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2017年 更新中
by xMUGIx
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愛新覚羅氏

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芳子の同腹妹 愛新覚羅顕琦/川島速子

父に続いて母も亡くなり、私は3番目の姉の手で育てられました。
彼女はお茶の水にあった女子高等師範学校に留学したのですが、
父危篤の知らせで帰ってきてからはもう日本には行かず一生独身を通しました。
旅順で康徳女学校を創設して自ら校長の任にあたり、
第二次世界大戦の終わりまで就任しておりました。
私がおぼろげながら覚えている父は背があまり高くなく、
頭にまだ弁髪のある目の小さい割に鼻の大きな顔立ちでしたが、
大きくなってから背があまり高くないどころか大変低いことを知りました。
父の没後旅順の家に残ったのは、独身の姉とすぐ上の姉の3人だけで、
私も旅順第二尋常小学校に通いだしました。そのご旅順高等女学校に進みました。
清の滅亡で父は教育がいかに大切であるか、
広く世界の情勢を知ることの重要さを感じたのでしょう。
私達38人の子供らは、長兄がイギリス、二兄がドイツ、三兄がベルギーの他は、
みな日本の学校に入れられました。

1927年昭和02年芳子は旅順で
蒙古のパプチャップ将軍の二男カンジュルジャップと結婚式を挙げました。
芳子は私より一回りほど年長で、同腹の姉です。
父が日本人を利用して清の復辟を祈願していたため、
当時父に取り入っていた川上浪速という日本人に連れられて行きました。
川島は父にとても忠実に仕えておりましたので、父の死後
川島が私の家の者に横柄きわまる行動に出ることは夢にも思わなかったのでしょう。
小さい時に日本へ行きましたので、
芳子が旅順に来るまで私は会ったことがありませんでした。
しかし彼女の噂は聞いておりました。
小さい時から抜きんでてきれいであった事、
嘘が上手で母からいつも叱られていたそうです。
成人してからの嘘はさらにひどく、
一つの事に三日三晩嘘を続けて平然としていたという事です。
私は一目この姉を見て「たしかにきれいだなあ」と思いました。
その時の芳子の髪はウェーブがゆるくつき、
前頬のところでカールが一つという今までに見たこともないヘアスタイルで、
当時の静かな旅順の町で彼女が歩くと100メートル先からもう目立つのです。
ある時買い物に行きました時、バッタリ芳子に会ってしまいました。
彼女は遠目にも目立つ真っ白な毛皮のハーフコートにスカートでした。
おまけに惜しげもなく大根足を丸出しでハイヒールを履いておりました。
(彼女は小柄で手も足もきれいでしたが、脚だけは大根でした)
私はしまったと思ったのですがもう遅く、
姉はすぐ私を見つけ「チビ、何しにいくの?」と声をかけました。
手の中に何か持っているようなので近づいてみたらそれはライオン歯磨きでした。
しかもその歯磨きはどうしたことかフタから中身がぐっしょりと出て、
彼女の手のひらいっぱいにくっついているのです。
それを見て彼女は「ワッハハハ」とあたりかまわず笑い出したので、
人だかりがしてきて私は慌てて店の中に逃げ込んだものです。

間もなく芳子は旅順のヤマトホテルで結婚式を挙げる事になりました。
パプチャップ将軍は父が旅順に亡命したあと清の復辟運動を起した時、
父と行動を共にした蒙古の将軍です。この将軍の子女はみなとても美人で、
二男坊のカンジュルジャップも美男で男らしい人でした。
彼は芳子を愛しておりました。しかし姉はとても家庭におさまる性格ではありません。
でも結婚式の時はいかにも花嫁らしく装い、来客全部に深い印象を与えたのです。
この日姉は自分で化粧し、ヴェールも自分でつけました。
芳子の結婚写真は大きく引き伸ばされて、
旅順の成田写真館のショーウィンドウに長い間飾られていたものです。
結婚後まもなく彼女達一家は大連に引っ越して行きました。

