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by xMUGIx
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ロマノフ朝

◆1905年


■01月22日 血の日曜日事件


■02月17日 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公暗殺


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コンスタンチン・ロマノフ大公の日記 1905年02月17日

雷に打たれたように、最初の瞬間私は何も考えられなかった。
部屋を出てはじめて何を失ったのかがわかり、涙があふれ出た。
妻はセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が好きだったので、知らせるのに苦労した。


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コンスタンチン・ロマノフ大公の日記 1905年02月18日

いかなる速度で我々が未知の災厄に向かって突き進んでいるか、
まったく信じられないほどだ。至る所タガがはずれ、すべてが勝手気ままだ。
政府の強い手はもう感じられない。そう、それはもうないのだ。


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■06月28日 戦艦ポチョムキン反乱


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内務大臣 スヴィヤトポルク・ミルスキー

ロシア中が現在の社会制度に不服である事を皇后に警告しようとしたが、
彼女は怒りで顔を真っ赤にして、
「インテリゲンチャは皇帝に反対していますが、
民衆はみな皇帝の味方である。今までも、これからも」と言った。


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歴史家 ポロフツェフ

皇帝夫妻は現状や今何が起こっているかに少しも注目していない。
二人はいつも気持ちが揺れ動いていた、今何かしていたかと思うとすぐに別の事をする。
モンテネグロ姉妹とよく交霊会をしているが、
こういう人間の存在はロシアにとって不幸だ。


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■09月04日 ポーツマス条約締結、日露戦争終わる


■10月 全国にゼネストが広がる


■10月30日 皇帝が十月詔書に署名し、国会が認められる


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皇帝から母マリア皇太后への手紙

市中の秩序は表面上は保たれているものの、何かが起りつつあると誰もが感じています。
この危機の日々を通じて私は絶えずウィッテ首相と会い、討議を重ねました。
前途には二つの道しかないのです。
一つは、強力な軍隊で反乱を鎮圧することです。
少しは息をつく時間ができるかもしれません。
しかし数ヶ月後には再び軍隊を使わなければならなくなり、
私達はまた元の出発点に戻ることでしょう。
もう一つの解決策は、
公民権・言論の自由・そして国会を認める法律・もちろん憲法も人民に与える事です。
ウィッテ首相はこの方法を強く支持していますし、
私が諮問した他の者もみなこれと同じ意見なのです。
ウィッテは宣言案を起草し、私達は二日間にわたって討議しました。
私は神の御加護を祈ってサインしました。
私の唯一の慰めは、これも神の御意志であり、
この決断がこの一年続いている無秩序からロシアを救ってくれるだろうという事です。


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ニコライ2世の日記 1905年10月30日

ニコラーシャとスタナと朝食をとる。(噂のカップルだ!)
座って話しながらウィッテの到着を待つ。
5時に布告に署名した。
このような一日の後、頭は重く思考はすっかり混乱してしまった。
主よ、助けたまえ。ロシアを救い、安らぎを与えたまえ。
 

*10月にスタナが皇帝夫妻に会わなかったのは2日だけだった。

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ニコライ2世の日記 1905年11月14日 

*日記にラスプーチン=グリゴリーの名前が初めて登場する。

ミリツァとスタナと一緒にお茶を飲む。
トボリスク出身の神のごとき人間グリゴリーと知り合いになった。


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E・カザコワ

この頃、大勢の上流階級の御婦人達がラスプーチンをちやほやしている姿を見ました。
彼女達は彼の爪を切り、自分の服に縫い込んだりしたものです。


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■ラスプーチンは信者ロフチン夫妻の家にもぐりこむことに成功する。
ロフチナ夫人は40歳を過ぎていたが大変美しい女性だった。
彼女自身が大地主で官僚の夫を持ち、
ペテルブルク社交界の花形で人気の高いサロンの女主人だった。


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官僚ウラジーミル・ロフチンの妻 オリガ・ロフチナ

私がラスプーチン様に初めて会ったのは、1905年11月16日のことでした。
当時私は社交界に失望していました。そして激しい精神の転機が訪れたのです。
そのうえ私は神経性の腸炎を患い、寝たきりになっていました。
壁にしがみつくようにして、ようやく動き回れるといった有り様でした。
司祭のメドヴェージ神父が私を哀れに思い、ラスプーチン様に引き合わせて下さったのです。
ラスプーチン様が家に現れた瞬間、たちまち私は健康になった事を感じ、
それ以来持病から解放されました。

彼の招待を受けて私はポクロフスコエ村の彼の家に向かい、
そこで1905年の11月28日から12月27日まで過ごしました。
ラスプーチン様と旅するのはとても楽しい事でした。
なぜなら彼は私に生命を吹き込んでくれたからです。
私は彼の暮らし方が大変気に入りました。

彼は人と会った時はいつも接吻し、抱きしめることさえしたものです。
でも悪いよこしまな考えを抱くのは、悪い人々だけです。
私は何度もポクロフスコエ村を訪ねていますが、私達はどこでも寝られる所で寝ました。
一つの部屋で寝る事もしばしばでした。
ラスプーチン様と彼の奥さんと二人の娘さんと皆と一緒にお風呂に入った事もあります。
悪い考えがない以上。私達の誰もそれが淫らだとかおかしいとは思わなかったのです。

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by xMUGIx | 2008-02-05 00:00 | ロシア
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