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by xMUGIx
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カテゴリ:フランス( 55 )

ボナパルト朝

皇帝ナポレオン3世の愛人


★元婚約者マチルド・ボナパルト イトコ
1820-1904 84歳没

ナポレオン1世の弟ジェローム・ボナパルトの娘。
ナポレオン3世が逮捕されたため婚約は流れた。
ロシアの大富豪と結婚離婚、莫大な慰謝料を得てパリの社交界に戻る。
皇后ウージェニーとは犬猿の仲で、社交界でも何かと張り合った。
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★愛人エリザ・レイチェル・フェリックス
1821-1858 37歳没
女優
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★愛人ハリエット・ハワード
1823-1865 42歳没

ナポレオンと激しい恋に落ちたハリエットは夫を捨て
4歳になる息子と財産、召使まで一切合財ひきつれて所帯を構え一緒に暮らし始めた。
ナポレオンが帝政復古を企てた時はハリエットの財産を使った。
こうしてナポレオン3世になった彼は別の女性を皇后にしたのだ。
怒ったハリエットが脅迫すると彼女の留守に側近たちが家探しして
二人の関係の証拠になるものを全部持ち去った。
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★愛人マリアンヌ・デ・リッチ
1823-1912 89歳没
コロンナ・ヴァレフスカ伯爵夫人
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★愛人ヴィルジニア・オルドイーニ/ラ・カスティリオーヌ 通称ニキア
1837-1899 62歳没

イタリア貴族の娘。イタリア政府からナポレオン3世へ送られたスパイだった。
しかしイタリア人によるナポレオン3世暗殺未遂事件が起きニキアとも手を切ることにした。

任務を成し遂げたニキアはイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の愛人となった。
その後も次々とそうそうたる人物の愛人となったが
40歳になって美貌の衰えを感じたニキアは自室にこもるようになる。
鏡はすべて外され、鎧戸が下ろされ、部屋は真っ暗だった。
親戚にも友人にも会おうとせず、召使だけが接触した。
そのうち召使も部屋に入れなくなり、生ゴミと汚物の山に埋もれて過ごした。
そして死亡して数日経って発見された。
膨大なゴミと莫大な遺産が残った。
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★愛人マリー・クロチルド・ド・リケ
1837-1890 53歳没
メルシー・アルジェントー伯爵夫人
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★愛人マルグリット・ベランジェ
1838-1886 48歳没
女優
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by xMUGIx | 2003-03-23 00:00 | フランス

ボナパルト朝

■父 ルイ・ボナパルト ナポレオン1世の弟
1778-1846 68歳没 

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■母 オルタンス・ド・ボアルネ ナポレオンの前妻ジョゼフィーヌの連れ子
1783-1837 54歳没

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◆皇帝ナポレオン3世 最後の皇帝
ナポレオン1世の甥
1808-1873 44歳即位 64歳没

*両親が離婚、
母は3人の息子のうち末っ子のナポレオン3世のみを引き取ってスイスに亡命、
そのため生涯ドイツ訛りのフランス語しか話せなかった。

*幕末にパリ万国博覧会に将軍徳川慶喜の名代として派遣された徳川昭武使節団が
フランスでナポレオン3世に謁見している。
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■妻 ウジェニー・ド・モンティジョ←エウへニア・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック
テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵・ペニャルダ公爵ドン・シプリアーノの娘
1826-1920 27歳結婚 94歳没

ナポレオン3世が即位したときヨーロッパの王室は彼を同等に扱わなかった。
彼は貴族政治を復活させるために
ウージェニーを中心に据えて華やかなフランス宮廷を作ろうとした。
ウージェニーの美貌と優雅な立ち居振る舞いそれに応えた。
彼女はファッションリーダーとなり、彼女の新しい装いは
たった2ヶ月でアメリカ西部の酒場の女たちに真似されるほどだった。

彼は青年時代からボナパルト家の政権奪回に情熱を傾ける野心家であったが
同時に豊富な女性経験を持つ享楽家でもあった。
結婚前から庶子がいたし、結婚後は「小皇后」と呼ばれる愛人を次々と作った。

