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by xMUGIx
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李氏

大韓帝国初代皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李垠は王族として扱われた。




東京本邸 港区赤坂
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◆李垠王
1897-1970 明治30-昭和45 72歳没

*学習院を経て陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校で教育を受けた。
戦後身分喪失、妻とともに韓国に帰国した。

*朝鮮語・日本語・英語が堪能であった。




★婚約者 閔甲完
1897-1968 明治30-昭和43 71歳没 

李垠とは生年月日が全く同じという縁があった。
10歳の時に李垠との婚約が決まったが、
李垠はその年から来日したため婚約解消となった。
別の男性と結婚させようとする日本政府の圧力から逃れるため上海へ亡命する。
戦後1946年昭和21年、
49歳の時にようやく韓国へ帰国できたが生涯独身を通した。


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亡命先の上海にて 弟と
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■妻 梨本宮守正王の娘 方子女王
1901-1989 明治34-平成01 87歳没
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韓国にて
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イギリスにて
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フランスにて
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方子は15歳の夏休みに家族とともに大磯の別邸に滞在していた時、
自分の婚約発表を新聞で初めて知ったということになっている。


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李方子の母 梨本宮伊都子妃の戦後の手記

この年8月私たち母娘3人は、大磯の別邸で夏を過ごしていたのです。
ある朝 朝刊を広げた方子は「アッ!」と息をのんだかと思うと、
両手をわなわなと震わせました。
その新聞には、「いよいよ王世子と方子女王の御婚談発表せらる」
という大きな活字と二人の写真が並べてあったのです。
「やはり本当になったのですか」驚きをおさえながら方子は言うのでした。
私は宮様の言葉を伝えなければなりませんでした。
「あなたにはなんとも気の毒ながら、おもうさま(宮様)と御相談の上、
いろいろの事情でお受けすることになったのです。
陛下の思し召しで御国のためと言われては、どうしようもありません」


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李方子

「いったいこれは・・・」
自分の婚約発表を新聞で知らされる・・・なんとも納得いかない思いでした。
大正もはじめのその頃は、
一般世間でも親とか家とかのために結婚することは珍しくなくて、
本人の意志は重んじられないのが普通でした。
皇族の場合はもっと自由がないとはいえ、
それならそれでせめて新聞に出る前に覚悟も決め、
「お受けいたします」ときっぱり申し上げたかったと思うのです。

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しかし、事実は違う。この結婚は梨本宮家が望んで実現したものであった。


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当時の梨本宮伊都子妃の日記

宮内大臣〔波多野敬直〕参られ、伊都子に会いたき旨ゆえ、じかに対面す。
他にはあらず、かねがねあちこちに話し合いおりたれども、
色々難しくはかばかしくまとまらざりし方子縁談のことにて、
ごく内々にて寺内〔朝鮮総督寺内正毅〕をもって申込み、
内実は申込み取り決めたるなれども、都合上 表面は陛下思し召しにより、
御沙汰にて方子を朝鮮王族李王世子李垠殿下へ遣わすようにとのことになり。
ありがたく御受けしておく。しかし、発表は時期を待つべしとのこと。


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小原駩吉男爵の証言 宮内省宗秩寮の事務官としてこの縁談のパイプ役を務めた

婚約の2~3年前 小原が梨本宮家を訪問すると、
伊都子が「もし成立するものなれば、
方子を王世子の妃となすことはいかが」と切り出した。
伊都子は以前から母の鍋島栄子侯爵夫人や伯父の藤波言忠子爵から
李王家との縁談を勧められており、梨本宮家もそれを希望していたのだ。

翌日 小原は梨本宮家の希望を宮内大臣や宗秩寮総裁に報告するとともに、
方子の成績や健康を調査した。
たまたま帰国中だった朝鮮総督寺内正毅にも相談し、
「至極適当の御縁談なり」という賛同を得ている。
ただし寺内は、朝鮮の動向を気にして
好機が訪れるまでは話を進めない方が良いとの慎重論を取った。
そこで婚約成立まで「はかばかしくまとまら」なかったのであった。


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李方子周辺への取材

当時の学友は「方宮様が内気だなんてとんでもない」と笑う。
敗戦後皇族という枠から解放されて、方子はしばらく自由を楽しんでいる。
そのひとつは買い物であった。問屋街やデパートの特売場で
買い物をしている方子の姿を何人かの人が目撃している。
問屋街では値切る事も覚えたと方子は言う。
こうした方子の様子を、
当時の皇族方は「方宮様のなさることは…」と眉をひそめていたらしい。
方子は買い物のたびにそれらの品物をタクシーに満載して帰ってくる。
当時良質の者があろうはずもなく、
方子がとても安かったのよという商品は安物のビニールのハンドバッグや靴などであった。
私にこの話をしてくれた侍女は、
どうにも仕方がないという表情で眉根にしわを寄せて首を横に振っていた。
「御自分でお金を払って買い物なさる事が、
お珍しくて楽しくて仕方がないという御様子でした。
他の妃殿下方はひっそりしておられましたのに…」

