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by xMUGIx
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ロマノフ朝

◆1917年


■01月01日ラスプーチンの死体が川で発見される
■01月02日ラスプーチンの遺体は司法解剖ののち
亜鉛製の柩に入れられてツァールスコエ・セローのフョードル大聖堂へ運ばれた
■01月03日ラスプーチンの葬式が行われる


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アンナ・ヴィルボアの付き添い医師 ジューク

私はアンナと皇室庭園に建設中の彼女の教会へ馬車で行きました。
彼女はラスプーチンはあそこに葬られると言いました。
場所は皇后様が御自身でお選びになったのです。
墓の場所は聖堂の中央の左手の十字台のある所でした。
墓穴はすでに掘ってあり、その中に棺があるのを見ました。
我々が墓に到着してから10分ほど後に、
皇帝と皇后と子供達を乗せた自動車がやってきました。
葬儀が終わると、森の中に配備されていた秘密警察の諜報員達が墓に土をかけました。


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皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン

ラスプーチン様が亡くなられた事を耳にすると、私はツァールスコエ・セローへ行き
そこで1泊してラスプーチン様の埋葬にも列席しました。
太陽は紺碧の空に輝き、固く積もった雪はダイヤのようにキラキラしていました。
私は馬車を止めて、建設中の教会へ向かいました。
ソリの鈴の音が聞こえ、アンナがやってきました。
同時に自動車が止まり、喪服の皇帝一家が到着されました。
皇后はとても青い顔をしていらっしゃいましたが、落ち着いておられました。
棺は結局開けられませんでした。皇帝と皇后はこの出来事に打ちのめされていました。
皇帝と皇后が棺の上に土を落とされたあと皇后が大公女達と私達に白い花を配られ、
みんなで棺の上にまきました。


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ニコライ2世の日記 1917年01月03日

朝9時に家族全員で出かけ、野中の礼拝堂に着いた。
12月17日の未明にユスポフの家で悪党どもに殺された
忘れる事のできぬグリゴリーの遺体を納めた棺がもう墓穴に下ろされていた。
神父が追悼の祈祷を行い、私達は家に戻った。
午後は子供達と散策を楽しんだ。


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ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記

ラスプーチンの暗殺者達が行った事は中途半端な措置である。
なぜならば、皇后もプロトポポフも始末しなければならないからだ。
そうしなければ、いっそう悪くなるだろう。


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ニコライ2世の日記 1917年02月10日

2時にアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公が来て、
私も交えて寝室でアレクサンドラと長いこと話し合った。


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アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の手紙

ロシアの内部にある力が、君をロシアを避ける事のできぬ破滅へと導いてゆく。
ロシアは皇帝なしには存在しえない。
だが忘れてはならないのは、皇帝一人ではロシアを統治する事はできないという事だ。
諸々の事件が君の助言者達が、君とロシアを確実な破滅へ導いている事を示している。
進言する声に君がまったく耳を貸そうとしない事に絶望を感じざるをえない。
今や政府は革命を準備する機関である。
我々は下からのではなく、上からの革命というかつてない光景に際会している。

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■アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は皇后に家事に専念する事を懇願した。
皇后はサンドロの言葉をさえぎったが、彼はかまわずに続けた。
皇后は声を張り上げた。彼も負けずに声を高めた。
この荒々しい会話が続く間、皇帝はパイプをくゆらしていた。
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は、
いずれ彼女が彼の正しさを認める日が来ると予告して辞去した。


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国会議長 ロジャンコ

「顔ぶれの交代だけでなく、全統治システムの交代が緊急の対策です」
「君たちは皆プロトポポフの退任を要求しているが、
どうして君達全員は彼をそれほど嫌うのかね?」
「要求します。これまではお願いでしたが、今は要求します。
陛下、我々は重大な事件の前夜にいます。その出口はもはや予見する事ができません。
私は断言します。3週間も経たぬ内に、ものすごい革命の火が燃えさかり、
あなたも皇帝の地位に留まる事ができなくなるでしょう」


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皇后から皇帝への手紙 1917年03月07日

私の大切な人、強くなって下さい。これがロシア人に必要なのです。
今こそ彼らに拳骨を感じさせなさい。彼ら自身がそれを願っているのです。
どれほど多くの人から「我々に必要なのは鞭だ!」という言葉を聞かされた事でしょう。
奇妙な事ですが、これがスラヴの本性なのです
彼らはあなたを恐れる事を学ばねばなりません。愛だけでは足りません。
子供は父を熱愛していても、父を怒らせる事を恐れなければなりません。


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■03月08日 二月革命(旧暦での呼び名のため新暦とはずれる)
ペトログラードでストライキが始まった。
8万人の労働者が立ち上がり、パン屋の前に飢えた人々の長い列ができた。


