直球感想文 洋館

2017年 更新中
by xMUGIx
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愛新覚羅氏

川島浪速は満州浪人の大将と呼ばれた男で、
満蒙独立運動に関心のある大陸浪人や学生が多く出入りしていた。
赤羽字稲付(現在の赤羽2丁目)にあった川島の屋敷には桜の木が200本もあり、
近所からは【お花御殿】と呼ばれていた。
来日した芳子は、まず赤羽の東京府立豊島師範付属小学校に入学した。
紫地に浮き織りの地厚な袴を胸高にはき、黒の編み上げ靴を履いて通った。
1学年下の劇作家田中澄江も、一般児童がセルの袴をはいている中で、
紫緞子の芳子は目立ったと回想している。


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幼なじみ 石川倫

芳子さんの美しさは雛の段から抜け出してきたお姫様のようで、
その印象は今でもはっきりと覚えている。
庄野という老婦人や多くの書生・下女達にかしずかれていたが、
いつでも孤独であったらしい。

彼女はよく唱歌を歌った。おもちゃには人形らしきものはなく、
オルガン・お手玉・まり・竹馬などであった。
竹馬は物干し竿のように丈長で、
乗る時は物置小屋の屋根からとか塀によじ登ってから乗り移ったりしていた。

ザクロの蕾のような唇からもれる声は太く、
箸でちぎったようなぶっきらぼうな言葉遣いはおよそ男性的であった。

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小学校の1年後輩 劇作家田中澄江

芳子は私達が先生と呼んでいた実習生を「おい、君」とよんでいた。
赤羽にあった川島邸からいつも紺絣に小倉の袴の書生がついて来ていたが、
その名を呼び捨てにしていた。
満州浪人の大将と言われていた川島邸は、椎の大木に囲まれた庭の広い家で、
玄関に出迎える女中、芳子の部屋へお茶とお菓子を運ぶ女中の違ったのと、
芳子がやはり「おい」と命令していたのを覚えている。

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小学校の同級生 大河内一雄

きれいな洋服を着て愛らしかったばかりでなく、態度言動はまことに活発であったので、
たちまちクラスの人気者になった。

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川島家に出入りしていた士官学校生 鈴木常喜への取材

生徒たちが庭で談笑にふけっている真ん中めがけて、
芳子は自分の頭の3倍もあるようなマリを二階から投げ下ろしてくる。
大急ぎで駆け下りてくると、青年たちを歯牙にかける様子もなくさっとマリを拾うと、
また二階へ男の子のように駆け上ってゆくのである。
二階へついたと思うと、また生徒たちの中へマリを投げ込んでくる。
(きれいなかわいい、しかしなんと乱暴でお転婆なお嬢さんなのだろう)
そんな印象を鮮やかに残していた。

男の子達がキャッチボールをしていて芳子の足元にボールが来た時、
さっと取って別の方向に投げた事や、書生や女中を呼び捨てで「おい」と命令したり、
他の生徒が先生と呼んでいた実習生を「おい、君」と呼んでいたことも覚えている。

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跡見女学校時代の芳子をよく見かけた赤羽の開業医 石井正文

車輪の音をきしませながら、一頭立ての馬車が赤羽駅前広場に止まる。
御者は姿三四郎そっくりの格好をした書生である。
馬車を止めると直ちに後部のドアを開けて丁重に一礼、
「姫様、行ってらっしゃいませ」と挨拶を申し上げる。
中から茄子紺の女学校の制服を着た、
輝くばかりの美貌の少女が袴を淑やかにたくし上げながら降りてきた。
「御苦労さまでしたわね」とにっこり微笑みながら、改札口に入ってきた。
赤羽駅の女王が出現したのだ。
駅頭の人々は男女を問わず、みな呆然と見とれてしまった。

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跡見女学校時代の教師 井上幸子への取材

「御自分の意見ははっきりおっしゃる方でした」と回想している。
井上によれば、芳子は雨の日に他の生徒が上手に歩いてくるのを、
かまわず歩いて袴をびしょびしょにして、学校に着くなり
普通では恥ずかしくてできない袴なしで、平気で乾かしていたという。

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松本高女時代の先輩 山崎わごへ

松本座という芝居小屋で開かれた音楽会では、芳子さんの紫色の羽織が男性の間を駆け巡って。
誰とでも握手したり笑ったり騒いだり。まあその音楽会の時なんてのは、もう蝶々のようでしたねえ。
帰り道でも松本第一中学の生徒だとか松高の生徒なんかが、後ろなり前なり彼女を囲んで。
もう本当に女王様だったね。

