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by xMUGIx
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カテゴリ:ロシア( 47 )

ロマノフ朝

◆1909年

*皇帝一家は08月末から09月末までフランス・イギリス・ドイツに外遊。
09月07日からはクリミアで休養、約4ヶ月首都を留守にする。

*この年のニコライ2世の日記には、ラスプーチンの登場は12回


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ニコライ2世の日記 1909年01月09日

アンナの所へ行き、グリゴリーに会った。とても楽しかった。

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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1909年02月19日

皇后は重い神経衰弱になっている。
これは彼女とアンナとの異常な友情のせいだという。
ツァールスコエ・セローでは何か良くない事が起っている。


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ニコライ2世の日記 1909年03月13日

グリゴリーが来る。子供達全員と彼に会う。
家族全員で彼の話を聞くのは素晴らしい事だった。


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ニコライ2世の日記 1909年04月11日

お茶の後、思いがけずやってきたグリゴリーとしばらく過ごす。

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ニコライ2世の日記 1909年05月09日

6時から7時半までグリゴリーに会っていた。
夜にも子供部屋で一緒に過ごした。


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ニコライ2世の日記 1909年08月26日

晩、グリゴリーに会って満足した。

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ニコライ2世の日記 1909年08月28日

晩にグリゴリーと長い間話をした。

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■冬、首相ストルイピンはラスプーチンの淫蕩生活についての報告書を皇帝に提出した。
これは皇后の怒りを買い、2年後ストルイピンは暗殺される。


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出版者 ゲオルギー・サゾーノフ

ストルイピンはラスプーチンの追放を皇帝に要求しました。
彼は秘密警察の作成した報告書を持参していました。
そこにはラスプーチンが女達と一緒に公衆浴場に通い、
風紀を乱しているという事も含まれていました。
これに対して皇帝は、
「知っている。彼はそういう場所でも聖書の教えを説いているのだ」と答えました。
そして報告が終わるとストルイピンに出て行くように命じ、
報告書を暖炉に投げ込みました。
こうして私はストルイピンの運命が決せられた事を知ったのです。


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フェリックス・ユスポフ公爵 ラスプーチン暗殺者の一人

私が初めてラスプーチンに会ったのは1909年、ペテルブルクのゴロヴィン家だった。
ゴロヴィン家とはかねてより昵懇の仲だったが、
とりわけ末娘のマリア・ゴロヴィナとは親しかった。
マリアのように純粋で善良な魂の持ち主を、私は他に知らない。
ただ彼女は繊細と言う以上に過敏で、影響されやすく神経質だった。
超常現象にすぐ夢中になる彼女の宗教的感情は、不健全な神秘主義に侵されていた。
とどのつまりあまりに信じやすくナイーブな彼女は、
人間を正確に見分ける事も事柄を客観的に判断する事もできなかったのである。
ラスプーチンの聖性と魂の純粋さを信じ切っており、
彼は神に選ばれし人であり超自然的な存在であると思っていたのだ。
彼女はラスプーチンの汚らわしさを見抜くにはあまりにも初心で、
そのおぞましい行為を直視して判断するにはあまりに純朴だった。
他人がラスプーチンの正体を知らせようとしても容喙の余地はなかった。

私がサロンに通されると、マリアと母親と一緒にお茶のテーブルを囲んでいた。
ラスプーチンはマリアと母親に対してなれなれしく横柄だった。
彼女と母親はこの聖なる【修道士】から片時も眼を離さず、
その言葉を一言半句もききもらすまいと息をひそめていた。
ラスプーチンのでたらめを、
マリアと母親はまるで深い意味でも秘められているようにうっとりと聞き惚れていた。
「あの方の前に出ると世の中の憂いを一切忘れてしまうんですの」と彼女は言った。
「あの人は病んだ魂を清めて癒し、
私達の意志私達の考えと行動を正しく導くためにこの世に遣わされた方ですわ」


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by xMUGIx | 2008-02-09 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1908年

*皇帝一家は06月初旬からバルト海で静養、約3ヶ月首都を留守にする

*この年のニコライ2世の日記には、アンナの登場は29回


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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1908年02月15日

皇后とヴィルボフに嫁いだ元女官のアンナとの間の奇妙な友情に誰もが驚いている。
小島の多い海に出かけた時、皇帝は甲板室で一人で休まれた。
ところが皇后の方は自分の船室にアンナを連れ込み、彼女とともに一つのベッドで寝た。


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ニコライ2世の日記 1908年06月05日

アンナを訪ね、そこでグリゴリーに会い、彼と長時間話をした。

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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1908年06月23日

皇后とアンナの間には不自然な友情が存在している。
アンナの夫が妻のもとで見つけた皇后からの手紙は、
彼を悲しい思いに沈ませるような内容だったという。


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皇帝の妹 クセニア・アレクサンドロヴナ大公女の日記 1908年09月20日

ニッキーとアリックスに会いに行った。
アリックスは庭に腰を下ろし、相変わらずいつものようにアンナと一緒だった。


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ニコライ2世の日記 1908年11月19日

私達はアンナの所に寄ってグリゴリーに会い、長い間彼と話した。

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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記 1908年11月18日

*日記に初めてラスプーチンの名前が登場する

農夫ラスプーチンがアンナの家で、皇后と会っている。

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皇帝一家の家庭教師 ソフィア・チェッチュワ 大詩人フォードル・チェッチェフの孫娘

1908年の冬の事でした。私は皇女達と教室におりました。
振り返ると廊下に膝までの半コートを着た農夫の姿が目に入りました。
あっ、この人がラスプーチンだなってすぐにピンときました。
私は何の用でここにいるのかと尋ねました。
すると彼は養育係のマリア・ヴィシニャコワに呼ばれたから会いに来たと言いました。
〔マリア・ヴィシニャコワはラスプーチンの熱心な信者だった〕
私は、彼女は忙しいし、だいたいここに入ってきてはいけませんよと答えました。
ラスプーチンは黙って去りました。


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by xMUGIx | 2008-02-08 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1907年

*皇帝一家は08月から11月10日までバルト海で静養、約3ヶ月首都を留守にする

*この年のニコライ2世の日記には、アンナの登場は39回、ラスプーチンの登場は2回


■03月05日 第2回国会開かれる


■新しい女友達アンナが登場して、皇后はミリツァ&スタナと疎遠になる。
アンナは宮殿から200メートルの距離に屋敷を与えられ、
皇帝と皇后は今度はアンナの家でラスプーチンと密会を続ける。

*アンナの家は
屋根付きの大きな玄関と食堂、ピアノのある客間、二階には3つの寝室があった。
宮殿直通の電話も引かれていた。


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宗教家 フェオフォン

ミリツァとスタナの姉妹、
ピョートル・ニコラエヴィチとニコライ・ニコラエヴィチの兄弟と
皇帝一家との良好だった関係は壊れてしまいました。
これはラスプーチン自身が私にうっかり口をすべられて言った事です。
彼が言ったわずかな言葉から私が出した結論は、
ラスプーチンが皇帝に自分の考えを吹き込んだのだろうという事です。


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ボグダノヴィチ将軍夫人の日記

ニコライ・ニコラエヴィチ大公と皇帝の関係は、
大公の妻スタナと皇后の仲と同様完全に冷え切ってしまった。


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アンナ・ヴィルボヴァ

私がミリツァの家でラスプーチンと知り合ったのは1907年、
結婚の数日前のことでした。私は結婚に不安を感じていました。
というのも、夫になる人の事をほとんど何も知らなかったのです。
彼女の家で皇后と皇帝がラスプーチンに会っているという話は聞いていました。
ミリツァは一人で私を客間に通し、
「世の中には店から才能を授かり予言能力を持った人達がいる」といった事を話しました。
ミリツァはこの話を私に1時間近くした後、
「私がラスプーチンと復活大祭の時のように3度接吻を交わしても驚かないように」
と言ったのです。私はとても不安になりました。
そのうえ「何でも望む事を彼にお願いしなさい。彼は何でも神様に頼む事ができるのよ」
などと言うものですからなおさらです。
ラスプーチンはミリツァと接吻を交わし、それからミリツァが私を彼に紹介しました。
彼の眼窩の奥に鋭く光る目に驚きました。
私は「結婚すべきでしょうか」と尋ねました。
ラスプーチンは、結婚するようにと勧めてくれました。
でも、「結婚は不幸なものになるだろう」とも言ったのです。


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ニコライ2世の日記 1907年02月11日

アンナと夕食をともにした。彼女は海軍中尉ヴィルボフと婚約した。

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ニコライ2世の日記 1907年02月17日

アンナは婚約した男性ヴィルボフを私に紹介した。

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ニコライ2世の日記 1907年04月19日

お茶の後でグリゴリーに会い、話ができてうれしかった。
アンナと夕食をともにした。


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ニコライ2世の日記 1907年05月13日

アンナは上の部屋で婚礼服を着た。彼女に祝福を与えてから教会へ行った。
結婚式の後で出席者全員が、教会の広間で若い二人に祝詞を述べた。


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ニコライ2世の日記 1907年10月30日

ヴィルボフ夫妻のところへ行き、海軍軍人と晩のひとときを過ごした。

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■11月27日 第3回国会開かれる、この国会は5年間の満了まで続く。


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皇帝の妹 オリガ・アレクサンドロヴナ大公女

ラスプーチンはしつこく
「なぜ子供がいないんだ?夫を愛しているのか?」などと不躾な質問をした。
アレクサンドラが彼の不作法に何も口出ししない事にもっと驚いた。
兄夫婦は私がラスプーチンを気に入る事を期待している事がわかったが、
とてもそんな気になれなかった。

ラスプーチンは私に再び会えた事をひどく喜んでいる様子だった。
そして女主人アンナがニコライとアレクサンドラとともに
ほんのしばらく客間から離れた時、
ラスプーチンは近寄ってきて手を私の肩に回し私の手を撫でた。
私はすぐさま飛び退いた。

夫は暗い顔をして、「これからはラスプーチンを避けなくてはならない」と言った。
それは私が夫の正しさを認めた、最初にして唯一の時だった。

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■冬 ラスプーチンは故郷に村一番の家を新築する


*家族と住んでいた1階はありふれた農家の造りだったが、
2階は都会風に整えられていた。
天井からはシャンデリアが吊り下げられ、床一面の柔らかい絨緞、
ウィーン風の椅子がどの部屋にも置かれている。
柔らかいスプリングのきいたマットレスを備えた二つの大きなベッド。
ピアノ・蓄音機・絹を張った深紅の肱掛椅子・長椅子・寝椅子・書き物机。
黒い木製のケースに入った2つの振り子時計が時を打ち、
さらに壁にも別の時計が掛っていた。


■アンナはさらに自分の親戚ユリア・フォン・デーンを皇后に紹介して、
2番目の親友の座に収めた。
彼女は海軍大佐カルル・フォン・デーンの妻で、リリと呼ばれた。


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皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン

*リリは、1907年ツァールスコエ・セロの庭園で初めて皇后に会う。

繁みの中をほっそりとした背の高い女性がこちらに進んできました。
白無垢の服で、帽子から薄い白いヴェールを垂らしていました。
繊細な色白の顔で、髪は赤味がかった金色、目はダークブルーで、
身体は柳の枝のようにしなやかでした。
彼女の真珠は素晴らしく、
ダイアのイアリングが頭を動かすたびにキラキラ光ったのを覚えています。
皇后が強い英語アクセントのロシア語を話されるのに気がつきました。

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by xMUGIx | 2008-02-07 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1906年

*皇帝一家は静養で09月10日から11月01日まで約2ヶ月首都を留守にする。

*この年のニコライ2世の日記には、アンナの登場は21回、ラスプーチンの登場は3回


■05月10日 第1回国会が開かれ、ストルイピンが首相に就任


■07月31日 ラスプーチンが皇帝夫妻と2度目の会見を果たす


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ニコライ2世の日記 1906年

07月31日
夜にセルギエフカ〔ニコライ・ニコラエヴィチ大公の領地〕へ行き、グリゴリーに会った。

10月26日
午後06時15分、グリゴリーが聖シメオンのイコンを持って訪れる。
子供達にも会い、07時15分までおしゃべりする。


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皇帝からストルイピンへの手紙 1906年10月29日

私はトボリスクから来た農民と面会した。
彼は皇后と私に相当強烈な感銘を与え、
彼との会話は予定していた5分をはるかに超えて1時間以上も続いた。
彼はまもなく郷里に戻るという。
私は貴殿が今週中にほんのわずかな時間でも見つけて、
彼と会う事をとても強く願っている。