■同時期、皇帝一家の子供達が次々と麻疹にかかる


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皇后から皇帝への手紙 1917年03月09日

オリガとアレクセイが麻疹にかかりました。
他の娘達も感染を避けられないなら早くかかった方がいいと思います。
その方がみんな一緒で楽しいし、そんなに長いことではないでしょうから。


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皇后から皇帝への手紙 1917年03月10日

昨日騒動がありました。貧民がパン屋を襲ったのです。
彼らに対してコサックが差し向けられました。
ストライキと市内の混乱はもう挑発を超えるものです。
これはもう無頼の徒の騒乱で、パンが無いと叫び立てています。
これは単にパニック状態を作り出すためです。
そして労働者は互いに働くのを邪魔しあっているのです。
こんなことはみな、国会がしっかりやりさえすれば何事もなく収まるでしょう。


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■しかし3月11日には、
皇帝は兵士達が暴徒に発砲する事を拒否し反乱者側に移ったという報告を受けた。
ロジャンコは皇帝に絶望的な電報を送った。
しかし電報は深夜に届いたため、皇帝がこの電報を見たのは翌朝になってからだった。


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国会議長 ロジャンコの電報 1917年03月11日

首都は無政府状態。政府機能はマヒし、交通は乱れ、食料と燃料は完全に消滅。
軍は敵味方に割れ、通り通りでめちゃくちゃな銃撃戦が行われている。
一切の逡巡は死を意味する。責任が皇帝にかからぬ事を神に祈るのみ。


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皇帝の日記 1917年03月11日

報告はちょうどいい時間に終わった。10時にミサに行った。
アレクサンドラに手紙を書いてから、馬車で小礼拝堂へ出かけた。
夜、ドミノをやった。


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皇后から皇帝への手紙 1917年03月11日

市内の混乱についていろいろと噂されています。20万人以上だと思います。
我が国は本当に馬鹿です。
すべての不幸は、ぼやぼやしている民衆、着飾った人々、負傷した兵士、
騒ぎを煽り立てる女子学生などのせいです。なんという腐り切った人達でしょう!
今日は本当に暖かい日です。
子供達が自動車でさえドライブができないのは腹立たしい思いです。
私は【私たちの友】の懐かしいお墓に詣でて大きな心の安らぎを感じています。
【私たちの友】は私達を救うために死んだのです。


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■03月12日 前日の電報に返事がなかったため、ロジャンコは再び電報を送った。


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国会議長 ロジャンコの電報 1917年03月12日

状況は悪化。ただちに措置を取る必要あり。明日ではもう遅い。
祖国と王朝の運命が決せられる最後の時が来た。


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ニコライ2世の日記 1917年03月12日

ペトログラードで数日前から騒乱が始まった。
遺憾な事にそれに軍隊が参加しはじめた。
報告を受けるのは簡単に済ませた。午後散歩した。
ディナー後できるだけ早くツァールスコエ・セローへ出発する事にして
1時に列車に移った。


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皇后の友人 ラスプーチンの信者 リリ・デーン 1917年03月12日

「私には理解できない。革命だなんて私は信じません。
騒ぎはペトログラードだけなのよ」

「皇帝に電報を打ち、すぐ帰ってくれるように頼みました。彼は14日の朝着きます。」
「娘達にはどうしてもという時まで話したくないのよ」


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■しかし、皇帝は首都に戻る事はできなかった。
すでに全駅は反乱軍に占拠されていた。
監獄は解放され、警察署は破壊され、警官は捕えられている。
街には民衆があふれ、至るところ旗や赤い布で覆われていた。
03月13日、ツァールスコエ・セローの守備隊が蜂起した。


■03月15日 皇帝ニコライ2世退位


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ニコライ2世の日記 1917年03月15日

私は同意した。大本営から宣言案を送ってきた。
夜にペテルブルクから前国会議長グチコフと国会議員シューリギンが到着した。
私は二人と話をして、推敲し署名した宣言文を渡した。
周囲は裏切りと小心、そして欺瞞だけだ。


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皇后の友人 ラスプーチンの信者 リリ・デーン 1917年03月15日

皇后は皇帝が退位したという新聞を見せられた。
「いいえ、嘘です。私は信じません。新聞の中傷です」

「リリ、船舶隊が見捨てて行ってしまったの!」
「どうして、いったいどうしたというのですか」
「彼らの指揮官のキリル・ウラジーミロヴィチ大公が呼び寄せたのよ。
私の水兵、私だけの水兵、信じられない」


