちを助けて下さったのでございます。
田中様の御助けがなければ、
わたくしたちはこうして生きて日本に帰ることはかないませんでした。

わたくしは乗船のとき国民党側に見つからないように、
飛行服のようなつなぎの服を着せられて飛行帽をかぶり男の子に変装しておりました。
船が港から離れる時は、母は「エコちゃん〔慧生〕に会えるのよ」と言って泣いておりました。

「帰ってきたのよ。もう心配しなくていいのよ。逃げ回らなくていいのよ。
日本なのよ。よかったわね、よかったわね」
と言うてくれた母の言葉が今でも耳に残っております。
何度も頬ずりして、わたくしを抱きしめてくれました。

身内が懐かしゅうございました。「よく帰ってきたね、よく帰ってきたね。よかった、よかった」
と言うて、祖母は優しい言葉をたくさんかけてくれました。
母は姉を抱きしめて泣いておりました。

母は9貫(33.7kg)ほどに痩せ細り、わたくしも骨と皮だけになっておりました。
無一文で帰って参りましたので、母のものは祖母の服で間に合わせておりましたが、
わたくしと姉の服はすべてミシンを踏んで母が作ってくれました。
入学後も金銭的な余裕がございませんでしたので、
学習院の制服も八重桜の紋章まで母が縫ってくれました。

母が父が必ずどこかで生きていると固く信じておりました。いつか父と再会できる日まで、
わたくしたちが父の名に恥じぬ娘に育ってほしいと、毎日一生懸命でございました。
戦後、女手だけで子供を育てる事の大変さを知っておりましたので、学校の勉強だけでなく
お料理・ピアノ・習字などの習い事も大変厳しゅうございました。
母は「芸術に国境はない」「芸は身を助ける」「何か資格を持つように」とよく言うておりました。
何か特技があれば子供達が自分の力で生きていけると考えていたようでございます。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

左から 嫮生 慧生
a0130272_3294525.jpg



日本に引揚げた浩は、父が経営する町田学園の書道教師として働きながら
実家の嵯峨家で2人の娘を育てた。
中国の収容所にいる溥傑とは一切連絡の取れない状態だったが、
1954年昭和29年に、慧生が中国の周恩来首相に
中国語で「父に会いたい」という旨の手紙を出した。
その手紙に感動した周恩来は溥傑と妻子の文通を認めた。

ところが1957年昭和32年、
学習院大学在学中の慧生が同級生大久保武道と心中自殺してしまう。

1960年昭和35年に溥傑が釈放され、翌年、溥傑は妻子と15年ぶりに再会した。
一家は北京に居住した。
文化大革命が起り、1966年昭和41年には二人の自宅も紅衛兵に襲われたが、
文革が下火になってからは浩が日中を何度か行き来している。