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芳子の同腹弟 愛新覚羅憲東

連隊旗手 山家亨は後に満州に渡り、満映の甘粕大尉の元で大陸の芸能界を支配した。

松本時代の山家さんの下宿は、浅間温泉にありました。
芳子が彼の部屋の表に立って窓越しに山家さんと話している様子は、
子供心にも何かしら切ない関係を感じさせられたものです。

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大和丸事件
芳子に思いを寄せていた大和丸こと森山英治が、芳子を川島から奪うと騒ぎ立て、
09月10日から一週間ばかり新聞で連日報道された事件。

2ヶ月後の11月21日には、
『支那語が取り持つ芳子さんの結婚 松本五十連隊の中尉と出来上がった恋』が報道される。

芳子に説教をした某氏とは愛国党の志士岩田愛之助と言われる。


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原田まつしま ※意訳

大正13年10月31日原田は子供を連れて川島邸を訪ねた時、断髪直後の芳子に出会う。
「私も驚いたが、子供も驚いてまじまじと眺めている。芳子は子供に向かって、
『今日からお兄ちゃんと言うのだよ』と宣言した」
帰りがけに芳子は大声で原田に、
岩崎氏には髪を切り落とした事を内緒にしておいてくれと頼んだ。
ところがその日の夕方、
芳子自身が坊主頭に絣の筒袖、朴歯の下駄といういでたちで岩崎邸を訪ねていた。
原田は「それでは今朝大声で頼んだことは何のためであったか」といぶかっている。
髪を切った事について原田は川島浪速とは一切語り合わなかったが、
「さぞ父としては気にらなかったことであろう」

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朝日新聞 1925年大正14年11月22日

さる25日の火灯し頃、温泉町の信州浅間の支那料理松本亭の土間に、
高い朴歯の下駄をつっかけ早大の制服を着たグルグル坊主の眉目秀麗な青年が、
「おい女中さん、酒を持ってこい」と強いてきつそうな声を出して
側の老人にしきりに杯を重ねさせていた。
バンカラなこの青年学生こそ、例の川島芳子嬢の変装姿であった。
芳子さんは断髪して男装を始めたのである。これには複雑した悲喜劇がある。
さきに大和丸の自己宣伝で世間の噂になった時、憤慨した某氏が
「そんな噂があっても、お嬢さんには絶対そんな事実があるはずがないと
世間が自然に打ち消すまで修養しなければ駄目です。
死んだ同志や祖先に対して何と申し訳をされる」と猛烈に教訓をやって玄関まで退出すると、
芳子嬢の居間でズドンと銃声が怒った。
ハッと思って駆けつけると、芳子嬢は朱に染まって苦悶していた。
机上には『自分のために皆を心配させて申し訳がない』と鉛筆の走り書きがあった。
驚いた一同はすぐに医師を招いて応急手当を加えた結果、
幸いピストルの弾は外れ命は取り止めた。この事実は当時秘められていた。
そして苦悶の生活を続けていた芳子嬢は、またも弟の元に支那語の稽古に出入りしていた
中尉山家亨との間にあられもない艶っぽい宣伝が行われた。
女ながら清朝復古を理想とし使命としているという男勝りの芳子嬢は、
「自分が女でいるから面倒が起る」と数日前家人の隙をうかがって自分で黒髪を切り、
間もなく床屋へ行ってきれいなクルクル坊主になってしまった。
そして和服の時は書生のように朴歯の下駄をはいて歩く姿に、
川島氏ら一同も今更のように舌を巻いている。

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芳子の実姪/義妹 愛新覚羅廉鋁/川島廉子 松本高女に留学

芳子は時々背骨の第二関節が痛いと言っておりまして、
カリエスだと聞いた事もあります。
左胸のピストルの傷も見せてもらった事があります。

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朝日新聞 1926年大正15年10月21日 ※意訳

奥さんを連れて芳子嬢が大連へ 長野高女を3年でよして芳子嬢に走った夏子さん

春まで金ボタンの詰襟だった芳子嬢は、
今度は黒の背広に中折帽という装いであっぱれ紳士ぶりを発揮しているが、
野尻村の前村長の孫夏子さん(17)が芳子嬢と一緒に暮らすと大連行きを決意し
高校を辞めてしまったが、芳子嬢は「これが僕の奥さんなんです」と紹介している。
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1927年昭和02年、20歳の芳子は24歳のカンジュルジャップと結婚。
カンジュルジャップも赤羽の川島家に留学していたので、
小さい頃からの幼なじみでもあった。
結婚して中国に渡るが、3年後芳子は家を出たまま帰らなかった。
それからの芳子は男性遍歴を繰り広げることになる。