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ニコライ2世の日記 1906年11月03日

*日記に初めてアンナの名前が登場する。

アンナ・タネーエヴァと昼食をともにした。

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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

アンナはペテルブルクによくいるまぬけな良家の子女で、不器量で不格好、
生焼けのビスケットみたいに取り柄がなく、
皇后に一目惚れしてうっとりとした熱いまなざしを投げため息をつくような若い女だった。
丸ぽちゃの赤ら顔に、服装は上から下までひらひらした毛皮に覆われていた。


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ニコライ2世のイトコ マリア・パヴロヴナ大公女

アンナは彼女なりに誠実一筋に皇后に仕えていたが、
なにぶん諸事万般に知識が浅かった上、
ラスプーチンに捧げる盲目的な崇拝が仇となって人々の尊敬を集めていなかった。


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ラスプーチンの信者 歌手 アレクサンドラ・ベリング

私はある音楽会でアンナと知り合いました。
彼女は結婚したばかりで幸せそうでした。
彼女の夫は海軍の人で黒髪で丸顔、
妻のかたわらを離れずその目をじっとのぞき込んでいました。
彼女は際限なく笑い転げ、こちらもつられて笑ってしまうほどだったのです。
でも彼女は確かに陽気で声は優しく笑顔も愛らしく善良そうな目をしていましたが、
なんだか心からの気持ちというか
要するに本当に信じてもいいという気持ちを抱かせるものが感じられなかったのです。


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ヴェーラ・レオニードヴナ

アンナは自分の事はほとんど語らず、たまに語っても滑稽な事ばかりでした。
自分の事を茶化す事ができるのは利口な人だけだと言いますけど、彼女は利口でした。
それに彼女は大変な演技者でした。彼女はラスプーチンのすべての政治ゲームに参加し、
大臣達を任命したり追放したり宮廷の複雑きわまる陰謀を操っていたくせに、
自分をまったく無邪気なロシア娘と見せかける術も心得ていたのです。


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コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の日記 1906年11月19日

妻から恐ろしい事を聞いた。
スタナが離婚してニコライ・ニコラエヴィチ大公と再婚するというのだ!
どうしてこんな結婚が許可されるのか。
ニコライ・ニコラエヴィチが皇帝に近しいおかげで大目に見てもらえるということだろう。
それ以外に考えられない。
これは2人の兄弟が2人の姉妹と結婚する事を禁じている教会法を犯すものだ。


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コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の日記 1906年11月23日

ニコライ・ニコラエヴィチ大公が言い張るところでは、
彼自身は結婚のために指一本動かさなかった、
あの世のフィリップの力がなければどうしようもなかったことだ、と言うのだ。


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ニコライ2世の日記 1906年12月22日

ミリツァ、スタナと夕食をともにした。
二人は一晩中、グリゴリーについて話をしてくれた。


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by xMUGIx | 2008-02-06 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆1905年


■01月22日 血の日曜日事件


■02月17日 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公暗殺


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コンスタンチン・ロマノフ大公の日記 1905年02月17日

雷に打たれたように、最初の瞬間私は何も考えられなかった。
部屋を出てはじめて何を失ったのかがわかり、涙があふれ出た。
妻はセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が好きだったので、知らせるのに苦労した。


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コンスタンチン・ロマノフ大公の日記 1905年02月18日

いかなる速度で我々が未知の災厄に向かって突き進んでいるか、
まったく信じられないほどだ。至る所タガがはずれ、すべてが勝手気ままだ。
政府の強い手はもう感じられない。そう、それはもうないのだ。


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■06月28日 戦艦ポチョムキン反乱


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内務大臣 スヴィヤトポルク・ミルスキー

ロシア中が現在の社会制度に不服である事を皇后に警告しようとしたが、
彼女は怒りで顔を真っ赤にして、
「インテリゲンチャは皇帝に反対していますが、
民衆はみな皇帝の味方である。今までも、これからも」と言った。


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歴史家 ポロフツェフ

皇帝夫妻は現状や今何が起こっているかに少しも注目していない。
二人はいつも気持ちが揺れ動いていた、今何かしていたかと思うとすぐに別の事をする。
モンテネグロ姉妹とよく交霊会をしているが、
こういう人間の存在はロシアにとって不幸だ。


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■09月04日 ポーツマス条約締結、日露戦争終わる


■10月 全国にゼネストが広がる


■10月30日 皇帝が十月詔書に署名し、国会が認められる


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皇帝から母マリア皇太后への手紙

市中の秩序は表面上は保たれているものの、何かが起りつつあると誰もが感じています。
この危機の日々を通じて私は絶えずウィッテ首相と会い、討議を重ねました。
前途には二つの道しかないのです。
一つは、強力な軍隊で反乱を鎮圧することです。
少しは息をつく時間ができるかもしれません。
しかし数ヶ月後には再び軍隊を使わなければならなくなり、
私達はまた元の出発点に戻ることでしょう。
もう一つの解決策は、
公民権・言論の自由・そして国会を認める法律・もちろん憲法も人民に与える事です。
ウィッテ首相はこの方法を強く支持していますし、
私が諮問した他の者もみなこれと同じ意見なのです。
ウィッテは宣言案を起草し、私達は二日間にわたって討議しました。
私は神の御加護を祈ってサインしました。
私の唯一の慰めは、これも神の御意志であり、
この決断がこの一年続いている無秩序からロシアを救ってくれるだろうという事です。


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ニコライ2世の日記 1905年10月30日

ニコラーシャとスタナと朝食をとる。(噂のカップルだ!)
座って話しながらウィッテの到着を待つ。
5時に布告に署名した。
このような一日の後、頭は重く思考はすっかり混乱してしまった。
主よ、助けたまえ。ロシアを救い、安らぎを与えたまえ。
 

*10月にスタナが皇帝夫妻に会わなかったのは2日だけだった。

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ニコライ2世の日記 1905年11月14日 

*日記にラスプーチン=グリゴリーの名前が初めて登場する。

ミリツァとスタナと一緒にお茶を飲む。
トボリスク出身の神のごとき人間グリゴリーと知り合いになった。


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E・カザコワ

この頃、大勢の上流階級の御婦人達がラスプーチンをちやほやしている姿を見ました。
彼女達は彼の爪を切り、自分の服に縫い込んだりしたものです。


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■ラスプーチンは信者ロフチン夫妻の家にもぐりこむことに成功する。
ロフチナ夫人は40歳を過ぎていたが大変美しい女性だった。
彼女自身が大地主で官僚の夫を持ち、
ペテルブルク社交界の花形で人気の高いサロンの女主人だった。


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官僚ウラジーミル・ロフチンの妻 オリガ・ロフチナ

私がラスプーチン様に初めて会ったのは、1905年11月16日のことでした。
当時私は社交界に失望していました。そして激しい精神の転機が訪れたのです。
そのうえ私は神経性の腸炎を患い、寝たきりになっていました。
壁にしがみつくようにして、ようやく動き回れるといった有り様でした。
司祭のメドヴェージ神父が私を哀れに思い、ラスプーチン様に引き合わせて下さったのです。
ラスプーチン様が家に現れた瞬間、たちまち私は健康になった事を感じ、
それ以来持病から解放されました。

彼の招待を受けて私はポクロフスコエ村の彼の家に向かい、
そこで1905年の11月28日から12月27日まで過ごしました。
ラスプーチン様と旅するのはとても楽しい事でした。
なぜなら彼は私に生命を吹き込んでくれたからです。
私は彼の暮らし方が大変気に入りました。

彼は人と会った時はいつも接吻し、抱きしめることさえしたものです。
でも悪いよこしまな考えを抱くのは、悪い人々だけです。
私は何度もポクロフスコエ村を訪ねていますが、私達はどこでも寝られる所で寝ました。
一つの部屋で寝る事もしばしばでした。
ラスプーチン様と彼の奥さんと二人の娘さんと皆と一緒にお風呂に入った事もあります。
悪い考えがない以上。私達の誰もそれが淫らだとかおかしいとは思わなかったのです。

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by xMUGIx | 2008-02-05 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

●皇帝 ニコライ2世 愛称ニッキー
●皇后 アレクサンドラ 愛称アリックス
●ラスプーチン グリゴリー・ラスプーチン
●アンナ・ヴィルボワ 旧姓アンナ・タネーエワ/皇后の友人/ラスプーチンの信者
皇后の友人ナンバー1&ラスプーチンの信者ナンバー1
●皇太后 皇帝の母マリア・フョードロヴナ
●エリザベータ・フョードロヴナ大公妃 
皇后の姉/皇帝の叔父セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の妻
●クセニア・アレクサンドロヴナ大公女 
皇帝の妹/皇帝のいとこアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の妻
→娘イリーナはラスプーチン暗殺者の一人フェリックス・ユスポフ公爵の妻
●ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公 皇帝の弟
●オリガ・アレクサンドロヴナ大公女 皇帝の妹
●ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公 皇帝の叔父
●パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 皇帝の叔父
→息子ドミトリー・パヴロヴィチ大公はラスプーチン暗殺者の一人
●ニコライ・ニコラエヴィチ大公 
皇帝の父のイトコ/モンテネグロ王女アナスタシア(愛称スタナ)の夫
●ピョートル・ニコラエヴィチ大公 皇帝の父のイトコ/モンテネグロ王女ミリツァの夫
●コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公 皇帝の父のイトコ
●セルゲイ・ミハイロヴィチ大公 皇帝のイトコ
●マリア・ゴロヴィナ ラスプーチンの信者/ユスポフ公爵の幼なじみ
母と共にラスプーチンの信者でゴロヴィナ家はラスプーチン信者のサロンとなっていた。
●アキリーナ・ラプチンスカヤ ラスプーチンの信者ナンバー2
●オリガ・ロフチナ ラスプーチンの信者/ロフチン夫人 
●ユリア・フォン・デーン 愛称リリ
皇后の友人ナンバー2/ラスプーチンの信者 アンナ・ヴィルボワの親戚  
●ツァールスコエ・セロー 「ツァーリの村」の意味。皇帝一家の宮殿がある地域
首都サンクトペテルブルクの南郊外にあり、
人工的で幻想的なミニチュアの世界を創り出していた。


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皇帝の侍医の息子 グレブ・ポトキン

ツァールスコエ・セローは、
少数の許された者のみが入れる魔法の国といった別個の世界であった。
忠誠な君主主義者にとっては一種のパラダイス、
いわば地上の神々の住む場所であったが、
革命家にとっては、
そこは血に飢えた暴君が無辜の民を虐げる陰謀を企む場所であった。

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*生涯を通じてアレクサンドラの
ニコライ2世、皇帝という存在、ロシア帝国への想いは次の手紙に象徴される。


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婚約時代の皇后から皇帝への手紙

*父帝アレクサンドル3世が危篤状態にあった

しっかりなさいませ。
緊急事態発生の折は、侍医をあなたの所に直接来させなさい。
他の人の所へ先に行って、あなたをないがしろにさせてはなりません。
あなたは父上の大切な息子なのですから、
すべてについてあなたの指示を仰ぐようにさせるべきです。
あなた御自身の気骨のある所を示して、
周りの者にあなたの存在を忘れさせてはなりません。
差し出がましい事を言って許してね、坊や。

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*アレクサンドラのラスプーチンへの傾倒は、次の証言に象徴される。


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皇帝一家の家庭教師 ピエール・ジリャール

ラスプーチンの予言の言葉は、
単に皇后自身の秘められた願いを言明しただけのものだった。
彼女の個人的な願いがラスプーチンを通過する事によって、
彼女の目の前で神の啓示としての力と権威を得たのだ。