1968年昭和43年、嫮生が日本で結婚。
夫は母の妹泰子の夫の甥で、5人の子供に恵まれる。
a0130272_3301773.jpg

a0130272_330303.jpg

a0130272_3304426.jpg



1987年昭和62年 浩、死去。
1994年平成06年 溥傑、死去。

浩が亡くなった時、溥傑は浩の遺体に泣きすがりながら
いつまでもヒロさん、ヒロさんと名前を呼び続けていた。

嵯峨浩の短歌 
ふた国の 永久のむすびの かすがいに なりてはてたき 我がいのちかな

a0130272_3292413.jpg

[PR]
by xMUGIx | 2007-01-12 00:00 | 中国

愛新覚羅氏

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

1906年 明治39
2代醇親王載灃の長男溥儀生まれる
溥儀正室婉容生まれる

1907年 明治40
2代醇親王載灃の二男溥傑生まれる

1908年 明治41
溥儀、12代清朝皇帝に即位

1912年 大正01
溥儀、辛亥革命により退位

1919年 大正08
イギリス人レジナルド・ジョンストンが溥儀の家庭教師となる

1921年 大正10
母幼蘭が自殺

1922年 大正11
溥儀、正室婉容・側室文繍と結婚
アメリカ人イザベル・イングラムが婉容の家庭教師となる

1924年 大正13
溥傑、唐怡莹/唐石霞と結婚
溥儀、クーデターにより紫禁城から脱出

1925年 大正14
溥儀、イギリスやオランダへ庇護を要請するものの拒否され、
日本大使館が手を差しのべ天津日本租界内に住まう

1929年 昭和04
溥傑、学習院高等科に留学 唐怡莹/唐石霞との結婚解消

1931年 昭和06
溥儀、側室文繍と離婚
日本軍から満洲国皇帝就任を打診され、日本軍の手引きで満洲へ移る

1932年 昭和07
満洲国樹立

1933年 昭和08
溥傑、大日本帝国陸軍士官学校に入学 

1934年 昭和09
溥儀、満洲国皇帝に即位

1935年 昭和10
溥傑、大日本帝国陸軍士官学校卒業

1936年 昭和11
嵯峨浩、女子学習院卒業

1937年 昭和12
溥儀、譚玉齢を側室とする
溥傑、浩と結婚 夫妻は満州へ

1938年 昭和13 
溥傑の長女慧生が生まれる

1939年 昭和14
溥傑、満州国駐日大使館に任命され、一家は東京へ

1940年 昭和15
溥傑の二女嫮生が生まれる 一家は満州へ

1941年 昭和16
太平洋戦争勃発 

1942年 昭和17
側室譚玉齢が死去

1943年 昭和18
溥儀、李玉琴を側室とする
溥傑、陸軍大学校に入学 一家は東京へ

1944年 昭和19
溥傑、陸軍大学校卒業 
学習院初等科に在学中の慧生を日本に残して一家は満洲へ
これが溥傑と慧生の永遠の別れとなる

1945年 昭和20
日本が敗戦して満州国は崩壊、溥儀・溥傑は日本への亡命を図るが、
ソ連軍に拘束され二人はソ連の収容所に送られる

1946年 昭和21
婉容・浩・嫮生が共産党軍に拘束される
正室婉容が死去する
溥儀、極東国際軍事裁判に出廷

1947年 昭和22
浩と嫮生、引揚船で日本へ

1950年 昭和25
溥儀と溥傑、中華人民共和国に送還され、
戦犯として収容所で中国共産党による「再教育」を受ける

1951年 昭和26
父載灃が死去

1954年 昭和29
慧生が周恩来に嘆願の手紙を出し、溥傑と妻子との文通が認められる

1957年 昭和32
慧生が死去

1959年 昭和34
溥儀、釈放 

1960年 昭和35
溥傑、釈放

1961年 昭和36
溥傑、中国で妻子と16年ぶりに再会 一家は北京に住まう

1962年 昭和37
溥儀、李淑賢と再婚

1966年 昭和41
文化大革命勃発 溥傑の自宅が紅衛兵に襲われる

1967年 昭和42
溥儀が死去

1968年 昭和43
嫮生、日本で結婚

1987年 昭和62
浩が死去

1994年 平成06
溥傑が死去

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::




◆愛新覚羅溥傑
1907-1994 明治40-平成06 86歳没

皇帝溥儀の弟
2代醇親王載灃と正室瓜爾佳氏幼蘭の二男

二十歳を過ぎた頃、日本政府は溥傑を日本の学習院に留学させる。
御学友として皇后婉容の弟潤麒が同行する。
二人は杉並区の武田秀三宅に下宿し、
まず学習院中等科に入学、1年後高等科に進む。
高等科ではドイツ語を選んだ。
溥傑と潤麒は高等科を卒業後、陸軍士官学校予科を飛ばして本科に進学。




