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愛新覚羅氏

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1906年 明治39
2代醇親王載灃の長男溥儀生まれる
溥儀正室婉容生まれる

1907年 明治40
2代醇親王載灃の二男溥傑生まれる

1908年 明治41
溥儀、12代清朝皇帝に即位

1912年 大正01
溥儀、辛亥革命により退位

1919年 大正08
イギリス人レジナルド・ジョンストンが溥儀の家庭教師となる

1921年 大正10
母幼蘭が自殺

1922年 大正11
溥儀、正室婉容・側室文繍と結婚
アメリカ人イザベル・イングラムが婉容の家庭教師となる

1924年 大正13
溥傑、唐怡莹/唐石霞と結婚
溥儀、クーデターにより紫禁城から脱出

1925年 大正14
溥儀、イギリスやオランダへ庇護を要請するものの拒否され、
日本大使館が手を差しのべ天津日本租界内に住まう

1929年 昭和04
溥傑、学習院高等科に留学 唐怡莹/唐石霞との結婚解消

1931年 昭和06
溥儀、側室文繍と離婚
日本軍から満洲国皇帝就任を打診され、日本軍の手引きで満洲へ移る

1932年 昭和07
満洲国樹立

1933年 昭和08
溥傑、大日本帝国陸軍士官学校に入学 

1934年 昭和09
溥儀、満洲国皇帝に即位

1935年 昭和10
溥傑、大日本帝国陸軍士官学校卒業

1936年 昭和11
嵯峨浩、女子学習院卒業

1937年 昭和12
溥儀、譚玉齢を側室とする
溥傑、浩と結婚 夫妻は満州へ

1938年 昭和13 
溥傑の長女慧生が生まれる

1939年 昭和14
溥傑、満州国駐日大使館に任命され、一家は東京へ

1940年 昭和15
溥傑の二女嫮生が生まれる 一家は満州へ

1941年 昭和16
太平洋戦争勃発 

1942年 昭和17
側室譚玉齢が死去

1943年 昭和18
溥儀、李玉琴を側室とする
溥傑、陸軍大学校に入学 一家は東京へ

1944年 昭和19
溥傑、陸軍大学校卒業 
学習院初等科に在学中の慧生を日本に残して一家は満洲へ
これが溥傑と慧生の永遠の別れとなる

1945年 昭和20
日本が敗戦して満州国は崩壊、溥儀・溥傑は日本への亡命を図るが、
ソ連軍に拘束され二人はソ連の収容所に送られる

1946年 昭和21
婉容・浩・嫮生が共産党軍に拘束される
正室婉容が死去する
溥儀、極東国際軍事裁判に出廷

1947年 昭和22
浩と嫮生、引揚船で日本へ

1950年 昭和25
溥儀と溥傑、中華人民共和国に送還され、
戦犯として収容所で中国共産党による「再教育」を受ける

1951年 昭和26
父載灃が死去

1954年 昭和29
慧生が周恩来に嘆願の手紙を出し、溥傑と妻子との文通が認められる

1957年 昭和32
慧生が死去

1959年 昭和34
溥儀、釈放 

1960年 昭和35
溥傑、釈放

1961年 昭和36
溥傑、中国で妻子と16年ぶりに再会 一家は北京に住まう

1962年 昭和37
溥儀、李淑賢と再婚

1966年 昭和41
文化大革命勃発 溥傑の自宅が紅衛兵に襲われる

1967年 昭和42
溥儀が死去

1968年 昭和43
嫮生、日本で結婚

1987年 昭和62
浩が死去

1994年 平成06
溥傑が死去

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◆愛新覚羅溥傑
1907-1994 明治40-平成06 86歳没

皇帝溥儀の弟
2代醇親王載灃と正室瓜爾佳氏幼蘭の二男

二十歳を過ぎた頃、日本政府は溥傑を日本の学習院に留学させる。
御学友として皇后婉容の弟潤麒が同行する。
二人は杉並区の武田秀三宅に下宿し、
まず学習院中等科に入学、1年後高等科に進む。
高等科ではドイツ語を選んだ。
溥傑と潤麒は高等科を卒業後、陸軍士官学校予科を飛ばして本科に進学。