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■ラスプーチンが現れる前から、皇帝夫妻は様々な祈祷師にハマった。
祈祷師を紹介するのはニコライの父のいとこ
ニコライ・ニコラエヴィチ大公&モンテネグロ王女アナスタシア夫妻と、
ピョートル・ニコラエヴィチ大公&モンテネグロ王女ミリツァ夫妻。
この2組の夫婦は兄弟&姉妹のカップルで、
【黒い家族】や【黒い姉妹】と陰で呼ばれるほどオカルトや神秘主義に傾倒していた。

*フランス人パピュス
父帝アレクサンドル3世の霊を呼び出してニコライと対話したことで、
絶大な信頼を得ることに成功する。

*裸足のマトリョーナ
大声でわけのわからない予言をわめきちらすボロ着をまとった裸足の女性で、
現れた時と同様に突然宮廷から姿を消した。

*「神と対話ができる」というふれこみの奇形の農夫コリアバ
両腕の無いコリアバは義手をつけていたが、
癲癇の発作が起きるとその義手を激しく振り回し、
わけのわからぬ言葉を叫び、泡を吹いてのた打ち回る。
アレクサンドラは彼の実演に毎回出席し、
コリアバの口走る言葉から必死に神のお告げを聞き取ろうとした。


*コゼリスキー/ググニヴィ/ミーチャと呼ばれていたドミトリー・オズノビシン。
長い髪に修道士風の法衣を身に着け、長い杖をついて裸足で歩き回っていた。

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ニコライ2世の日記 1906年01月27日

オプチナ修道院近くのコゼリスクから、【神の人】ドミトリーという男がやってきた。
彼は自分の見た幻影によって描いたイコンを持ってきた。
私は彼と1時間半ほど話した。

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*フランス人フィリップ 本名ナジェ・ヴィショー
フランスを訪問していた皇帝夫妻に、ミリツァが引き合わせた。
彼の奇蹟は手品のようなものでフランスでは笑いものになっていたが、
アレクサンドラは信じ込んだ。
アレクサンドラに月光の下で沐浴することを勧め、ハーブを調合した薬を与えた。
1903年に儀式が行われ、翌1904年めでたく皇太子アレクサンドル誕生。
夫妻はますますオカルトに傾倒してゆく。

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ニコライ2世の父のイトコ コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の日記

フィリップは50歳ぐらいの小柄で黒い髪と黒い髭の男で、
ひどく強い南フランスの訛りがあった。
彼はフランスとヨーロッパにおける宗教の没落について論じた。
別れるとき彼は私の手にくちづけしようとして、私は自分の手を引き離すのに苦労した。


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国家評議会議員 ポロフツェフの日記

ミリツァは皇后とフィリップを引き合わせた。
マリア皇太后はミリツァとスタナ姉妹にひどく腹を立てた。
皇太后の依頼に応じてパリの諜報員を使ってフィリップの過去を調べる事にした。
回答はとんでもないものだった。
パリ在住のロシア諜報員はフランスの新聞記事を送ってきた。
それはフィリップの公開催眠術ショーについて皮肉たっぷりに書いたものだった。
フランス人はフィリップをうさん臭い山師と呼んでいた。

セルゲイ・ミハイロヴィチ大公から聞いた話では、
パリの諜報員からフィリップに関して都合の悪い報告が届こうものなら、
皇帝は24時間以内にこの諜報員を解雇するよう命じたという。


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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

ロスチャイルド一族のアルフォンソ・ロスチャイルド男爵は、
フランスの偽医師フィリップがロシアの両陛下に近づき、
両陛下が彼を聖人扱いして尊敬され、一部の大公および大公妃達の信用を得て、
これらの人々に対して大きな勢力を持っていると述べ、このようなペテン師が
宮廷に入り込めるような国に安心して多額の融資はできないと言うのである。

フィリップとパリで知り合い彼の奇怪な言行に眩惑されてロシアへ土産話としたのが、
ミリツァとスタナであった。
彼をもっとも深く信仰したのはニコライ・ニコラエヴィチ大公である。
この人は非常な迷信家で、常人をして精神状態を疑わしめるほどであった。
私はニコライ大公を有為の材だとは思わない。しかし真面目で別に悪意のある人ではない。
皇帝に対しては盲目的に従順であるし、軍事については相当の才能のあった人だと考える。
それ以来フィリップは時々ロシアへやってきて数ヶ月間秘かに宮中に滞在して、
両陛下にいろいろと神秘的治療を行ったりしていた。
このモンテネグロの王女達はたった2人の取るに足らぬ女性であったが、
ロシアの皇室に災いしたことはいかに大きかったか。
この姉妹の醜劣な言行を書き立てるならば、どんな大冊な書物になるかしれない。

機会をつかむ事に寸時も注意を怠らなかった姉妹は、
遠く他国に嫁したばかりで周囲の人々に親しみを持たぬ
アレクサンドラ皇后の侍女達を押しのけて皇后の左右に近侍した。
それ以来彼女達は皇后の側を去る事のない親友となり、
次第に宮中で勢力を得るようになった。
彼女達の欲望はまず金銭の方向に表れてきたので、彼女達と私の間に小衝突が起こった。
まだロイヒテンベルク公妃であった時にスタナは、
ロイヒテンベルク公家の歳費を15万ルーブル増額する事を皇后を通じて皇帝に請願した。
私はもちろんこれに承諾を与えなかったが、
勅令によって宮内省から15万ルーブル支出する事になって結末がついた。
またミリツァは、夫ピョートル・ニコラエヴィチ大公が
投機に手を出して大穴をあけたというので、
私に中央銀行から貸し出しを取り計うように依頼してきた。私はそれを拒絶したが、
するとこれも勅令で宮内省から御料地の収入を割いて援助する事になった。


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ラスプーチン暗殺者の一人 フェリックス・ユスポフ公爵の証言

フェリックスの父親が散歩していると、
見知らぬ男と一緒に馬車に乗っているミリツァに出会った。
父親は会釈したが、ミリツァの方は応えなかった。
数日後どうして会釈に応えなかったのかミリツァに尋ねると、
「あなたには私の姿は見えなかったはずですわ」とミリツァは答えた。
「私はフィリップス先生と一緒にいたのですから。
あの方が帽子をかぶると姿が見えなくなるんです。
そして一緒にいる人も同じように見えなくなるんですのよ」


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ニコライ2世の日記 1901年08月26日

ズナメンカ〔ミリツァ&スタナ姉妹の家〕に行き、5時まで過ごす。
【私たちの友】も一緒だった。


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ニコライ2世の日記 1901年08月01日

ズナメンカに出かけた。一晩中【私たちの友】〔フィリップ〕の話に耳を傾ける。
帰路はうっとりするような月夜。


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ニコライ2世の日記 1901年08月02日

ズナメンカに行き、【私たちの友】と一緒に最後の夜を過ごした。

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アレクサンドラからニコライ2世への手紙 1901年09月09日

フィリップを知るようになってから、私達の人生はなんと豊かになった事でしょう。

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■1902年アレクサンドラは妊娠したが、医師の診断を拒絶した。
担当医となったはミリツァ&スタナ姉妹とフィリップだった。
皇后のお腹は順調に膨らみ臨月が近づいたが、想像妊娠であった事が発覚する。


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ニコライ2世の妹 クセニア大公女の手紙 1902年08月

なんてことでしょう。お気の毒なアレクサンドラは全然御懐妊されていなかったのです。
どんなに自尊心を傷つけられたことでしょう。


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コンスタンチン・コンスタンノヴィチ大公の日記 1902年09月06日

セルゲイ・ミハイロヴィチ大公の主張するところによれば、
両陛下は神秘的な気分にはまり込み、
ズナメンカでフィリップとともに祈り、幾夜も過ごし、
そしてなんだか有頂天になって戻ってくる。
目は光り、顔は輝いて、まるで恍惚状態にあるようだ。
これは危険というより滑稽ではないか。
よろしくないのは、お二人がズナメンカ訪問を秘密にしている事だ。


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コンスタンチン・コンスタンノヴィチ大公の日記 1902年09月07日

セルビア王女イェレナは、
弟のセルビア王太子がミリツァとフィリップに影響されてしまったと言った。
セルビア王太子の言うには、フィリップの地上での使命は終わりに近づきつつあり、
間もなくこの世を去るけれども、友人達の元に違う人間の姿をとって戻ってくるとの事だ。
なんという馬鹿げたことだろう!セルゲイ・ミハイロヴィチ大公は、
皇帝と皇后のズナメンカ訪問についてとても心配していると私に言った。


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官僚 アレクサンドル・ポロフツェフの日記 1902年09月12日

フィリップは催眠術を使って皇后に妊娠していると信じ込ませたのだ。
そう思い込まされ、皇后は医師の診察を拒否した。
ところが皇后は突然痩せ始めたので、08月半ばに産科医のオットーを呼ばれたのだった。
オットーは、皇后は妊娠していないと告げた。
だがこのような事件にもかかわらず、
フィリップに対する皇帝夫妻の信頼は揺らぐ事はなかった。
お二人の目にはフィリップは素晴らしい霊感に満ちた人物であり続けたのだ。
これほど悲しい事件でなければ、滑稽と言ってもいいくらいの事なのだが。


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ロシア首相 セルゲイ・ウィッテ

皇后は4人の皇女を持ったが、皇子は一人もなかった。
ちょうどそこへフィリップなる者が現れて、
皇后に「必ず皇子を御懐妊なさる」と暗示したのであった。
皇后もこれを信じて懐妊していると思った。皇帝もこれを喜び、皇后懐妊が発表された。
そして丸9ヶ月が過ぎた。しかしなかなか分娩の期が来なかった。
皇后は最後の最後まで診察を拒んだが、
とうとう宮内省の産科医オットーが皇后の身体を診察する事が許された。
オットーは「現在妊娠中でなく、また従来も懐妊されていなかった」と診断した。


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コンスタンチン・コンスタンノヴィチ大公の日記 1902年09月19日

ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公のところに赴く。
彼は心を痛めている問題に話題を切り替えた。つまり、フィリップの事だ。
彼の考えでは、フィリップを皇帝夫妻にここまで親密にしてしまった罪は
ニコライ・ニコラエヴィチ大公にあり、
大公こそがこのような事態を引き起こした張本人だと言う。
そしてフィリップの不埒な行為のせいで、
皇帝夫妻は世間の物笑いと軽蔑の的になっている。


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■1904年02月08日 日露戦争勃発


■1904年08月12日 皇太子アレクセイ誕生
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by xMUGIx | 2008-02-01 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

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フェリックス・ユスポフ公爵

私が初めてラスプーチンに会ったのは1909年、ペテルブルクのゴロヴィン家だった。
ゴロヴィン家とはかねてより昵懇の仲だったが、
とりわけ末娘のマリア・ゴロヴィナとは親しかった。
マリアのように純粋で善良な魂の持ち主を、私は他に知らない。
ただ彼女は繊細と言う以上に過敏で、影響されやすく神経質だった。
超常現象にすぐ夢中になる彼女の宗教的感情は、不健全な神秘主義に侵されていた。
とどのつまりあまりに信じやすくナイーブな彼女は、
人間を正確に見分ける事も事柄を客観的に判断する事もできなかったのである。
ラスプーチンの聖性と魂の純粋さを信じ切っており、
彼は神に選ばれし人であり超自然的な存在であると思っていたのだ。
彼女はラスプーチンの汚らわしさを見抜くにはあまりにも初心で、
そのおぞましい行為を直視して判断するにはあまりに純朴だった。
他人がラスプーチンの正体を知らせようとしても容喙の余地はなかった。

私がサロンに通されると、マリアと母親と一緒にお茶のテーブルを囲んでいた。
ラスプーチンはマリアと母親に対してなれなれしく横柄だった。
彼女と母親はこの聖なる【修道士】から片時も眼を離さず、
その言葉を一言半句もききもらすまいと息をひそめていた。
ラスプーチンのでたらめを、
マリアと母親はまるで深い意味でも秘められているようにうっとりと聞き惚れていた。
「あの方の前に出ると世の中の憂いを一切忘れてしまうんですの」と彼女は言った。
「あの人は病んだ魂を清めて癒し、
私達の意志私達の考えと行動を正しく導くためにこの世に遣わされた方ですわ」