■前妻 唐怡莹/唐石霞 離婚
1904- 明治37年-
11代光緒帝側室瑾妃の姪

溥儀・溥傑に何かと横槍を入れてくる瑾妃により、彼女の姪と結婚させられてしまう。
ゆえに溥傑と唐石霞の夫婦関係は最初から冷え切ったものだった。

溥傑が日本に留学した後は、張学良と不倫関係にあったとされる。
溥傑との離婚後は香港に渡り画家となり、香港の大学で教鞭をとった。
a0130272_2302427.jpg





■後妻 嵯峨実勝侯爵の娘 浩
1914-1987 大正03-昭和62 72歳没

a0130272_2302576.jpg

a0130272_2302568.jpg

a0130272_2302524.jpg

a0130272_2302662.jpg

a0130272_2302657.jpg

a0130272_230267.jpg





●長女 慧生 1938-1957 昭和13-昭和32 19歳没
●二女 嫮生 1940- 昭和15-
a0130272_2302629.jpg

a0130272_2302681.jpg

a0130272_2302615.jpg





::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
吉岡安直の娘 悠紀子

あるとき溥傑氏が父に相談に来られた。
溥傑氏は親日家であったし、日本で教育を受けられたし、
それに父をオヤジと呼んで日頃から大変親しまれていらしたので、内々の相談であった。
つまり、「皇帝には自分から言えないが、私は日本婦人と結婚したいと思っている。
事情が許さないならば仕方がないが」ということであった。
父が、「溥傑さんは日本のお嫁さんが欲しいそうだ」
と言っていたのは私も覚えている。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1934年昭和09年09月28日

多田大尉来庁、
溥傑氏が配偶者を日本婦人の中より得たしとの希望にてその斡旋を依頼せらる。
余は自己の立場上表面に立つは好ましからずと考うるも、
裏面にて尽力することを諾す。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
満州国参議矢田七太郎から宮内大臣牧野伸顕伯爵への手紙 1935年昭和10年09月06日

溥儀&矢田の会話
溥儀◆近く溥傑帰満することとなり自分も楽しみて待ちおる次第なるが、
近来日本人中弟に対し日本華族中の令嬢より配偶者を選定せしむるよう
奔走する者少なからず。
中にはずいぶん厚顔に策動する者もある由にて自分も秘かに憂慮しつつあり。
甚だ申し上ぐるも恐れ多き極みなれど、皇族の末流の御家柄より御降嫁を仰ぐこと、
御皇族の御血統を引かるる御家柄ならよろしきも、ただの華族にては格が下がる。

矢田◆我が皇族家よりとの件は事あまりに重大にて、
矢田の思いつきをもってとかくの御返事を申し上げ難きも、
御承知の通り皇族の御家柄はその数多からず、
はたして婚期に達したる女王殿下のあらせらるるや否やも、矢田は実は不案内なり」


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1936年昭和11年01月13日
溥儀&関東軍司令官南次郎の会話

南◆溥傑さんは前の夫婦関係がはっきり断絶したのでありますから、
一日も早く温かき御家庭を作られた方がよろしいと存じます。

溥儀◆御説通り早く結婚せしむればよいと存じております。

南◆陛下におかせられては御考えの点もありましょうか。

溥儀◆自分は溥傑本人さえ満足すれば、これに対して何らの文句もありませぬ。
溥傑も自分に申しまするに、一切人種上の差別を考えておらぬとのことです。
そこで日満国交上を考えて日本の皇族とでも良縁があって本人も満足し幸福に行くとすれば、
両国民に真の両国一致親善の範を示すことにもなり良いことです。
溥傑は前に苦き経験を味わっておる故、
この次に娶るにはただ人物良好にして自分に親切なる人が第一用件であると申しております。
第一用件は、本人同士が互いに諒解して幸福なる家庭を作ることです。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1936年昭和11年02月18日

溥傑に日本皇族または華族の中より配偶を得たしとの皇帝御希望にて、
南次郎司令官より本庄繁武官長に手紙にて申し越せし由、考究することとす。
実現には幾多の支障あるを思う。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1936年昭和11年12月11日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