■前妻 唐怡莹/唐石霞 離婚
1904- 明治37年-
11代光緒帝側室瑾妃の姪

溥儀・溥傑に何かと横槍を入れてくる瑾妃により、彼女の姪と結婚させられてしまう。
ゆえに溥傑と唐石霞の夫婦関係は最初から冷え切ったものだった。

溥傑が日本に留学した後は、張学良と不倫関係にあったとされる。
溥傑との離婚後は香港に渡り画家となり、香港の大学で教鞭をとった。
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■後妻 嵯峨実勝侯爵の娘 浩
1914-1987 大正03-昭和62 72歳没

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●長女 慧生 1938-1957 昭和13-昭和32 19歳没
●二女 嫮生 1940- 昭和15-
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吉岡安直の娘 悠紀子

あるとき溥傑氏が父に相談に来られた。
溥傑氏は親日家であったし、日本で教育を受けられたし、
それに父をオヤジと呼んで日頃から大変親しまれていらしたので、内々の相談であった。
つまり、「皇帝には自分から言えないが、私は日本婦人と結婚したいと思っている。
事情が許さないならば仕方がないが」ということであった。
父が、「溥傑さんは日本のお嫁さんが欲しいそうだ」
と言っていたのは私も覚えている。


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内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1934年昭和09年09月28日

多田大尉来庁、
溥傑氏が配偶者を日本婦人の中より得たしとの希望にてその斡旋を依頼せらる。
余は自己の立場上表面に立つは好ましからずと考うるも、
裏面にて尽力することを諾す。


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満州国参議矢田七太郎から宮内大臣牧野伸顕伯爵への手紙 1935年昭和10年09月06日

溥儀&矢田の会話
溥儀◆近く溥傑帰満することとなり自分も楽しみて待ちおる次第なるが、
近来日本人中弟に対し日本華族中の令嬢より配偶者を選定せしむるよう
奔走する者少なからず。
中にはずいぶん厚顔に策動する者もある由にて自分も秘かに憂慮しつつあり。
甚だ申し上ぐるも恐れ多き極みなれど、皇族の末流の御家柄より御降嫁を仰ぐこと、
御皇族の御血統を引かるる御家柄ならよろしきも、ただの華族にては格が下がる。

矢田◆我が皇族家よりとの件は事あまりに重大にて、
矢田の思いつきをもってとかくの御返事を申し上げ難きも、
御承知の通り皇族の御家柄はその数多からず、
はたして婚期に達したる女王殿下のあらせらるるや否やも、矢田は実は不案内なり」


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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1936年昭和11年01月13日
溥儀&関東軍司令官南次郎の会話

南◆溥傑さんは前の夫婦関係がはっきり断絶したのでありますから、
一日も早く温かき御家庭を作られた方がよろしいと存じます。

溥儀◆御説通り早く結婚せしむればよいと存じております。

南◆陛下におかせられては御考えの点もありましょうか。

溥儀◆自分は溥傑本人さえ満足すれば、これに対して何らの文句もありませぬ。
溥傑も自分に申しまするに、一切人種上の差別を考えておらぬとのことです。
そこで日満国交上を考えて日本の皇族とでも良縁があって本人も満足し幸福に行くとすれば、
両国民に真の両国一致親善の範を示すことにもなり良いことです。
溥傑は前に苦き経験を味わっておる故、
この次に娶るにはただ人物良好にして自分に親切なる人が第一用件であると申しております。
第一用件は、本人同士が互いに諒解して幸福なる家庭を作ることです。


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内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1936年昭和11年02月18日

溥傑に日本皇族または華族の中より配偶を得たしとの皇帝御希望にて、
南次郎司令官より本庄繁武官長に手紙にて申し越せし由、考究することとす。
実現には幾多の支障あるを思う。