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芳子の同腹兄 愛新覚羅憲立

「カンジュルジャップが絶え間なく手紙を寄こすし、
自分も彼を嫌いでないから結婚しようと思う」と言うのを聞いて、
本人がその気ならと私は結婚を許可しました。
たしか、張作霖事件の前年だったと思います。
親父が亡くなった以上、
長男〔同腹の長男、全兄弟の長男は別〕の私が許可を下す役にあるわけです。
彼と芳子は子供のころ赤羽の川島邸で一緒に暮らした事もあるし、
客観的に見れば良い組み合せでした。

正確に言うと、離婚ではなく家出です。
当時は法的な結婚手続そのものがありませんでしたから。

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芳子の異腹姉 愛新覚羅顕珴

二人の仲は決して険悪だったわけではなく、
カンジュルジャップはいつ芳子が帰ってきてもいいように
家の中を整頓して待ち続けていたのが痛々しいほどでした。

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芳子の同腹兄 愛新覚羅憲立

カンジュルジャップは蒙古の楊王の孫娘にあたる17歳の女性と再婚する。
芳子はその結婚式に現れ、祝辞を述べた。

そもそも再婚相手を探してあてがったのは芳子なんですよ。
その日、式服のカンジュルジャップ夫妻と
ベレー帽をかぶった芳子とが並んで撮った写真を私は見ています。
芳子は自分はあくまでも【正妃】であり、
主人に【第1側妃】を持たせたと考えていたんじゃないかと思います。

カンジュルジャップは後妻との間に6人の子供をもうけたが、
芳子は後妻が出産するたびに、おもちゃなどを持って駆けつけた。

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信濃毎日新聞 1931年昭和06年05月14日

エログロの権化、川島芳子の此頃

問題の令嬢川島芳子は目下当地の支那旅館中華ホテルに滞在し、
国民政府の要人連を訪問し何事か画策中であるが、
夜になると各ダンスホールを飛び回ってエロ気分にひたっておる。
彼女は自らジャンヌ・ダークを気取って清朝の回復を叫び、
特に反蒋問題の中心となっている胡漢民氏に会見を望んで日本公使館に運動中である。
彼女の行動は猟奇的な支那側要人から非常に注目されているが、
エロとグロの権化のような彼女はあまりにバンプぶりを発揮するので
かえってその精神状態を疑われ、
そのうえ経済的にも困り抜きホテルの支払いも相当滞っている。

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満州事変が勃発、マスコミが描く芳子のイメージも大きく変わる。
昭和05年上海で陸軍特務機関田中隆吉少佐と愛人関係となる。
【謀略の田中】と呼ばれたほどで、大陸政策の闇の部分を支えた人物である。
芳子は鳥打帽に背広姿の男装で諜報活動を行い、田中の指示で上海事件を起こさせる。
また同年上海で16歳の千鶴子と出会い、
千鶴子は身辺の世話をする秘書として3,4年を芳子と過ごした。
後に結婚、戦後も幸せな家庭生活を送った。

田中と関係を続けるかたわら、日本で政治家の今里準太郎とも関係を持った。
1931年昭和06年二人は神田錦町芳千閣ホテルに滞在し、
900円の宿泊代を踏み倒して行方をくらませた。


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婦人倶楽部 1933年昭和08年09月号

千鶴子◆お兄さん(芳子)にも御両親がありませんし、私にも両親がないものですから、
本当にそのおさびしい心持ちはよくわかります。

芳子◆僕の美しい奥さん、いまのさびしい私にとって、たった一人の味方であり同情者。

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朝日新聞 1931年昭和06年11月16日 ※意訳

大連に向かう瀟洒たる背広の青年は、満蒙の風雲急なるに乗じ由緒深き祖先の地に
新しき天地を開拓すべく馳せ向かった芳子の男性に還った雄々しい姿で、
上海で例の断髪洋装のモガスタイルで噂の的になっていたが、満州事変突発し
彼女の祖先発祥地に新しい時代が生まれようとする機会到来に乗じ北上したので、
今後の活躍ぶりを上海人はほほえましく期待している。

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[PR]
by xMUGIx | 2007-01-22 00:00 | 中国
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