ウージェニーは夫の女性関係に悩まされ嫌悪感を持ったので夫婦関係は冷え切っていった。
普仏戦争に敗れたナポレオンが敵軍の捕虜となり共和制が宣言されると、
ウージェニーは友人であるヴィクトリア女王のいるイギリスに亡命した。
まもなく前線からルイ皇太子が戻り釈放された夫も合流した。
ヴィクトリア女王は一家を手厚く保護し、カンデンプレイスに住まわせた。
しかしイギリスでの三人の生活は長く続かなかった。
ナポレオンが病死しルイもアフリカで戦死する。
ウージェニーはファーンボロに隠遁し40年の余生を過ごした。

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バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ

*独身時代の皇帝ニコライ2世の愛人、
ニコライ2世のイトコのセルゲイ・ミハイロヴィチ大公の愛人、
セルゲイの従甥アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公と結婚。

私達が亡命後コート・ダジュールにいた頃、
ウージェニー皇后がキャップ・マルタンに住んでおられた。
アンドレイの父ウラジーミル・アレクサンドロヴィチが
青年時代に万国博覧会を訪問された頃から、皇后は彼がお気に入りであった。
皇后とウラジーミル大公は、
定宿にされていたパリのコンチネンタルホテルでたびたび会われた。
皇后はアンドレイも子供時代から御存知で、
アンドレイは皇后の若々しさに魅了されたと語った。

彼女は94歳という年齢が信じられないほど快活で陽気で、
誰にでも親切な言葉をかけられた。
ロシアの現状に大いに興味を示されており、驚くほどの記憶力をお持ちだった。
声ははっきりとしていて明瞭で、耳も問題なかった。
歩く時にも少しもよろめかれたり、背中を丸めたりする事はなかった。
主治医たちが食餌療法を強制するとこぼしながら、お客達と同じ料理を楽しまれた。
侍女からは、皇后は食後に休まれるどころかドライブに出かけられる事を聞いた。

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●子はナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト 通称ナポレオン4世・未婚・戦死
1856-1879 23歳没
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*イギリスに亡命していたナポレオン4世は、陸軍士官学校を卒業、
ズールー戦争の際にイギリス軍人として出兵、戦死する。
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by xMUGIx | 2003-03-22 00:00 | フランス

オルレアン朝

国王ルイ・フィリップの子供


●フェルディナン・フィリップ
メクレンブルク・シュヴェリーン公女ヘレーネ・ルイーゼ・エリーザベトと結婚
●ルイーズ・マリー 
ベルギー国王レオポルド1世の後妻
●マリー 
ヴュルテンベルク公アレクサンダーの前妻・本人死別
●ルイ・シャルル 
ザクセン・コーブルク・ザールフェルト公女ヴィクトワールと結婚 
●クレマンティーヌ 
ザクセン・コーブルク・ゴータ公子アウグストと結婚
●フランソワ 
ブラジル皇女フランシスカと結婚 
●アンリ サレルノ公女マリア・カロリーナ・アウグスタと結婚
●アントワーヌ スペイン王女ルイサ・フェルナンダと結婚




●フェルディナン・フィリップ
1810-1842 32歳没
メクレンブルク・シュヴェリーン公女ヘレーネ・ルイーゼ・エリーザベトと結婚
1814-1858 44歳没
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●ルイーズ・マリー 
1812-1850 38歳没
ベルギー国王レオポルド1世の後妻
1790-1865 75歳没
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●マリー 
1813-1839 26歳没
ヴュルテンベルク公アレクサンダーの前妻 本人死別
1804-1881 77歳没
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●ルイ・シャルル 
1814-1896 82歳没
ザクセン・コーブルク・ザールフェルト公女ヴィクトワールと結婚
1822-1857 35歳没
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●クレマンティーヌ 
1817-1907 90歳没
ザクセン・コーブルク・ゴータ公子アウグストと結婚
1818-1881 63歳没
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●フランソワ 
1818-1900 82歳没
ブラジル皇女フランシスカと結婚
1824-1898 74歳没
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●アンリ  
1822-1897 75歳没
サレルノ公女マリア・カロリーナ・アウグスタと結婚
1822-1869 47歳没
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●アントワーヌ
1824-1890 66歳没
スペイン王女ルイサ・フェルナンダと結婚 姉は女王イサベル2世
1832-1897 65歳没
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by xMUGIx | 2003-03-21 00:00 | フランス