方子と澁澤栄一の孫である澁澤多歌子とは、
三笠宮に紹介されて以来親しいつきあいが続いていた。
「いつでしたか私が果物を買いに出ましたのです。
李王様が御一緒されることになりました」
小さな八百屋に入ったきり李垠がなかなか出てこない。
多歌子がのぞくと「これはいかほど?あっ、そう」
とそこらじゅうの品物の値段を聞いていた。
「買わなければ悪いなどという下々の感情など無縁の御方ですものねえ。
あんな温厚な紳士が参謀長では、戦争に負けるはずだわねって言い合いましたものですよ」


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李垠の秘書 趙重九/長重九

*趙は李垠の遠縁で、趙の父はかつて李垠の侍従武官長でもあった。

「王家が滅亡するのは当然であるのだが、
もっとまともな滅び方をしてほしいのがせめてもの願いである」

趙は朝鮮王朝500年の王者らしい滅び方と秘めていた腹案があった。
それは李王家のすべての財産を国に献納し、
東京邸は韓国大使館など国の公共的なものとして使用する。
それをすればたとえどんな新政府ができたとしても、李王家を放っておくはずがない。
それに国民も、さすが王家と崇拝の念を失わないであろうというものであった。
「王殿下も妃殿下も、そこまでの潔さがありませんでした」

「内閣官房長官楢橋渡と気安く話ができるようになると、
私の面前でついに御自身の口からは決して言ってはならない事を言ってしまった。
『私の地位はどうなりますか?どうかこれまで通りの待遇をしてもらえませんか?』
私はその言葉を聞いた瞬間顔から火が出る思いがし、怒りがむらむらと胸を突き上げてきた。
私は中座してしまった。私の目からは涙があふれてきた。
このような哀願は、側近の者が万策尽きた最後に言うべき言葉である」

楢橋は「できるだけの努力を致しましょう」と返答した。
その上で新憲法の草案作りを伊藤博文ゆかりの地である滄浪閣行いたいので
日本政府に譲っていただきたいと申し出た。
滄浪閣は伊藤博文が大磯に建てた邸宅であり、
1921年大正10年に李王家から伊藤公爵家から12万3600円で購入した物である。
李垠と趙は楢橋の意見に賛同して滄浪閣を譲渡することにし、
李王家の紋章が入った和洋食器を揃えて大磯に贈り届けた。
ところが滄浪閣は政府の所有にはならず、「楢橋」の表札が掲げられる事になる。
その後滄浪閣は西武グループに売却され、大磯プリンスホテル別館となった。

当時日本のキリスト教界では、
国際キリスト教大学を日本に設立しようという運動が起きていた。
李王家が東京邸献納に乗り気でないのを知って、
それなら国際キリスト教大学の本部のような公共のものにされてはとの相談である。
大学創立委員会は代金として10万ドルを提示してきた。
当時の10万ドルは3600万円である。
財産税の750万円を支払っても3000万円近い金が残る。
その金利だけで王家は悠々と暮らしてゆけると趙は思った。
ところが趙には内緒にされていたが、
李垠はホテルのようなものにして自分も直接経営に参加し、
華やかな社交場への出入りを夢見る話を進めていた。この甘言に乗せられて、
国際キリスト教大学の本部にとの話は取り巻き連中と一緒に賛成しない。
「李王が大学の理事の一人になられれば、世間的にも申し分ないじゃないですか、それを」
と趙は今でも残念で仕方がありませんと繰り返す。

その後も趙はマッカーサーに直訴までして
李王家が王家らしい終焉を迎えるために努力した。
しかし、刀折れ矢尽きた趙は李王家を去った。
1947年昭和22年10月14日、方子たちは正式に臣籍降下した。
財産税を納める手立てもないまま、方子は平民となった。


「李王のこの未練が、ついに国民から捨てられるのである」
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梨本宮家が李王家との縁談を望んだ理由は、
一つには皇族女子が華族に嫁げば皇族でなくなってしまうが、
かと言って候補となる皇族男子の数が少ない点、
もう一つには梨本宮家の子供は女子2人のみであるため、
将来宮家は廃絶されることが決まっていたので確固たる地位を予定しておきたかった点、
李王家であれば皇族に準ずる王族であり、さらに李王家は財産家でもあった。

方子には本当に知らされていなかったのかもしれないが、
梨本家をはじめとする周囲は充分に承知していた縁談であった。




●李晋 早逝
●李玖 





◆李玖●子供ナシ
1931-2005 昭和06-平成17 74歳没
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■前妻 アメリカ人女性 ジュリア・ミューロック 離婚
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1928- 昭和03-

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方子妃と
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純宗の皇后尹氏と
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■後妻 占い師 有田絹子


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李玖はアメリカに留学、マサチューセッツ工科大学建築科を卒業、
ニューヨークの建築事務所に勤めた。
仕事の関係で知り合った美術学校卒業のアメリカ人女性ジュリア・ミューロックと結婚。
帰国を許された両親とともに夫妻も韓国へ渡るが、女性問題で離婚する。
さらに事業の失敗をきっかけに日本に戻り、
天照大神の化身を自称する占い師有田絹子と再婚。
絹子の指図で「成功は有田女史のお力で実現する。信じなければボロボロになる」
などと言って金を騙し取るという詐欺事件も起こす。
かつて自邸であった赤坂プリンスホテルに滞在中、心臓マヒで死亡。
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by xMUGIx | 2002-01-13 00:00 | 朝鮮
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