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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1936年昭和11年12月11日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

溥儀◆溥傑の結婚問題について目下日本婦人を物色中で、
各方面で尽力せられておらるる模様ですが、多少心当たりがあるでしょう。

植田◆候補者は沢山ある事と思われますが、
最適任者を選ぶ事に関係者方面でそれぞれ苦心しておる事と思われます。

溥儀◆溥傑の帰国は来年8、9月頃ゆえ、なるべく適当な人を得たいと希望しています。
要するに両人が充分に諒解し合いかつ双方とも満足する事が大切と思われます。

植田◆全く思し召しの通りであります。なるべく御意にそいますよう努力致させます。


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内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1937年昭和12年01月06日

本庄繁大将来庁。溥傑の配偶の選定につき話あり。
なおその身分は、1.皇族にあらず、2.財産は50万円、邸宅は別に給す。
3.皇帝の親近として重用せらるる見込みなり等の話を聴く。


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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1937年昭和12年01月11日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

植田◆東京方面におけるお目出たの御話も段々進行致しているようであります。
本庄大将・南次郎朝鮮総督等も熱心に御世話申し上げておりますし、
候補者も幾人もある模様ですから、その内に良き人を得らるる事と存じます。
この御慶事が済めば陛下もいよいよ御安心の御事と存じます。

溥儀◆この問題について吉岡参謀が数日前東京へ行きましたから、
いずれ帰り来りますれば確かなる消息がわかりましょう。


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内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1937年昭和12年01月12日

高木三郎氏来庁。
溥傑の配偶は嵯峨〔公勝〕侯爵の令孫〔浩〕に内定、数日中に見合いの運びとなれりと。
4月頃結婚し、8月頃まで東京に居り、9月に渡満すと。


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1937年昭和12年01月18日、
見合いは浩の母方の祖父で実業家の浜口容所邸で行われた。
浜口邸は品川区上大崎の2500坪の広大な敷地に
洋風建築が贅を尽くして建てられたものだった。
【ルイの間】と呼ばれるルイ王朝様式の部屋で晩餐会の形で行われた。
溥傑側は本庄繁大将夫妻・吉岡安直中佐、
浩の側は両親・祖母浜口尚子・伯父浜口吉右衛門夫妻、
そして縁談を仲介した中山孝麿侯爵夫人三千代が出席した。


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溥傑の娘 福永嫮生

母が嵯峨家の長女として生まれました時、祖母はまだ18歳で
その後3人の妹たちが次々と生まれましたので、
母は小学校に入学する前から母方の実家濱口家に引き取られておりました。
母は娘時代から洋裁や料理など、なんでも自分でやっておりました。
自転車にも颯爽と乗って、
当時としましてもかなり珍しい活発な女性であったようでございます。

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吉岡安直の証言

なかなかしっかりしたお嬢さんだった。まあ年齢からいっても当然なのだろうが、
食事の後二人だけで少しお話をしたいと向こうから言われた。
あれなら満州へ来ても大丈夫、やっていけるだろう。


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溥傑

彼女は百合を刺繍した桃色の着物を着てはにかんでいた。
写真で見たよりもさらに艶やかで、心を魅かれた。
意外なことに双方ともに一目惚れで、私は嵯峨浩を妻にする事に同意した。
そもそも関東軍が念入りに画策し勝手に決めた結婚だったが、
艱難を共にし喜びも悲しみも分かち合う相愛の夫婦がそれによって生まれたのである。
彼女との結びつきは今から思い出してみても、永遠に忘れられぬものである。

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溥儀から溥傑への手紙

後はたくまれた政略結婚を、互いの愛情と理解と同情で
真の一対一の人間としての結婚にする事です。
彼女が絵を描く事も私には気に入りました。

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内大臣 木戸幸一侯爵の日記 1937年昭和12年01月21日

嵯峨実勝氏来庁。
令嬢浩と溥傑との結婚願書を提出せられ、事情を説明せらる。


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在満日本大使館外交官・通訳 林出賢次郎の厳秘会見録 ※現代語訳

