直球感想文 洋館

2017年 更新中
by xMUGIx
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愛新覚羅氏

1945年昭和20年、ソ連軍が満州国に迫ったため
溥儀と親族、満州国幹部、日本軍は首都を放棄して
満州鉄道の特別車で朝鮮との国境付近まで避難した。
8月15日、日本が降伏したことにより満州国も崩壊した。

溥儀と溥傑は日本軍機を使い空路で日本に亡命を図った。
婉容と浩たちは同行できず、陸路と海路で日本に向うこととなった。

しかし、溥儀と溥傑は飛行場でソ連軍に拘束されソ連の収容所に送られた。
さらに二人は中華人民共和国に送還され、収容所で中国共産党の「再教育」を受けた。

翌1946年昭和21年、陸路を進んでいた婉容・浩・?生一行も共産党軍に捕らえられた。
おりしも共産党軍と国民党軍との間で国共内戦が始まったため、
一行は共産党軍に中国各地を転々と連れまわされることになる。
途中で婉容は浩母子と引き離される。
やっと釈放された浩母子は日本への引揚船が出る港へ向かったが、
今度は国民党軍に身柄を拘束された。
旧知の元日本人軍人の手引きで脱出し、引揚船で日本に帰国することができた。
この時、浩の体重は30キロになっていた。

1945年昭和20年08月10日、関東軍は総司令部を新京から通化に、
そして首都も新京から臨江に遷都することに決定、
08月13日、新京駅から浩&嫮生らが御召列車に乗り、
東新京駅から溥儀・婉容・溥傑らが合流し、通化駅で関東軍が合流した。
翌日臨江駅に到着したが、臨江では適当な家屋を見つけられず、
さらに列車で大栗子駅を目指した。

一行は大栗子の東辺道開発株式会社の大栗子鉱業所の社宅に落ち着くが、
08月15日日本の敗戦を知る。満州国はわずか13年で滅びた。
関東軍から大栗子にいる溥儀に示された亡命案は、
通化から小型飛行機で朝鮮の平壌に向かい、そこで大型機に乗り換えて東京へ行き、
京都の都ホテルに入るというものであった。
小型機は3機のみであったので、
溥儀・溥傑・三格格の夫潤麒・五格格の夫万嘉熙など男性13名。
皇后・皇妹・浩たちは陸路で朝鮮に入り、そこから日本に向かうことになった。
08月18日溥儀一行は大栗子駅を立ち、翌19日鉄路で通化に到着。
しかし平壌を経由する亡命ルートは変更され、通化飛行場から奉天に向かって飛び立った。
1番機が奉天飛行場に着陸した午前11時には、飛行場は日本側の管理下にあった。
2番機が到着すると同時に十数機のソ連軍機が滑走路に降り、溥儀一行は拘束された。
一行はシベリアのチタを経てハバロフスクに送られ、長い抑留生活が始まる。
そして浩と嫮生も2年近く、母子で中国大陸をさまようことになる。


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溥傑の娘 福永嫮生

父は東京で姉に会える事を楽しみにして、母が準備した洗面道具や着替えも
「明日は東京だから」と何も持たずに行ったようでございます。
わたくしは大栗子で父と別れたのですが、まさかその後16年もの長い間
離れ離れで暮らす事になるなど、思いもよらない事でございました。

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溥儀一行がソ連に連行されたことを知った陸路組は、
関東軍からの連絡も途絶え、電話もラジオも通じない大栗子で孤立する。
仕方なくまた臨江に移った。
1946年昭和21年01月、二格格韞龢の夫鄭広元が自身の安全と引き換えに共産党軍に密告、
婉容・側室李玉琴・浩・嫮生の4人は最重要人物として帝妹たちと引き離され通化に連行される。
ソ連軍は同年03月から04月にかけて本国に撤収していった。
ソ連軍の撤退を追うように国民党軍が北上してくる。
そこで04月共産党軍は浩たちを連れて長春に移動する。

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溥儀の第4夫人 李玉琴

言葉が通じないためほとんど話はしませんでしたが、
同じ部屋に寝起きしてみれば嵯峨浩だっていいところがある。
一枚しかない布団を大人二人が引っ張り合って寝ているのを見かねて、
二枚持っていた掛布団を一枚貸してくれました。
あんな大寒の最中に布団を貸すなんて立派な行為は、誰にもできる事じゃないですよ。

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李玉琴は長春で釈放されるが、婉容・浩・嫮生は吉林へ連行された。
その後撤退する共産党軍とともに浩らは長春→吉林→延吉→チャムスへ
と移動を強いられることになる。