オルレアン朝

◆国王ルイ・フィリップ 
1773-1850 57歳即位 76歳没
もとオルレアン公ルイ・フィリップ2世の子
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ブルボン家の分家であるオルレアン家から即位。

フランス革命が起きるとフランスを逃れ各国を転々とした。
ナポレオンが百日天下で完全に失脚するとフランスに帰国した。
7月革命でシャルル10世が退位するとブルジョワジーから擁されて即位した。
ルイ・フィリップ1世は「フランスの王」ではなく「フランス人の王」を称したが
選挙権は上層ブルジョアに限られ
小ブルジョアやプロレタリアートによる普通選挙実現の要求が高まるようになると
政府はこれを弾圧した。
これに反発した民衆が蜂起し2月革命が起きた。
ルイ・フィリップは退位を余儀なくされ亡命した。


■妻 マリー・アメリー・ド・ブルボン←マリーア・アマーリア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
両シチリア王フェルディナント1世の娘
1782-1886 27歳結婚 83歳没
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●フェルディナン・フィリップ
●ルイーズ・マリー 
ベルギー国王レオポルド1世の後妻
●マリー 
ヴュルテンベルク公アレクサンダーの前妻・本人死別
●ルイ・シャルル 
ザクセン・コーブルク・ザールフェルト公女ヴィクトワールと結婚
●クレマンティーヌ 
ザクセン・コーブルク・ゴータ公子アウグストと結婚
●フランソワ 
ブラジル皇女フランシスカと結婚
●アンリ 
サレルノ公女マリア・カロリーナ・アウグスタと結婚
●アントワーヌ 
スペイン王女ルイサ・フェルナンダと結婚




★愛人ロザリー・デュテ
1748-1830 82歳没
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by xMUGIx | 2003-03-20 00:00 | フランス

復古ブルボン朝

◆国王シャルル10世 
先代ルイ18世の弟
1757-1836 67歳即位 79歳没
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*義兄マリー・アントワネットと仲が良かった。

*勉強嫌いでイタズラ好き、愛想が良くオープンな性格だった。

フランス革命により亡命。
ナポレオン失脚後にフランスへ帰国したが、ナポレオンの復帰により再び亡命。
ナポレオンが百日天下で完全に失脚するとフランスに帰国した。

兄以上の反動的な専制政治を行なったため不満を持ったフランス国民により7月革命が起こされた。
この革命によってシャルル10世は退位を余儀なくされ亡命した。




■妻 マリー・テレーズ・ド・サルデーニュ←マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア
サルデーニャ国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘
姉はルイ18世王妃マリー・ジョゼフィーヌ
1756-1805 17歳結婚 49歳没
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★愛人ルイーズ・ド・ポラストロン
1764-1804 40歳没
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シャルル10世には若い頃から多くの愛人がいた。
一番長く続いたのはルイーズ・ド・ポラストロン夫人である。
フランス革命勃発後シャルルはヨーロッパ各地を転々としたが
ルイーズもフランスを発って正妻の目を盗んでシャルルと密会を続けていた。
しかしルイーズの死によってこの関係は終わった。
亡命生活と愛人の死によってシャルルの人生観はすっかり変わり道徳的な生活を送った。




●ルイ・アントワーヌ 
国王ルイ16世&マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズと結婚
●シャルル・フェルディナン
イギリス人未亡人のエイミー・ブラウンと秘密結婚・離婚、
両シチリア王女マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンと再婚




●ルイ・アントワーヌ
1775-1844 69歳没
国王ルイ16世&マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズと結婚 
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●シャルル・フェルディナン
1778-1820 42歳没
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■前妻 イギリス人未亡人エイミー・ブラウン 秘密結婚・子供2人
1783-1876 93歳没

■後妻 両シチリア王女マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン
1798-1870 18歳結婚 72歳没
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シャルルはイギリスに亡命中、
プロテスタントの牧師の娘で未亡人のエイミー・ブラウンと秘密結婚して二人の娘が生まれた。
しかし、王家の承認のない結婚は無効として、
両シチリア王女マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンと結婚。
娘ルイーズ・ダルトワと息子アンリ・ダルトワが生まれたが、シャルルは暗殺される。
ルイ18世にも兄ルイ・アントワーヌにも嫡子がなかったため、
唯一の世継ぎである息子アンリは「奇跡の子供」ともてはやされた。