1937年昭和12年01月25日
溥儀&関東軍司令官植田兼吉の会話

植田◆本庄大正・南総督・本野未亡人〔元外務大臣本野一郎子爵夫人〕・
その他関係各方面の人々の尽力により一人適当なる人を見つけました。
本年24歳で学習院出身で溥傑氏と日本式に見合いも致しましたが、
先方は日満両国親善のためならばこの結婚に同意する旨を申しておりますし、
溥傑氏も御満足の様子であり、東京の三格格達も御同意の様子であり、
陛下におかせられて御同意を賜わらば、この問題は成立するまでになっております。

溥儀◆よろしい。溥傑本人が満足し、
各方面の人々が充分に選定してくれましたゆえ、同意します。
実は溥傑からも通信が来たが、実に興味深いもので、
ひと目見て好きになったと書いてありました。
愉快な話です。これもやはり縁というものでしょう。

植田◆御許しを頂きまして誠に感謝致します。また謹みて御慶び申し上げます。
決定した以上、早く挙式するがよろしいかと存じます。
新京で挙式するには溥傑氏の学校の都合もありまするし、
やはり東京で挙式して溥傑氏御卒業後、
夫婦おそろいで新京にお帰りになる事がよろしいかと存じます。
挙式に当りましては本庄大将夫婦が媒酌人として、
当方よりは親代わりとして国務総理大臣・宮内府大臣等が出席し、
関東軍よりは参謀長その他関係者数人出席し、
先方は関係方面の人々出席して挙式致す事ととし、
これら挙式に要する諸費用は満州国政府の方より支出する事とし、
総務庁長に申しつけるつもりであります。


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1937年昭和12年04月03日、
東京九段の軍人会館で溥傑&浩の結婚式が行われた。
婚礼の日、浩は濱口家から嵯峨侯爵邸に戻り、ここからパレードは出発した。
白無垢・四枚重・唐織雲立涌文花鳥模様の紅色袿をはおり、緋の袴を着け、
髪はおすべらかしの浩を乗せた黒塗りの車列はゆっくり進んで行った。


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当時小学校5年生でパレードに参加した女性

十二単衣におすべらかしの、それはそれは艶やかな浩さんの御姿があった。
私達女の子はただただ夢中で、日満両国旗を振った。
あの美しさや興奮は、50年以上経った今でも忘れられない。
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翌日東京駅に現れた二人は、群衆に取り囲まれ構内は大混乱になった。
溥傑は中折帽にダブルのアルスターコート姿、
浩はフカフカの毛皮の襟を立てた黒のロングコート姿で襟元から純白のリボンが見える。
世紀のカップルの姿は、そのまま人々の理想郷満州への夢をかきたてた。
嵯峨家や濱口家の家族の内輪の見送りを受け、新婚旅行先の伊豆に向けて出発した。
伊豆川奈への新婚旅行を終え、夫妻は千葉県稲毛に新居を構えた。


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溥傑から溥儀への手紙

浩は家庭内のことは、大きい事も小さい事もすべて自分で始末しております。
髪もとかず服も整えずにすべてを片づけます。
私が家を空ける時には自分は簡素な物で腹ごしらえをし、
私が帰った時には日頃節約した分で御馳走を作ってくれます。
まことに私は生まれて初めて家庭の幸福を味わったのです。
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同年07月、結婚から3ヶ月で盧溝橋事件勃発、日中戦争が始まる。
同年08月溥傑卒業、
09月には溥傑夫妻は潤麒&三格格夫妻とともに新京に帰る予定であったが、
浩が慧生を身ごもったため浩のみ10月12日に遅れて出発することとなった。