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皇后から皇帝への手紙 1917年03月15日

私はあなたの事を何も知らないし、あなたも私達の事を何も知らないと思うと、
私は胸が張り裂けそうです。
すべてが忌まわしい事ばかりで、事件は恐ろしい速さで進展しています。
自分たちの君主を拘束するなんて、歴史に例のない最大の辱めであり卑劣な行為です。
国会と革命家達は二匹の蛇です。互いに頭を噛みちぎりあえばいいのにと願っています。
でも私は固く信じています。何ものもこの信念を揺るがす事はできません。
あなたは譲歩を強いられても、絶対にそれを実行してはなりません。
私は神が何かしてくださると感じています。
【私たちの友】の十字架を身に着けて下さい。


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皇后の友人 ラスプーチンの信者 リリ・デーン 1917年03月16日

ドアが開き皇后が姿を見せました。顔は苦しみに歪み、目は涙でいっぱいでした。
よろめくような足取りで、私は駆けよって皇后を支え、窓際の机までお連れしました。
皇后は机にもたれかかって私の手を握り、とぎれとぎれに
「アブディクー、アブディクー」(フランス語で退位の意味)と言われました。


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ブクスヘヴェデン男爵夫人 1917年03月16日

「結局はよくなるでしょう」と皇后は言われました。
「これも神の御意志なのです。神はロシアを救うためにこうなさったのです」
私達がドアを閉める時、皇后が椅子に倒れこまれ手で顔をおおって
痛ましそうにむせび泣かれるのが見えました。


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皇后から皇帝への手紙 1917年03月16日

緑色の寝室に聖母のイコンを供えて、
素晴らしい祈祷とアカフィストが行われました。
すべてが良くなります。良くならなければなりません。
私は自分の信念にいささかの迷いも感じません。

つい今しがたパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公が来て、すっかり話してくれました。
私はあなたの行為がすっかりわかりました。私は誓って断言します。
私達はあなたの国民と軍によって奪い返された帝位に
再び立つあなたの姿を見る事になるでしょう。


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■退位の署名を終えた皇帝は、軍隊に最後の挨拶をするため大本営に引き返した。


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皇帝の日記 1917年03月17日

キエフから到着するママを迎えに駅に行った。
ママを家に連れて行き、身内達も加えて食事をともにした。
長いこと語り合った。


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■皇太后は3日間モギリョフに滞在し、御召列車の中で過ごした。
皇帝一族の出発について話し合いを進めていた。イギリスに亡命するつもりであった。
ニコライはアレクサンドラの元に帰るまでにすべてを調整しようとしていた。
しかしそれは許されなかった。臨時政府はロマノフ一族の逮捕を決定したのである。


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ニコライ2世の日記 1917年03月21日

12時客室内のママの所に行って、ママや側近達と会食、4時半までそこにいて
ママ、アレクサンドル・ミハイロヴィチ、セルゲイ・ミハイロヴィチ、
ボリス・ウラジーミロヴィチらと別れの挨拶。


*これがニコライと母親の最後の別れとなる
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■1917年03月22日 ニコライはツアールスコエ・セローに帰宅
ニコライの帰宅までにアレクサンドラはお気に入りの藤色の間の暖炉で書類を焼き続けた。


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皇后の友人 ラスプーチンの信者 リリ・デーン 1917年03月22日

03月22日、宮殿の扉に錠が下ろされました。
私は藤色の皇后居室まで降りて行きました。
皇后は私を待っておられましたが、その立ち姿はとても少女少女して見えました。
長い豊かな髪を編んで背中にたらし、パジャマの上に絹の部屋着を着ておられました。
とても青白い透き通るようなお顔で、なんとも言えず痛ましい御様子でした。
私が長椅子の上にベッドを作っているのを御覧になって、笑いながら近寄ってこられました。
「リリ、あなた方ロシア婦人はベッドの作り方をよく御存知ないのよ。
私は少女の頃、御祖母様のヴィクトリア女王がベッドの作り方を教えて下さいましたのよ」
私には眠ることができませんでした。私は皇后の藤色の長椅子に横になって、
ひょっとしてこれは夢ではないかしら、
突然ペトログラードの私のベッドで目が覚めるのではないかしら?
でも皇后の寝室から聞こえる咳は、悲しい事に夢でない事を知らせている。

「私は散歩に行こうと思っている」と皇帝はおっしゃいました。
皇后とアンナと私の3人が窓から見ていました。
兵士達が拳と銃で皇帝を押し戻して、まるで浮浪者を扱うように皇帝をからかいました。
「あんたはあっちへ行ったらいかんのだ」「俺たちはあんたをそっちの方には行かせないよ」
「命令されたら言う事を聞くんだ」皇帝は向きを変えて宮殿の方に戻って来られました。
私はこの時まで革命の恐ろしい権力を本当に理解していなかったと思います。
皇帝が右往左往するのを見ると、
今まで広大な領地を持っていた皇帝が
今は自分の庭園の数メートルしか歩けないという事を、
私達は否応なく思い知らされたのでした。