母マリーは息子アンリのために王位奪還を夢見て、
国王ルイ・フィリップの暗殺や反乱を企てた。
マリーは逮捕されたが妊娠していることが発覚した。
実際は青年弁護士ギベールの子であったが、
マリーはイタリア貴族ルケーシ伯爵の子であると主張した。
マリーはルケーシ伯爵の主君フェルディナンド2世の姉であったので、
ルケーシ伯爵は仕方なくマリーを引き取った。
その後マリーはルケーシ伯爵との間に4人の子を生んだ。
舅シャルル10世はこの不貞に激怒したため、マリーはブルボン王家と縁を切られた。
母を失った娘ルイーズと息子アンリは伯母であるマリー・ルイーズに育てられた。
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by xMUGIx | 2003-03-19 00:00 | フランス

復古ブルボン朝

◆国王ルイ18世●実子ナシ 
先代ルイ16世の弟
1755-1824 60歳即位 68歳没
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*義姉マリー・アントワネットを嫌っていた。

*教師が舌を巻くほど優れた記憶力を示し、古典文学と歴史を愛した。
なかなか本心を見せず狡猾な所もある少年だったという。

フランス革命により亡命。
ナポレオン失脚後にフランスへ帰国したが、ナポレオンの復帰により再び亡命。
ナポレオンが百日天下で完全に失脚するとフランスに帰国し即位した。

彼自身は温厚な性格であったが
甥のベリー公シャルル・フェルディナンが国民によって暗殺されると
それまでの穏健政策を廃して絶対王政を復活させた。




■妻 マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ←マリーア・ジュゼッピーナ・ルイーザ・ディ・サヴォイア
サルデーニャ国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘
妹はシャルル10世王妃マリー・テレーズ
1753-1810 18歳没 57歳没
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★妻の死後はカイラ夫人を愛人にした。
1785-1852 67歳没
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by xMUGIx | 2003-03-18 00:00 | フランス

ボナパルト朝

皇帝ナポレオン1世の愛人


*ナポレオンが生涯に付き合った女性の数は100人にのぼる。


★初恋の女性カロリーヌ・デュ・コロンビエ
1769-1855 86歳没
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★元婚約者デジレ・クラリー 姉ジュリーはナポレオンの兄ジョゼフの妻
1777-1860 83歳没

マルセイユの商人の娘。
二人は婚約していたが、華やかなパリに出たナポレオンは
残してきたデジレに対する愛情が薄れてしまい婚約破棄に至った。
デジレは将軍ベルナドットと結婚、
後にベルナドットがスウェーデン王カール14世ヨハンとなったため
デジレもスウェーデン王妃となった。
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★愛人ポーリーヌ・フレース 通称ラ・ベリロット
1781-1869 88歳没 

ポーリーヌははナポレオンが遠征先のエジプトで愛人にした女性。
夫ジャン・ノエル・フーレスについて来るために兵士に変装してやって来たポーリーヌは
美しくて魅力的ですぐにナポレオンの目に留まる。
しかし愛人関係はエジプトだけで終わった。
次にジャン・バティスト・クレベールの愛人となり、
スウェーデン領事ピエール・アンリ・ド・ランショーと再婚・離婚、
近衛大尉ジャン・バティスト・ベラールと再々婚。
パリで気ままに暮らし、多くの小説と絵を発表した。
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★愛人ジョゼッピーナ・グラッシーニ
1773-1850 77歳没 
イタリアのオペラ歌手
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★愛人マルグリート・ジョゼフィーヌ・ヴェメール 通称マドモワゼル・ジョルジュ/ジョルジーナ
1787-1867 80歳没
女優
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★愛人マリー・アントワネット・アデル・デュシャテル
1782-1860 78歳没

皇后ジョゼフィーヌの女官
公妾の地位を狙っているとわかって、ナポレオンが興ざめして終わった。
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★愛人ヴィクトリーヌ・ド・シャステネー
1771-1855 84歳没
女流作家
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★愛人マルグリート・ブリュネ/マドモワゼル・モンタンシエ
1730-1820 90歳没
喜劇女優
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★愛人グレース・エリオット
1754-1823 69歳没
イギリスの高級娼婦
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★愛人マリー・テレーズ・ブルゴワン
1785-1833 48歳没 
女優
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★愛人エレオノール・ドニュエル
1787-1868 81歳没