延吉では「漢奸偽満州国皇族一同」と書かれた大きな白旗がくくりつけられた荷馬車に乗せらた。
沿道の人々は罵声を浴びせ、荷馬車に石を投げつけた。

06月、浩と嫮生は延吉からチャムスへ連行されたが、
婉容は延吉に放置され死亡した。

浩と嫮生はチャムスで釈放され、ハルビンへ送られた。


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溥傑の娘 福永嫮生

母は逡巡の末に、【濱口幹子】という偽名を名乗りました。
蓑笠にモンペ姿でわたくしの手を引いて開拓団員になりすまして、
引き揚げの日本人の中に紛れこんだのでございます。
濱口は母の実家の姓で、幹子は末の妹の名でございます。

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浩と嫮生は、ハルビン→長春→四平→奉天を経て09月錦州に着いた


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満州国立ハルピン農業大学教授夫人 弘永きぬえ

*錦州の難民収容所で浩母子と過ごした日本人

お会いしましたとき浩様はひどく痩せていらっしゃいましたが、
私達と同じモンペ姿でとても気さくにお話される方でした。
やんごとないお姫様でいらっしゃるのに、ご自分の事は何でもなさいました。
浩様は物静かな中にもはっきりとお話する方で、
どんなにボロをきていても美しく気品にあふれ高貴さが漂う方でした。

引き揚げ者は食べる物もなくお水も手に入らなくて、
浩様はお水を買って私達にいつも分けて下さいました。
ソ連に連行された溥傑様の事を大変心配なさっていて、
毎日ご無事を祈ってらっしゃいました。
溥傑様の話になるととても悲しいお顔をされて。
でも日本にいらっしゃる慧生様の事などを話される時は、とても明るい顔をなさいました。
嫮生様はくりくりしたお目々の人懐っこいかわいいお嬢様でしたよ。
嫮生様は大事な大事なお芋を食べる時は必ず、私達にもちぎって分けて下さる。
でも下痢はひどく、とても痩せていらしたのがお可哀想でした。

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ようやく引き揚げ船が航行することになったので、
錦州の収容所にいた引き揚げ者は次々と船の出る葫蘆島の収容所へ移って行った。


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溥傑の娘 福永嫮生

わたくしたちは港に近い収容所に入りまして、
「あと何日で日本に帰れる」と母と二人で指折り数えて帰国の日を待っておりました。

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しかし浩と嫮生はともに引き揚げてきた【ハルビン日本人会】のある人物の密告により、
乗船直前に今度は国民党軍に戦犯として逮捕されてしまう。
浩と嫮生は汽車で北京に連行され、数日後上海に連行される。


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溥傑の娘 福永嫮生

わたくしたちは木綿のチーパオを着せられ日本語で話す事を禁じられ、
今度は国民党軍の飛行機で上海に連れて行かれたのでございます。

わたくしは相変わらずお腹が痛くてトイレに行ってばかりおりましたし、
ひどく痩せて顔色も青く、誰の目から見ても衰弱していたようでございます。

母の機転でございます。往診がきっかけでわたくしたちの存在が外に洩れて、
幸運が幸運を呼んだのでございます。

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浩母子が上海にいることが、岡村寧次元司令官の【上海連絡班】に伝わり、
彼らの手引きで浩母子は救出される。


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救出にあたった田中徹雄元大尉

濱口幹子―それまでに聞いた事のない名前だった。
「その女がいったい何をしたっていうんだ?」
私はその話を持ち込んできた元軍医岡田某
(女優岡田嘉子が娘時代に書生との間にでき子供という)に聞いた。
彼もはっきりわからないらしい。
得体は知れないが、その女は軟禁されている、だが偉い女らしい。
わかるのはそれだけだと言う。とにかく間違いなく日本人だとも言った。

終戦事務連絡班は、この女性を救出する計画を立てた。
昭和21年秋、上海。すでに日本軍は帰国し、居留民もあらかた帰国が完了して、
戦犯以外にはほぼ引き揚げた済んでいた頃だ。
引揚船はこれが最後になるおそれがある時期だった。
もし残してゆけば川島芳子なみに漢奸として扱われ、銃殺は火を見るよりも明らかだ。
終戦事務連絡班の同僚達の中には、
「せっかく助かった命じゃないか、いまさら危ない事はよせ」と言う者もいた。
私にしてみれば、戦犯として死刑にされても文句は言えないこの身だった。
なんらの得にならない事をやってもるのも、
「既に亡くなっていても文句の言えない俺の生涯にとってたしかに一興だ」
私はそう思っていた。

さっそく戦犯管理所に友人を訪ね、それとなく情報を聞き出した。
その話により、濱口幹子は実は満州国皇帝の弟の妻愛新覚羅浩さんである事がわかった。
彼女が日本人とわかれば、当然居留民として帰国させねばならない。
中国側はなんとか秘密裡に彼女を中国人に仕立て、
漢奸として銃殺を狙っているのではないか。
日本人である事は衆知の事実にもかかわらず軟禁という事は、
戦犯管理所長に含むところがあるに違いない。
とすれば表面からかけあっても無駄だろう。
要は愛新覚羅さんの身柄を日本人側に奪還してしまう事だ。
そしてあくまでも濱口幹子として日本へ帰す事が最上の策だ。