溥儀◆溥傑の結婚問題について目下日本婦人を物色中で、
各方面で尽力せられておらるる模様ですが、多少心当たりがあるでしょう。

植田◆候補者は沢山ある事と思われますが、
最適任者を選ぶ事に関係者方面でそれぞれ苦心しておる事と思われます。

溥儀◆溥傑の帰国は来年8、9月頃ゆえ、なるべく適当な人を得たいと希望しています。
要するに両人が充分に諒解し合いかつ双方とも満足する事が大切と思われます。

植田◆全く思し召しの通りであります。なるべく御意にそいますよう努力致させます。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1937年昭和12年01月06日

本庄繁大将来庁。溥傑の配偶の選定につき話あり。
なおその身分は、1.皇族にあらず、2.財産は50万円、邸宅は別に給す。
3.皇帝の親近として重用せらるる見込みなり等の話を聴く。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1937年昭和12年01月11日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

植田◆東京方面におけるお目出たの御話も段々進行致しているようであります。
本庄大将・南次郎朝鮮総督等も熱心に御世話申し上げておりますし、
候補者も幾人もある模様ですから、その内に良き人を得らるる事と存じます。
この御慶事が済めば陛下もいよいよ御安心の御事と存じます。

溥儀◆この問題について吉岡参謀が数日前東京へ行きましたから、
いずれ帰り来りますれば確かなる消息がわかりましょう。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1937年昭和12年01月12日

高木三郎氏来庁。
溥傑の配偶は嵯峨〔公勝〕侯爵の令孫〔浩〕に内定、数日中に見合いの運びとなれりと。
4月頃結婚し、8月頃まで東京に居り、9月に渡満すと。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


1937年昭和12年01月18日、
見合いは浩の母方の祖父で実業家の浜口容所邸で行われた。
浜口邸は品川区上大崎の2500坪の広大な敷地に
洋風建築が贅を尽くして建てられたものだった。
【ルイの間】と呼ばれるルイ王朝様式の部屋で晩餐会の形で行われた。
溥傑側は本庄繁大将夫妻・吉岡安直中佐、
浩の側は両親・祖母浜口尚子・伯父浜口吉右衛門夫妻、
そして縁談を仲介した中山孝麿侯爵夫人三千代が出席した。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑の娘 福永嫮生

母が嵯峨家の長女として生まれました時、祖母はまだ18歳で
その後3人の妹たちが次々と生まれましたので、
母は小学校に入学する前から母方の実家濱口家に引き取られておりました。
母は娘時代から洋裁や料理など、なんでも自分でやっておりました。
自転車にも颯爽と乗って、
当時としましてもかなり珍しい活発な女性であったようでございます。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
吉岡安直の証言

なかなかしっかりしたお嬢さんだった。まあ年齢からいっても当然なのだろうが、
食事の後二人だけで少しお話をしたいと向こうから言われた。
あれなら満州へ来ても大丈夫、やっていけるだろう。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑

彼女は百合を刺繍した桃色の着物を着てはにかんでいた。
写真で見たよりもさらに艶やかで、心を魅かれた。
意外なことに双方ともに一目惚れで、私は嵯峨浩を妻にする事に同意した。
そもそも関東軍が念入りに画策し勝手に決めた結婚だったが、
艱難を共にし喜びも悲しみも分かち合う相愛の夫婦がそれによって生まれたのである。
彼女との結びつきは今から思い出してみても、永遠に忘れられぬものである。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥儀から溥傑への手紙

後はたくまれた政略結婚を、互いの愛情と理解と同情で
真の一対一の人間としての結婚にする事です。
彼女が絵を描く事も私には気に入りました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1937年昭和12年01月21日

嵯峨実勝氏来庁。
令嬢浩と溥傑との結婚願書を提出せられ、事情を説明せらる。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1937年昭和12年01月25日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