満州国創立と同時に、私とすぐ上の姉は奉天を経て新京に連れて行かれ、
長春高等女学校の寄宿舎に入れられました。
このとき芳子も長春におり、
彼女の家は学校のすぐ近く、たしか錦町だったと覚えております。
私はもう中学生でしたので、芳子を取り巻いていた日本の軍人をよく覚えております。
奉天では河本大作さんや田中隆吉さんなどでしたが、
新京の時は主として多田駿少将や筑紫熊七中将などでした。
多田少将は梅屋旅館という日本風の宿に泊まっていて、
芳子は錦町に家を構えておりましたがほとんど毎日ここに入り浸っておりました。
芳子が機嫌を損ねて梅屋旅館へ行かなくなると、
多田さんは和服のとんび姿で車にも乗らず相当の道のりを歩いて来たものです。
その頃芳子の世話をしていたのは若い日本女性で名前を千鶴子といい、
芳子は真野子爵の娘だと言っていましたが、私は信じませんでした。
他に手塚安一という若い男の人を自分の秘書だと言っておりましたが、
中国名を張平山といい運転ができ、よく私を載せて方々へ連れて行きました。
奉天でも新京でも芳子は晩になるとダンスホール通いでした。
土曜日寄宿舎から帰ると、晩はダンスに連れて行ってくれました。
その頃私は芳子の趣味で、家ではいつも黒ビロードに真っ赤な裏の背広の上着と、
同じ黒ビロードの半ズボン、白のワイシャツに赤ネクタイという服装でした。
私はダンスホールの人気者になってしまいました。
芳子のそばにおりますとすべてこんな調子なので、
上の兄は心配して私とすぐ上の姉を日本に連れて行く事にしたのだそうです。
私が学習院に通学している頃、芳子が東京に来たことが2度ほどありました。
その後また会うのは私が日本から帰国して北京に定住したあとです。

学習院を卒業してから日本女子大学に入学しました。
日本女子大学英文科で私は1年生を楽しく過ごしましたが、2年生になってから
真珠湾攻撃が始まるや外人の先生はみな帰国してしまい自習ばかりになりました。
物資欠乏も日に日に激しくなり、兄達は心配してとうとう私を帰国させる事にしたのです。
1941年のクリスマスの前の日のことです。
これがまさか日本との40年もの長いお別れになろうとは夢にも思いませんでした。

1945年08月の北京を、私は今も鮮やかに思い出す事ができます。
ポツダム宣言が公布されて日本は負けてしまい、北京の日本人も大変な事になりました。
自分にも大きな不安がのしかかっていました。
私達兄妹は自分の家から東単の広い庭つきの家に引っ越しました。
これは同腹長兄の憲立が自分の妻が日本人であるため、
他の兄弟姉妹に迷惑がかかるといけないという考えから決めた事です。
まだ東単に引っ越す前、私と芳子が大喧嘩したのです。
芳子は昭和のはじめに男装の麗人として日本で脚光を浴びており、
服装はもとより言葉も完全に男言葉でした。
芳子は私に一緒に住まないかと何度も誘いました。
私は当時の彼女の周りの人達を見、また彼女自身の生活態度を見た時から
がっかりしていたので、とてもそんな話に応じる気になれず断り続けました。
そしてできるだけ顔を合わせないように毎日親戚の家に行っておりました。
それが彼女の逆鱗に触れたのでしょう。ある日とんでもない方法を用いたのです。
彼女の身辺の世話をしている日本人男性小方八郎の名前を使って、
私にラブレターを送ってきたのです。
ひと目でわかるその卑劣なやり方に私が怒ったのは言うまでもありません。
それで私達姉妹の間は明確な感情の割れ目が生じてしまい、
それっきり私は彼女の家へも行かなくなったのです。
しばらく経ったある日、
彼女は突然見知らぬ中国のならず者を連れて私の部屋に来て大暴れに暴れました。
私に「謝れ!」と言うのですが、謝る理由がないので
「話があるなら、そこへ座って静かに話したらよい」と言うと、
「俺はお前ほど学問はないからな。お前は口から先に生まれてきたのだろう。
俺を馬鹿にしてるのだろう」と言ってガラス棚や窓ガラスを割り出したので、
母屋の人達がびっくりして飛んできました。
私はそれまで一言も大声を出していません。
彼女は軍刀で私を打てば、私が大声を出して助けを呼ぶと思ったらしい。
使用人が大声で下の兄が帰ってきたと告げたので、
彼女はびっくりして打つのをやめました。
その兄が「何をするのだ、話があるなら僕の部屋へ行こう」と彼女を連れて行くのを、
私は後から追っていき「なぜこんな下品な振る舞いをするのか理由を言いなさい」
と決めつけると、しばらく彼女は黙っていましたが
「お前はなぜ俺の誕生日に来なかったか」と言うのです。
私があきれて「あんたは年に何度誕生祝をやるのかしれたものじゃないわ。
何かと言えば誕生日だと皆からいろいろもらう下品な行いはやめた方がいいわよ」
とやり返すと、彼女はよほど悔しかったのか足で私を蹴りました。
兄は「何をするのか!」と彼女を引きずり押しのけました。
このとき長兄が帰ってきたのです。
兄と弟に殴られたら大変と思ったのでしょう。さっそくならず者を連れて逃げ出しました。
長兄が「どうした?彼女は何をしに来た?」と聞くので、
「ケンカよ。私が誕生日に行かなかったからって殴り込みに来たのよ。
見て、ガラス棚と窓ガラスを」と言うと、
長兄ははじめて奥の間の様子を見てびっくりしパッと飛び出していきました。
長兄は庭のカンヌキを持って玄関に走って行って、
まだ木炭車でエンジンのかからない車の中をめがけて突っ込んだそうです。
そのとき彼女は座席の下にしゃがみこんで、早く車を出せと大声で叫んでいたそうです。
幸いな事にやっとエンジンがかかり、彼女は逃げ去りました。
もうこのとき彼女はモルヒネ中毒で完全に人格に破綻をきたし、
何を言っても無駄のように思われました。