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新京の溥傑家の運転手 藤本重春夫人ナツコへの取材

ナツコによれば藤本がこの時期派遣されたのは、
夫婦の行動を監視し関東軍に報告する意味があったという。

藤本には喘息の持病があったが、風邪で仕事を休むと
溥傑は必ず貴重な薬や当時庶民の口には入らなかった蜂蜜の大瓶を届けてくれた。

「浩さんは深窓に育った令嬢だけに無邪気で明るく、
溥傑さんの部下や使用人が病気の時はすぐに見舞いに駆けつける人でした。
細かいところによく気のつく思いやりあふれる優しい女性でした」

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1938年昭和13年02月26日、浩は新京で慧生を出産。
慧生が男子ではなく女子であったことが溥儀の頑なな気持ちを解いた。
溥傑は溥儀の元へ一家で頻繁に通い、浩はいつも手作りの料理を持参した。
溥儀は慧生を溺愛した。
溥儀からピアノをプレゼントされ、ピアノを習うようになる。
李香蘭も同じ教師に師事していたため、彼女と一緒に演奏したこともあった。
後にヴァイオリンも習い始め、溥儀のピアノに合わせてヴァイオリンを弾いた。
1942年昭和17年、満州国建国10周年に高松宮が来満した際には、
「高松宮殿下奉迎歌」を慧生が日本語と中国語の2ヶ国語で歌ったレコードが作られた。

1938年昭和13年、溥傑は駐日満州国大使館付武官となり家族とともに東京に移る。
貞明皇后から御召しがあり、慧生を連れて大宮御所を伺候した。
貞明皇后は慧生を抱いて頭を撫で、帰りには慧生に着物や人形を下賜された。
しかし翌年1939年昭和14年10月溥傑は奉天の軍官学校に赴任するため離日、
その時浩は嫮生を身ごもっていたため、出産後に渡満することになった。
1940年昭和15年、浩は東京で嫮生を出産する。
同年06月26日、溥儀が2度目の来日をする。
翌日浩は嫮生を連れて赤坂離宮に伺候したが、
軍部がこれを拒否したため溥儀には面会できなかった。
しかし翌日の朝刊には、浩が溥儀に謁見したと報じられた。

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『満州国皇帝陛下の御来訪を
ひとしお御喜びのうちにお待ち申し上げた皇弟溥傑満州国軍上尉浩夫人は、
御入京3日目28日午前09時赤坂離宮に伺候、
陛下には特別の思召しで同夫人に謁を賜り、
同夫人は感激のうちに御機嫌よく奉仕、同夜奉天に向かう旨言上して退出した。』
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浩は慧生・嫮生を連れて渡満、一家4人がそろう。
1943年昭和18年溥傑の陸軍大学校入学のため、一家は来日。
しかし東京への空襲が激しくなったため、学習院初等科に通学していた慧生だけを残して
1945年02月溥儀・浩・嫮生の3人は渡満する。
「いよいよ日本が危なくなれば新京に呼び寄せれるから」と言って別れたが、
これが溥傑と慧生の永遠の別れとなる。


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関東軍参謀副長 今村均大将

着任したとき皇帝溥儀には子供が生まれないと聞き、
「万一皇帝が亡くなられたらどうするのですか」と板垣征四郎参謀長に伺った。
板垣さんは「その時は溥傑君だ」と即座に答えた。
それを考えて溥傑夫人には日本人をと考えたのだろう。
溥傑君のため、清室のためを思っての決断だった。
「軍部の圧力によって断れないように仕組まれ」たような事を書かれたが、それは違う。
結婚の支度を考えたのは吉岡安正中佐の独断のようにも言われたが、
そんな事は絶対にない。
あの男は職務を真面目にやっただけだと思う。
当時の関東軍でそういう計画を立てた時、
それを決める事ができたのは板垣征四郎・石原莞爾・土肥原賢二、この3人だけだ。
それが誰であったかは推測になるけれど、私は土肥原だと思う。
そういうわけで、皇帝が亡くなった後は溥傑君と決まっていた。
満州の方は、とかく関東軍だ、吉岡だと言われるが、それは誤解です。
万一の場合、浩さんは皇后になられるはずだったのだから。

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by xMUGIx | 2007-01-11 00:00 | 中国
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