植田◆本庄大正・南総督・本野未亡人〔元外務大臣本野一郎子爵夫人〕・
その他関係各方面の人々の尽力により一人適当なる人を見つけました。
本年24歳で学習院出身で溥傑氏と日本式に見合いも致しましたが、
先方は日満両国親善のためならばこの結婚に同意する旨を申しておりますし、
溥傑氏も御満足の様子であり、東京の三格格達も御同意の様子であり、
陛下におかせられて御同意を賜わらば、この問題は成立するまでになっております。

溥儀◆よろしい。溥傑本人が満足し、
各方面の人々が充分に選定してくれましたゆえ、同意します。
実は溥傑からも通信が来たが、実に興味深いもので、
ひと目見て好きになったと書いてありました。
愉快な話です。これもやはり縁というものでしょう。

植田◆御許しを頂きまして誠に感謝致します。また謹みて御慶び申し上げます。
決定した以上、早く挙式するがよろしいかと存じます。
新京で挙式するには溥傑氏の学校の都合もありまするし、
やはり東京で挙式して溥傑氏御卒業後、
夫婦おそろいで新京にお帰りになる事がよろしいかと存じます。
挙式に当りましては本庄大将夫婦が媒酌人として、
当方よりは親代わりとして国務総理大臣・宮内府大臣等が出席し、
関東軍よりは参謀長その他関係者数人出席し、
先方は関係方面の人々出席して挙式致す事ととし、
これら挙式に要する諸費用は満州国政府の方より支出する事とし、
総務庁長に申しつけるつもりであります。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


1937年昭和12年04月03日、
東京九段の軍人会館で溥傑&浩の結婚式が行われた。
婚礼の日、浩は濱口家から嵯峨侯爵邸に戻り、ここからパレードは出発した。
白無垢・四枚重・唐織雲立涌文花鳥模様の紅色袿をはおり、緋の袴を着け、
髪はおすべらかしの浩を乗せた黒塗りの車列はゆっくり進んで行った。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
当時小学校5年生でパレードに参加した女性

十二単衣におすべらかしの、それはそれは艶やかな浩さんの御姿があった。
私達女の子はただただ夢中で、日満両国旗を振った。
あの美しさや興奮は、50年以上経った今でも忘れられない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


翌日東京駅に現れた二人は、群衆に取り囲まれ構内は大混乱になった。
溥傑は中折帽にダブルのアルスターコート姿、
浩はフカフカの毛皮の襟を立てた黒のロングコート姿で襟元から純白のリボンが見える。
世紀のカップルの姿は、そのまま人々の理想郷満州への夢をかきたてた。
嵯峨家や濱口家の家族の内輪の見送りを受け、新婚旅行先の伊豆に向けて出発した。
伊豆川奈への新婚旅行を終え、夫妻は千葉県稲毛に新居を構えた。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
溥傑から溥儀への手紙

浩は家庭内のことは、大きい事も小さい事もすべて自分で始末しております。
髪もとかず服も整えずにすべてを片づけます。
私が家を空ける時には自分は簡素な物で腹ごしらえをし、
私が帰った時には日頃節約した分で御馳走を作ってくれます。
まことに私は生まれて初めて家庭の幸福を味わったのです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


同年07月、結婚から3ヶ月で盧溝橋事件勃発、日中戦争が始まる。
同年08月溥傑卒業、
09月には溥傑夫妻は潤麒&三格格夫妻とともに新京に帰る予定であったが、
浩が慧生を身ごもったため浩のみ10月12日に遅れて出発することとなった。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
新京の溥傑家の運転手 藤本重春夫人ナツコへの取材

ナツコによれば藤本がこの時期派遣されたのは、
夫婦の行動を監視し関東軍に報告する意味があったという。

藤本には喘息の持病があったが、風邪で仕事を休むと
溥傑は必ず貴重な薬や当時庶民の口には入らなかった蜂蜜の大瓶を届けてくれた。

「浩さんは深窓に育った令嬢だけに無邪気で明るく、
溥傑さんの部下や使用人が病気の時はすぐに見舞いに駆けつける人でした。
細かいところによく気のつく思いやりあふれる優しい女性でした」