私達が東単に移ってから2年後、国民党が北京に入り、
北京は日本時代よりも騒々しく一日として落ち着いた日はありません。
芳子が逮捕され裁判に回されたのはちょうどこの頃です。
毎日のように新聞に彼女が法廷で国民党の審判官を翻弄している様子が載り、
北京市民の話の種となっていました。
長兄は兄妹の情として彼女を見捨てるわけにもいきません。
いろいろな方法を考えて差し入れもしておりました。
芳子の判決がまだ決まらぬうちに、共産党入城の声はますます高まっていきました。
たしか1947年秋のことだと思います。
突然新聞に『漢奸金璧輝被判死刑』が発表されました。
金璧輝は芳子が自分でつけた中国名です。
ただしこの時は初判で、その後再審が申請されて相変わらず世の中を騒がせていました。
毎日のように彼女の法廷で審判官をあなどる様子が出たり、
公然と国民党の悪口をたたく有り様が民衆の間では大変な人気でした。
長兄は心配して外でいろいろ対策を考えていたようで、毎日のように外出していました。

1948年03月の末も近づいたある日、
突然「金璧輝今晨06時40分于北京第一監獄被告執行」というニュースが出ました。
私は芳子の倒れている写真つきの新聞を見て、
しばらくの間なんとも言えない複雑な気持ちでした。
でも正直なところ、涙の一滴もこぼれてきませんでした。
私はむしろ彼女の最期はこんな風であった方が
彼女らしくて良いのではいかとさえ思いました。
そのご兄が彼女の死後の処理を北京東観音寺のお坊さん古川氏に依頼したと聞きました。
まもなく私は友人から2葉の写真を見せられました。
芳子が処刑された直後のもので、1枚は処刑直後地面に倒れているもので、
頭髪は長く女性の断髪となっていましたが間違いなく本人でした。
もう1枚は日本文字で川島浪速宛の遺言でした。
これは外国記者が撮ったものだという事でした。
監獄の中で彼女はモルヒネ注射も断たれ
髪も長く伸ばさせられたという事は聞いておりましたので、
昔の彼女のイメージと違うと思う人がいるのも無理からぬ事です。
頭部の方に立って上から撮ったその写真は、
バッサリと髪が乱れて顔ははっきり撮れていません。
しかし身体つきといい手足の形といい、彼女である事には間違いありません。
当時すでに40歳を越していた彼女は、前より多少太っておりました。
これで金璧輝の件は一応落ち着いたかのようですが、
2ヶ月も経たないうちに巷ではまたまた彼女の事でもちきりとなりました。
今度は死んだのは替え玉だという流言です。
当日処刑される時、国民党はなぜか中国の記者を一人も入れず
アメリカの記者を入れただけでしたので、
中国の記者連中は憤慨して裁判所に対する憤懣やるかたなく、
替え玉だと大々的に報道したからだという事でした。
このため今になっても、川島芳子は生きていると信じている人がいるのです。

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by xMUGIx | 2007-01-24 00:00 | 中国
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