エレオノールをナポレオンに引き合わせたのはナポレオンの妹カロリーネ。
1年後にエレオノールが男子を生んだ。
このことがナポレオンに自信を与え
子供のできないジョゼフィーヌと離婚することを考えさせるきっかけになった。
子供が生まれるとエレノールを捨て会うことも拒んだ。
ただし認知はして経済的援助と子供の教育は援助した。
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★愛人マリア・ワレフスカ
1786-1817 31歳没

ワルシャワに入城したナポレオンをポーランド国民は熱烈に歓迎した。
ナポレオンが開いた舞踏会にワレフスキー伯爵夫妻も招待されていた。
マリアはナポレオンに見初められたが断り続けた。
とうとうナポレオンは「ポーランドのために尽くすかどうかはマリア次第」
と臨時政府に通達。
結局政府代表がマリアの説得に来るし
親戚や夫までもマリアに彼の愛人になることを迫った。
困惑していたマリアだったが心からナポレオンを愛するようになる。
マリアはナポレオンの遠征に同行してヨーロッパ中を転々とする。
しかしナポレオンは3年後マリアが妊娠すると彼女の元を去ってしまった。

マリアは5歳の息子とエルバ島に流罪となったナポレオンの元へ行った。
すでに夫とも離婚していた。
しかしナポレオンは
マリアがいるとマリー・ルイーズが島に来てくれなくなると思い
三日後に親子を追い返した。
マリー・ルイーズが贅沢な生活を捨て
ナポレオンと貧しい流刑生活を送ろうなどと
露も思っていないことをヨーロッパ中が知っていた。
マリアは黙って船に乗り二度とナポレオンに会うことはなかった。

そんなマリアに求婚したのがナポレオンのマタイトコのドルナノ伯だった。
ドルナノ伯はナポレオンに同行してポーランドで彼女に会った時から
ずっとマリアを愛していたのだ。
ドルナノ伯と再婚したマリアは息子を生んだあと体調を崩して亡くなった。
31歳だった。
マリアを亡くした後40年独身で通したオルナノ伯は
彼女の心臓を肌身離さず持っていた。

セント・ヘレナ島に流されたナポレオンは
マリアの死を知らないまま3年後に亡くなった。
死ぬ時にはマリアから贈られた指輪をはめていた。
「あなたがもう私を愛していらっしゃらなくても、私は永遠にあなたを愛します」
という言葉が刻まれていた。
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★愛人オーギュスト・シャルロット・フォン・キールマンスエッゲ
1777-1863 86歳没
オーストリアの女スパイ
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★愛人アルビーヌ・ヘレナ・ド・ヴァサル・モントロン 
1779-1848 69歳没 
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by xMUGIx | 2003-03-17 00:00 | フランス

ボナパルト朝

◆皇帝ナポレオン1世
1769-1821 35歳即位 51歳没
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■前妻 アレクサンドル・ボアルネ子爵未亡人ジョゼフィーヌ 連れ子2人アリ
1763-1814 50歳没
16歳でボアルネ子爵アレクサンドルと結婚死別、33歳でナポレオンと再婚
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カリブ海の農園主の娘。ボアルネ子爵との結婚のためフランスへ来る。
2人の子供をもうけるが、夫はフランス革命で処刑された。
ルイ=ラザール・オッシュ将軍や総裁政府のポール・バラスの愛人となり、
社交界の花形となって<陽気な未亡人>と呼ばれる。

ナポレオンは魅力的な二人の子持ちである年上の未亡人ジョゼフィーヌと恋に落ちた。
結婚したナポレオンは遠征中も熱烈なラブレターを送った。
しかしジョゼフィーヌは友人に
「あの小柄な将軍と結婚するには多少の嫌悪感を克服せねばなりませんでした」
と書き送っている。

結婚当初は浮気をしてナポレオンを泣かせたこともあったが
彼が皇帝となってからは献身的な妻に変身して政策面でも彼を助けた。
ナポレオンの運が開けてきたのもそもそもジョゼフィーヌと結婚してからであり
彼にとって彼女は「勝利の女神」「幸運の女神」だったのだ。