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

1938年昭和13年02月26日、浩は新京で慧生を出産。
慧生が男子ではなく女子であったことが溥儀の頑なな気持ちを解いた。
溥傑は溥儀の元へ一家で頻繁に通い、浩はいつも手作りの料理を持参した。
溥儀は慧生を溺愛した。
溥儀からピアノをプレゼントされ、ピアノを習うようになる。
李香蘭も同じ教師に師事していたため、彼女と一緒に演奏したこともあった。
後にヴァイオリンも習い始め、溥儀のピアノに合わせてヴァイオリンを弾いた。
1942年昭和17年、満州国建国10周年に高松宮が来満した際には、
「高松宮殿下奉迎歌」を慧生が日本語と中国語の2ヶ国語で歌ったレコードが作られた。

1938年昭和13年、溥傑は駐日満州国大使館付武官となり家族とともに東京に移る。
貞明皇后から御召しがあり、慧生を連れて大宮御所を伺候した。
貞明皇后は慧生を抱いて頭を撫で、帰りには慧生に着物や人形を下賜された。
しかし翌年1939年昭和14年10月溥傑は奉天の軍官学校に赴任するため離日、
その時浩は嫮生を身ごもっていたため、出産後に渡満することになった。
1940年昭和15年、浩は東京で嫮生を出産する。
同年06月26日、溥儀が2度目の来日をする。
翌日浩は嫮生を連れて赤坂離宮に伺候したが、
軍部がこれを拒否したため溥儀には面会できなかった。
しかし翌日の朝刊には、浩が溥儀に謁見したと報じられた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『満州国皇帝陛下の御来訪を
ひとしお御喜びのうちにお待ち申し上げた皇弟溥傑満州国軍上尉浩夫人は、
御入京3日目28日午前09時赤坂離宮に伺候、
陛下には特別の思召しで同夫人に謁を賜り、
同夫人は感激のうちに御機嫌よく奉仕、同夜奉天に向かう旨言上して退出した。』
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


浩は慧生・嫮生を連れて渡満、一家4人がそろう。
1943年昭和18年溥傑の陸軍大学校入学のため、一家は来日。
しかし東京への空襲が激しくなったため、学習院初等科に通学していた慧生だけを残して
1945年02月溥儀・浩・嫮生の3人は渡満する。
「いよいよ日本が危なくなれば新京に呼び寄せれるから」と言って別れたが、
これが溥傑と慧生の永遠の別れとなる。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
関東軍参謀副長 今村均大将

着任したとき皇帝溥儀には子供が生まれないと聞き、
「万一皇帝が亡くなられたらどうするのですか」と板垣征四郎参謀長に伺った。
板垣さんは「その時は溥傑君だ」と即座に答えた。
それを考えて溥傑夫人には日本人をと考えたのだろう。
溥傑君のため、清室のためを思っての決断だった。
「軍部の圧力によって断れないように仕組まれ」たような事を書かれたが、それは違う。
結婚の支度を考えたのは吉岡安正中佐の独断のようにも言われたが、
そんな事は絶対にない。
あの男は職務を真面目にやっただけだと思う。
当時の関東軍でそういう計画を立てた時、
それを決める事ができたのは板垣征四郎・石原莞爾・土肥原賢二、この3人だけだ。
それが誰であったかは推測になるけれど、私は土肥原だと思う。
そういうわけで、皇帝が亡くなった後は溥傑君と決まっていた。
満州の方は、とかく関東軍だ、吉岡だと言われるが、それは誤解です。
万一の場合、浩さんは皇后になられるはずだったのだから。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
[PR]
by xMUGIx | 2007-01-11 00:00 | 中国


フォロー中のブログ
検索
記事ランキング