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by xMUGIx
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愛新覚羅氏

溥儀には正室が1人、側室が3人、平民になってからの妻、計5人の妻がいた。




■第1夫人 孝恪愍皇后/郭布羅 婉容
1906-1946 明治39-昭和21 40歳没
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郭布羅栄源&前妻愛新覚羅氏の子。
北京生まれ、天津育ち。
貴族出身で裕福な家庭に育った。

生母は幼い頃に亡くなってしまうが、後妻の愛新覚羅恒香は婉容と仲が良かった。
当時の天津は諸外国の領事館が集まった国際的な都市だった。
父栄源は西洋文化を取り入れており、男女平等の考えから婉容にも教育を受けさせた。
容姿端麗でハイカラなお嬢様に成長した婉容は、
英語に堪能で外交官の妻となり海外で生活するのを夢見ていた。

しかし婉容は16歳の時に清朝皇帝溥儀の皇后に選ばれ、
北京の紫禁城で暮らすことになってしまう。
しかも習慣により正室の婉容と側室の文繍とは同日に結婚した。
一夫一婦制の現代的な考えを持つ婉容には最初から不快感を拭えない結婚だった。

もはや清朝は滅びており、溥儀は国を持たない形だけの皇帝だった。
溥儀にはやることがない。とすれば婉容にもやることがない。
外界との接触も絶たれ、紫禁城の中で二人は退屈を深めてゆく。
彼女の唯一の楽しみは城内を舶来の自転車で乗り回すことだった。

謁見した外国人は婉容のことを、
「触れれば壊れてしまう繊細で美しい陶器のようだ」と表現した。
国民政府により紫禁城を追われた溥儀は日本帝国軍の手引きで天津に逃れる。
溥儀は正室の婉容と側室の文繍を連れていた。
紫禁城の広さが二人の女の関係を緩和していたが、天津の建物ではそうはいかない。
側室と顔を合わせることが大きなストレスとなって、婉容はアヘンに手を出すようになる。

そして日本帝国軍が作った満州国の皇帝にまつり上げられた溥儀は長春に住まう。
しかしここでも日本帝国軍に監視される生活はますます彼女をアヘンに溺れさせていった。


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宦官 趙栄升

皇后は食事が終わると8つのアヘン玉を吸うので、
そのつど二十数分も伺候しなければならなかった。
アヘンの吸飲に伺候する時は、床にひざまずかなければならない。
皇后は左側でアヘン玉を吸ってから寝返りをうつ。
その時アヘンの道具を反対側に持っていき、
彼女が右側で4つのアヘン玉を吸うのに伺候する。


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関東軍副参謀長 岡村寧次大将

秩父宮殿下が名代として満州においでになった時、奇跡が一つ起った。
それは満州国皇后のことであった。元来ヒステリー症にかかった彼女は、
いまだかつて人前に顔を出すことはなかった。
満州国の要人らも彼女に会ったことはなかった。
しかし思いがけなく皇后が臨席した。皆はびっくり仰天。
話しによれば、病状が突然好転したそうだ。


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溥儀は自伝『わが半生』の中で、
「私が彼女について知っているのは、アヘンの習慣に染まったこと、
許しえない行為があったことぐらいである」と書いている。

許しえない行為とは、婉容が浮気をして子供を出産したことであろう。
彼女の子供は生まれてすぐにボイラーに放り込まれて始末された。
この事件の後、婉容は身なりにも構わなくなった。


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溥儀の甥 愛新覚羅毓嶦

婉容のドアの隙間からはアヘンの煙が流れ出てくる始末だった。
ちょうど溥儀に付き添って行こうとすると、溥儀が向かいを指差した。
その指先に見えたのは婉容だった。
黄土色の寝巻を着ていたが、頭はボサボサでで骨と皮ばかりに痩せ、
顔色はアヘンの煙のようで本当に驚いた。私は長く見るに堪えず、
また溥儀がこんな風になった婉容についてどんな思いでいるのか聞く事もなかった。