ラスプーチンと会ってから間もなく、私はオックスフォードに留学した。
母はアレクサンドラ皇后の大のお気に入りで、二人はよく会っていた。
母はラスプーチンが皇帝と皇后に接近する事を大変不安に思っており、
その事を私への手紙にも書いてきた。母はまたその心配を、
長年の友であるエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃〔皇后の姉〕にも書き送っていた。
エリザヴェータ大公妃は普段モスクワに住んでいたが、ペテルブルクに来ると
短い滞在の間にも皇帝と皇后にラスプーチンを早く遠ざけるようにさかんに説いた。
母もまた皇后と長い話をし、ラスプーチンに対する自分の考えをはっきり伝え、
彼の影響がますます大きくなっていく事に対して不安を表明した。
その結果あらゆる口実のもとに母は遠ざけられ、
間もなく皇后と母の関係はほとんど絶たれてしまった。
皇太后そして他の皇族も皇帝と皇后の目を開かせようと様々な努力をしたが、
らちが明かなかった。

第一次世界大戦勃発後、私は妻や両親とともにドイツにいた。
私達はベルリンで逮捕されたが、脱出に成功して無事ペテルブルクに戻る事ができた。
故国に戻ると、皇帝と皇后は民衆から隔たりラスプーチン一味の虜になっていた。
ラスプーチンの破廉恥な振る舞いは次第に世論の憤激を買い始めていた。
1915年の国会でも問題になり、様々な請願が皇帝になされた。
しかし皇帝はどんな嘆願や諫言にも耳を貸さなかった。
ツァールスコエ・セローでは、
ラスプーチンに関する報告は真実であればあるほど無視されるようだった。
ラスプーチンと皇后の会合は、たいていアンナ・ヴィルボヴァの家で行われた。
ラスプーチンの助言や意見はただちに大本営の皇帝に伝えられた。
その間、戦場ではおびただしい人命が失われた。

ラスプーチンに対するマリアの礼賛は尽きる事がなかった。
彼女は感涙にむせびながら、ラスプーチンが讒言や迫害をいかに耐え忍んでいるか、
そして不当な苦難によっていかに私達の罪を贖っているかを語った。
その熱狂ぶりは信じがたいほどだったので、
私はラスプーチンの不行跡について触れてみた。
「そのように正しい人が、
聖者であるかと思えば飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをするのはなぜでしょう?」
マリアは憤然と赤くなり、いっそう熱くなって言った。
「そんな話はみんなでたらめです。
あの方は妬みと悪意に取り囲まれていらっしゃるのです。
心の善くない人達があの方を皇帝と皇后に悪く思わせようとして、
事実を歪めてひどい事を言い触らしているのです」
「でも、いろんな証拠が写真に撮られていますよ。
例えばどうしてジプシーと飲めや歌えやの大騒ぎをする必要があるのです?」
「いいですか、仮にあの方がそんな事をなさっているとしても、
それはあの方が御自身に試練を与えようとしているからですよの。
意志を鍛錬して肉の欲求を征服し、
身の回りの誘惑に負けまいとするためになさっている事ですわ」
「ではあの人が大臣の首を勝手にすげ替えるのも、
我が身を痛めつけ道徳的な完成に到ろうとするためなんですか?」
マリアはとうとう本気になって怒り出し、「あなたがそんな風におっしゃるのは、
あなたがあの方を理解していないからですわ」と叫んだ。
「もっとよくあの方を知っていただきたいわ。
そうすればあの方がどんなに素晴らしい特別の人であるか、あなたにもお分かりになるわ。
あの方は初めて会う人間の心を
あっという間に読み取ってしまう能力を神様から授かっていらっしゃるのです。
あの方は皇帝と皇后に人の性格をお教えする役目を負っているのです。
皇帝と皇后が悪い人間から影響を受けるのを防いでいらっしゃるのです。
あの方がおいででなかったら、何もかもずっと前から破滅していたでしょう」

私はなぜラスプーチンは昨日あんなに急いで帰ったのか、マリアに聞いてみた。
「何か重要な事がうまくいかなくなったという知らせを受けたそうです。
でももうすっかり大丈夫だそうです。ラスプーチン様が怒って怒鳴りつけたら、
向こうはびっくりして言われる通りにしたそうです」
「向こうって、どこの事ですか?」
「ツァールスコエ・セローです」
私はラスプーチンを怒らせた出来事が、
プロトポポフを内務大臣に任命するという事だと聞いた。
ラスプーチン一味が是が非でもプロトポポフを望んだのだが、
他の人々が皇帝に反対を奏上したのだ。しかしラスプーチンは
ツァールスコエ・セローへじきじきに出かけて勝ちを収めたのだった。
こうしている間にラスプーチンがやって来た。とても御機嫌だった。
「すべて片づけたよ。宮中まで行かなければならなかったがね。
着いたらばったりアンナに会った。まったくあの人は困る。
もうだめ、ラスプーチン様、頼みの綱はあなただけよ、ああお願いと泣き言を言うばかり。
俺はすぐに奥の間に入って行った。
すると皇后はふくれっ面、皇帝は部屋の中をぐるぐる歩き回っている。
俺は怒鳴ってやった。すると二人ともすぐに静かになった。
こんな事をしていると俺はもうあんた方を見捨てると言うと、
二人ともすっかり慌てて折れて出た。
二人ともさんざん俺の悪口を聞かされて参っていたんだ。
俺は俺の忠告に従うのが一番だと教えてやった。あそこでは俺の悪口ばかりだ。
それに皇帝は騙されている。しかし連中も長続きはせんさ。
俺がもうすぐ国会を解散させて、連中をみんな戦場に送ってやる」
「なんですって?あなはた国会の解散も自由にできるのですか?」
「なあに、そんな事は造作もないことだ。皇后は聡明だ。あの人となら何でもできる。
皇帝はまあ単純な人柄で、支配者に生まれついていない。国家統治はあの人の手に余る。
だから俺が神の恵みを得て、あの人を助けるしかないんだよ」
身のほど知らずの皇帝への侮辱の言葉に私の腹わたは煮えくり返ったが、
どうにか素知らぬふりを装った。
「俺がいなければみんな終りだったのだ。
俺の言う事が聞き入れられなければ、拳固でテーブルをどんと叩いて出て行くだけだ。
よろしい、俺はもうシベリアへ帰るからあんた達はここで勝手に堕落しろ、
神に背を向けて、皇太子が破滅し、悪魔の爪に掛かるぞとな。
するとあの人達は追っかけてきて、
あなたの言う通りにするから私達を見捨てないでおくれと言うんだ。
まあ、これが俺のやり方だ。俺の仕事はまだ終わっていない。
今はまだ早い。準備が整っておらん。
すべて満足のいくように準備ができたら、皇后を皇太子の摂政にする。
皇帝はリヴァディアに行って休んでもらう。あの人はその方がずっと幸せだ。
疲れているから休息が必要なっだ。
リヴァディアで花に囲まれて神様の近くにいる方があの人にはいい。
皇后はなかなか英明な人だ。エカチェリーナ2世と言っていい。
近頃ではあの人が皇帝の代りをしている。
議会でおしゃべりしている連中はみんな解任するとあの人は約束した。
議員どもはみんな地獄行きだ。あいつらは神に背いて事を構えようとしたのだ」

「あの人はできるだけ早くペテルブルクを去った方がいいと思います。
暗殺されてしまいますよ」と私はマリアに言った。
「そんな事は絶対起りません。神様がお許しにならないわ。
あの方がいなくなれば、すべては終わりです。
皇后様があの方がいる限り皇太子は安泰だと信じていらっしゃるのは当然ですわ。
あの方がいなくなれば皇太子様は病気におなりになるでしょう。
ラスプーチン様も御自分でおっしゃっています。
俺が死んだら皇太子も命がないだろうって。
これまでもあの方は命を狙われた事が何回かありましたけど、
神様がお守りになりました」

皇帝と皇后にラスプーチンの正体を暴露し、
宮廷から除いてもらう希望はもはやまったくなかった。
私はもはやラスプーチンを亡き者にする以外道はないと考えていた。
友人の中で私が秘密を打ち明ける事ができたのは、
ドミトリー・パヴロヴィチ大公とセルゲイ・スホーチン大尉の二人だった。
私達は長時間の議論の末、
殺害の跡を残さずラスプーチンを始末する一番良い方法は毒殺だという点で一致した。
不可解な失踪と見せかけなければならないという点も、みな同意見であった。
それから助言を求めて、国会議員のウラジーミル・プリシュケヴィチに会いに行った。
彼を選んだのは国会で激しいラスプーチン弾劾演説をしたからだった。
さらにスホーチンは5人目の同志を推薦した。
スタニスラフ・デ・ラゾヴェルトという彼の部隊に属する医師だった。

私達は何度も会合し、詳細を議論し、諸々の手筈を決めた。
暗殺計画は以下のようなものであった。
私はラスプーチンと交際を続け信頼を勝ち得るようにする。
そしてある日誰にも悟られずに彼を私の自宅に招く。
真夜中にプリシュケヴィチの車で迎えに行って彼を連れてくる。
運転手はラゾヴェルトが引き受ける。
ラスプーチンを招き入れたら、青酸カリを入れた飲み物をとらせる。
ラスプーチンの相手は私だけがする。
同志は隣室で待機して、必要とあらば手を貸す。
死体は袋に入れて市外に運び出し、河中へ捨てる。
死体を運ぶ車はドミトリー大公の車にする。
この車には大公旗が付いているので一切嫌疑をかけられる事がなく、
道中止められて時間を食う事がない。
またこの計画がどのような結果を招こうとも、同志については沈黙を守る事も決めた。

ラスプーチンを12月29日の夜に招こうと決めた。
私はラスプーチンに電話をして都合を問い合わせた。
彼は私が彼の送り迎えをするという条件で、その日でかまわないと答えた。
ラスプーチンを招き入れる予定の地下室を手入れした。
地下の物置のような所に通されては変に思うだろう。
日常使用されているように見せかけて、
ラスプーチンに疑いを起させないようにしなければならない。
友人達との晩餐が終わったという様子を部屋に与えなければならなかった。
11時にはすべての用意は整っていた。サモワールは湯気を立て、
その周りにはラスプーチンの大好きなお菓子や甘い物を盛った皿が並べられていた。
ワゴンの上にはワインとグラスを載せた盆が置かれていた。
執事と召使に、11時に招待客が来るが呼ぶまで部屋に下がっていてよいと命じた。
医者のラゾヴェルトがゴム手袋をはめ、
青酸カリを砕いて粉にするとケーキの上皮をはがして振りかけた。
蒸発して効き目が薄れる事をおそれ、
ワインに毒薬を入れるのは最後の瞬間にする事にした。

ベルを鳴らすとドアを開けたのはラスプーチン自身だった。
「お迎えに上がりました」
「なぜそんな風に顔を隠すのかな?」
「私と今晩出かける所を誰にも見られたくないとおっしゃたではありませんか」
「そうじゃった、そうじゃった。
だから俺も家の者に何も言っていない。秘密警察も追っ払っておいた」
私達は車に乗り込んだ。運転手に変装したラゾヴェルトがエンジンをかけた。

お定まりの話題をひとくさりやると、ラスプーチンはようやくお茶を欲しがった。
私はいそいそとお茶を入れ、お菓子を勧めた。
彼はひとつ、またひとつとつまんだ。
しかし驚いた事にラスプーチンは何事もなかったかのように喋り続けた。
私は焦った。
「マデイラ酒でももらおうか」と彼は言った。
彼は私が青酸カリの付いたグラスに注いだマデイラ酒を飲んだ。
だが、彼は平気で飲み続けた。ゆっくりと少しずつ、ちびりちびりと。
「このマデイラ酒はとてもいい。もう少しくれないか」と言った。
毒はまだなんの効果も表さなかった。彼は依然として部屋の中を歩き回っていた。
そしてギターに目を止めた。
「何か愉快なのをやってくれ。俺はあんたの歌いぶりが好きなんだ」
私はギターを取り上げて歌を歌い出した。自分で自分の声が分からなかった。
気がつくと、もう2時半になっていた。悪夢は2時間も続いたのだ。

