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2017年 更新中
by xMUGIx
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愛新覚羅氏

◆川島芳子/愛新覚羅顕㺭
1907-1948 明治39-昭和23 41歳没

清朝皇族第10代粛親王善耆の第14王女愛新覚羅顕㺭
8歳の時、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり川島芳子と名乗る。




■父 愛新覚羅善耆 第10代粛親王
1866-1922

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息子 愛新覚羅憲立

いま北京市営の靴下工場になっている粛親王府は、
4000坪の敷地に数百の部屋を持つ建物を擁していました。
北京で一番早く二階建てを造ったのは私の親父で、
当時から自家発電と自家水道がありました。
別棟としてフランス式の洋館を造り、
パイプオルガンにシャンデリアが輝いていたのも覚えています。
庭には噴水があり稀に見る近代建築だったので、
人々は親父が外国の薬に中毒したと噂したそうです。
しかし子供の目から見ても親父は改革の気魄に満ちた人物で、
特に日本の明治維新に強い関心を抱いていたようです。

*清朝滅亡後は、北京から旅順に逃れた。旅順では元ロシアのホテルに住まった。
粛親王一行の生活費は月に3000円以上だったが、川島がどこからともなく工面し、
家政は川島の妻福子が行った。

庭だけで5000坪はあったでしょう。部屋数は28だったと思います。
親父は当然二階の広い一室を占めていました。
結婚した兄姉には一室ずつあてがわれましたが、
あとは同腹の弟妹が2,3人ずつ同室で過ごす事になりました。
部屋には日本陸軍のベッドが2つずつあり、
薬莢を利用して作った灰皿があったのを覚えています。
食堂には8人ずつ座れるテーブルが7つ8つ並んでいました。
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正室1人・側室4人・子女は36人いた。


■正室 赫舍里氏

●憲章→娘廉鋁は川島廉子
●憲徳
●憲真
●顕瑄
●顕珥


■第1側室 程佳氏

●憲平
●憲宣
●憲奎
●顕珊


■第2側室 佟佳氏

●憲英
●憲貴
●憲原
●憲均
●顕瑡
●顕珴
●顕珣


■第3側室 姜佳氏

●憲邦
●憲雲
●憲久
●顕琪
●顕玖
●顕琮


■第4側室 張佳氏

●憲立
●憲方
●憲基
●憲開
●憲容
●憲東
●顕㺭 川島芳子
●顕瑠 川島浪子
●顕琦 川島速子





■養父 川島浪速 
1866-1949 慶応01-昭和24

川島は松本藩士川島良顕の子として生まれ、
明治維新後上京して外国語学校支那科(現東京外国語大学)に入学したことから
大陸に強い関心を持つようになり、ついには退学して中国へ渡った。
上海で軍部・政界・大陸浪人達との人脈を深め、日清戦争の際には陸軍の通訳となった。
川島は清朝に雇用され北京警務学堂の学長に就任し、警察制度の改革に尽力する。
清朝に雇用された外国人のなかでもその給料はトップクラスであり、
粛親王 愛新覚羅善耆ら皇族とも知り合うことになる。
清朝滅亡後は川島が粛親王一族を北京から旅順に脱出させた。
二人は満蒙独立運動を目指して義兄弟の契りを結び、芳子を川島の養女にした。
粛親王は芳子以外にも多くの子や孫を川島家に預け日本に留学させた。




■養母 川島福子 鹿児島出身・旧姓川井田

夫妻は見合いで、夫37歳&妻21歳で結婚、すぐに北京へ渡る。
旅順では亡命した粛親王一族を取り仕切る女官長のような役割を担っていたが、
10年後失意のうちに日本へ帰国、
潔癖症が高じて神経症となり夫婦仲も悪化、別居を繰り返す。
浪速が東京を引き払って郷里松本に転居すると、
福子も郷里の鹿児島に戻り完全に別居状態となる。


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浪速の義理の孫 原田供彦

正妻がそばに居らぬ、
それだけの理由ではないが、浪速は女中を側近にはべらせた。
その女中も時折り交替した。

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松本時代の家庭教師 土屋隆瑞

夫人は鹿児島に別居中で、光子・幸子という婦人二人が同居していた。

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芳子の同腹弟 愛新覚羅憲東

松本の家にはお妾さんが同居していました。

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●養女 川島芳子 愛新覚羅善耆の子
●養女 川島廉子 愛新覚羅善耆の孫/芳子の姪 愛新覚羅廉鋁




★夫 カンジュルジャップ 夫24歳&妻20歳で結婚、3年後離婚、
芳子の紹介で別の女性と再婚して6人の子供をもうける。
1903-1971




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1906年 明治39年
溥儀生まれる
芳子生まれる

1907年 明治40年
溥傑生まれる

1908年 明治41年
溥儀、12代清朝皇帝に即位

1912年 大正01年
溥儀、辛亥革命により退位
芳子来日、川島浪速の養女となり、跡見女学校に入学

1921年 大正10年
川島家浅間温泉へ転居、芳子は松本高女2年に編入

1922年 大正11年
溥儀、正室婉容・側室文繍と結婚
芳子の父粛親王死亡、葬儀のため渡満
半年後帰国、松本高女より復学を拒否される 断髪して男装を始める

1924年 大正13年
溥傑、唐怡莹/唐石霞と結婚
溥儀、クーデターにより紫禁城から脱出

1925年 大正14年
溥儀、イギリスやオランダへ庇護を要請するものの拒否され、
日本大使館が手を差しのべ天津日本租界内に住まう

1927年 昭和02年
芳子、イトコのカンジュルジャップと結婚 女装に戻り渡満

1928年 昭和03年
芳子、カンジュルジャップと離婚 再び男装となる

1929年 昭和04年
溥傑、日本へ留学 唐怡莹/唐石霞との結婚解消

1931年 昭和06年
溥儀、側室文繍と離婚
日本軍から満洲国皇帝就任を打診され、日本軍の手引きで満洲へ移る

1932年 昭和07年
満洲国樹立

1934年 昭和09年
溥儀、満洲国皇帝に即位

1937年 昭和12年
溥儀、譚玉齢を側室とする
溥傑、浩と再婚
芳子、天津で中華料理店【東興楼】を経営

1938年 昭和13年
溥傑の長女慧生が生まれる

1940年 昭和15年
溥傑の二女嫮生が生まれる

1941年 昭和16年
太平洋戦争勃発 

1942年 昭和17年
側室譚玉齢が死去

1943年 昭和18年
溥儀、李玉琴を側室とする

1945年 昭和20年
日本が敗戦して満州国は崩壊、溥儀・溥傑は日本への亡命を図るが、
ソ連軍に拘束され二人はソ連の収容所に送られる
芳子、国民政府の憲兵に逮捕される

1946年 昭和21年
婉容・浩・嫮生が共産党軍に拘束される
正室婉容が死去する
溥儀、極東国際軍事裁判に出廷

1947年 昭和22年
芳子、死刑判決を受ける

1948年 昭和23年
芳子、死刑執行

1949年 昭和24年
養父川島浪速死亡

1950年 昭和25年
溥儀と溥傑、中華人民共和国に送還され、
戦犯として収容所で中国共産党による「再教育」を受ける

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by xMUGIx | 2007-01-21 00:00 | 中国
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