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アヘン中毒と日本人嫌いのため、婉容は公式の場にはほとんど姿を見せなくなった。
髪は乱れたままですり切れた服をまとい、不健康な生活のため視力をほとんど失い、
自力で立ち上がることすらできなかった。
かつてのハイカラで容姿端麗なお嬢さんの姿は跡形もなかった。
溥儀は婉容に手を差しのべることもせず、離婚を考えていた。

1938年07月16日から1939年07月10日までの金銭出納簿によると、
婉容は740両のアヘンを買っている。毎日平均2両吸っていたことになる。
また30,430本の煙草も買っている。アヘン同時に毎日平均85本吸っていたことになる。

1945年昭和20年、ソ連軍が満州国に迫ったため
溥儀と親族、満州国幹部、日本軍は首都を放棄して
満州鉄道の特別車で朝鮮との国境付近まで避難した。
8月15日、日本が降伏したことにより満州国も崩壊した。

溥儀と溥傑は日本軍機を使い空路で日本に亡命を図った。
婉容と浩たちは同行できず、陸路と海路で日本に向うこととなった。

しかし、溥儀と溥傑は飛行場でソ連軍に拘束されソ連の収容所に送られた。
さらに二人は中華人民共和国に送還され、収容所で中国共産党の「再教育」を受けた。

翌1946年昭和21年、陸路を進んでいた婉容・浩・嫮生一行も共産党軍に捕らえられた。
おりしも共産党軍と国民党軍との間で国共内戦が始まったため、
一行は共産党軍に中国各地を転々と連れまわされることになる。
途中で婉容は浩母子と引き離され、監獄の中で孤独の内に死亡した。


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溥儀の第4夫人 李玉琴

アヘン中毒がひどくなってからは、婉容はむら気でした。
このような主人に仕える宦官達もまた気まぐれで、
まるで荷物か捨て猫のように皇后をあしらうかと思うと、
こんなに皇后の身体が衰弱しているのに普通の人と同じ食事しか与えない、
と泣かんばかりに訴える。

二人の宦官が彼女を支えて、さっと引戸を開けた。
その時私は初めて皇后に会った。そして自分の目を疑った。
痩せこけてしまっていて、人間ともつかず幽霊ともつかない姿だった。
顔面は青白く、眼差しに力がなく、二寸ほどの髪の毛がボウボウと生えていた。
背丈は163センチぐらい。ヨレヨレの汚れた古い寝巻を着ていた。
長い間洗濯もしていないので、どんな色だったのかもうわからなくなっていた。
本当に気が狂っていたようだった。
私は急いで近づき、御機嫌を伺った。「皇后陛下、幸多からんことを」
彼女は私を見て笑いアヘンで黄色くなってしまった歯を見せ、太い声で言った。
「素晴らしいわ、素晴らしいわ」
数分もすると立っていられなくなり、宦官は急いでベッドへ連れ戻した。

臨江で列車を降りると、私は皇后を支えてトラックに乗せ助手席に座った。
初めのうち彼女は私から離れたがっていたが、
彼女の身体があまりにも弱かったので自然と私の身体に倒れかかってきた。
私は彼女をかかえ、彼女は私を信頼して身体ぴったりとくっつけていた。
婉容の態度はとてもよく、泣いたり騒いだりしなかった。

婉容はなおアヘンをかなり吸っていた。部隊の同志は二日置きにアヘンを届けて寄こした。
彼女の下女はすでに離れてしまっていた。彼女は自分で始末をする事ができないので、
掛布団や敷布団や服を糞尿や月のもので汚してしまい臭気を発散させていた。
私は彼女の布団を二組と服を、みな解いて洗ってやった。
他人がどうあれ私たちは一家なのだから、世話をしなければならないと考えただけだった。
病状があんなに悪化してしまって、本当に可哀想だった。