書斎に入ると、ドミトリー大公とプリシュケヴィチとスホーチンが
ピストルを手にして私に飛びついてきた。
「どうしたんだ。終わったのか?」「薬が効かないんだ」
どうしたらいいかみんなで相談した。
私一人が降りて行ってラスプーチンを片づける事になった。
ドミトリー大公のピストルを隠し持って食堂に降りて行くと、
ラスプーチンはジプシーの所へ行こうと言い出した。
その時ふと私の目に水晶の十字架が映った。
「なんだってそんなに見ているんだ」とラスプーチンが聞いた。
「これが大好きなんです」
「高かったろう、いくらだ?」彼はそう言ったが私の返事を待たず、
「俺はこっちの方が好きだ」とタンスの方へ行き、中を調べ始めた。
『神よ、力をお貸しください』と私は祈った。
そして隠し持っていたピストルを取り出し、心臓を狙って引き金を引いた。
階段で物音が聞こえた。みんなが駆け下りてくる音だった。
彼は仰向けに倒れて、目を閉じていた。顔の筋肉がぴくぴくし、手も痙攣していた。
もう一発撃とうと誰かが言ったが、血が飛び散るのをおそれてやめた。
2,3分後、ラスプーチンはまったく動かなくなった。
傷口を調べると弾丸は心臓の近くを貫いていた。

ドミトリー大公、スホーチン大尉、ラゾヴェルト医師の3人は、
事前に決めた通りラスプーチンを彼の家まで送り届けるふりをした。
スホーチンがラスプーチンに変装して車に乗るのだ。
それから3人はラスプーチンの意匠をワルシャワ駅に持っていき、
プリシュケヴィチの管轄する病院列車でそれを燃やした。
今度はドミトリー大公の車でラスプーチンの死体をペトロスキー島へ運ぶ手筈だった。
プリシュケヴィチとともに家に残った私は、ラスプーチンの死体を見に行った。
すると恐ろしい事が起った。ラスプーチンがすさまじい勢いで飛び起きたのだ。
部屋中にラスプーチンの野獣のような唸り声が響き渡った。
彼の両目は眼窩から飛び出し、口からは血と泡が垂れていた。
彼は私に飛びかかってきた。私は死に物狂いの力を振るって自分の身をもぎ放した。
私は書斎に残っているプリシュケヴィチの助けを呼んだ。
ラスプーチンは中庭に飛び出した。プリシュケヴィチが彼を追って飛び出した。
銃声が2発聞こえた。
中庭には出口が3つあったが、鍵のかかっていないのは真ん中の出口だけだった。
私はラスプーチンが正門から逃げてしまうかもしれないと思い、走って行った。
3つ目の銃声、4つ目の銃声が聞こえた。ラスプーチンが雪の山に倒れ込むのが見えた。
私の所に駆けてくる数人の足音が聞こえた。召使が2人と巡査が1人。
「殿下、銃声が聞こえましたがどうかなさったのですか?」と巡査が聞いた。
「つまらない騒ぎだ。友達が飲み過ぎてピストルをぶっ放してみんなを驚かせたんだ」
そう言いながら私は巡査を門まで送り出した。
死体の所へ戻ると、召使2人が立っていた。
死体の位置は変わっていなかったが、身体を丸くしている。
なんたることだ、またいきているのかと私は思った。
召使が来て、先ほどの巡査が今度は表玄関から入って来て、
もう一度私に会いたいと言っていると告げた。
銃声が警察署まで聞こえたため、巡査は何が起こったのか報告するよう命じられたのだ。
巡査が入ってくると、プリシュケヴィチは大きな声で言った。
「私は国会議員ウラジーミル・プリシュケヴィチだ。
君の聞いた銃声はラスプーチンをやっつけたものだ。
もし君が国と皇帝を愛しているなら、このことを一言たりとも他言してはならん」
「あなたは立派な事をなさいました」そう言うと、巡査は興奮して出て行った。

召使がやってきて、ラスプーチンの死体を階段の踊り場に運んだと告げた。
ドミトリー大公、スホーチン大尉、ラゾヴェルト医師の3人が車で戻って来た。
プリシュケヴィチが起った事を話し、みんなは私を休ませるために一人残して、
死体を布で包むと車に積み、ペトロフスキー島の橋の上から河の中に投じたのだった。
翌日ドミトリー大公が詳しく語ってくれた。
ラスプーチンの死体をしっかり縛って車に積み、
ドミトリー大公が運転しスホーチンが助手席に座った。
プリシュケヴィチとラゾヴェルトそして私の召使が後部座席に乗った。
ペトロフスキー橋に着いて車を停めたが、
みんな興奮していら立っており混乱して慌ててしまった。
死体の足に重りを付けるのを忘れ、毛皮の外套を脱がさずに、
氷の割れ目から死体を投げ入れたのだ。
最初の計画ではラスプーチンの衣類と長靴も焼却する事になっていたが、
それをする余裕もなかった。
車に戻ると、今度はエンジンがかからない。どうには車を出し、市内に戻った。
おそらく死体は水勢のよって海に押し流されているだろうとドミトリー大公は言った。

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by xMUGIx | 2008-01-31 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

◆父 フェリックス・スマローコフ=エルストン伯爵
1820-1877


■母 ジナイダ・ユスポヴァ女公爵
1861-1939

*ロシアの名門貴族ユスポフ家の女性相続人


●ニコライ
未婚・不倫相手の夫と決闘して25歳で死亡
●フェリックス
次代当主




◆フェリックス・ユスポフ公爵 ラスプーチン暗殺者の一人
1887-1967


■妻 イリナ・アレクサンドロヴナ 皇帝ニコライ2世の姪
クセニア・アレクサンドロヴナ大公女&アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の娘
1895-1870


●一人娘 イリナ・ユスポヴァ ニコライ・シェレメーテフ伯爵と結婚




◆ラスプーチンは1916年12月30日未明、ユスポフ公爵の屋敷で暗殺された。
実行メンバーは、ドミトリー・パヴロヴィチ大公、フェリックス・ユスポフ公爵、
ウラジーミル・プリシュケヴィチ議員、セルゲイ・スホーチン大尉、
スタニスラフ・デ・ラゾヴェルト軍医の5人。
この他にも男女数名の協力者がいたと言われるが、
実行メンバーは生涯その名を明かさなかったため、詳細は不明である。


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国会議員 ウラジーミル・プリシュケヴィチ

*1916年12月02日、彼は国会で痛烈なラスプーチン批判の演説を行った

翌日12月03日、一日中電話がなりっぱなしで、よくぞやったと言われた。
電話をかけてきた中で私の関心を引いたのは、ユスポフ公爵と名乗る人物だった。
彼はラスプーチンに関する問題を解明するために私の所に行ってもいいかと尋ねた。
電話で話すのは差しさわりがあると言うのだ。
私は朝9時に立ち寄ってくれと言った。


12月04日、やってきたユスポフ公爵は軍服を着た若者だった。
私は彼の風貌と精神的な忍耐力が気に入った。
彼の風貌の基調となっているのは、言い表し難い優美さと血筋である。
このような特質は、ロシア人には特に貴族の間には、あまり見られないものだ。


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ユスポフ公爵から妻イリナへの手紙 1916年12月04日

ラスプーチンを抹殺する計画を練るのにひどく忙しいのです。
これは今やどうしても必要な事です。君もこれに参加しなければなりません。
ドミトリー大公はすべて承知した上で助けてくれます。
ああ、早く君に会いたい!でもあまり早く来ない方がいいでしょう。
部屋の準備ができるのは12月15日でしょうから。
僕が書いた事は誰にも一言も言わないように。
僕の母には話して下さい。僕の手紙を読んであげて下さい。


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国会議員プリシュケヴィチの日記 1916年12月05日

午後8時、私はユスポフ公爵の家に行った。
部屋に若くすらりとして美男子が駆け込んできた。
それがドミトリー大公であることがわかった。

ラスプーチンは以前から某夫人とお近づきになる機会を求めていた。
某夫人はペテルブルクの若き美女で、ユスポフ家によく来ていた。
しかしその時、彼女はクリミアにいた。ユスポフ公爵はラスプーチンに告げた。
「某夫人は数日後にペテルブルクに戻ってきて何日か滞在する予定です。
自宅で彼女に引き合わせることもできますよ」と。


*某夫人とはユスポフ公爵自身の妻、イリナの事である。

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フェリックス・ユスポフ公爵

ラスプーチンはかなり前から私の妻と知り合いになりたがっていた。
彼女がペトロブルクにいると思って、彼は私の家に来る事に同意したのである。


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皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン

ラスプーチン様の人生最後の時に、
ユスポフ公爵は頻繁にラスプーチンの家に通っていました。
ラスプーチン様の言葉によれば、公爵は自分の妻について
驚くべき、ごく内輪だけに限られる事を話してくれたと言うのです。
彼は具体的には教えてくれませんでしたが、
ラスプーチン様はユスポフ公爵の妻を治療するために彼の家に出かけたのです。


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妻イリナからユスポフ公爵への手紙 1916年12月08日

あなたの正気とは思えない御手紙に感謝いたします。私には話の半分もわかりません。
あなたが何かとんでもない事をやろうとしていることはわかりましたけれど。
お願いですから慎重になって、
あれこれの汚らわしい話には首を突っ込まないようにして下さい。
一番忌まわしいのは、あなたが私抜きで万事をお決めになった事です。
すべての準備が整っていると言うなら、
今さら私にどんな風に参加しろとおっしゃるのでしょう。
私抜きで何もしないように。25日か26日にペテルブルクに行きます。
さもなければ、まったくそちらへは生きません。それではごきげんよう。


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ユスポフ公爵から妻イリナへの手紙 1916年12月10日

君が長い手紙をくれたのはとてもうれしい。君には到底わからないでしょう。
あれこれの計画のせいで頭がずたずたに張り裂けそうなこの時、
僕が君をどれほど必要としているか。君にはすべてを話したいのです。
これは出口のない状況を救う唯一の手段なのです。
12月の半ばには、君にはどうしてもいてもらわないといけません。
僕が手紙に書いた計画は詳細に練り上げられ、もう4分の3は出来上がっています。
あとはフィナーレを鳴らすだけ。そのために君が来るのをみんな待っています。
君には囮になってもらうのです。マラーニャ〔不明〕も参加します。
もちろん他言は一切無用。


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フェリックス・ユスポフ公爵

家に来てくれれば妻に引き合わせると申し出ると、彼は同意した。
ただし条件があった。私の方から彼を迎えに行き、
帰りも私が彼を自宅に送り届けること、と言うのだ。
しかも彼は、裏階段を使ってくれと頼んだ。
こんなにあっさりと合意するなんてと思って私は驚き、またぞっとした。
彼は自分の方から厄介な事をすべて取り除いてくれたのだ。


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国会議員 ウラジーミル・プリシュケヴィチ

12月11日、私は下見のためユスポフ公爵の家へ行った。
お仕着せを着た黒人を先頭にして玄関に群がっている召使の列を見回して、
不安を抱きながらユスポフ公爵の書斎へ行った。
ユスポフ公爵は、当日は全部の召使に暇を出し、
正面玄関に詰める当直が2人残るだけだと説明して私を安心させた。


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妻イリナからユスポフ公爵への手紙 1916年12月16日

もしペテルブルクに行ったら、きっと病気になってしまいます。
始終泣きたい気持ちです。気分は最低です。
こんな事をゴタゴタ書きたくはありませんでした。
でもこれ以上我慢できません。
私にペテルブルクまで来いなんておっしゃらないで。あなたの方からこちらへ来て下さい。
私はもうこれ以上耐えられません。たぶん神経衰弱なのでしょう。
私のことを怒らないで。お願いですから、怒らないで。
私はとてもあなたを愛しているのですから。私はあなたなしでは生きていけません。


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皇后の友人&ラスプーチンの信者 アンナ・ヴィルボワ

午後8時にラスプーチン様の家に行きました。ラスプーチン様は、
ユスポフ公爵と一緒に出掛ける、彼の妻を治療師に行くのだと言いました。
私は、昼間おおっぴらに自分を迎え入れるのを恥じるような人の所へ
夜中に出かけていくなんて屈辱的ですよ、こんな招待は断りなさいと言いました。
彼はそれじゃ行かないと言っていました。