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■アンナとリリが逮捕される


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ニコライ2世の日記 1917年04月03日

司法大臣ケレンスキーが突然来訪、
かわいそうにアンナを逮捕し、リリとともに町へ連れ去った。


*これがニコライ一家とアンナの最後の別れとなる

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皇后の友人 ラスプーチンの信者 リリ・デーン 1917年04月03日

皇后は恐ろしいほどの意志力で微笑まれました。
「リリ、苦しみによって私達は天国で清められるのよ。この別れは小さい事なのよ。
私達は別の世界でまた会いましょう」


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ニコライ2世の日記 1917年04月05日

所持品や本を整理して、
イギリスに行く時に持っていきたいと思う物を選り分ける仕事を開始。


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ニコライ2世の日記 1917年05月01日

本日は外国ではメーデー。そこで我が国の阿呆どもは、
楽隊つきで赤旗を押し立てた街頭行進でこの日を祝う事に決定した。


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■ラスプーチンの遺骸が掘り返され、焼却された。
棺の中から小さな木製のイコンが発見された。
イコンの裏側には皇后と4人の娘達とアンナの署名が紫色のインクで記されていた。


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オリガ皇女から叔母オリガ・アレクサンドロヴナ大公女への手紙 1917年07月04日

かわいそうなママは恐ろしく退屈しています。
新しい生活とここの環境に、どうしてもなじめないでいるのです。
クリミアに一緒に行けるのですから、一般的に言って私達は感謝してもいいぐらいなのに。


*皇帝一家は、夏にクリミアに移送されるものと思っていた。

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ニコライ2世の日記 1917年08月10日

我々が送られる先はクリミアではなく、旅程3日ないし4日の東方の県であると知らされた!
具体的にどこであるかは誰も教えてくれないし、警備司令でさえ知らないという。
我々は皆リヴァージァに長期滞在する事をあれほど期待していたのに!


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皇后からアンナ・ヴィルボヴァへの手紙 1917年08月14日

私達がどこへ行くのか、どれだけ時間がかかるのか、誰も教えてくれません。
でも、あなたと私たしの仲間が前の夏に行ったあの場所ではないかと思っています。
〔アンナとリリはラスプーチンの故郷トボリスクへ行った〕
我らの聖者と【私たちの友】が、あそこで私達を呼んでいます。
素敵じゃないですか。


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女官 エリザヴェータ・ナルィーシキナ公爵夫人の日記 1917年08月14日

最終的に判明した所では、御一家はトボリスクへ連れていかれる。
皇帝は顔色がひどくお悪くなり、お痩せになった。
皇后は気丈にも希望を持ち続けておられる!
親愛なる友ラスプーチンの生家の近くに行くのを喜んでおられるのだ。
皇后のメンタリティは何も変わっていない!


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■08月14日 皇帝一家はトボリスクへ移送


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皇后から女友達への手紙 1917年10月30日

ああ、なんという人達でしょう!
志の低い意気地なしばかり。根性もなく、祖国と神への愛もない。
だから神がこの国に罰を与えておいでになるのです。
聞き分けのない子供を罰する親のような気持ちで、神はロシアに接しておいでなのです。
ロシアは神に対して罪を犯してきましたし、今も神の愛にふさわしい国ではありません。
しかし神は全能で何でもおできになります。
最後には苦しむ者達の祈りを聞き届けて、お赦しになり助けて下さいます。

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■11月07日 十月革命(旧暦での呼び方のため新暦とはずれる)


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皇后から男友達への手紙 1917年12月12日

10月革命の事はたくさんの人がすでに、
あれは全部ユートピアだった妄想だったと悟っています。
彼らの理想は泥と恥辱にまみれて崩れ去り、
ロシアにとって良い事は何ひとつ成し遂げませんでした。
こういった理想家達を、私はかわいそうだとさえ思います。
彼らは自分の事だけを考えて祖国を忘れていたのです。
すべて口先ばかり、騒ぎばかりだったのです。
しかし全国民が堕落したわけではなく、誘惑に負けただけなのです。
非文化的な野蛮な国民。でも神は我が哀れなロシアのために力を貸して下さるでしょう。


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皇后から男友達への手紙 1917年12月29日

あまりにも長い間私は自分を国の母だと感じてきましたので、
私と国とは一心同体で悲しみも幸せも分かち合っています。
この国は我々に苦痛を与え、意地悪をし、中傷したりなどしましたけれど、
それでもなお我々は国を深く愛し、その病気が治ってくれればいいと願っています。
性質は悪いけれども良い所もある病気の子供みたいに、祖国もまた愛おしいものです。


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by xMUGIx | 2008-02-17 00:00 | ロシア
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