私は密かに彼女の軟禁されている家の周囲を探ってみた。
潜入には夕刻が適当と判断した。
下調べを済ませ計画を綿密に立てると、私はすこぶる朗らかになった。
私は予定通り一人で自動車を運転して行った。
案外警備は手薄で、思ったより簡単に屋内に忍び込む事ができた。
愛新覚羅さんはかなりびっくりしたようだった。
「明日中に戦犯を残して全部引き揚げる事になりました。
今あなた方が逃げないともう帰国の望みはなくなります。
私を信用して、とにかく荷をまとめてついてきて下さい。
ここさえ出れれば、後はどうにかなります。」

手回り品を乗せ彼女とそのお嬢さんの二人を助手台にもぐらせると、
ありったけエンジンをふかした。こうなればフルスピードで逃げるだけである。
後から中国兵がばらばらと飛び出してくると、「止まれ!止まれ!」と怒鳴った。
そして鉄砲を続けざまに撃ち込んできた。鉄砲の弾丸はそれほど命中するものではない。
計画のうまく運んだことが愉快で、心弾む思いだった。


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溥傑の娘 福永嫮生

座席の下に折り曲げて入れられていたお陰で、ケガもございませんでした。
田中様は御自分の命も顧みず、わたくしたちを助けて下さったのでございます。
田中様の御助けがなければ、
わたくしたちはこうして生きて日本に帰ることはかないませんでした。

わたくしは乗船のとき国民党側に見つからないように、
飛行服のようなつなぎの服を着せられて飛行帽をかぶり男の子に変装しておりました。
船が港から離れる時は、母は「エコちゃん〔慧生〕に会えるのよ」と言って泣いておりました。

「帰ってきたのよ。もう心配しなくていいのよ。逃げ回らなくていいのよ。
日本なのよ。よかったわね、よかったわね」
と言うてくれた母の言葉が今でも耳に残っております。
何度も頬ずりして、わたくしを抱きしめてくれました。

身内が懐かしゅうございました。「よく帰ってきたね、よく帰ってきたね。よかった、よかった」
と言うて、祖母は優しい言葉をたくさんかけてくれました。
母は姉を抱きしめて泣いておりました。

母は9貫(33.7kg)ほどに痩せ細り、わたくしも骨と皮だけになっておりました。
無一文で帰って参りましたので、母のものは祖母の服で間に合わせておりましたが、
わたくしと姉の服はすべてミシンを踏んで母が作ってくれました。
入学後も金銭的な余裕がございませんでしたので、
学習院の制服も八重桜の紋章まで母が縫ってくれました。

母が父が必ずどこかで生きていると固く信じておりました。いつか父と再会できる日まで、
わたくしたちが父の名に恥じぬ娘に育ってほしいと、毎日一生懸命でございました。
戦後、女手だけで子供を育てる事の大変さを知っておりましたので、学校の勉強だけでなく
お料理・ピアノ・習字などの習い事も大変厳しゅうございました。
母は「芸術に国境はない」「芸は身を助ける」「何か資格を持つように」とよく言うておりました。
何か特技があれば子供達が自分の力で生きていけると考えていたようでございます。


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左から 嫮生 慧生
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日本に引揚げた浩は、父が経営する町田学園の書道教師として働きながら
実家の嵯峨家で2人の娘を育てた。
中国の収容所にいる溥傑とは一切連絡の取れない状態だったが、
1954年昭和29年に、慧生が中国の周恩来首相に
中国語で「父に会いたい」という旨の手紙を出した。
その手紙に感動した周恩来は溥傑と妻子の文通を認めた。

ところが1957年昭和32年、
学習院大学在学中の慧生が同級生大久保武道と心中自殺してしまう。

1960年昭和35年に溥傑が釈放され、翌年、溥傑は妻子と15年ぶりに再会した。
一家は北京に居住した。
文化大革命が起り、1966年昭和41年には二人の自宅も紅衛兵に襲われたが、
文革が下火になってからは浩が日中を何度か行き来している。


1968年昭和43年、嫮生が日本で結婚。
夫は母の妹泰子の夫の甥で、5人の子供に恵まれる。
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1987年昭和62年 浩、死去。
1994年平成06年 溥傑、死去。

浩が亡くなった時、溥傑は浩の遺体に泣きすがりながら
いつまでもヒロさん、ヒロさんと名前を呼び続けていた。

嵯峨浩の短歌 
ふた国の 永久のむすびの かすがいに なりてはてたき 我がいのちかな

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by xMUGIx | 2007-01-12 00:00 | 中国
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