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ラスプーチンの信者 マリア・ゴロヴィナ

ラスプーチン様がユスポフ公爵の家に夜食に行き、
どんちゃん騒ぎをするつもりだという事を知っていました。
私は午後10時に彼の家を去りました。


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内務大臣 アレクサンドル・プロトポポフ

ラスプーチンが殺された夜、私は彼の家に立ち寄りました。
ヴォスコボイニコワを汽車まで見送った後で、12時頃でした。
私は彼の所に10分ほどいました。彼が自分でドアを開けてくれました。
姿を見たのは彼一人です。
どこかに出かけるつもりだということは、私には言いませんでした。


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国会議員 ウラジーミル・プリシュケヴィチ

ラゾヴェルト軍医の運転する車でユスポフ邸に着くと、すでに他のメンバーはそろっていた。
ユスポフ公爵はラスプーチンのために作ったケーキを毒を盛る前に味見してみないかと言った。
ケーキは壁の色と合うように選ばれた薔薇色や茶色のごく小さなプチフールだった。
みんなでお茶を飲み終えると、
ラゾヴェルト軍医は手袋をはめて青酸カリの結晶をクリームケーキの中に入れ始めた。
チョコレートケーキはフェリックスのために取っておいた。
ラゾヴェルト軍医はこの恐ろしい仕事を終えると、運転手の制服を着た。
ユスポフ公爵とラゾヴェルト軍医が出ていき、家に残った者達は車が去って行く音を聞いた。

青酸カリを4つのグラスの内ユスポフ公爵が印を付けておいた2つに満たした。
私はポケットの中でずしりと重さの感じられた連発拳銃ソヴァージュを取り出して、
書斎のテーブルに置いた。
ラスプーチンを待ちながら、無言のまま部屋を歩き回った。何も話したくない気分だった。
とうとう車が中庭に入ってくる音を耳にした。
それからみんなは部屋に入ってきたラスプーチンの声を聞いた。
ユスポフ公爵はラスプーチンと地下室へ向かった。
ラゾヴェルト軍医は運転手の制服を脱いで、書斎の私達と合流した。
私は手に拳鍔を持っていた。
私の後ろにはドミトリー大公、その後ろにスホーチン大尉、最後にラゾヴェルト軍医がいた。
こうして私達は立ったまま、地下室のどんなかすかな音にも聞き耳を立てた。
話し声は響いてきたが、最大の問題は瓶のコルクを抜く音が聞こえてこない事だった。
ユスポフ公爵が書斎に戻ってきて、「なんてこった、あの野郎は食べも飲みもしないんだ」

ユスポフ公爵はもう一度ラスプーチンの所へ降りて行った。
やがて瓶のコルクを抜く音が聞こえてきた。ドミトリー大公が「飲んでるな」とささやいた。
「これでもう少しの辛抱だ」 しかし30分経っても何も起こらなかった!
青ざめたユスポフが書斎にやってきた。
「なんてことだ!奴は毒をグラス2杯も飲み、毒入りケーキをいくつも食べたのに。
そのうえ奴は某夫人がどうしてこんなに長く待たせるのかそわそわし始めている。
毒の効き目といえば、しょっちゅうゲップをしてちょっとよだれを流しているぐらいで」
そして自分からこう提案したのだ。
「諸君、私が奴を銃で撃ち殺すと言っても反対しないね?」

二度ほどとぎれとぎれの話し声が聞こえた後、銃声が響いた。
「あーあーあー」と長く引き伸ばされたうめき声がして、どすんと身体が床に倒れる音がした。
私達はまっしぐらに地下室に入った。瀕死のラスプーチンが横たわり、
連発拳銃を手にしたユスポフ公爵がそれを見下ろしていた。
ドミトリー大公が、「奴を絨緞からどけなくちゃいけない。血が染み込んだら都合が悪い」と言った。
そこでユスポフ公爵と私はラスプーチンを板の床に移した。
彼はまだ死んでおらず、身体を痙攣させて断末魔の苦しみを味わっていた。


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警察官 ステパン・ヴラシュク

夜中の3時頃、銃声が3,4発続けざまに聞こえました。
近くに立っていたエフィーモフ巡査にどこで発砲があったのかと聞くと、
エフィーモフはユスポフ宮殿を指差しました。
私はすぐに宮殿に向かい宮殿の屋敷番に会いましたが、
屋敷番は銃声など聞こえなかったと言いました。
この時、2人の人物が中庭を木戸の方へ向かうのが見えました。
彼らは軍服を着ていましたが、軍帽はかぶっていませんでした。
それがユスポフ公爵と執事のブジンスキーであることがわかりました。
私はブジンスキーに誰が銃を撃ったのかと尋ねました。
彼は銃声なんか耳にしていないと答えました。私は一安心して部署に戻りました。
しかし15分ぐらい後にブジンスキーが私の所にやってきて、
ユスポフ公爵が私を呼んでいると伝えました。
私が書斎に入ると、ユスポフ公爵と
私の知らない軍服を着たアゴヒゲと口髭を生やした男が迎えに出てきました。
この男は私に尋ねました。「プリシュケヴィチという名前を聞いた事があるかね?」
「あります」
「私がそのプリシュケヴィチだ。ラスプーチンが死んだのだ。
もし君が母なるロシアを愛しているなら、この事については黙っていなければならない」
「仰せの通りにいたします」
「それでは、行ってよろしい」
後で私の所にカリャージン署長が来たので、私は彼にすべてを話しました。


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警察官 フロル・エフィーモフ

午前2時30分に一発の銃声が聞こえました。その後さらに3,4発続きました。
最初の銃声の跡には、小さな叫び声も響きました。女性の悲鳴のような。

2,30分の間、通りには1台の自動車も馬車も通りませんでした。
30分ほど経ってから自動車が1台通ったのですが、どこにも停まりませんでした。


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ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記 


1916年12月30日
電話が2本。一つはトルベツカヤ公爵夫人から、もう一つはイギリス大使ブキャナンから。
昨夜ラスプーチンが殺されたと知らされた。この思いがけないニュースに私は仰天し、
事の真相を知るために
弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公〔ユスポフ公爵の舅〕の家へ車を飛ばした。
召使は、フェリックスの帰宅は遅くなるだろうと告げた。

ヨットクラブに食事に出かけた。クラブは人でごった返していて、
みんなラスプーチン失踪の事でもちきりだった。
食事が終わる頃、死んだように青ざめたドミトリー大公が姿を現した。
私は彼と話をせず、そのまま彼は別のテーブルについた。
トレポフ首相は、
これはすべてたわごとだとみんなに聞こえるような大声で言い立てていた。
一方ドミトリー大公は、
ラスプーチンは失踪したか殺されたかのどちらかではないかと思うと言明していた。


1916年12月31日
相変わらずフェリックスには会えないうちに、
私は彼と2人の甥がクリミアに行く事を知った。
トレポフ首相は電話で、ラスプーチンは殺されたのだろう、
暗殺関係者としてドミトリー大公、ユスポフ公爵、プリシュケヴィチ議員の名前が
挙げられていると伝えてきた。
私はのびのびとため息をつき、
あの悪党もこれ以上害をもたらす事はなくなったと喜びながら、
安らかな気分でトランプ遊びを始めた。
私がびっくり仰天したのは、フェリックスから電話があった事だ。
彼はニコラエフスキー駅で拘留されてしまった、と告げたのである。


1917年01月01日
フェリックスはドミトリー大公の家に移った。
彼らの部屋に入った時、私はつい口を滑らせた。「ごきげんよう、暗殺者諸君!」
フェリックスはもはやしらを切り続けても仕方ないと見てとって、
本当の事をすべて私にぶちまけた。
ラスプーチンはすぐに彼が好きになり、やがて全面的に信用するようになったと言う。
彼らはほとんど毎日のように会い何でも話し合った。しかもラスプーチンは、
あけっぴろげに途方もない将来の計画をすべてフェリックスに打ち明けたのである。
ラスプーチンの心理が理解できない。
フェリックスに抱いた限りない信頼はどうすれば説明がつくのか。
ラスプーチンはまったく誰も信用せず、毒殺や暗殺を警戒していたのに。
何か信じがたい事があったと推定する他あるまい。
おそらくラスプーチンはフェリックスに惚れ込んだのだ。
彼に対して覚えた肉欲があの淫蕩な農夫の頭をぼうっとさせ、
結局その命を奪ったのではないか。
いつまでも尽きない会話をしていた時、彼らは本当におしゃべりしていただけだろうか。
友情を何らかの形で肉体的に表現する事があったに違いない。
接吻するとか、身体に触れ合うとか、あるいはもっと卑猥な事とか。
ラスプーチンのサディズムには疑問の余地がない。
しかしフェリックスの性的倒錯がどれほどのものか、私にはまだあまりわからない。
彼の色欲の噂は、彼の結婚以前に社交界で流れていたけれども。


1917年03月29日
フェリックスとイリナの家に行き、あのドラマの現場をつぶさに見た。
信じがたいことだが、彼らは同じ食堂で平然と食事をしている。


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by xMUGIx | 2008-01-30 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

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ニコライ2世のイトコ マリア・パヴロヴナ大公女
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の娘・スウェーデン王子ヴィルヘルムと結婚離婚

1904年の夏、哀れな皇太子がめでたく誕生した。
ところが長年世継ぎを待ち望んでいたロシア国民も
それまでの相次ぐ皇女の出生で落胆して気抜けしていたせいか、
待ちに待たれたはずの皇太子の誕生にも熱意を見せずまた慶祝気分も長続きしなかった。

皇太子が誕生してからというものその不幸な成長ぶりに全身全霊をかけてきた皇后は、
元来が丈夫でなかったのがますます健康を損ない、
希望という希望をすべて闇に閉ざしての長い年月を過ごしていた。
回避できない最小限度の公式行事が宮廷の中だけで執り行われるようになり、
この時だけが皇帝皇后両陛下が外界と接触する数少ない機会となった。
彼らが自らの世界へ隔絶してしまった以上、
皇帝からの連絡・皇帝への連絡いずれの場合でも、
皇帝の周囲にいる無知きわまる信頼もおけない者達の手を通すより他はなかった。

皇后は愛する皇太子の不治の病が、年齢を重ねるごとに悪化する事を承知していた。
ラスプーチンだけがこの苦痛を和らげられるとなると、
皇后が彼を唯一の救世主と見なしたのも当然至極の事だった。
ラスプーチンはずる賢くも自分がいなければ皇太子は生き長らえないとの
決まり文句を抜け目なく四六時中連発しては皇后の心をがんじがらめにしていった。
さらには傲慢にも皇帝一家の施術者という慎み深い役割では飽き足らなくなり、
より広範囲に自力を誇示したくなった。
その当時にまつわるおびただしい文書が公けになった現在、
ラスプーチンが皇帝皇后に言上した忠告はロシア農民階層に共通した常識を
そのまま伝えていたこともあったと言って差し支えないかもしれない。
貴族達は人民を抑圧しているだけでなく
皇帝との触れ合いをことごとく遮断しているという根拠のもとに、
ラスプーチンが貴族階級に抱いた根深い反発は農民にも共通していた。
まず手はじめに彼は皇后が周囲に対して敵意を抱くように仕向けた。

ドイツからロシアに輿入れして長い歳月が経つというのに、
生まれつき内気で秘密主義だった皇后にとって、
ロシア国民はいつまで経っても異邦の民でとうてい慣れ親しめない存在だった。
ロシアの貴族階級を放埓で自堕落とみなし、
彼らから冷やかな態度に出られると侮蔑をもって応酬した。
彼女は彼らが自分を始終観察しているような気持ちに襲われ、彼らを嫌厭した。
自らの関心事を家庭の範囲内だけに留め置いていたならば、
まあまあ上首尾に運んでいたろう。
ラスプーチンは自分勝手な都合で皇后を家庭から引きずり出し、
国政に興味を持たせた上で自分自身の考えを吹き込もうとした。
狡猾な農夫上がりのこの男は手中に収めた権力を駆使して、
まず貴族に対する根っからの恨みつらみを晴らそうとした。
私にはラスプーチンの直接的・間接的影響によってロシアが陥れられた窮地が、
幾世紀ものあいだ徹頭徹尾無視され続けたロシア農民の貴族階級に向けられた
救い難い暗黒の憎悪からくる復讐心の権化のように思われてならなかった。

