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2017年 更新中
by xMUGIx
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ロマノフ朝

★バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ 
1872-1971 99歳没

*18歳で独身時代の皇帝ニコライ2世の愛人となり、
22歳でニコライが結婚するためイトコのセルゲイ・ミハイロヴィチ大公に譲られ、
28歳でセルゲイの従甥アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の愛人ともなり三角関係に、
30歳で子供1人生み、両名とも自分が父親であると主張したがアンドレイが認知、
両名からプロポーズされていたが49歳でアンドレイを選んで結婚、
ロシア革命で亡命後はフランスでバレエの指導者となり、99歳没。

*子供の父親としてアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公の父親
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の名前も囁かれた。
しかし、いずれにしても【ロマノフの子】には変わりないという事に落ち着いた。

*マチルダはバレエ一家の生まれ。
父はバレエダンサーのポーランド人フェリクス・クシェシンスキー、
兄も姉もバレエダンサーだった。

*ニコライはマチルダと出会う前にアレクサンドラと結婚すると心に決めていた。
一方でニコライはマチルダに一目惚れして<私のカナリア>と呼んで入れ込んだ。
バレリーナを愛人に持つことがペテルブルクの貴族たちの古い伝統だった。
バレリーナは芸者のような存在でもあり、プリマバレリーナとのロマンスは、
若い皇太子の自伝を飾りこそすれ汚しはしないものだった。

*ニコライはマチルダのために豪華な邸宅を用意した。
マチルダはパリから取り寄せた家具でこの家を飾り、自分の城として愛してやまなかった。
この家はロシア革命でボリシェヴィキに接収され、
レーニンはここのバルコニーから演説した。

*ニコライが結婚して愛人関係は終わるが、
マチルダはその後も何かとニコライに陳情しては権力を利用した。


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バレリーナ マチルダ・クシェシンスカヤ

ニコライ皇太子と私はお互いにどんどん惹きつけられてゆき、
私はどんどん自分だけの家が欲しくなっていた。
イギリス大通り18番に素敵な小さな館が見つかった。
リムスキー・コルサコフが所有していたこの館は、コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公が
ダンサーのアンナ・クスネツォーワのために建てられたものだった。
必要な家具は充分備わっており、地下室・1階・2階で構成されていた。
庭は隣のアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公の邸と境界壁で分けられていた。

皇太子とアレクサンドラ公女の婚約が発表された。
この婚約は予期され待たれ避けられない事だったのだが、
私が味わった苦しみは尽きる事がなかった。
皇太子は二人がたくさんの忘れがたい時間をともに過ごした家を私にくださり、
私がこれからも住むよう望まれた。

苦しみ苦悩している間、私は一人ではなかった。
皇太子と一緒に我が家を訪問されて以来
私と深い友情で結ばれていたセルゲイ・ミハイロヴィチ大公が、私を慰め守って下さった。
彼に対しては皇太子に抱いていたような感情は一度も持つ事はなかったが、
その愛情と献身には心を動かされた。
そして最初に示して下さった誠実な友情は、
幸福な時代も革命の苦難の時期や最も耐えがたい時も生涯変わる事がなかった。
ある日散歩の最中に、海際まで続く広大な庭園の中にある素敵な別荘に気がついた。
私が心を惹かれている事を知ったセルゲイ大公が
このヴィラを私の名前で買って下さったので、夏をここで過ごせるようになった。
セルゲイ大公は私を慰め喜ばせるために、
どんな小さな希望でもかなえようと最善を尽くして下さった。
ストレーリナの別荘も私にくださった。私は何もかもを手に入れたが、
その事もセルゲイ大公の友情と愛情も失った幸せの穴を埋めてはくれなかった。

1900年、私の舞台生活10周年記念公演が行われた。
この公演が私のその後の人生を変える事になる。
キリル・ウラジーミロヴィチ大公とボリス・ヴラディーミロヴィチ大公の兄弟が、
私がまだ会った事がなかった下の弟のアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公を
連れていらしたのだ。彼は21歳になる前だった。私より7歳近く年下だった。
この夜、アンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公は深い印象を残した。
彼はきわめてハンサムでとても照れ屋でもあったが、
その事は彼の魅力を損なうどころかまるで逆だった。
夕食の最中彼は赤ワインのグラスをひっくり返し、中身が私のドレスに飛び散った。
その瞬間私の心には長い間忘れていた、ただの戯れの恋ではない感情があふれた。
その後アンドレイ大公と私は頻繁に会うようになり、
互いに抱いていた好意はすぐに愛情に変わった。
やがて彼はストレーリナの私の家に会いに来るようになり、
私達はとても楽しい時を過ごした。