しかし跡継ぎが欲しいナポレオンはジョゼフィーヌとの離婚を決意する。
彼は最大限の配慮をした。
フランス皇后の称号を使うことを許し、
マルメゾンの館の他にエリゼ宮を与え年に莫大な金額の生活費を渡した。

オーストリア皇女マリー・テレーズと再婚し待望の男子も生まれたが、
ナポレオンの運勢は下り坂になってゆく。

ジョゼフィーヌはナポレオンの好みや習慣を完璧に心得て
彼が快適に生活しやすいように心を砕いた。
ところがマリー・ルイーズに対しては
ナポレオンの方が気を遣わなければならなかった。
それにジョゼフィーヌは大変人気のある皇后であったが
マリー・ルイーズはまったく人気がなかった。
とうとうナポレオンは失脚する。
ジョゼフィーヌとの離婚から4年半後の出来事だった。

ジョゼフィーヌはエルバ島に行くつもりだったが、
ナポレオンが流罪となってから1ヶ月後に肺炎で亡くなった。




■後妻 マリー・ルイーズ・ドートリッシュ←マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ
オーストリア皇帝フランツ1世の娘
1791-1848 19歳結婚 57歳没
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ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女と再婚した。
小心者の皇帝フランツ2世はナポレオンからの要求に反対できなかったのである。
マリー・ルイーズは皇帝とは名ばかりの
コルシカの成り上り者との結婚に大きなショックを受けた。
しかしナポレオンが下へも置かぬ扱いをしプレゼント攻撃をしてくれるので
たちまちこの結婚に慣れた。
マリー・ルイーズは鈍さと冷たさの混じった無神経なところがあり
人間的な面白みも魅力も感じられない人物だった。
翌年に生まれた息子にもまったく興味を示さない。
ナポレオンが失脚してエルバ島へ流罪となった時
家族と暮らしたいというナポレオンの願いを聞き流して
息子をつれてさっさと実家のオーストリアに帰ってしまう。
父帝は彼女をパルマの領主とした。


★マリー・ルイーズの再婚相手アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵
1775-1829 54歳没
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彼女はいささかの躊躇もなく息子をオーストリアに置いたまま
すぐにパルマへ向かいほとんど会いにも来なかった。
マリー・ルイーズの補佐役としてナイペルク伯爵を送った。
彼女は妻子あるナイペルクの子供を生み彼と結婚した。


★マリー・ルイーズの再々婚相手シャルル・ルネ・ド・ボンベル伯爵
1785-1856 71歳没
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ナイペルクが亡くなったため次ははボンベル伯爵を送った。
またしても彼女は彼の子供を生み結婚した。




●前妻の連れ子 ウジェーヌ 
バイエルン王女オギュスタ=アメリーと結婚
●前妻の連れ子 オルタンス 
ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトと結婚離婚→子は皇帝ナポレオン3世
●後妻の子 ナポレオン2世 早逝




●後妻の子 ナポレオン2世
1811-1832 21歳没
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★カール大公妃ゾフィー
1805-1872 67歳没
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残されたナポレオン2世は徹底してオーストリア人として育てられた。
フランス語は禁止され宮廷の外には出してもらえず
父にも母にも会えない少年時代を過ごした。
その後ライヒシュタット公の称号を授けられ186センチ
ブロンドに青い目の貴公子に成長した。
それでも宮廷はナポレオンの忘れ形見を飼い殺しにするだけである。
ここに皇帝フランツ2世の二男カール大公妃バイエルン王女ゾフィーがいた。
彼女は堅苦しいウィーン宮廷になじめず孤独だった。
彼女は同じくよそ者で孤独だったライヒシュタット公と心を寄せ合うようになる。
彼は結核になった。彼から「やさしい美の天使」
と呼ばれていたゾフィーは懸命に看病した。
宮廷からの再三の催促にもかかわらず
母マリー・ルイーズは死の床にある息子になかなか会いに来なかった。
臨終の時にようやくやってきた母に看取られて21歳の人生を終えた。
マリー・ルイーズにとって愛とは与えるものではなく与えられるものだったようだ。

ライヒシュタット公とゾフィー妃の関係は
プラトニックなものだったのかどうかはわからないが
ゾフィーの二男マクシミリアンはライヒシュタット公の子供であるという噂は消えない。