大本営へ数ヶ月の長期出張を繰り返していた私の弟ドミトリーは、
そのたびに宮廷の事態が悪化しているのを痛感していた。
どれだけ進言しようとも、頑愚なうえ自分だけの殻に閉じこもってしまい
世間の動静に全く無知な皇后の差し金によって、
信頼に足る人物は全員宮廷から締め出されていた。
不実と虚偽に取り巻かれた両陛下は、
一般に蔓延している非難の声も聞こえない有り様だった。

皇帝は個人的には権力に無関心で自分に備わる力も意識していなかったが、
その絶対君主権が侵害される事だけは我慢ならなかった。
先祖代々継承されてきた独裁権という遺産を手つかずのまま保持する事こそ、
自らの神秘性に基づく聖なる責務だと信じていた。
皇帝は独裁権の神聖なる起源を信奉していた。
国家の幸福と繁栄に関する責任を国に対してではなく
神に対してのみ負うと考えていた皇帝にとって、
手ずから召し出した意見番以外の者が言上する忠告などは
無責任で的外れで何よりも煩わしい物の一言に尽きた。

1916年12月、誰かがラスプーチンが死んだという一報を伝えた。
周囲が空前の興奮に沸き返っていたのを、今も目のあたりに思い出す。
長い間の嫌悪と憎悪の標的だった人物は、
ロシアに降りかかる厄難の咎めを一身に受けて謎の死を遂げた。
訃報は至る所で狂喜をもって迎えられ、
人々は復活祭さながら街角で抱き合い女達は嬉しさのあまり泣き崩れた。
1907年以来ずっとラスプーチンが宮廷に出没していたのは、
ロシア全土でも衆知の事実だった。
そして開戦の頃から彼の存在は一段と顕著になり始めていた。
1916年現在に至っては国の大半が、
前線の敗退も内政の不手際もすべてラスプーチンに事実上の責任があると見なしていた。
彼らにすれば戦争のためにこれ以上の犠牲を強いられるのはもうごめんだった。

明朝けたたましく鳴る電話のベルに飛び起きると、
それは緊急の面会を願い出るシャコフスコイ王子本人からのものだった。
15分後私の前に立った彼は、「殿下、ペトログラードで起きた事件を御存知ですね」
と口ごもりながら言うと手袋を弄んだ。
「昨日伝えられた詳細は不正確でした。今朝方真相が判明しましたが、
ロシアはユスポフ公爵率いる英雄達の手で解放され、
その内の一人は弟君ドミトリー大公です」
「事の次第は?」
「詳細は不明です。ラスプーチンの死体の発見はまだで、
ドミトリー大公とユスポフ公爵は皇后の命で逮捕されました。
弟殿下の果敢な行為に対して世間では喝采するでしょうから御心配は無用です。
ラスプーチンの滅亡は、ロシアにとって最大の恩恵です」

ラスプーチン暗殺の噂は大本営にも伝えられた。
大本営にいて皇帝を見かけた父は、皇帝が動揺も不安も表に出さず、
それどころか普段よりも機嫌がよく快活そうで、ラスプーチンが
ようやく姿を消してくれた事にホッとしているような感じすらあったという。
皇帝は大本営に詰めていた全員に別れを告げると、
慌しく御召列車に乗り込み宮殿に還御された。

ペトログラードの街はラスプーチン殺害への好奇と興奮に沸き返っていた。
ラスプーチンの死は内政と反体制運動のバランスを一挙に崩し、
世情を攪乱状態に陥れた。ラスプーチン殺害とその連鎖反応を
宮廷がいかに手際良く処理するかに何もかもがかかっていた。
王朝のみならず国家の存立も、宮廷の出方一つに委ねられてた。
すべての目は固唾を飲んで宮廷に向けられた。
ところが、ああ残念にも宮廷の応答は期待を裏切るものだった。
皇帝の帰還も待たずに皇后はドミトリーの逮捕を皇帝直属の将軍に命じ、
ユスポフ公爵もドミトリーと共に連行され宮殿の周囲には監視兵が立てられた。
人民の圧倒的な同情は、捕われた者達の上に集まった。
ドミトリー達の監禁されている宮殿には、
称賛と歓喜の言葉を携えて訪れる見舞客が引きもきらず活況を極めた。

皇后はラスプーチンを亡くして無限の悲しみに憑りつかれていた。
ラスプーチンの亡骸が発見されると、
亡骸は宮殿に運ばれ皇后が自ら選んだ庭園のとある場所に深夜埋葬された。
皇后があまりにも悲しみを大っぴらに顕示するさまに、
人々は彼女がラスプーチンに捧げていた愛情がどれだけ深く、
また他人が口を挟みえないものだったかを思い知らされた。

とにかく異例きわまる事件で、誰がどう裁かれるのか全く予想がつかなかった。
両陛下は誰にも会おうとせず、宮殿に閉じこもったっきり
親族が弟達の処分について口添えしようと訪れても相手にもしなかった。
私はモスクワを発ってキエフにマリア皇太后を訪ねた。
子供の頃から私達姉弟を慈しんでくれた皇太后は、
温かい歓迎の手を差しのべて私の言い分に熱心に耳を傾けてくれたが、
皇太后からの介入に期待するのは無理だと悟った。
母親と息子が絶対に触れ合わない領域はどこの家にも存在するものだ。
親子間の会話にも若い皇后についての話題だけは常に避けて通った。

エラ伯母はラスプーチンの影響が宮廷で顕著になり始めた頃から、
実妹である皇后に彼を信用して頼り切らないようにと口を酸っぱくして忠告してきた。
最初はエラ伯母の言葉を聞き流していただけだった皇后も、
ラスプーチンへの傾倒が深まるにつれて忠言の類すべてに拒絶反応を示すようになった。
ラスプーチンの影響力が家庭の域を超えて政治面にまで及ぶようになると、
エラ伯母はいっそうの危惧を抱いて今度は皇帝に直接諫言したが相手にされなかった。
それまで親しく温かかった姉妹の間柄は次第に冷却するとともに、
皇后はエラ伯母の存在に圧迫感を抱くようになった。
エラ伯母は皇帝と皇后に最後の説得を試みようと、意を決して宮廷へ赴いた。
ところが皇帝は不在で、皇后はよそよそしい態度を露骨にした。
エラ伯母は今にも反乱が勃発しそうなモスクワの窮状を率直に伝え、
早急に何らかの措置を講じなければ取り返しがつかなくなると警告した。
明くる朝伯母が皇后から受け取ったのは、
「ここから引き取るように」という簡単な走り書きだった。
数ヶ月ぶりにエラ伯母を修道院に訪ねた。私は軟禁中の皇帝一族の生活に触れ、
必要があればエラ伯母からの信書を彼らの手元に届けようと申し出た。
エラ伯母の瞳は険しく冷たい光芒を放った。そして口元をきっと一文字に結ぶと、
「手紙は書けない。伝える事がない。
実妹である事には変わりがないが、皇后とは理解し合うのを放棄した」と答えた。

「今夜ペルシャ前線に出征を命じられました。皇帝の副官が私の監視に付き、
旅行中は面会および他人との連絡は一切禁止するとの達しで、
最終目的地の前線も知らされていません」
ドミトリーは動揺を抑え一気に報告した。
ユスポフ公爵には「君はクールスク地方の君の領地に追放だ。
後から警視総監が汽車の出発時刻を知らせてくるそうだ」
ロシアは国を挙げて、
ラスプーチンの暗殺事件とその関係者を宮廷がどう扱うかに注目していた。
暗殺に加わった者達を虐げる事は、
同時に皇后がラスプーチンに抱いていた過度の執着を露呈し、
彼の駆使した威力にまつわる聞くに耐えない噂を証拠づけ、
さらには皇帝のどうしようもない無気力さを改めて世間に公表する事になる。
ドミトリーとユスポフ公爵が流刑に処せられたという第一報は、
驚くべき速さで世間に広まった。

1917年03月13日皇后からの召し出しがあったので、父は宮廷に出向いた。
皇后は厳しい表情で、親族一同が皇帝に理不尽な影響を及ぼそうとしているのは
忠義に欠ける背反行為だと言って頭ごなしに不興を表した。
彼女の態度は以前にも増して頑なで、弾力性のかけらもなかった。
ロシア全土の人民がなべて皇帝の味方であることについては確固たる証拠もあり、
皇族・貴族・国会の代表らは厚顔無恥にもその逆の事を考えているらしいが、
それはまったくの誤解で今にも真実が発言すると言い切った。

03月15日ロシアの玉座を300年ものあいだ占めてきた王朝の継承者が、
畏まっている国会の代表達の前に一枚のタイプ紙を差し出した。
これが彼の絶対君主としての最期の意思表示であり、彼が発した最後の勅令だった。
あの時の私は、
たとえ大落雷と大地震が一時に襲いかかってきたとしても顔色すら変えなかったろう。
ロシアの歴史的滅亡を意味する皇帝の退位はキリストが十字架の死を遂げた時と同様に、
何か特別な自然現象を伴うものだと無意識の内に決めていた。

03月16日の夜明け、革命支部の司令官が皇帝が退位したと報告してきた。
朝になって父が皇后に会いに行くと、
信じがたい事に彼女は皇帝の退位をまだ知らなかった。
この重大ニュースを皇后に伝えるだけの勇気は誰にもなかったらしい。
父がその大任を果たした。彼女は見上げるほどの毅然とした態度でこの不幸を甘受すると、
落ち着いた口調で麻疹にかかった子供達の事を案じクリミアに向けて出発したいと言った。
宮廷人のうち幾人かは逮捕され、幾人かは逃亡し、
幾人かは新政府の不興をこうむるのが嫌さに帝室から離反した。
居残ったわずかな者達が、分厚い絨緞の敷きつめられた大廊下を忍び足で歩いていた。
その脇を泥だらけの軍靴を履いて兵隊帽を横被りし上着のボタンを外しっぱなしにした
酒臭い無精髭の兵士達の集団がガヤガヤと浮き足立って通り過ぎていった。

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by xMUGIx | 2008-01-29 00:00 | ロシア

ロマノフ朝

★バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ 
1872-1971 99歳没

*18歳で独身時代の皇帝ニコライ2世の愛人となり、
22歳でニコライが結婚するためイトコのセルゲイ・ミハイロヴィチ大公に譲られ、
28歳でセルゲイの従甥アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の愛人ともなり三角関係に、
30歳で子供1人生み、両名とも自分が父親であると主張したがアンドレイが認知、
両名からプロポーズされていたが49歳でアンドレイを選んで結婚、
ロシア革命で亡命後はフランスでバレエの指導者となり、99歳没。

*子供の父親としてアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の父親
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の名前も囁かれた。
しかし、いずれにしても【ロマノフの子】には変わりないという事に落ち着いた。

*マチルダはバレエ一家の生まれ。
父はバレエダンサーのポーランド人フェリクス・クシェシンスキー、
兄も姉もバレエダンサーだった。

*ニコライはマチルダと出会う前にアレクサンドラと結婚すると心に決めていた。
一方でニコライはマチルダに一目惚れして<私のカナリア>と呼んで入れ込んだ。
バレリーナを愛人に持つことがペテルブルクの貴族たちの古い伝統だった。
バレリーナは芸者のような存在でもあり、プリマバレリーナとのロマンスは、
若い皇太子の自伝を飾りこそすれ汚しはしないものだった。

*ニコライはマチルダのために豪華な邸宅を用意した。
マチルダはパリから取り寄せた家具でこの家を飾り、自分の城として愛してやまなかった。
この家はロシア革命でボリシェヴィキに接収され、
レーニンはここのバルコニーから演説した。

*ニコライが結婚して愛人関係は終わるが、
マチルダはその後も何かとニコライに陳情しては権力を利用した。


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バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ

