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李氏

大韓帝国初代皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李鍵は公族として扱われた。




◆李鍵公/桃山虔一
李堈の庶子/李垠王の甥
1909-1990 明治42-平成02 81歳没

*幼少期に来日し、学習院を経て陸軍士官学校・陸軍大学校で教育を受けた。
朝鮮語の読み書きはできない。戦後身分喪失、桃山虔一と改名。

*浪費家の父親李堈からの送金も途絶えがちで、通学の交通費にも事欠く状態であった。
弟の李鍝は李埈鎔の養子となり、
学習院入学のために来日した際にすでに公族であったため、
通学には宮内省からの御料車も用意されていた。
ゆえに李鍵が公族と認められるまでは、弟の李鍝に敬礼をしなければならなかった。

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■前妻 松平頼聡伯爵の子松平胖の娘 誠子 熟年離婚
1911-2006 明治44-平成18 95歳没

*誠子の母俊子が梨本宮伊都子妃の妹である関係から、誠子と李方子妃はイトコになる。

松平誠子←華族松平胖の娘として生まれる
広橋誠子←朝鮮公族との結婚に際し爵位の必要性のため広橋真光伯爵の養妹となる
李誠子 ←李鍵と結婚する
李佳子 ←戦後改名する
松平佳子←離婚して旧姓に戻す
5つの名前を持つが、いずれも読み方はヨシコである

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李鍵はある日本人女性と結婚しようとしたが周囲に反対され挫折、酒に溺れるようになる。
そこで娘方子が李垠妃である梨本宮家の口添えで誠子との縁談が持ち上がる。
李鍵は「女であれば誰でもよろしい」という自暴自棄の状態で、
誠子はお見合いで顔を上げられず
「彼が履いていた軍靴が黒くピカピカ光っていた」ことしか覚えていなかった。

誠子は華族ではあったが父に爵位がないため
父の兄松平頼寿伯爵の養女という形を取る予定であったが、
頼寿は「誠子が幸せになれるとはどうしても思えない」とこの縁談に大反対であった。
業を煮やした梨本宮家は、誠子を伊都子妃の母/鍋島直大侯爵夫人栄子の実家
広幡伯爵家の養女にして結婚させた。
(誠子の母俊子と伊都子は姉妹で、ともに栄子の娘である)

終戦後 李鍵の財産はほとんど朝鮮にあったため、すぐに困窮する。

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李鍵

私は生活の本拠を東京に置いてはいたが
財産は李王職の監督を受ける建て前になっていたから、すべて鮮内に置いていた。
そのため終戦時に東京に持っていたのは、
さしあたりの生活に必要なわずかばかりの現金と
偶然手元にあった少額の有価証券だけであった。
私はとりあえずそれをもって5人の家族と十数人の使用人を養い、
後は土蔵の中で焼失を免れた什器や数台の自動車を処分して生活にあてた。

まず最初は家にいた事務官の勧めによって、渋谷によしず張りの汁粉屋を出した。
その次が山羊の乳の販売、羊羹の製造、トラック運送、文房具屋の経営もやってみた。
実際に携わったのは家の者達だったが、どれも成功しなかった。
武士の商法とはよく言ったもので、ある時は騙されある時は人件費に食われ、
結局はマイナスが累積してゆくだけだった。
商売をやめて農園の経営も企てたがこれも失敗、
その次はガリ版屋、雑文書き、翻訳業をして生活を支えた。
貧乏はずいぶんとひどかった。
手内職はおろか、しまいには物もらいや乞食までもした。
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誠子によると、「みるみるうちに着物が消え宝石が消えた」
使用人たちと汁粉屋を始めるが、1年しか続かなかった。
次に銀六デパートに菓子屋<桃山>を開業、
着る物が無いので宮中服で売り子に立った。
しかし銀六デパートが立ち退きとなり1年足らずで廃業。
次に会員制社交クラブ<銀座倶楽部>の雇われ社長となる。
歌が上手く社交的な誠子にはぴったりな仕事だった。

ところが李鍵は失意の内に前田美子という女性と不倫関係となり、
1951年昭和26年誠子に離婚を申し出る。
李鍵によれば、「誠子は家庭の運営を放棄し、実質的には妻でも母でもなかった。
離婚を切り出しても誠子は躊躇せずあっさり受け入れた」となり、
誠子によれば、
「仕事を始めてからも閉店ギリギリのデパートに駆け込んで夕食の材料を買い、
子供たちのお弁当の用意もした。
外で働く主婦としての疲労が鉛のように心身を閉ざしている事を
誰も見ようとはせず知ろうともしなかった。
離婚を切り出された時も
理解できない間に李鍵が宮内庁に出向いて離婚の手続きを取ってしまった」となる。

「欣也と明子はこちらで引き取ることにするが、忠久はそちらへ渡すから頼みます」
と李鍵の言う通り、李鍵が欣也と明子を、誠子が忠久を引き取ることになる。
のちに明子も誠子と暮らしたいという希望で、李鍵の元から誠子の元へ行った。
長男忠久については、、戦時中の血液検査で李鍵の子でないことが判明していた。
李鍵は「誠子は私との婚約前からある華族の青年と親しくしていた。
私は軍人として泊りがけの演習にもよく出かけたが、
そんなとき誠子は彼の家に行っていた」と述べている。
誠子は銀座倶楽部の雇われ社長をクビになり、飲み屋<よしの路>を開業。
子供たちのために水商売から中華料理店<桃山>に変更。
さらに寿司屋<桃弥摩>に変更した。

誠子は、明治天皇の御落胤を自称する怪僧 橘天敬と同棲するようになる。
10年後 橘天敬が死亡した後は、新興宗教真如苑に入信して念仏の毎日を送る。
橘天敬には妻子がいたため、誠子は入籍していない。




■後妻 前田美子




●前妻の子 欣也
●前妻の子 明子
●前妻の子 忠久
●後妻の子 孝哉
●後妻の子 まや
●後妻の子 久美


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後妻の子 桃山孝哉 開成高校教頭

孝哉が自身の出自を知ったのは父親の死亡時であった。
それまでも「あなたは李王家の血筋だ」と聞かされたことがあったが、
母親が一笑に付して否定したため信じていなかった。

李垠王の子李玖の死亡後、後継者として直系に最も近い孝哉に注目が集まったが、
「自分は100%日本人だと思っている、
李王家のことや王位継承うんぬんは私には何ひとつ関係のないことです」と否定した。
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by xMUGIx | 2002-01-15 00:00 | 朝鮮
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