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ところで、エルバ島に流罪となったナポレオンは
牢屋に入れられてたんだろうと勝手に思ってたんですが統治してたんですね。
まず上陸するとすぐに市街を見下ろせる絶壁の上にムリーニ小宮殿を建てさせてます。
それから道路の整備、農林業の振興、病院を造ったりしてます。
連日のようにあのナポレオンルックで村々を視察して回ってます。
そりゃまあ妻子も呼び寄せようとするわけですな。


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こちらは2度目の流罪先セント・ヘレナ島のロングウッド・ハウス。
宮殿とはいえませんが豪邸ですよね。
間取り図を見ると部屋数多い~。
岩窟王みたいにヒゲだらけで痩せこけて格子のはまった暗い監獄で
苦しんで死んでいったと思ってた同情を返せ~!
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by xMUGIx | 2003-03-16 00:00 | フランス

ブルボン朝

国王ルイ16世の子供


●マリー・テレーズ 国王シャルル10世の息子ルイ・アントワーヌと結婚
●ルイ17世 王太子 早逝


成長したのはマリー・テレーズ王女とルイ・シャルル王子の2人である。
アントワネットは母マリア・テレジアより良い母親であった。
彼女は実姉であるナポリ王妃カロリーネと手紙で頻繁に育児について意見を交換していた。




●弟ルイ17世
1785-1795 10歳没
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●姉マリー・テレーズ●実子ナシ
1778-1851 72歳没  
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ルイ16世の娘マリー・テレーズ王女は家族の安否もわからず
一人タンプル塔に幽閉されていた。彼女一人だけが生き残ったのだ。
王妃の祖国であるオーストリアとフランスの間で内密に交渉が行われた。
マリー・テレーズとオーストリアにいるフランス人捕虜とを交換するという条件だった。
ついに17歳になった彼女はタンプル塔から外に出てオーストリアへ向かった。
しかし彼女は両親や弟のために援助の手を差しのべてくれなかった
アントワネットの祖国オーストリアを怨んでいた。
彼女を迎えたフランツ皇帝夫妻の態度も冷たいものだった。
長い監禁生活のせいでしばらくは失語症だったという。

成人したマリー・テレーズ
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■夫 シャルル10世の息子ルイ・アントワーヌ
1775-1844 68歳没
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ルイ16世には二人の弟があった。
すぐ下の弟がルイ17世が亡くなった時からルイ18世を名のった。
そのご次の弟がシャルル10世となった。
ルイ18世はマリー・テレーズとシャルル10世の息子ルイ・アントワーヌを結婚させることにした。
ところがルイ・アントワーヌは重度の不能者だったのである。
そして結婚3日目にして彼女の元から帰ってしまった。

ここから彼女の流転の生涯が始まる。

ルイ18世一行はナポレオンから逃れるためにロシア皇帝の庇護を受ける。

ロシア皇帝から退去命令。

プロイセン王の庇護を受ける。

プロイセン王から退去命令。

再度ロシア皇帝の庇護を受ける。

イギリス貴族の厚意でロンドン近郊の屋敷に住む。

ナポレオンが失脚したため一行はやっとフランスに戻る。

ナポレオンが流刑先から脱出しパリに突進してきたため一行はガンへ逃れる。

ナポレオンが百日天下で完全失脚したため一行はまたフランスに戻る。

ルイ18世の復位とともに反動政治が始まった。
マリー・ルイーズはすでに37歳となっていた。
彼女はこれまでの憎しみと落胆といった鬱積した感情が一気に爆発し、
慈悲や温情という言葉は彼女の中から消え失せた。
彼女は何百人ものかつての裏切り者を処刑した。

子供がいなかったルイ18世の死にともなって弟がシャルル10世として即位した。
すなわちルイ・アントワーヌとマリー・テレーズは王太子夫妻となった。
彼は兄ルイ16世の二の舞になりたくない余りさらに反動政治を徹底した。
そこで7月革命が起こってしまう。
一族は孫のアンリ即位を即位させるために書類上王位はシャルル10世からルイ・アントワーヌへ、
ルイ・アントワーヌはルイ19世となり、さらに王位をアンリへ譲りアンリ5世が即位した。
マリー・テレーズは一瞬だけフランス王妃となったのである。