ニコライ皇太子と私はお互いにどんどん惹きつけられてゆき、
私はどんどん自分だけの家が欲しくなっていた。
イギリス大通り18番に素敵な小さな館が見つかった。
リムスキー・コルサコフが所有していたこの館は、コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公が
ダンサーのアンナ・クスネツォーワのために建てられたものだった。
必要な家具は充分備わっており、地下室・1階・2階で構成されていた。
庭は隣のアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公の邸と境界壁で分けられていた。

皇太子とアレクサンドラ公女の婚約が発表された。
この婚約は予期され待たれ避けられない事だったのだが、
私が味わった苦しみは尽きる事がなかった。
皇太子は二人がたくさんの忘れがたい時間をともに過ごした家を私にくださり、
私がこれからも住むよう望まれた。

苦しみ苦悩している間、私は一人ではなかった。
皇太子と一緒に我が家を訪問されて以来
私と深い友情で結ばれていたセルゲイ・ミハイロヴィチ大公が、私を慰め守って下さった。
彼に対しては皇太子に抱いていたような感情は一度も持つ事はなかったが、
その愛情と献身には心を動かされた。
そして最初に示して下さった誠実な友情は、
幸福な時代も革命の苦難の時期や最も耐えがたい時も生涯変わる事がなかった。
ある日散歩の最中に、海際まで続く広大な庭園の中にある素敵な別荘に気がついた。
私が心を惹かれている事を知ったセルゲイ大公が
このヴィラを私の名前で買って下さったので、夏をここで過ごせるようになった。
セルゲイ大公は私を慰め喜ばせるために、
どんな小さな希望でもかなえようと最善を尽くして下さった。
ストレーリナの別荘も私にくださった。私は何もかもを手に入れたが、
その事もセルゲイ大公の友情と愛情も失った幸せの穴を埋めてはくれなかった。

1900年、私の舞台生活10周年記念公演が行われた。
この公演が私のその後の人生を変える事になる。
キリル・ウラジーミロヴィチ大公とボリス・ヴラディーミロヴィチ大公の兄弟が、
私がまだ会った事がなかった下の弟のアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公を
連れていらしたのだ。彼は21歳になる前だった。私より7歳近く年下だった。
この夜、アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公は深い印象を残した。
彼はきわめてハンサムでとても照れ屋でもあったが、
その事は彼の魅力を損なうどころかまるで逆だった。
夕食の最中彼は赤ワインのグラスをひっくり返し、中身が私のドレスに飛び散った。
その瞬間私の心には長い間忘れていた、ただの戯れの恋ではない感情があふれた。
その後アンドレイ大公と私は頻繁に会うようになり、
互いに抱いていた好意はすぐに愛情に変わった。
やがて彼はストレーリナの私の家に会いに来るようになり、
私達はとても楽しい時を過ごした。

1901年秋になりアンドレイと私はイタリアに旅行する事にした。
帰路パリに着くと具合が悪くなり医者を呼んだところ、妊娠1ヶ月だと言われた。
幸せでいっぱいになったが、
ペテルブルクで待ち受けている事を考えなければならなかった。
1902年02月には舞台から降りなければならなかった。
さもないと踊りからも外見からも妊娠を疑われてしまう。
02月15日エルミタージュ劇場でラ・カマルゴを演じ、この舞台でシーズンを終えた。
出産するストレーリナの別荘では部屋とゆりかごと産着の用意が調っていた。
息子はこうして1902年06月17日の夜中に生まれた。
元気になると、セルゲイ大公になんと言い訳をしたらいいかと悩む事になった。
アンドレイと息子への愛と幸せでいっぱいとはいえ、セルゲイ大公に
強いる事になってしまったひどい苦痛と不当な打撃の事を考えずにはいられなかった。
前の冬大公がある若くて可愛らしい大公女に求愛されていた時に、
この牧歌的な日々を終りにしたいと申し出ていただけに私の悩みは深刻だった。
しかしセルゲイ大公の態度は実に感動的で、私を少し安心させてくれた。
彼は自分が赤ん坊の父親でない事を確信しておられたが、
何もかも許して下さったほど私を深く愛しておられた。
そして私が彼の愛情と庇護を必要としていると考え、
何が起ろうと忠実な友人として私を支えると言って下さった。
この言葉に私の気持ちは安らいだが、苦しみが全部消えたわけではなかった。

息子にはアンドレイの父であるウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の
名前をいただいて、ウラジーミルと名付ける事にした
ウラジーミル大公は息子の洗礼式に素晴らしいプラチナの十字架と鎖を贈って下さった。
彼は御自分の名を付ける事に喜んで同意して下さった上に、
しばしば産後の私に会いにいらした。
私はまだ身体が弱っていて長椅子に横になったまま息子を抱いて彼と話をしていた。
彼は私の横に座り、私の頭をなでて力づけながら慰めの言葉をかけて下さった。
1903年の夏ウラジーミル大公はペテルゴーフから我が家まで歩いていらした。
私はまだ1歳でまばらな息子の髪の毛を
どうにか一つの巻き毛にまとめて薄青いリボンを巻いた。
ウラジーミル大公は、「この子の髪は私の頭にそっくりだ!」と叫ばれた。

セルゲイ大公も本当に気高い態度で接して下さった。
今までと同じようにとても親切で、何でも願いを聞き入れ、
いつでも誰よりも見事に私を守って下さった。
彼はウラジーミルを可愛がられ、自分の息子のように見ておられた。

革命直前および革命後に、
砲兵隊が出した注文に対して私が賄賂を受け取ったというような噂が広まった。
第一次世界大戦中の皇后から皇帝への手紙は非常に心が痛んだ。
皇后は私に対する中傷を繰り返しておられるのだ。
私が賄賂と砲兵隊の注文の件で後ろめたい行動を取っていると何回も書かれているのだ。
皇后はどうしてこんな中傷を信じてしまわれたのだろうか。
事実がどうか確かめもせずに、なぜ皇帝にそんな事を伝えてしまわれたのか。
当時こんな中傷がなされているのをまったく知らなかった。
もし知っていれば誹謗中傷ですと皇帝にお伝えしただろうし、
彼も私の言い分を聞いて下さっていただろう。

1914年第一次世界大戦が始まり、アンドレイも9月に出征した。
1917年01月18日にアンドレイは6週間の休暇をもらったので、
カフカス地方のキスロヴォツクへ静養に行った。
しかし2月革命が起こり3月に皇帝が退位、
アンドレイはそのままキスロヴォツクに留まった。
セルゲイ大公は開戦の数日前に関節炎で倒れられ、病状は深刻だった。
ミハイロフカで闘病生活を送っておられる大公の所には何回もお見舞いに行った。
1917年06月、セルゲイ大公がペトログラードに戻られた。
ウラジーミルの誕生日06月18日、
セルゲイ大公と私とウラジーミルはフィンランドに出かけ3,4日過ごした。
セルゲイ大公は暇な時間があればウラジーミルのために使われ、
ウラジーミルの教育にいつも気を配っていらした。

アンドレイの手紙からはキスロヴォツクには革命の波はほとんど及んでおらず、
普通の生活が送れている事がわかった。ずいぶんと苦しんだが、
やはり息子の安全とできるだけ早くアンドレイに会いたいという気持ちが勝って
キスロヴォツクにしばらく滞在する決心をした。
旅立ちと別れの瞬間が来た。セルゲイ大公はニコライ駅まで同行された。
これは一時の別れのはずだったのが、永遠の別れとなってしまった。
すでに一般市民の身なりで長いオーバーを着た彼が、
プラットホームにじっとたたずんで、ゆっくりと動き出した列車を
限りない哀しみをたたえた目で追っていらした姿が忘れられない。
キスロヴォツクへ向かいながら、
アンドレイに会える喜びと、常に危険な状態にあるセルゲイ大公を
ペトログラードに一人残してしまったという二つの感情が私の中でせめぎ合っていた。
またセルゲイ大公とウラジーミルが会えなくなってしまう事についても
申し訳なく思っていた。

姉夫婦もキスロヴォツクに合流し、ボリス・ヴラディーミロヴィチ大公も
親友の石油王レオン・マンタショフと一緒に到着された。
やがてペトログラードに戻ろうと考える事すら無駄だとわかり、
セルゲイ大公に手紙を書いてキスロヴォツクにいらっしゃるように説得しようと考えた。
しかしこの努力は報われなかった。
セルゲイ大公は私の家を取り戻すためにいろいろな手段を講じておられ、
その都度出発を延期された。
また母君の宝石を私の名義で海外に送って保管しようともされた。
さらに彼はまだ残っていた私の家具を倉庫に預けようともなさった。
ボリシェヴィキの最初の法案、
『ブルジョワが所有するすべての銀行口座・貯蓄・財産の没収』を聞き、
私達はたった一日で一文無しになってしまった事を知った。
セルゲイ大公のフィンランド行きに尽力した者もいたが、
他の多くの皇帝御一族と同様に御自分が出国されると皇帝の運命に
深刻な影響を与えるのではないかと考え、ロシアを出ようとはされなかったのだ。

1918年03月までは
ペトログラードに留まっておられるセルゲイ大公と定期的に連絡が取れ、
彼が03月20日に他の親族と一緒に首都を脱出された事がわかった。
その後彼からの手紙は断続的になり滅多に届かなくなったが、セルゲイ大公が
まずヴォトカ次にエカテリンブルクに流刑にされた経緯を知ることはできた。
ウラジーミルの誕生日に向けて06月14日に打たれた電報を受け取り、
彼がアラパエフスクにいらした事がわかった。
この日はセルゲイ大公が悲劇的な死に見舞われる一週間前で、
これが彼からの最後の言葉となった。

10月22日朝7時頃、私達はアナーパで下船した。
第一次世界大戦が終わり、
クリスマスの前にイギリス軍基地司令官のプール将軍がアパーナを訪れた。
プール将軍はマリア大公妃に亡命を勧めるイギリス政府名義の招待状を持参していた。
マリア大公妃はこれを拒否された。
他の方法が一切なくなるまでロシアに残る決意を固めておられた。
翌年1919年03月末、ボリス大公とジーナは私達を残して出国した。
ボリス大公は一緒に亡命するようマリア大公妃を説得しようとされたが、
大公妃は息子の決断にひどく苦しまれ同行を拒まれた。

05月、ついにキスロヴォツクに戻る事が決まった。
キスロヴォツクには平穏な生活が戻っていた。
しかしクリスマス直前、白軍が危機的状況に陥った。
マリア大公妃でさえ、もはやロシアを出る以外の策はないと結論を出された。
1920年02月19日ヴェネツィア行の船が出港した。
この日が我々のロシア最後の日となった。

犠牲者の身の回りの物はすべてクセニア・アレクサンドロヴィナ大公女に渡され、
クセニア大公女はそれを御一族の様々な方に配られた。
私はセルゲイ・ミハイロヴィチ大公が身に着けておられた中央にエメラルドがはめられた
小さな金のメダルと、鎖の端に付けられたじゃがいもの形の小さな金の飾りをいただいた。
メダルには私の写真が入っており、
『08月21日──マーラ──09月25日』と刻まれていた。
またセルゲイ大公がお生まれになった
1869年に鋳造された10コペイカの貨幣も入っていた。
このメダルは何年も前に渡したセルゲイ大公に差し上げた物だった。
じゃがいもの飾りの方は、セルゲイ大公は若い頃に
友人達と『じゃがいも』というサークルを作っておられた。
もはや一切の疑惑は消滅した。
セルゲイ大公はアラパエフスクで殺害されてしまわれたのだった。

アンドレイは結婚への公式な許可を求めて、
当時カンヌに住んでいらした兄君キリル大公に会いに出かけた。
彼は以前からキリル大公御夫妻に私と結婚したいとお話していた。
お二人は私達の結婚に大賛成で、キリル大公は私達の結婚を許可され、
私にクラシンスキーという苗字と女公爵の位を下さった。息子も公爵の位をいただいた。
私達はこうして1921年01月30日、カンヌのロシア正教会で結婚する事になった。
儀式が終わるとすぐにキリル大公とヴィクトリア大公妃を訪問した。
お二人は私達をこの上なく歓迎して下さり、
私に向けて下さった優しさはすぐに互いへの愛情に変った。

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by xMUGIx | 2008-01-28 00:00 | ロシア


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