婉容を一緒に連れて行く力が無かったことを、いま思い出しても悲しくなる。
そのころ長春には彼女の親戚や貴族の友人達がいた。
しかし彼女を引き取る者はいなかった。
彼らはこの皇后のおかげでどれだけ富貴をきわめたかしれないのだ。
私が去ってから嵯峨浩も日本に帰り、婉容ひとりだけが部隊に残った。
この部隊が長春から撤退する時、
このかわいそうな中国最後の皇后は部隊と一緒に行く他なかった。
部隊は全中国解放のため各地で転戦しなければならなかった。
彼女を連れていては行動の邪魔になってしまう。
部隊が延吉に着いた時、彼女をそこに残すより他になかった。
こうして彼女は敦化で死んだのだと言う。


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溥傑の妻 嵯峨浩

留置場に入れられてからの皇后は、お気の毒で見ていられないほどでした。
アヘンが手に入らなくなったため、禁断症状に苦しむようになったのです。
「助けて!誰か助けて!」
皇后は終日狂気のように叫んだり呻いたりしながら、
板敷きの上を転げ回り目をむいては苦悶なさるようになりました。
食事だけは召し上がりますが、用便はもう御自分ではできなくなっておられました。
半ば狂乱状態の皇后はかつて宮殿にいらした頃と錯覚されてか、
「ボーイ、サンドイッチを持っておいで」「さあ、早く湯上りのタオルをお寄こし」
などとわめき散らされます。
そんな皇后の姿をひと目見ようと
刑吏や共産党軍の幹部達が入れ代り立ち代りやってきました。


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溥傑&嵯峨浩の娘 福永嫮生

吉林から延吉に運ばれた嫮生らは、
「漢奸偽満州国皇族一同」と書かれた大きな白旗がくくりつけられた荷馬車に乗せらた。
沿道の人々は罵声を浴びせ、荷馬車に石を投げつけた。

母の身体にしがみついておりました。怖うございましたよ。
皇后様はそんな時でもぼんやりと、もう何の反応もお示しにはなりませんでした。

皇后様はとてもお痩せになっていらして、
時々ここが宮廷と思われたのか侍女を召し使うように
「お湯を持ってこい」「風呂の準備はできたか」などと大声を出していらしゃいました。
母はいつも皇后様のためにアヘンを大切に自分のカバンに入れておったのでございますよ。
お薬が切れるとそれはお苦しみになって…。
そのお声は小さな子供には何かとても恐ろしゅうございました。

皇后様のお苦しみは凄まじいものでございました。
一日中昼となく夜となく「助けて!助けて!」と叫ばれて…。
その声がうるそうございますので、
周りの監房に入っていらっしゃる方が怒鳴られるのでございます。
皇后様はご自分ではもう何もおできになりませんでしたので、
母はお食事をお口にお運びしておりました。
皇后さまは170センチもある大きなお身体でいらっしゃいますが、
母が下のお世話もすべて一人でお助けしておりました。
母は「洗濯も掃除も致しますので、お食事の時だけでもお部屋に入れて下さいませ」
と頼んでおりましたよ。
「それがだめならせめてアヘンだけでも」と兵隊さんに懇願しておりました。


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溥儀はソ連の収容所で婉容の死を知った。


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溥儀

長期に渡る冷淡な境遇の中に置かれてきた婉容の経歴は、
新中国の青年にとってとても理解できない事だろう。
生まれてすぐに運命が決定されたのでないとしたら、
結婚の時には彼女の最期が決められていたのだ。
後になってしばしば考えたのだが、天津にいた頃もし文繍のように私と離婚していたら
あのような末路はたどらずに済んだに違いない。

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婉容と彼女のアメリカ人家庭教師イザベル・イングラム
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婉容の煙草に火を点ける溥儀
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by xMUGIx | 2007-01-08 00:00 | 中国
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