しかし革命軍は新国王アンリ5世を認めなかったため一行はイギリス国王の庇護を受ける。

イギリス・フランスとの友好関係を結ぶためイギリス国王から退去命令。

一行はオーストリアに逃げる。
マリー・テレーズはのちのフランツ・ヨーゼフ皇帝の母ゾフィーと親しくなった。
愛想のないマリー・テレーズとゾフィーは周囲からは理解されなかったが馬が合ったのである。
彼女はここでシャルル10世の2人の孫アンリとルイーズを育てることになった。
しかしシャルル10世が亡くなり夫ルイ・アントワーヌも亡くなり
孫アンリをアンリ5世として担ぎ出そうとする動きがあったが
彼は国王にはなりたくないとキッパリ宣言した。
失意のマリー・テレーズは亡くなるまで喪服で通した。
彼女のただ一つの願いは祖国フランスの地で両親と共に眠ることだった。
しかしその願いもかなわず彼女の墓はオーストリアにある。
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by xMUGIx | 2003-03-15 00:00 | フランス

ブルボン朝

◆国王ルイ16世
先代ルイ15世の孫/王太子ルイ・フェルディナンの子
1754-1793 20歳没 38歳没
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■妻 マリー・アントワネット・ドゥ・ロレーヌ・ドートリッシュ
←マリア・アントーニア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
オーストリア女帝マリア・テレジアの娘
1755-1793 15歳結婚 37歳没
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ルイは幼くして両親を亡くし孤独な性格に育った。
マリー・アントワネットと結婚したが、真性包茎のため王妃を抱くことができなかった。
周囲から手術を勧められたが何度も逃げ出した。
とうとうアントワネットの兄ヨーゼフ2世がフランスまでやってきてルイを説得した。
そして無事手術を受けて結婚8年目にして第一子が生まれるのである。
フランス王妃の分娩は一般にも公開される慣わしだった。
宮殿は見学者で埋めつくされ、
産屋も王妃のベッドの周囲にロープを張らねばならないほどの混雑だった。


★愛人スウェーデン伯爵フェルセン
1755-1810 54歳没
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しかし長すぎたこの空白の間にアントワネットはスウェーデン伯爵フェルセンと愛人関係にあった。
彼はこの後、革命、投獄、処刑とアントワネットが亡くなるまで影のように付き従った。


ルイ14世・15世の二代に渡る浪費で国庫は破綻寸前だった。
それでもアントワネットは享楽的な生活を改めようとはしなかった。
国民は彼女を「赤字夫人」と呼び世情もだんだんと不穏なものになってゆき、
バスティーユが襲撃され群衆はベルサイユ宮殿にも押し寄せ
国王一家にパリに来るように要求した。
一家はパリのテュイルリー宮殿に軟禁された。

フェルセンが国王一家の逃亡計画を練った。
しかし逃亡途中で見破られ失敗一家はパリに引き戻された。
国王一家はタンプル塔に移された。
そしてまず国王が処刑された。
そしてアントワネットの番がきた。
さらに王子ルイ17世が病死した。


アントワネットの不幸は夫が公妾を作らなかったことである。
王の公認の愛妾には公妾という称号を与えられほぼ首相と同様の地位を得た。
公妾たちは芸術を奨励し、異国の外交官を魅了し、大臣を任命し、外交をリードした。
公妾の部屋のほうが王妃より贅沢で、公妾の衣装のほうが王妃より豪華で、
公妾の宝石のほうが王妃より高価なこともあった。
しかしいったん国民の不満が噴出した時その非難を一身に受けるのは公妾であった。
ルイ16世にはそういう存在がいなかったので
国民の非難はすべて王妃アントワネットに向けられたのである。


アントワネットの祖国オーストリアには当時から入浴の習慣があったが
入浴の習慣がなかったフランスでも彼女は入浴を続け
幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれた。

入浴の習慣は香水にも変化をもたらした。
アントワネットは当時は体臭を消すためにフランス貴族が愛用していた動物系の濃厚な香水ではなく
植物系香料の軽やかな香水を愛用し流行した。




●マリー・テレーズ 国王シャルル10世の息子ルイ・アントワーヌとイトコ結婚
●ルイ17世 王太子 早逝
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by xMUGIx | 2003-03-14 00:00 | フランス


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