1901年秋になりアンドレイと私はイタリアに旅行する事にした。
帰路パリに着くと具合が悪くなり医者を呼んだところ、妊娠1ヶ月だと言われた。
幸せでいっぱいになったが、
ペテルブルクで待ち受けている事を考えなければならなかった。
1902年02月には舞台から降りなければならなかった。
さもないと踊りからも外見からも妊娠を疑われてしまう。
02月15日エルミタージュ劇場でラ・カマルゴを演じ、この舞台でシーズンを終えた。
出産するストレーリナの別荘では部屋とゆりかごと産着の用意が調っていた。
息子はこうして1902年06月17日の夜中に生まれた。
元気になると、セルゲイ大公になんと言い訳をしたらいいかと悩む事になった。
アンドレイと息子への愛と幸せでいっぱいとはいえ、セルゲイ大公に
強いる事になってしまったひどい苦痛と不当な打撃の事を考えずにはいられなかった。
前の冬大公がある若くて可愛らしい大公女に求愛されていた時に、
この牧歌的な日々を終りにしたいと申し出ていただけに私の悩みは深刻だった。
しかしセルゲイ大公の態度は実に感動的で、私を少し安心させてくれた。
彼は自分が赤ん坊の父親でない事を確信しておられたが、
何もかも許して下さったほど私を深く愛しておられた。
そして私が彼の愛情と庇護を必要としていると考え、
何が起ろうと忠実な友人として私を支えると言って下さった。
この言葉に私の気持ちは安らいだが、苦しみが全部消えたわけではなかった。

息子にはアンドレイの父であるウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の
名前をいただいて、ウラジーミルと名付ける事にした
ウラジーミル大公は息子の洗礼式に素晴らしいプラチナの十字架と鎖を贈って下さった。
彼は御自分の名を付ける事に喜んで同意して下さった上に、
しばしば産後の私に会いにいらした。
私はまだ身体が弱っていて長椅子に横になったまま息子を抱いて彼と話をしていた。
彼は私の横に座り、私の頭をなでて力づけながら慰めの言葉をかけて下さった。
1903年の夏ウラジーミル大公はペテルゴーフから我が家まで歩いていらした。
私はまだ1歳でまばらな息子の髪の毛を
どうにか一つの巻き毛にまとめて薄青いリボンを巻いた。
ウラジーミル大公は、「この子の髪は私の頭にそっくりだ!」と叫ばれた。

セルゲイ大公も本当に気高い態度で接して下さった。
今までと同じようにとても親切で、何でも願いを聞き入れ、
いつでも誰よりも見事に私を守って下さった。
彼はウラジーミルを可愛がられ、自分の息子のように見ておられた。

革命直前および革命後に、
砲兵隊が出した注文に対して私が賄賂を受け取ったというような噂が広まった。
第一次世界大戦中の皇后から皇帝への手紙は非常に心が痛んだ。
皇后は私に対する中傷を繰り返しておられるのだ。
私が賄賂と砲兵隊の注文の件で後ろめたい行動を取っていると何回も書かれているのだ。
皇后はどうしてこんな中傷を信じてしまわれたのだろうか。
事実がどうか確かめもせずに、なぜ皇帝にそんな事を伝えてしまわれたのか。
当時こんな中傷がなされているのをまったく知らなかった。
もし知っていれば誹謗中傷ですと皇帝にお伝えしただろうし、
彼も私の言い分を聞いて下さっていただろう。

1914年第一次世界大戦が始まり、アンドレイも9月に出征した。
1917年01月18日にアンドレイは6週間の休暇をもらったので、
カフカス地方のキスロヴォツクへ静養に行った。
しかし2月革命が起こり3月に皇帝が退位、
アンドレイはそのままキスロヴォツクに留まった。
セルゲイ大公は開戦の数日前に関節炎で倒れられ、病状は深刻だった。
ミハイロフカで闘病生活を送っておられる大公の所には何回もお見舞いに行った。
1917年06月、セルゲイ大公がペトログラードに戻られた。
ウラジーミルの誕生日06月18日、
セルゲイ大公と私とウラジーミルはフィンランドに出かけ3,4日過ごした。
セルゲイ大公は暇な時間があればウラジーミルのために使われ、
ウラジーミルの教育にいつも気を配っていらした。

アンドレイの手紙からはキスロヴォツクには革命の波はほとんど及んでおらず、
普通の生活が送れている事がわかった。ずいぶんと苦しんだが、
やはり息子の安全とできるだけ早くアンドレイに会いたいという気持ちが勝って
キスロヴォツクにしばらく滞在する決心をした。
旅立ちと別れの瞬間が来た。セルゲイ大公はニコライ駅まで同行された。
これは一時の別れのはずだったのが、永遠の別れとなってしまった。
すでに一般市民の身なりで長いオーバーを着た彼が、
プラットホームにじっとたたずんで、ゆっくりと動き出した列車を
限りない哀しみをたたえた目で追っていらした姿が忘れられない。
キスロヴォツクへ向かいながら、
アンドレイに会える喜びと、常に危険な状態にあるセルゲイ大公を
ペトログラードに一人残してしまったという二つの感情が私の中でせめぎ合っていた。
またセルゲイ大公とウラジーミルが会えなくなってしまう事についても
申し訳なく思っていた。

姉夫婦もキスロヴォツクに合流し、ボリス・ヴラディーミロヴィチ大公も
親友の石油王レオン・マンタショフと一緒に到着された。
やがてペトログラードに戻ろうと考える事すら無駄だとわかり、
セルゲイ大公に手紙を書いてキスロヴォツクにいらっしゃるように説得しようと考えた。
しかしこの努力は報われなかった。
セルゲイ大公は私の家を取り戻すためにいろいろな手段を講じておられ、
その都度出発を延期された。
また母君の宝石を私の名義で海外に送って保管しようともされた。
さらに彼はまだ残っていた私の家具を倉庫に預けようともなさった。
ボリシェヴィキの最初の法案、
『ブルジョワが所有するすべての銀行口座・貯蓄・財産の没収』を聞き、
私達はたった一日で一文無しになってしまった事を知った。
セルゲイ大公のフィンランド行きに尽力した者もいたが、
他の多くの皇帝御一族と同様に御自分が出国されると皇帝の運命に
深刻な影響を与えるのではないかと考え、ロシアを出ようとはされなかったのだ。

1918年03月までは
ペトログラードに留まっておられるセルゲイ大公と定期的に連絡が取れ、
彼が03月20日に他の親族と一緒に首都を脱出された事がわかった。
その後彼からの手紙は断続的になり滅多に届かなくなったが、セルゲイ大公が
まずヴォトカ次にエカテリンブルクに流刑にされた経緯を知ることはできた。
ウラジーミルの誕生日に向けて06月14日に打たれた電報を受け取り、
彼がアラパエフスクにいらした事がわかった。
この日はセルゲイ大公が悲劇的な死に見舞われる一週間前で、
これが彼からの最後の言葉となった。

10月22日朝7時頃、私達はアナーパで下船した。
第一次世界大戦が終わり、
クリスマスの前にイギリス軍基地司令官のプール将軍がアパーナを訪れた。
プール将軍はマリア大公妃に亡命を勧めるイギリス政府名義の招待状を持参していた。
マリア大公妃はこれを拒否された。
他の方法が一切なくなるまでロシアに残る決意を固めておられた。
翌年1919年03月末、ボリス大公とジーナは私達を残して出国した。
ボリス大公は一緒に亡命するようマリア大公妃を説得しようとされたが、
大公妃は息子の決断にひどく苦しまれ同行を拒まれた。

05月、ついにキスロヴォツクに戻る事が決まった。
キスロヴォツクには平穏な生活が戻っていた。
しかしクリスマス直前、白軍が危機的状況に陥った。
マリア大公妃でさえ、もはやロシアを出る以外の策はないと結論を出された。
1920年02月19日ヴェネツィア行の船が出港した。
この日が我々のロシア最後の日となった。

犠牲者の身の回りの物はすべてクセニア・アレクサンドロヴィナ大公女に渡され、
クセニア大公女はそれを御一族の様々な方に配られた。
私はセルゲイ・ミハイロヴィチ大公が身に着けておられた中央にエメラルドがはめられた
小さな金のメダルと、鎖の端に付けられたじゃがいもの形の小さな金の飾りをいただいた。
メダルには私の写真が入っており、
『08月21日──マーラ──09月25日』と刻まれていた。
またセルゲイ大公がお生まれになった
1869年に鋳造された10コペイカの貨幣も入っていた。
このメダルは何年も前に渡したセルゲイ大公に差し上げた物だった。
じゃがいもの飾りの方は、セルゲイ大公は若い頃に
友人達と『じゃがいも』というサークルを作っておられた。
もはや一切の疑惑は消滅した。
セルゲイ大公はアラパエフスクで殺害されてしまわれたのだった。

アンドレイは結婚への公式な許可を求めて、
当時カンヌに住んでいらした兄君キリル大公に会いに出かけた。
彼は以前からキリル大公御夫妻に私と結婚したいとお話していた。
お二人は私達の結婚に大賛成で、キリル大公は私達の結婚を許可され、
私にクラシンスキーという苗字と女公爵の位を下さった。息子も公爵の位をいただいた。
私達はこうして1921年01月30日、カンヌのロシア正教会で結婚する事になった。
儀式が終わるとすぐにキリル大公とヴィクトリア大公妃を訪問した。
お二人は私達をこの上なく歓迎して下さり、
私に向けて下さった優しさはすぐに互いへの愛情に変った。

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by xMUGIx | 2008-01-28 00:00 | ロシア
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